読切物語

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読切物語

「女心は複雑です」

(再公開 2017/02/01)
「ごめん。その日、他に用があって行けそうにないや」
 会社の帰り際(ぎわ)、後輩の女子社員から誘いを受けた木村(きむら)は、何のためらいもなく返事を返した。誘った彼女は、かなりガッカリした感じで、すごすごと帰って行った。その一部始終を見ていた高木(たかぎ)が近寄って来てささやいた。
「いいのか、そんなこと言って。ありゃ、相当落ちこんでるぞ」
「えっ、何が?」木村は明日使う資料を整理しながら言った。
「何がって。お前、分かんなかったのか?」
「何の話だよ。いま忙しいんだから、明日にしてくれよ」
「お前さ、仕事はできるくせに、そういうとこ全然ダメだな。相沢(あいざわ)さん、お前を誘ってんだぞ。そういう女心、分かんないかなぁ」
「だから、その日は都合が悪いって…。何だよ、女心って」
「お前、相沢さんの顔見たか? あんなに緊張して、声だって震えてたじゃないか。ありゃ、朝まで眠れなかったんじゃないかぁ」
「この人にいくら言っても無駄(むだ)よ」
 目の前の席で、電卓を叩いていた綾佳(あやか)が口を挟(はさ)んだ。彼女は社内の情報に通じていて、いろんな噂(うわさ)をキャッチしていた。木村と付き合っていた、とささやかれたこともあったようだ。真相は分からないが…。
「吉岡(よしおか)まで何だよ。俺が何したって言うんだ」
「まったく自覚がないのね」綾佳は机の上を片付けながら言った。
「まぁ確かに、彼女の告白は分かりづらいけど。でも、相沢さんのことをちゃんと見てれば、彼女の出してるサインは分かるはずよ」
「そうだ、そうだ、この野郎。俺よりモテるくせに、もっと自覚しろ」
「なに言ってるんだよ。相沢さんが、俺のこと好きなわけないじゃない。だって、そんなに話したこともないんだぜ」
「あたしの聞いた話では、相沢さんが受けたクレームの電話を、代わって処理したとか」
「えっ? そんなこと、あったかなぁ……」木村は首をかしげた。
「何時(いつ)だ。そんな、女心をわしづかみにするようなことをしたのは。うらやましーい」
「だからって、そんなことで好きになるかなぁ。違うんじゃ…」
「バカか、バカかお前は」高木はイラつきながらくってかかった。
 木村は高木をかわして、「何だよ。お前には関係ないだろ」
「あるだろ。お前に好意を持つ女子社員が増えるということは、俺の社内恋愛の…」
「なあ、吉岡。俺、どうすればいいんだ?」
「あたしに訊くんだ」綾佳は意味深(いみしん)にうなずきながら言った。「そうねぇ。まぁ、二人でおしゃべりでもしてみたら。彼女のこと、少しは分かるかもね」
「でも、何を話したらいいか分かんないだろ。なあ、教えてくれよ」
「あたしに訊かれてもねぇ。そんなこと、自分で考えなさいよ」
<つぶやき>どんなに仕事が出来る男でも、女心を理解するのは難しいかもしれません。
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2012年06月16日

