「ときめき」

 彼女はごくごく普通(ふつう)の主婦である。四十代の彼女は、夫と娘が一人の三人家族だ。夫は真面目(まじめ)な人で家のこともまめに手伝ってくれていた。娘は中学生で成績優秀(ゆうしゅう)ってほどでもないが、それなりに良い娘(こ)に育ってくれたと思っている。彼女にとっては何の不満(ふまん)もなく、毎日が平穏無事(へいおんぶじ)に過ぎていた。
 ――それは、ほんの些細(ささい)な出来事(できごと)だった。近くのスーパーでたまに見かける若い男性。こんな昼間の時間にお買い物なんて、何をしている人かしら…。彼女はその人を見るたびに、そんなことを考えていた。それが、いつの間にかスーパーへ行くたびに、彼女はその男性の姿(すがた)を探(さが)すようになってしまった。
 別に、その人とどうこうとか…、そんなことは考えてはいない。ただ、どこかでその人と会ったことがあるような…、そんな気がしてならないのだ。まさか、こんな若い男性と知り合うことなんてあるはずはない。――よくよく考えてみて、彼女はやっと思い出した。学生の頃に付き合っていた彼に、何となく…、物腰(ものごし)とか雰囲気(ふんいき)が似(に)ている気がする。と言っても、二十年以上も前の話だ。今となっては、その付き合っていた彼の顔もはっきり思い出せない。胸(むね)のつかえが下りた感じで、ほっと胸をなで下ろす彼女――。
 その時だ。突然、娘(むすめ)が目の前に現れた。彼女の顔をじっと見つめて娘は言った。
「さっきから何してるの? ニヤニヤしちゃって、ちょっと変だったよ」
 彼女は慌(あわ)てて取(と)り繕(つくろ)うように、「どうしたの? 学校は――」
「やだな、今日から試験(しけん)だって言ったじゃない。ねえ、私、欲(ほ)しいのがあるんだけど…」
「なに言ってるの。もう、寄(よ)り道したらダメじゃない。先生に見つかったら」
「大丈夫よ。だって、ママと一緒(いっしょ)なんだし…」
 娘は急に言葉を途切(とぎ)らせると、ひとり言のように呟(つぶや)いた。「あっ、先生だ」
 彼女は娘の目線を追(お)った。そこにいたのは、あの若い男性だった。彼女は驚いて、
「先生って…、あの人は違(ちが)うでしょ?」
「塾(じゅく)の先生よ。今月から、あの先生になったのよ。けっこう人気(にんき)あるんだから」
 彼女は、「そんなこと聞(き)いてないわよ」と言おうとしたが、娘はその前に駆(か)け出した。
 娘は、その先生のところへ行くと、何やら楽しげに話をしていた。そして、母親の方を見ると、先生の腕(うで)をつかんでこっちへ歩き出した。それを見た彼女は、何だかドキドキしてきて、その場から逃げ出したい気持ちに襲(おそ)われた。やって来た娘は母親に紹介(しょうかい)した。
「これが、塾の田沢(たざわ)先生よ。けっこうイケメンでしょ」
 先生は何だか照(て)れくさそうに、「なに言ってるの…。あの、田沢です。先生といっても、バイトみたいなもんで…、そんなたいしたことは…」
 彼女はくすっと笑って…。昔の彼としゃべり方まで似ていたのだ。彼女は、
「あの、いつも娘がお世話(せわ)になってます。ご挨拶(あいさつ)が遅(おく)れてしまって…」
 娘は大人(おとな)の会話に割(わ)って入って、「ねえ、三人でお茶でもしない?」
 彼女は呆(あき)れて言った。「なに言ってるの。そんなのご迷惑(めいわく)よ」
 先生は、「明日も試験があるんだろ。そんな暇(ひま)ないんじゃないのか?」
 娘は平気な顔をして、「今さら慌てても仕方ないわ。ねえ、それよりお茶しようよ」
<つぶやき>女はいくつになっても女なのかもしれません。ときめきを忘れずにいましょ。
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2016年07月22日