「特殊能力」

 とあるバー。遅(おそ)い時間なので数人の客(きゃく)しかいない。カンターには男と女――。二人の前には酒(さけ)のグラスが置かれていた。二人は無言(むごん)のまま――。別れ話でもしていたのか…、いや、どうやら二人は恋人ではなさそうだ。二人の間には親密(しんみつ)な関係(かんけい)は感じられない。
 女の方がたまりかねたように口を開いた。
「ねぇ、どうして? 今夜は打ち上げって言ってなかった? 他のみんなは――」
 男は即座(そくざ)に答えた。「来ないよ。俺(おれ)が誘(さそ)ったのはお前だけだから」
「はぁ? それ、どういうこと? だって、みんなも打ち上げやるって――」
「それ別の場所(ばしょ)だよ。上司(じょうし)には、俺たちは打ち合わせがあるって伝(つた)えてあるから問題(もんだい)ない」
 女は困惑(こんわく)して、「えっ、何で…。打ち合わせなんて聞いてないけど…」
 男は、戸惑(とまど)っている女を見て楽しんでいるのか、薄笑(うすわら)いを浮(う)かべて酒を飲む。そして、
「お前って、こういうことには感(かん)は働(はたら)かないんだな。安心(あんしん)したよ」
 女は身構(みがま)えた。何かにおびえるように、「えっ、何のこと…。あたし、帰ります」
 男は立ち上がろうとする女の手をつかんで、「まだ話しは終わってないよ。最後まで付き合え。心配(しんぱい)すんな。取って食(く)おうなんて思ってないから」
「話しって…。話があるなら、明日、会社で――」
「会社じゃ話ができないから誘ったんだ。君の、秘密(ひみつ)について…」
「何なのよ。あたし…、やっぱり帰ります」
「お前さぁ、どうして分かった? あの時点(じてん)で、クライアントが何を考えてたのか…。俺にはまったく分からなかった。予想(よそう)すらできなかったよ。それが、どうして?」
「あ、あたしは、ただ、言われてたことをしただけで…。あの…」
「俺は、そんな指示(しじ)はしてない。クライアントに会ったこともないお前が…。あの時点で、そんなこと分かるわけがないだろ? それが、即座(そくざ)にクライアントの要望(ようぼう)に応(こた)えた」
「そ、それは…、たまたまよ。前に、よく似(に)たことが――」
「俺さ、聞いたことがあるんだよなぁ。この業界(ぎょうかい)で、凄腕(すごうで)の女がいるって。何でも、相手(あいて)の心の中が手に取るように分かるらしいんだ。お前、聞いたことないか?」
 女は首(くび)を振(ふ)って、「いいえ…。そんなひと、あたしは…」
「お前だろ? その女って。俺、ちょっと調(しら)べてみたんだ。そしたら…」
「変なこと言わないで…。あたしが、その女のわけないでしょ」
「まぁ、いいさ。すぐに分かることだから…。お前、俺と組(く)まないか? そしたら、凄(すご)いことができるぞ。もう上司には話しはつけてあるんだ」
「勝手(かって)なことしないで。あたしは、あなたとなんか…」
「その前に、もうひとつ確(たし)かめたいことがあるんだけど…。お前、恋愛経験(れんあいけいけん)ないだろ?」
 女は目をそらした。男は、また薄笑いを浮かべて、「やっぱりなぁ」
「あります。あたしにだって…」女はむきになって答えた。
 男は女の顔を覗(のぞ)き込み、「一人…。いや、それも片思(かたおも)いってとこだろ? 俺には分かるんだよ。なるほどなぁ。恋愛の経験値(けいけんち)がないから、俺の心が読めなかったってことか。そうだ。俺が教えてやるよ。何なら、手取り足取り――」
<つぶやき>ひどい男。でも、人の心が分かるなんて…。これは特殊能力(とくしゅのうりょく)なんでしょうか。
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2019年05月10日