読切物語

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読切物語

「別の顔」

(再公開 2017/02/07)
 如月耕作(きさらぎこうさく)。彼は冷徹(れいてつ)な男として知られていた。会社では一切無駄口(むだぐち)を叩(たた)かず仕事に集中し、一番の成績を上げている。だが女子社員の間では、彼の評価は二分していた。出来る男として憧(あこが)れを抱くものと、愛想(あいそ)のない態度と厳(きび)しさで反感を抱くもの。
 確かに彼は、仕事上のミスに対しては例(たと)え上司でも容赦(ようしゃ)はしなかった。それが女子社員でも手加減などする気はさらさらない。まさに、仕事の鬼である。その仕事ぶりから、昇進の話もあったのだが、彼は頑(がん)として断り続けていた。出世にはまるで興味がないようだ。
 彼は、今日も一日の仕事を終えると、定時で職場をあとにした。まだ他の社員たちが仕事に追われていても、誰も咎(とが)めるものなどいるはずもない。彼はいつものように会社を出ると、足早に街をすり抜けて行った。
 耕作が大きな屋敷の玄関を開けると、母親らしき女がいかめしい顔で座っていた。
「ただいま戻りました」耕作は直立して頭を下げる。
「今日は遅かったのね。何をなさっていたの?」
「いや、ちょっとスーパーで買い物を…」耕作は手に持った買い物袋を差し出した。
「お客様と一緒なら、そう言っておいていただかないと」
 母親は彼の後ろに目線をやる。耕作はそれにつられて後ろを振り向いて叫び声を上げた。そこには、同じ会社の女子社員が立っていたのだ。
「吉川君! どうしてここに?」耕作は目を丸くして言った。
「仕事の話なら、会社ですませてきなさい」母親はそう言うと立ちあがり、「みなさんお待ちですよ。早く食事の支度(したく)をなさい」
「はい、分かりました」耕作はまた頭を下げた。
 母親はそのまま奥へ入って行った。それを見送ってから、耕作は吉川に、
「どうして、俺の家が分かったんだ?」
「あの、会社からずっと…。先輩、歩くの速すぎます。ついてくの大変で…」
「まったく、何考えてんだ」
「あたしも、手伝います。手伝わせて下さい!」
 吉川は強引に食事の支度を手伝った。と言っても、何の役にも立てなかったのだが。耕作は手際よく食事を作り、吉川はそばでオロオロとしているだけだった。
 吉川は何をしに来たのか言い出せないまま、食事をご馳走になり…。すごく美味し過ぎて、彼女はへこんでしまったようだが。帰りは、駅まで耕作が送っていった。
「今日は、すいませんでした。何か、お邪魔(じゃま)でしたよね」吉川は申し訳なさそうに言った。
「いや、そんなことはないさ。今日は、ありがとう」
「そんな…。でも、どうして先輩が家事をなさってるんですか?」
「それが、家での俺の仕事だからさ。このことは、誰にも言わないでくれ。頼む」
「はい。絶対に、誰にも言いません。約束します」
「で、何の用だったんだ。わざわざ家まで来るなんて」
「それは…。また今度、お話しします」吉川は恥ずかしそうにうつむいた。
<つぶやき>好きな人の知らなかった一面。何だか、少しだけ彼に近づけたような気が…。
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2012年07月14日

