短編物語一覧

「決まりごと」02

(再公開 2017/03/14)
「ここなの?」
「おかしいなぁ、この辺りだと思うんだけど…」
 明日実(あすみ)は地図をグルグル回して、辺りをキョロキョロと見回した。だが、それらしい建物もなく、そこにあるのは雑木林? それも全く手入れとかされていない、うっそうとした森状態。明日実は、そこに小さな小道を発見した。道は曲がりくねっているようで、木々に邪魔をされて先が見えなくなっている。まるで、森に呑み込まれるような感じ。
「まさか、ここってこと?」明日実は恐る恐るその小道を入って行った。
 小道は思ったほど長くはなく、すぐに開けた場所に出た。そこに、一軒の古い平屋(ひらや)が建っている。玄関の上には表札があり、「京塚(きょうづか)」と記されていた。
「えーっ、ここなの?」明日実はしばらくぼう然と立ちつくした。
 彼女は小説に出てくるような、オシャレで豪華(ごうか)な邸宅(ていたく)を想像していた。それが、こんなみすぼらしくて、今にも壊れそうな……。
 ――明日実は気をとり直して玄関の呼び鈴を押した。しばらく待ってみる。……。だが、何の反応もなかった。もう一度、呼び鈴を押す。………。やっぱり、何の返事も返ってこない。留守のはずはない。今日訪ねることは、ちゃんと連絡してあるのだから。そっと玄関の戸を開けてみる。戸はガラガラと音をたてながら開いた。明日実は「ごめんください」と声をかけた。…………。家の中は静まりかえっている。ここで帰るわけにはいかない。だって、憧(あこが)れの京塚雅也(きょうづかまさや)がすぐそこにいるかもしれない。
 明日実は家の中へ足を踏み入れた。目の前には廊下があり、その突き当たりと左右に部屋の扉が見えた。彼女はそこでもう一度声をかけ、靴を脱いで上がろうとした。ちょうどその時、右側の扉が開き男が出て来た。その男はもじゃもじゃの髪に、不精ヒゲをはやしている。着ているものと言ったら、薄汚れたTシャツに穴の開いた紺のジャージ。どう見ても、有名な作家先生には見えなかった。彼女はホッとして声をかけた。
「あの、すいません。先生はご在宅ですか? あたし、出版社から…」
 男はぶっきらぼうに答えた。「遅かったですね」
 明日実は腕時計を見て、「あっ、すいません。初めてなので、ちょっと場所が…」
 男はじっと彼女を見ていたが、顎(あご)で左の扉を示して、「こっちで待っててもらえますか」
「はい。すいません。ありがとう…」
 男は彼女の言葉を最後まで聞かずに、出て来た扉の中へ引っ込んだ。
 彼女は口をとがらせて言った。「何なのよ。変なひとね」
 明日実は玄関を上がると、左の扉を開けて中に入った。そこは応接室になっていた。部屋の中は奇麗に片付けられていて。と言うか、余計な飾りとか全くなかった。ほんとに殺風景な、色のない部屋だと彼女は思った。
 彼女はソファに座ると、テーブルの上にケーキの箱をそっと置いた。――どのくらい待っただろう。彼女は腕時計を見て、「もう、いつまで待たせるのよ」
 あれから一時間は過ぎている。明日実は待ちきれなくなって、応接室を出て男が入っていった扉をノックした。やっぱり返事は返ってこない。彼女は静かに扉を開けてみた。
<つぶやき>初めての場所へ行く時は、事前にチェックをしましょうね。そうしないと…。
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2012年09月04日