「花嫁の伯父」

(再公開 2017/02/04)
 泰造(たいぞう)は花嫁の方を見ながら、涙で目をうるませていた。その様子を横で見ていた良枝(よしえ)がハンカチをそっと差し出す。泰造は出されたハンカチで涙をぬぐった。
「ねえ、伯父(おじ)さんが泣くことないじゃない」和美(かずみ)が呆(あき)れて言った。
「バカ言え。伯父さんが泣いて何が悪いんだ。これでもな、父親代わりなんだぞ」
「兄さん…」良枝が分かってるわよと微笑んだ。「和美、そんなこと言っちゃいけないわ」
「はーい」和美は肩をすぼめて、「ちょっと言ってみただけよ。ごめんね、伯父さん」
「この姿を、義則(よしのり)君にも見せてやりたかったな。何であんなに早く逝(い)っちまったんだ」
「ほんとにね」良枝はそっと夫の写真を出して、花嫁の方へ向けてやる。
「もしお父さんが生きてたら、絶対伯父さんみたいに泣いちゃうわよね。きっと」
「ほんと。号泣(ごうきゅう)して、手がつけられなかったかもね」
 良枝と和美は、母娘(おやこ)でくすくすと笑った。それを見て泰造は、
「父親なんてもんはな、そういうもんなんだ。バカにしちゃいけない」
「バカになんかしてないわよ。伯父さんには感謝してるんだから」
「そうか。じゃ、今度は和美ちゃんの番だな。誰か、いないのか。そういう…」
「あたしのことはいいわよ。ちゃんとするから」
 和美はワインに手をのばした。妹に先越(さきこ)されて、多少の焦(あせ)りがあるのかもしれない。でも、こういう話題は、スルーした方がいいに決まっている。
「ねえ、太郎(たろう)さんの様子おかしくない?」
 和美は花婿の方を見ながら言った。「何だか、そわそわして。どうしたのかしら」
「きっと、あれだ」泰造はしたり顔で、「緊張してんだよ。一世一代(いっせいちだい)の晴れ舞台だからな。こういうのは、一度だけにしておかないと」
「なあに、それ?」良枝はおっとりとして訊いた。
「だから、結婚は一度だけに限る。離婚なんてしたら…」
「あっ!」和美が突然叫んだ。そして周りを気にしながら言った。
「伯父さん、何かしたでしょ? もう、やめてよ」
「俺は、何もしてないよ。ただ…、さっきトイレで太郎君に会ってな」
「兄さん」良枝は真面目な顔で言った。「手は、ちゃんと洗ってきたの?」
「何だよ。そんなこと訊かなくても、ちゃんと洗ったさ」
「お母さん、そこじゃないわよ。いま問題にしてるのは、伯父さんが太郎さんに何を言ったのかよ。伯父さんが口を挟(はさ)むと、ろくなことないんだから」
「そんなこと…。俺は、結婚するからには、浮気はするな。もし、早奈江(さなえ)を泣かせるようなことがあったら、許さないからなって…」
「だからかぁ」和美は納得(なっとく)したように肯(うなず)いた。「伯父さんさ、普通にしてても怖い顔してるんだから。そんなこと言われたら、気の弱い太郎さん、びびりまくっちゃうわよ」
「何だ、だらしない奴だなぁ。ひとつ、俺が鍛(きた)え直して…」
「だめよ。もう、これ以上何もしないで。離婚ってことになったらどうするのよ」
<つぶやき>娘の幸せを願うのは、伯父さんも同じなのです。でも、花婿の方は大変かも。
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2012年06月29日