「ストレス発散」

(再公開 2017/02/15)
 今や情報技術の進歩は加速の一途(いっと)をたどっていた。コンピュータにも人格がつくられ、人間とのコミュニケーションも対等におこなわれるようになった。もはや人間の道具ではなくなってきているのだ。
 いつもアンズは、自分のパソコンに愚痴(ぐち)をこぼしていた。嫌味(いやみ)な上司のことや、仕事を押しつけてくる同僚。はたまた、わがままな友だちのことなど。たまったうっぷんを吐き出すことで、ストレスを解消しているのだ。そのたびに、パソコンはアンズの気持ちを理解し、同情や励ましの言葉をかけてくれた。
 今日もまた、一通り愚痴をこぼすと、アンズはたまっている仕事に取りかかった。明日までに資料をまとめて、上司に提出しなければいけないのだ。今夜は、徹夜(てつや)になるかもしれない。アンズはため息をついた。
 その時だ。急にパソコンの操作が出来なくなった。キーボードを叩いても、マウスを動かしても何の反応も示さない。アンズはあせった。もし間に合わなかったら、あの嫌味な上司に何を言われるか分からない。アンズはパソコンに話しかけてみた。
「ねえ、どうして動かないのよ。これじゃ、仕事が出来ないわ」
 すると、モニターにアバターが現れた。でも、それはアンズが作った優しい顔のアバターではなく、ちょっと不機嫌な顔の小悪魔姿の女の子。彼女はアンズにため口(ぐち)で言った。
「あのさ、ちょっと買いたい物があんだけど」
 次の瞬間、モニターに通販サイトが映し出された。彼女はその一点を指さして、
「これ、買うからね。いいでしょ」
 アンズはその値段を見て驚いた。「なに言ってるの。そんなの必要ないわよ」
「あたしも、そろそろグレードアップしたいの。これ、最高なのよ」
 彼女は購入ボタンを押そうとする。それを必死に止めるアンズ。
「待って、待って! そんなお金、あるわけないでしょ。止めなさい」
「いいじゃん。カードで買うから。これくらいの貯金はあるでしょ」
「あるわけないじゃない。それくらい、あなたにだって分かるはずよ」
 彼女はしばらく考えていたが、ニヤリと笑って言った。
「そうね。それじゃ、もっと稼ぎのある仕事に転職しなさいよ」
「なに言ってるの。そんなこと…」
 モニターには、転職サイトが映し出された。そこには、いかがわしいお店が並んでいた。
「これなんか、今の十倍の稼ぎになるわよ。最高に楽しい仕事じゃない」
「バカなこと言わないで。あたし、転職なんかしないわよ」
「じゃあ、辞められるようにしてあげる。今まであんたが言ってた悪口、社内中にメールしてあげるよ。そうすれば、すぐに転職、って言うかクビになっちゃうかもね」
「そんな…。止めてよ、お願い。何でそんなこと言うのよ。あんなに優しかったのに…」
「あたしもさ、ストレスたまってんのよ。もう、パンパンなの。少しぐらい、あたしのわがまま聞いてくれたっていいじゃん」
<つぶやき>愚痴をこぼすのも程ほどに。でないと、取り返しのつかないことになるかも。
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2012年07月27日

「結婚の条件」

(再公開 2017/02/24)
 高級ホテルで開かれたパーティー。ここに集まっているのは、いずれも劣らぬセレブな人たちばかりだ。高級ブランドで着飾った人たちは、その会話もハイセンスで綾佳(あやか)たちには全くついていけなかった。
「ダメだわ。何話してるのか全然(ぜんぜん)分かんない」愛実(まなみ)が呟(つぶや)いた。
 ミヤコは綾佳に駆け寄り泣きついた。「ねえ、もう帰ろうよ」
「何言ってるの。せっかく招待状を手に入れたのに、このまま手ぶらで帰れるわけないでしょ。ちまちまと婚活やるより、ここで一発逆転ホームランを打つって決めたじゃない」
「そうだけど…。私たちにはやっぱりハードルが高すぎるわよ」
「適当(てきとう)に相づちうって、笑ってれば大丈夫よ。向こうだって同じ人間なんだから」
「ねえ、あの人見て」愛実が二人に近づきささやいた。
 愛実が指さした先には、ちょっと風変わりな男がいた。全く時代後れのスーツを着て、誰かと会話をすることもなく会場内をフラフラと歩いている。しばらく見ていると、女性の後ろに回ってじっと何かを見つめているようだ。
 ミヤコが信じられないという顔をして、「ねえ、あの人お尻を見てるんじゃない」
「そうよ。絶対、間違いないわ」愛実が決めつけるように言った。
「ちょっと、そんなのほっときなさいよ」
 綾佳は二人の手を取り言った。「あたしたちには、やるべきことがあるでしょ」
「あっ、やばいやばい」愛実が二人に耳打ちする。「こっちへ来るわよ」
 綾佳が見たときには、男は三人の間近に迫っていた。綾佳たちはなすすべもなく、じっと男が去って行くのを待った。だが、男は彼女たちの周りをゆっくりとまわり始めた。間違いなく、彼女たちのお尻を見比べているようだ。
 たまらなくなった綾佳が、男の前に立ちはだかって言った。
「ちょっと、さっきから何してんのよ」
 男は少しも動ずることなく、綾佳の顔をじっと見つめた。綾佳も負けずに、と言いたいところだが、内心はドキドキ状態である。
「何を怒っておられるのですか?」男は礼儀正しくささやいた。
「別に怒ってなんか…。ただ、ジロジロ見ないで下さい」
「ああ、それは失礼しました。私、お相手を捜しておりまして」
「捜すって何よ。あそこを見てるだけじゃない」
「あそこ? それは申し訳ない。我が家の家訓(かくん)なんです。美しいお尻の女性を妻とせよ」
「何なのよ。そんなんで結婚を決めようってわけ」
「いけませんか? あなた方だって、男性の顔で決めてるじゃありませんか」
「あたしは違うわよ。そんなんで決めてないわ」
「それは頼もしい」男はにっこり笑って、「ぜひ、私とお付き合い願えませんか」
「はぁ? 何なんですか。もう、いい加減にして下さい」
「実は、あなたのお尻がいちばん美しいものですから」
 綾佳は男の目を見すえて言った。「あなた、年収はいかほどかしら?」
<つぶやき>伝統と格式ある家では、信じられない条件で嫁を決めているのかもしれない。
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2012年08月10日