「決まりごと」03

(再公開 2017/03/23)
「思い込み」
 部屋の中は仕事場になっていた。南側の窓からは木漏(こも)れ日が入り…。目の前には、さっきの男が机に向かっている後ろ姿が見えた。明日実(あすみ)は声をかけた。でも、男は何の反応も示さない。よく見ると、その男の耳にはヘッドホンが…。これじゃ聞こえるはずないわ。彼女はそう呟(つぶや)くと、部屋に足を踏み入れた。
 明日実は部屋に入ったとたん、鼻をつまんだ。この臭(にお)いは、タマネギが腐ったような…。彼女は部屋の中を見回してみた。すると、ソファの上とか積み上げられた本の間に、服が脱ぎ捨てられていて、その中には下着のようなものまで見え隠れしていた。彼女はたまらず窓へ走った。そして、窓を全開に開け放つ。部屋の中へ爽(さわ)やかな風が吹き込んできた。
「あーっ、死ぬかと思った」明日実は大きく息をついた。
 彼女が振り返ると、散乱(さんらん)した原稿用紙の中に男が立っていた。男は恐い顔をして言った。
「君は、僕の邪魔(じゃま)をしにきたのか。それとも…」
 明日実は、そこで事の重大さを理解した。ここは、とりあえず謝っておかないと。
「す、すいません。でも、この部屋、あんまり臭(くさ)かったもんだから」
 彼女は時に、余計なことを口走(くちばし)る。今がその時であることを、彼女は全く気づいていなかった。男は無言で原稿用紙を拾い始めた。彼女も慌てて、「あたしもやりますから」と散らかった原稿用紙を拾い集める。全てを集め終わると彼女は言った。
「今時、手書きの原稿なんて。パソコンとか使わないんですか?」
「これが僕のやり方だ」男は、彼女から原稿を受け取ると、また机に向かった。
「あの、先生はどこかへお出かけですか?」
「先生?」男は振り返ると言った。「ここには先生なんていない」
「えっ、どういうことですか? あたし、昨日、お電話して…」
「ここは僕の家で、僕は今、仕事をしている時間なんだ。邪魔しないでくれ」
「はあ…」彼女はキョトンとしていたが、突然大声を張りあげた。
「うそっ! あなた、京塚(きょうづか)先生? あの、あの、有名な…」
「だったらどうだって言うんだ。こんな汚い格好をしてるから、そうは見えなかったか」
「ああっ、すいません。想像してたのと、全然違ってたんで…」
「分かったら、とっとと出てってくれ」
 明日実は応接室へ戻ると、ソファにどっと腰かけた。まさか、初対面がこんな最悪な形になるなんて。彼女は頭をかかえてしまった。もし憧れの先生に嫌われたら、間違いなく担当からはずされて…。そしたら、そしたら――。でも、彼女はめげなかった。
「きっと大丈夫よ。先生は、そんな度量(どりょう)の狭(せま)い人じゃないはず。だって、あんな素晴らしい作品を書いてるんだから。よし、まだ挽回(ばんかい)のチャンスはあるわ」
 時に彼女は、自分に都合のいい思い込みをする時がある。それが的(まと)はずれであることを、彼女が気づくはずもなく。ますますトンチンカンな方向へと進んでいくのだ。
 どのくらいたったろう。腕時計を見ると、もう四時を回っていた。お腹がグーッと鳴る。彼女はお昼を食べていないのに始めて気がついた。その時、突然ドアが開いた。
<つぶやき>思い込みをしてることって、誰にでもあるのかもしれません。あなたにも…。
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2012年09月16日

「決まりごと」04

(再公開 2017/04/01)
「スケジュール」
 京塚(きょうづか)は書き上げた原稿を明日実(あすみ)の前に置いた。そして、さっきの事はまるで気にしていないかのように、事務的な口調で言った。
「今週分の原稿です。よろしくお願いします」京塚は何のためらいもなく頭を下げた。
 明日実は驚いた。こんな駆け出しの編集者にそんなことをするなんて。
「いえ、あの…。あたしこそ、すいませんでした」
 明日実は立ち上がり、深々と頭を下げる。そして、差し入れのケーキを京塚の方へ押しやり、「これ…、お口に合うかどうか。ケーキなんです。先生の作品にも出てくる…」
 その時、間の悪いことに明日実のお腹が、またグーッと声を上げた。生理現象で彼女を責めることはできないが、間違いなく京塚の耳にまで届いていた。
「それは、君が食べるといい」京塚は出て行こうと立ち上がった。
 明日実は彼を引き止めるように言った。「あの、まだ怒ってるんですか?」
「いや。僕はケーキは食べないんだ。君は、前の人から何も聞いてないのか?」
 明日実はぎこちなく肯(うなず)いた。前任者(ぜんにんしゃ)が誰だったのか、彼女はまったく知らないし、聞かされてもいないのだ。そう言えば、今朝も編集長が何か言っていたが、それが何だったのか、今となってはまったく思い出せない。
 京塚はそのまま何も言わずに応接室をあとにした。残された明日実は、ソファに倒れ込みじたばたしながら、「何でよ。何で、こうなるのよ!」と子供のように悔(くや)しがった。間の悪いことは続くものだ。そんな姿を、すぐに戻って来た京塚にバッチリ見られてしまった。京塚と目が合ったとき。明日実は顔から火が出たみたいに熱くなり、全身から冷たい汗が吹き出るのを感じた。
 京塚は何も見なかったように振る舞った。でも、明日実は思った。あたしのこと絶対に変な女だと思ってる、と。京塚は一枚の紙を明日実に渡して言った。
「これが、僕のスケジュールです。仕事をしている間は、邪魔(じゃま)しないで下さい」
 その紙には、一週間分のスケジュールが分刻みに細かく書き込まれていた。明日実は目を細めた。京塚はさらに続ける。
「そこに、原稿を取りに来てもらう時間も書き込んであります。次からは、ちゃんと守って下さい。でないと、今日みたいにずっと待ってもらうことになりますから」
「は、はい。そうなんですか…」
 明日実は食い入るようにスケジュールを見つめてから、何かを思いついたように言った。「じゃあ、仕事の時間以外で、お邪魔してもいいでしょうか?」
「それは、構わないが。話し相手には…」
「いえ、いいんです。それは、大丈夫ですから」
 出版社では、編集長がイライラしながら待っていた。明日実の顔を見たとたん、編集長の雷が部屋中にとどろいた。でも、明日実が原稿を見せると編集長の怒(いか)りもおさまり、
「おう、そうか。ご苦労さま。で、先生とは、うまくいったのか?」
 明日実は元気に微笑むと、「はい、任せてください」
<つぶやき>新人は恐いもの知らずと言います。それを生かすも殺すも、本人次第ですが。
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2012年09月28日