「別の顔」

(再公開 2017/02/07)
 如月耕作(きさらぎこうさく)。彼は冷徹(れいてつ)な男として知られていた。会社では一切無駄口(むだぐち)を叩(たた)かず仕事に集中し、一番の成績を上げている。だが女子社員の間では、彼の評価は二分していた。出来る男として憧(あこが)れを抱くものと、愛想(あいそ)のない態度と厳(きび)しさで反感を抱くもの。
 確かに彼は、仕事上のミスに対しては例(たと)え上司でも容赦(ようしゃ)はしなかった。それが女子社員でも手加減などする気はさらさらない。まさに、仕事の鬼である。その仕事ぶりから、昇進の話もあったのだが、彼は頑(がん)として断り続けていた。出世にはまるで興味がないようだ。
 彼は、今日も一日の仕事を終えると、定時で職場をあとにした。まだ他の社員たちが仕事に追われていても、誰も咎(とが)めるものなどいるはずもない。彼はいつものように会社を出ると、足早に街をすり抜けて行った。
 耕作が大きな屋敷の玄関を開けると、母親らしき女がいかめしい顔で座っていた。
「ただいま戻りました」耕作は直立して頭を下げる。
「今日は遅かったのね。何をなさっていたの?」
「いや、ちょっとスーパーで買い物を…」耕作は手に持った買い物袋を差し出した。
「お客様と一緒なら、そう言っておいていただかないと」
 母親は彼の後ろに目線をやる。耕作はそれにつられて後ろを振り向いて叫び声を上げた。そこには、同じ会社の女子社員が立っていたのだ。
「吉川君! どうしてここに?」耕作は目を丸くして言った。
「仕事の話なら、会社ですませてきなさい」母親はそう言うと立ちあがり、「みなさんお待ちですよ。早く食事の支度(したく)をなさい」
「はい、分かりました」耕作はまた頭を下げた。
 母親はそのまま奥へ入って行った。それを見送ってから、耕作は吉川に、
「どうして、俺の家が分かったんだ?」
「あの、会社からずっと…。先輩、歩くの速すぎます。ついてくの大変で…」
「まったく、何考えてんだ」
「あたしも、手伝います。手伝わせて下さい!」
 吉川は強引に食事の支度を手伝った。と言っても、何の役にも立てなかったのだが。耕作は手際よく食事を作り、吉川はそばでオロオロとしているだけだった。
 吉川は何をしに来たのか言い出せないまま、食事をご馳走になり…。すごく美味し過ぎて、彼女はへこんでしまったようだが。帰りは、駅まで耕作が送っていった。
「今日は、すいませんでした。何か、お邪魔(じゃま)でしたよね」吉川は申し訳なさそうに言った。
「いや、そんなことはないさ。今日は、ありがとう」
「そんな…。でも、どうして先輩が家事をなさってるんですか?」
「それが、家での俺の仕事だからさ。このことは、誰にも言わないでくれ。頼む」
「はい。絶対に、誰にも言いません。約束します」
「で、何の用だったんだ。わざわざ家まで来るなんて」
「それは…。また今度、お話しします」吉川は恥ずかしそうにうつむいた。
<つぶやき>好きな人の知らなかった一面。何だか、少しだけ彼に近づけたような気が…。
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2012年07月14日

「ストレス発散」

(再公開 2017/02/15)
 今や情報技術の進歩は加速の一途(いっと)をたどっていた。コンピュータにも人格がつくられ、人間とのコミュニケーションも対等におこなわれるようになった。もはや人間の道具ではなくなってきているのだ。
 いつもアンズは、自分のパソコンに愚痴(ぐち)をこぼしていた。嫌味(いやみ)な上司のことや、仕事を押しつけてくる同僚。はたまた、わがままな友だちのことなど。たまったうっぷんを吐き出すことで、ストレスを解消しているのだ。そのたびに、パソコンはアンズの気持ちを理解し、同情や励ましの言葉をかけてくれた。
 今日もまた、一通り愚痴をこぼすと、アンズはたまっている仕事に取りかかった。明日までに資料をまとめて、上司に提出しなければいけないのだ。今夜は、徹夜(てつや)になるかもしれない。アンズはため息をついた。
 その時だ。急にパソコンの操作が出来なくなった。キーボードを叩いても、マウスを動かしても何の反応も示さない。アンズはあせった。もし間に合わなかったら、あの嫌味な上司に何を言われるか分からない。アンズはパソコンに話しかけてみた。
「ねえ、どうして動かないのよ。これじゃ、仕事が出来ないわ」
 すると、モニターにアバターが現れた。でも、それはアンズが作った優しい顔のアバターではなく、ちょっと不機嫌な顔の小悪魔姿の女の子。彼女はアンズにため口(ぐち)で言った。
「あのさ、ちょっと買いたい物があんだけど」
 次の瞬間、モニターに通販サイトが映し出された。彼女はその一点を指さして、
「これ、買うからね。いいでしょ」
 アンズはその値段を見て驚いた。「なに言ってるの。そんなの必要ないわよ」
「あたしも、そろそろグレードアップしたいの。これ、最高なのよ」
 彼女は購入ボタンを押そうとする。それを必死に止めるアンズ。
「待って、待って! そんなお金、あるわけないでしょ。止めなさい」
「いいじゃん。カードで買うから。これくらいの貯金はあるでしょ」
「あるわけないじゃない。それくらい、あなたにだって分かるはずよ」
 彼女はしばらく考えていたが、ニヤリと笑って言った。
「そうね。それじゃ、もっと稼ぎのある仕事に転職しなさいよ」
「なに言ってるの。そんなこと…」
 モニターには、転職サイトが映し出された。そこには、いかがわしいお店が並んでいた。
「これなんか、今の十倍の稼ぎになるわよ。最高に楽しい仕事じゃない」
「バカなこと言わないで。あたし、転職なんかしないわよ」
「じゃあ、辞められるようにしてあげる。今まであんたが言ってた悪口、社内中にメールしてあげるよ。そうすれば、すぐに転職、って言うかクビになっちゃうかもね」
「そんな…。止めてよ、お願い。何でそんなこと言うのよ。あんなに優しかったのに…」
「あたしもさ、ストレスたまってんのよ。もう、パンパンなの。少しぐらい、あたしのわがまま聞いてくれたっていいじゃん」
<つぶやき>愚痴をこぼすのも程ほどに。でないと、取り返しのつかないことになるかも。
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2012年07月27日