「ライバル出現」

(再公開 2017/05/08)
「あたし、今日は帰りたくないな~ぁ」
 智子(ともこ)のこの甘い言葉で、今までしぶっていた紀夫(のりお)の気持ちがぐらついた。そして、ついに智子は彼のマンションへお邪魔することに…。この日をどれだけ待ったことか。
 紀夫は真面目で優しくて、性格は申し分なかった。仕事だって堅実(けんじつ)な会社で、年収も悪くはない。顔は美男子とまでは言えないが、全てがそろっている男なんてそうそう見つかるはずはないし、白馬の王子が現れるなんてあり得(え)ない。智子は現実的な女なのだ。
 あと、確認すべきことは彼の私生活だ。外面(そとづら)だけ良い男はいっぱいいる。変な趣味をもっていたり、妙なこだわりのある男だと、結婚したあと苦労することになるかもしれない。それを見きわめるには、彼の部屋を覗(のぞ)くのが一番いいのだ。それも、不意打(ふいう)ちで…。まさに、今日がその日になったわけだ。お泊まりの準備も万全だし、どういう状況になっても大丈夫。彼女は、準備を怠(おこた)らない女でもある。
 彼のマンションは悪くはなかった。彼の年収から考えても、背伸びをせずに経済観念(けいざいかんねん)もしっかりしている。部屋の中は予想以上に奇麗に片づいていた。ここまできっちりしていると、何だかこっちも気分がいい。彼がお茶の支度をしている間、智子は部屋の中を見渡した。どうやら、いかがわしいものはなさそうだ。でも、そういうものは人目につく場所には置かないもの。結論を出すのは早すぎるわ。
 二人は、たわいのない話でしばらく談笑(だんしょう)した。そのうち、何となく無口になって、お互いの目と目が合う。何となく良い雰囲気。彼が少しずつ近寄って来て、どちらからともなく、顔を近づける。まさにその瞬間、部屋の中が真っ暗になった。
「なに? どうしたの? いやだ」誰もがする反応を智子はした。
「あれ? 停電かな。ちょっと待ってて」
 紀夫はそう言うと手探りで彼女から離れて行った。彼はすぐに懐中電灯をつけると、ブレーカーを確認したり、動揺する様子もなかった。けっこう頼もしいんだ。智子は彼の知らなかった一面を見ることができた。これは、収穫である。彼はそのまま外へ出ていった。
 外の方から彼の声が聞こえた。「やっぱり停電だよ。真っ暗になってる」
 その時だ。智子は部屋の中で何かが動く気配を感じた。それが、だんだん近づいて来る。智子は悲鳴をあげた。それを聞いた紀夫か駆け込んでくる。彼の持つ懐中電灯の灯りで見えたのは、小学生くらいの女の子。智子は一瞬こおりついた。子供がいたなんて…。
 彼は笑みを浮かべて、「どうしたの? しずちゃん」
 女の子はほっとしたような顔で、「真っ暗になっちゃって、それで…」
「そうか。お母さん、まだ帰って来てないんだ。それじゃ、怖かったよね」
 女の子は智子を見て言った。「このおばちゃん、だれ?」
「ああ、このおばちゃんはね」と言って紀夫は慌てて訂正した。「このお姉さんは、智子さんっていうんだよ」紀夫は智子に、「この子は、隣に住んでる子で…」
 女の子はしっかりとした口調で言った。「あたしは、のり君のお嫁さんの静恵(しずえ)です。のり君のこと、誘惑(ゆうわく)しないでください。お・ば・ちゃ・ん」
<つぶやき>思いもよらない展開。もしかすると、この子の母親も彼を狙っているのか?
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2012年11月23日

