「決まりごと」01

(再公開 2017/03/05)
「憧れの人」
 明日実(あすみ)は、突然編集長に呼ばれた。デスクへ行くと編集長は彼女をじっと見つめて、
「うーん。そうだなぁ、君にやってもらおうか」
 明日実は何のことか分からずポカンとしていた。編集長は一冊の本をデスクに置いて、
「明日から、この作家を担当しろ。いいか」
 明日実は本を見て驚いた。京塚雅也(きょうづかまさや)。今、凄(すご)く人気のある作家だ。明日実は身体が震えた。だって、彼に会いたくて出版社に入社したくらいだ。こんなに早く本人に会うことができるなんて、思ってもいなかった。
「は、はい。でも、でも、あたしなんかでいいんですか? こんな有名な作家さんに…」
「心配するな。この先生は、全く手のかからない人だ。変なわがままも言わないし、原稿だって一度も遅れたことはない。だがな」編集長は念(ねん)を押すように続けた。「くれぐれも言っておくが、余計(よけい)なことはするな。いいか」
 明日実は編集長の言葉など耳に入らないみたいに、肯(うなず)きながらふわふわと自分のデスクへ戻って行った。その様子を見ていた他の編集者が編集長に声をかけた。
「ほんとに、大丈夫ですか? あいつに任せて」
「まあ、ちょっと抜けてるほうが、あの先生には合うのかもしれない。他に適任者(てきにんしゃ)がいないんだから、しばらく様子をみるしかないだろ」
 編集長の心配などよそに、明日実は完全に舞い上がっていた。着ていく服を選ぶのに時間をかけ、手ぶらではいけないと差し入れを考えるのに明け方までかかった。
 なぜこれほど彼女がこの作家に心酔(しんすい)しているのか。それは書いている恋愛小説もそうなのだが、表には絶対に顔を出さない神秘さもあるのだ。出版社の中で彼のことを知っている人は限られているし、その中に自分も入ることができる。彼女が浮かれるのも当然なのかもしれない。
 男性経験の少ない彼女にとって、彼の書く本はまさに恋愛のバイブルのようなものだ。もし、自分がこの本の主人公のようになったら…。そう考えただけで、胸がキュンとなって――。彼女の妄想(もうそう)は際限(さいげん)なく続いていくのだ。
 目覚まし時計の音で彼女は目を覚ました。寝ぼけた目で時計を見る。しばらくは何をするでもなくボーッとしていたが、突然叫び声をあげた。
「ダメダメ、あたし何してんのよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ」
 明日実は猛然(もうぜん)と動き出した。手早く朝食をすませると、鏡の前に向かった。いつもなら、適当に化粧をするところだが、今日は気合いの入り方が違う。目の下のクマもどうにか誤魔化して時計を見ると、もうギリギリの時間になっていた。彼女はカバンをつかむと、一目散に駆け出した。
 出版社に顔を出してから、明日実は作家の家に向かった。彼女が朝までかけて選んだ差し入れは、有名店のケーキ。これは、彼が書いた本の中にも出てくるのだ。これならきっと気に入ってくれると彼女は確信していた。編集長から渡された地図を手に、彼女の胸は高鳴っていた。それにつれて、自然と彼女の歩(あゆ)みも早くなっていくようだ。
<つぶやき>憧れの人に会える。それだけでテンションはヒートアップしてしまうのです。
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2012年08月23日