「違うでしょ」

○小さな食堂(しょくどう)の店先(みせさき)
どこにでもあるような食堂。目新しいものはないが値段は安くて、まあまあ美味(おい)しいものが食べられる。まだ贅沢(ぜいたく)が出来ない若い二人は、ちょくちょく利用していた。
店に入ろうとする男性。だが、女性のほうは店の前で足を止めてしまう。
「(えっ、ここ? 何で?)ねえ、違(ちが)うよね? だって、今日は…」
「ごめん。ちょっと、いろいろあって…。本当は、他の店を予約(よやく)してたんだけど、そこがね、何か食中毒(しょくちゅうどく)出したとかで、営業停止になっちゃって…」
「でもでも、ここは違うよね。だって…(わたしの誕生日よ。それなのに…)」
「他の店を探してみたんだけど、どこも一杯(いっぱい)で、予約が取れなかったんだよ」
「それで、このお店?(えっ、そんなの…)」
「入ろうよ。もう、お腹(なか)すいちゃった。ねっ」
男は店内へ入っていく。女はがっかりしたような顔をする。
○回想(かいそう)・彼女のアパートの前(夜)
デートのあと、彼女を家まで送ってきた彼。別れ際(ぎわ)に、
「今日は楽しかったね。また明日…。(女が少し離れたところを呼び止めて)そうだ。今度の誕生日には、絶対びっくりさせるから。楽しみにしてて」
笑顔で手を振る男。女も小さく手を振り返す。
○同じ食堂の店先
まだ店の前に立っている女。口に手を当てて何か思案顔(しあんがお)。
「(楽しみにしててって言ったくせに。もう、がっかりだわ。あっ、ひょっとして貸し切り? わたしのために…。でも…、ちょっと違うけど、しょうがないか…)」
女は店の中へ入って行く。
○同 店内
テーブルが四つほど並び、カウンター席もある。他の客が数人、食事をしていた。彼は一番奥のテーブルに座って、彼女に小さく手招(てまね)きをする。彼女は店の中がいつも通りなので、さらにがっかりした顔になる。足取り重く、彼の前まで行き座る。
「いつものでいいかな? それとも、何か他のにする?」
「ねえ、その前に、ちょっと確認(かくにん)しときたいんだけど。この前、言ったよね。誕生日にはびっくりさせるって…。あれって…(プロポーズじゃかいのかよ)」
「あ、それね…。えっと…、まあいいか。あの、僕と結婚して下さい。指輪(ゆびわ)は…、ちょっと手違(てちが)いがあって、間(ま)に合わなかったんだよね。ごめんね…」
「えっ…。(このタイミング? 言っちゃうんだ。さらっと、こんな大事(だいじ)なこと…。違うでしょ? 違うよね。もう、信じられない。指輪がないんなら別に日にしなさいよ)」
女はもやもやした笑い方をして、
「びっくりさせるって、こういうことなんだ。よく分かったわ。ああ、びっくりだわ。ほんと…。わたし、帰るね。さようなら」
女は立ち上がり、すたすたと店を出て行った。男は茫然(ぼうぜん)と女を見送った。
<つぶやき>カッコ内の台詞は、彼女の心の声です。誰でも、違うと思っちゃいますよね。
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2016年07月06日