「彼女の事情」

 僕(ぼく)は近くの神社(じんじゃ)のお祭(まつ)りに来ていた。家族(かぞく)連れが多いのだが、若いカップルがやたらに目についた。僕だって、彼女と一緒(いっしょ)に来るはずだった。昨日(きのう)、別れようって言われなければ…。失恋(しつれん)の痛手(いたで)は、思いのほか大きかった。今も、人混(ひとご)みの中に彼女の姿(すがた)を探している。
 ――神社の参道(さんどう)からちょっと脇(わき)に入ったところ。その夜店(よみせ)は、薄暗(うすぐら)い人目(ひとめ)につかない場所にあった。夜店というにはほど遠い、段ボール箱と小さな旗(はた)のようなものが立っているだけ。そこに、僕は人影(ひとかげ)を見た。どうやら若い女性のようだ。その人は僕が見ているのが分かったようで、にっこり微笑(ほほえ)むと(薄暗いのでほんとに微笑んでいたのかははっきりしないが)、僕を手招(てまね)きした。よせばいいのに、僕は人恋(ひとこい)しかったからか、ふらふらと彼女の方へ行ってしまった。
 彼女は、涙(なみだ)ながらに僕に訴(うった)えた。
「これを、売(う)って帰らないと、家では幼(おさな)い妹(いもうと)と弟(おとうと)が――」
 後で考えればおかしな話しだ。たった五百円のものを売って、それで生活のたしになるとも思えない。彼女が段ボール箱から出したものは、黒くて丸いもの…。ちょうどピンポン玉くらいの大きさだった。それが彼女の両手の上で、ころころと動き回った。
 彼女は愛(いと)おしそうに言った。「妖獣(ようじゅう)のまる君(くん)よ。育(そだ)て方はそんなにむずかしくないわ。たまに手の上にのせてあげるだけでいいの。餌(えさ)をあげる必要(ひつよう)はないし、フンとかもしないから衛生的(えいせいてき)よ」
 僕は、なぜだかよく分からないが、それを買ってしまった。もう、明らかに怪(あや)しいはずなのに――。普通(ふつう)に考えたら、手は出さないでしょ。それを…、僕は…白状(はくじょう)するが、彼女の愛(あい)くるしい姿にやられてしまったのかもしれない…。
 ――あれから一週間、その黒い物体(ぶったい)は成長(せいちょう)していた。今では、直径(ちょっけい)1メートルを超(こ)えて、かなり邪魔(じゃま)な存在(そんざい)になってしまった。もう、僕の狭(せま)い部屋では無理(むり)。そこで、彼女に引き取ってもらおうと思った。でも、どこに住んでいるのか分からない。僕は、彼女と出会った神社へ行ってみることにした。
 彼女はそこにいた。僕が事情(じじょう)を説明(せつめい)すると、彼女は嬉(うれ)しそうに答えて、
「それはすごいわ。そんなに環境(かんきょう)がよかったのね。普通はそこまで大きくならないのよ」
 二人で部屋に戻(もど)ると、とんでもないことになっていた。部屋中に、まる君が散(ち)らばっていたのだ。足の踏(ふ)み場もないくらい。彼女は目を丸くして言った。
「わぁ、産(う)まれちゃったのね。すごい、こんなに沢山(たくさん)のまる君を見たのは初めてだわ」
 唖然(あぜん)としている僕を見て彼女は続けた。
「心配(しんぱい)しないで。窓(まど)を開けてあげれば、風(かぜ)に乗って飛んで行っちゃうから」
 彼女の言う通り、窓を開けると吸(す)い出されるように次々(つぎつぎ)に飛び出して行った。最後の一匹が出て行くと、彼女はもじもじしながら、「あの、お願いがあるんだけど…。この部屋、貸(か)してくれない? ここで、繁殖(はんしょく)をさせたいの。実(じつ)はね、まる君を見つけるのって、とっても大変(たいへん)なのよ。一日中探(さが)し回っても見つからないときもあって。お礼(れい)は、売上(うりあげ)の三割(わり)…、いや五割でもいいわ。お願い! もちろん、あたしの寝(ね)る場所は、どこか部屋の隅(すみ)でいいのよ。あなたの生活の邪魔にならないようにするから。ねぇ、いいでしょ?」
<つぶやき>これは、もしかして同居(どうきょ)するってことなの? 彼女はいったい何者なのか?
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2017年08月19日