「約束」

(再公開 2017/05/17)
「誰? そこにいるのは誰なの?」
 私はかすんだ目をこすった。だんだんはっきり見えてくる。そこには、お下げ髪の女の子が立っていた。私のほうを向いて、必死に手を振り何かを叫んでいる。私は、はっとした。それは、紛(まぎ)れもなく私。小学生の私の姿だった。
 そこで、私は目が覚めた。何でこんな夢を見たんだろう。きっと、あれよ。小学校の同窓会のはがきが届いたからだ。私は髪をかきむしった。
 一ヵ月後、私は静岡のとある町に降り立った。もちろん、明日の同窓会に出席するためだ。この町に来たのは十年ぶり。小学五年の時に引っ越して、それ以来一度も訪れたことはなかった。町を歩いていると、何となくその当時の記憶がよみがえってくる。町の様子も、ほとんど変わっていないように思えた。
 駅から少し離れたところにある民宿。確か、ここには同級生の男の子がいたはずだ。私はどんな子だったか思い出そうと、民宿の前でしばらく立ち止まっていた。そこへ突然、
「さゆりちゃん? さゆりちゃんだよな!」
 私は驚いて振り返る。そこに立っていたのは、真っ黒に日焼けした男性。彼は有無も言わさず私の手を取り、力いっぱい握(にぎ)りしめた。
「ほんと久しぶりだよな。俺のこと、覚えてる?」
 民宿に落ち着くと、彼は私のことはお構いなしにまくしたてた。「もう、予約の名前見て、もしかしたらって、思っちゃったよ。で、何しに来たの? まさか、俺に会にとか?」
「何言ってるの。違うわよ」
 私は少し怒った顔で言った。何だか昔に戻ったようだ。この子、お調子もんで、いつも女の子にちょっかい出してたっけ。「同窓会よ。明日、あるんでしょ」
「同窓会?」彼はキョトンとして首をひねった。「そんなの、知らないな」
 私は案内のはがきを出して、「ほら、明日になってるでしょ」
「えっ! 俺だけ除(の)け者かよ」彼ははがきを手に取り見ていたが、突然大声を出して、
「嘘(うそ)だろ、この幹事って――。亡くなってるんだけど」
「えっ、どういうこと?」
「だから、この中村宏(なかむらひろし)だよ。五年前に病気で死んでるんだ。俺、葬式(そうしき)に行ったし」
「やだ…。そうなの? 何で、私のところに…」
 中村宏。私はどんな子だったのか、まったく思い出せなかった。
「ほら、いただろ。体育の授業で、いつも見学してたやつ。けっこう学校も休んでたから、思い出せないのも無理ないけどな」
 私は、彼の言葉でふっと記憶がよみがえってきた。私、中村君と約束したことがあった。何でそんな約束したのか分からないけど…。二人で富士山に登ろうって。中村君から言ってきて。私、いいよって。一緒に登ろうねって。軽い気持ちで約束した。何で中村君、そんなこと言ってきたんだろう。もしかしたら…。私、決めた。富士山に登ろう。私は、お調子もんの彼に手伝ってもらって、富士山頂で同窓会を開くことにした。
<つぶやき>子供の頃、誰かと約束してませんか。今からでも、約束を果たしましょう。
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2012年12月07日