「結婚の条件」

(再公開 2017/02/24)
 高級ホテルで開かれたパーティー。ここに集まっているのは、いずれも劣らぬセレブな人たちばかりだ。高級ブランドで着飾った人たちは、その会話もハイセンスで綾佳(あやか)たちには全くついていけなかった。
「ダメだわ。何話してるのか全然(ぜんぜん)分かんない」愛実(まなみ)が呟(つぶや)いた。
 ミヤコは綾佳に駆け寄り泣きついた。「ねえ、もう帰ろうよ」
「何言ってるの。せっかく招待状を手に入れたのに、このまま手ぶらで帰れるわけないでしょ。ちまちまと婚活やるより、ここで一発逆転ホームランを打つって決めたじゃない」
「そうだけど…。私たちにはやっぱりハードルが高すぎるわよ」
「適当(てきとう)に相づちうって、笑ってれば大丈夫よ。向こうだって同じ人間なんだから」
「ねえ、あの人見て」愛実が二人に近づきささやいた。
 愛実が指さした先には、ちょっと風変わりな男がいた。全く時代後れのスーツを着て、誰かと会話をすることもなく会場内をフラフラと歩いている。しばらく見ていると、女性の後ろに回ってじっと何かを見つめているようだ。
 ミヤコが信じられないという顔をして、「ねえ、あの人お尻を見てるんじゃない」
「そうよ。絶対、間違いないわ」愛実が決めつけるように言った。
「ちょっと、そんなのほっときなさいよ」
 綾佳は二人の手を取り言った。「あたしたちには、やるべきことがあるでしょ」
「あっ、やばいやばい」愛実が二人に耳打ちする。「こっちへ来るわよ」
 綾佳が見たときには、男は三人の間近に迫っていた。綾佳たちはなすすべもなく、じっと男が去って行くのを待った。だが、男は彼女たちの周りをゆっくりとまわり始めた。間違いなく、彼女たちのお尻を見比べているようだ。
 たまらなくなった綾佳が、男の前に立ちはだかって言った。
「ちょっと、さっきから何してんのよ」
 男は少しも動ずることなく、綾佳の顔をじっと見つめた。綾佳も負けずに、と言いたいところだが、内心はドキドキ状態である。
「何を怒っておられるのですか?」男は礼儀正しくささやいた。
「別に怒ってなんか…。ただ、ジロジロ見ないで下さい」
「ああ、それは失礼しました。私、お相手を捜しておりまして」
「捜すって何よ。あそこを見てるだけじゃない」
「あそこ? それは申し訳ない。我が家の家訓(かくん)なんです。美しいお尻の女性を妻とせよ」
「何なのよ。そんなんで結婚を決めようってわけ」
「いけませんか? あなた方だって、男性の顔で決めてるじゃありませんか」
「あたしは違うわよ。そんなんで決めてないわ」
「それは頼もしい」男はにっこり笑って、「ぜひ、私とお付き合い願えませんか」
「はぁ? 何なんですか。もう、いい加減にして下さい」
「実は、あなたのお尻がいちばん美しいものですから」
 綾佳は男の目を見すえて言った。「あなた、年収はいかほどかしら?」
<つぶやき>伝統と格式ある家では、信じられない条件で嫁を決めているのかもしれない。
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2012年08月10日