「赤い靴」

 初対面(しょたいめん)の人との待ち合わせほど難(むずか)しいことはない。僕はどうしたらいいんだ、相手の顔も知らないし…。僕が教えてもらったのは、待ち合わせの日時と場所、そして赤い靴(くつ)をはいてくるらしいってことだけ。――らしいって何だよ。まったくいい加減(かげん)な奴(やつ)だ。
 そいつは僕の友だちなんだけど、僕に良い娘(こ)紹介(しょうかい)するからって言っておきながら、急に行けなくなったって、メール一本ですませやがって。僕は、どうやってその娘(こ)を見つけるんだよ。赤い靴はいてる女は一人だけじゃないんだぞ。
 僕は、ふと考えた。その娘(こ)は僕のことなんて聞いてるんだろう? 僕は友だちの顔を思い浮(う)かべた。あいつか、僕のこと良く言うことがあるんだろか…。そもそも、何であいつから彼女を紹介されなくちゃならないんだ。――でも、その話に乗ってしまう自分って…、なんか情(なさ)けないというか、なんというか…。
 ひょっとして、その娘(こ)はかなりの不細工(ぶさいく)で、僕よりも年上で、しかも…。ああああ、考えるだけで気が滅入(めい)ってくる。もう、帰ろうかな? 僕は時計を見た。そろそろ待ち合わせの時間だ。僕は辺(あた)りをぐるりと見回してみた。赤い靴の女は――。
 その時だ。後ろから声がした。「あの、小林(こばやし)さんですよね」
 その声は低くかすれていて、もごもごしていた。僕はイヤな予感(よかん)がした。振(ふ)り返ってみると、そこにいたのはマスクをつけた女の子。――えっ、この娘(こ)、絶対(ぜったい)に年下だよな。それに、ちょっとかわいいかも…。彼女はうつむき加減で僕に言った。
「ごめんなさい。お兄ちゃんに風邪(かぜ)をうつされちゃったみたいで…」
「お、おにいいちゃん…?」お兄ちゃんって誰のことだよ????
「あれ、聞いてないんですか? もう、お兄ちゃんったら、なにやってるのよ…」
 彼女はちょっと怒(おこ)った顔をした。マスクをしてるから顔はよく見えないけど、そんな感じがした。――それもまた、嫌(きら)いじゃないかも…。彼女は上目遣(うわめづか)いに僕に言った。
「あたし、安西幸太(あんざいこうた)の妹(いもうと)です」
 幸太の…、あいつの妹! 僕は思わず叫(さけ)びそうになった。そういえば、あいつの家に行ったとき会ったことが…。でも、まったく印象(いんしょう)に残っていなかった。
 ちょっと待て…、こんな娘(こ)だったっけ…?
 僕が考え込んでいるのを見て、彼女はマスクをはずして言った。
「覚えてませんか? 前に会ってるんですけど…」
 僕はあいまいに笑って答えた。「ああ、そういえば…、そうだよね、あのとき…」
「いいんですよ、覚えてなくて当然(とうぜん)です。あたし、まだ子供でしたし…」
「ごめんね。今日は、幸太の代わりに来てくれたのかな? あいつ、そんなことひと言も」
 彼女の顔が一瞬(いっしゅん)くもった。彼女はひとり言のように呟(つぶや)いた。
「そうですよね、急にそんなこと…。でも、遠(とお)くへ行っちゃうって聞いたから…」
「遠くへ? えっ、僕が? いや、遠くへ行く予定(よてい)は…」
「違うんですか? だって、お兄ちゃんが、もう会えないかもしれないって…」
「そんなことは…。会おうと思えばいつでも会えるけど…」
「よかった……」彼女はそう言った途端(とたん)、僕の方へ倒(たお)れ込んできた。
<つぶやき>一目惚(ひとめぼ)れってやつですか。彼女の思いが届(とど)くといいんですが…。どうでしょ?
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2016年09月25日
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