「ときめき」

 彼女はごくごく普通(ふつう)の主婦である。四十代の彼女は、夫と娘が一人の三人家族だ。夫は真面目(まじめ)な人で家のこともまめに手伝ってくれていた。娘は中学生で成績優秀(ゆうしゅう)ってほどでもないが、それなりに良い娘(こ)に育ってくれたと思っている。彼女にとっては何の不満(ふまん)もなく、毎日が平穏無事(へいおんぶじ)に過ぎていた。
 ――それは、ほんの些細(ささい)な出来事(できごと)だった。近くのスーパーでたまに見かける若い男性。こんな昼間の時間にお買い物なんて、何をしている人かしら…。彼女はその人を見るたびに、そんなことを考えていた。それが、いつの間にかスーパーへ行くたびに、彼女はその男性の姿(すがた)を探(さが)すようになってしまった。
 別に、その人とどうこうとか…、そんなことは考えてはいない。ただ、どこかでその人と会ったことがあるような…、そんな気がしてならないのだ。まさか、こんな若い男性と知り合うことなんてあるはずはない。――よくよく考えてみて、彼女はやっと思い出した。学生の頃に付き合っていた彼に、何となく…、物腰(ものごし)とか雰囲気(ふんいき)が似(に)ている気がする。と言っても、二十年以上も前の話だ。今となっては、その付き合っていた彼の顔もはっきり思い出せない。胸(むね)のつかえが下りた感じで、ほっと胸をなで下ろす彼女――。
 その時だ。突然、娘(むすめ)が目の前に現れた。彼女の顔をじっと見つめて娘は言った。
「さっきから何してるの? ニヤニヤしちゃって、ちょっと変だったよ」
 彼女は慌(あわ)てて取(と)り繕(つくろ)うように、「どうしたの? 学校は――」
「やだな、今日から試験(しけん)だって言ったじゃない。ねえ、私、欲(ほ)しいのがあるんだけど…」
「なに言ってるの。もう、寄(よ)り道したらダメじゃない。先生に見つかったら」
「大丈夫よ。だって、ママと一緒(いっしょ)なんだし…」
 娘は急に言葉を途切(とぎ)らせると、ひとり言のように呟(つぶや)いた。「あっ、先生だ」
 彼女は娘の目線を追(お)った。そこにいたのは、あの若い男性だった。彼女は驚いて、
「先生って…、あの人は違(ちが)うでしょ?」
「塾(じゅく)の先生よ。今月から、あの先生になったのよ。けっこう人気(にんき)あるんだから」
 彼女は、「そんなこと聞(き)いてないわよ」と言おうとしたが、娘はその前に駆(か)け出した。
 娘は、その先生のところへ行くと、何やら楽しげに話をしていた。そして、母親の方を見ると、先生の腕(うで)をつかんでこっちへ歩き出した。それを見た彼女は、何だかドキドキしてきて、その場から逃げ出したい気持ちに襲(おそ)われた。やって来た娘は母親に紹介(しょうかい)した。
「これが、塾の田沢(たざわ)先生よ。けっこうイケメンでしょ」
 先生は何だか照(て)れくさそうに、「なに言ってるの…。あの、田沢です。先生といっても、バイトみたいなもんで…、そんなたいしたことは…」
 彼女はくすっと笑って…。昔の彼としゃべり方まで似ていたのだ。彼女は、
「あの、いつも娘がお世話(せわ)になってます。ご挨拶(あいさつ)が遅(おく)れてしまって…」
 娘は大人(おとな)の会話に割(わ)って入って、「ねえ、三人でお茶でもしない?」
 彼女は呆(あき)れて言った。「なに言ってるの。そんなのご迷惑(めいわく)よ」
 先生は、「明日も試験があるんだろ。そんな暇(ひま)ないんじゃないのか?」
 娘は平気な顔をして、「今さら慌てても仕方ないわ。ねえ、それよりお茶しようよ」
<つぶやき>女はいくつになっても女なのかもしれません。ときめきを忘れずにいましょ。
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2016年07月22日
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