「決まりごと」05

(再公開 2017/04/10)
「空回り」
「小林(こばやし)! ちょっと来い」編集長はデスクに戻ると、大声で呼んだ。
 近くにいた編集者が答えて、「小林さんなら、いませんよ」
「どこ行ったんだ?」
「何か、朝イチで京塚(きょうづか)先生の所へ行くとかって、連絡が」
「何だって。今日は行く日じゃないだろ。あいつ、なに考えてんだ。すぐに小林に電話!」
「あっ、はい。分かりました」
 編集者は明日実(あすみ)の携帯に電話をかけた。だが、電源が切られているようでつならがない。編集長の叫び声がとどろいたのは言うまでもない。
「編集長、また血圧が上がりますよ」女性の編集者がお茶を出しながら言った。
「わかっとる。あのバカ。余計なことするなって、あれほど言ったのに」
 その頃、明日実は京塚の家の前にいた。大きな荷物を抱えている。彼女は腕時計を確認。ちょうど九時をさそうとしていた。彼女が玄関を見つめていると、扉がガラガラと開いて京塚が顔を出した。目の前に明日実がいるので、彼は思わず後退(あとずさ)る。
「おはようございます!」明日実は朝から元気だ。「すごい。時間通りなんですね」
「君は…。こんなに早く、何だ?」予期(よき)していないことに、京塚は動揺(どうよう)していた。
「散策(さんさく)に行かれるんですよね。あたし、その間、お留守番してますから」
「しかし、それは…、困る」
「大丈夫ですから。ほら、スケジュール通りにしないと。行ってらっしゃい」
 明日実は躊躇(ちゅうちょ)している京塚の背中を押してやった。京塚は後ろを何度も振り返り、出かけて行く。明日実は彼を見送ると、腕まくりをして荷物を持ち、家の中へ入って行った。
 お昼を少し回った頃、京塚はいつも通り帰って来た。玄関を開けると、美味しそうな匂いが漂ってきた。彼は驚いて、キッチンへ駆け込んだ。
「お帰りなさい」明日実は嬉(うれ)しそうに言うと、「すぐに食べられますから、手を洗ってきて下さい。でも先生って、ほんとスケジュール通りなんですね。すごい」
「君は、何をしてるんだ。勝手に、こんなことをして…」
「あたし、驚いちゃいました。仕事部屋がグチャグチャだったから覚悟してたんです。でも、他の部屋はすごくきれいにしてるんですね。このキッチンだって…」
「まさか、あの部屋に入ったのか?」
 京塚は仕事部屋に駆け込んだ。足の踏み場もないくらい散らかっていたのに、見違えるように片づいている。全てのものが有るべき位置に戻され、埃ひとつ見つからない。京塚はその場に崩れ落ちた。京塚の背後から明日実の声がした。
「大変だったんですよ、ここまでするのに。どうしてこの部屋だけ、あんなに汚くしてたんです。もう信じられない。でも、これで執筆(しっぴつ)もはかどりますよね」
 京塚は声を荒(あら)らげて言った。「何てことをしてくれたんだ! 出てってくれ。もう二度とここへは来るな! 来ないでくれ!!」
 京塚は、力任せに明日実を突き飛ばす。彼の顔は哀しみにゆがんでいた。
<つぶやき>おせっかいも程ほどにしておかないと。相手を傷つけることもあるんです。
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2012年10月12日

「決まりごと」06

(再公開 2017/04/19)
「悲しい過去」
「どういうことだ。説明してみろ!」
 編集長の怒鳴(どな)り声がひびいた。明日実(あすみ)はずっと頭を下げている。
「何やらかしたんだ。京塚(きょうづか)先生をあんなに怒らせるなんて。お前、俺の話を聞いてたのか。俺は、余計なことはするなと言ったよな。それを…」
 明日実は顔をあげて、「あの、本当に申し訳ありませんでした。でも、あたしは少しでも先生の役に立ちたかったんです。だから、食事を作ったり、掃除なんかをして」
「お前は家政婦か。仕事も半人前(はんにんまえ)のくせして…」
 そこへ編集者の女性がお茶を持ってきて、「編集長、血圧上がっちゃいますよ」
「わかっとる。もう、口をはさまないでくれ」
 編集長はお茶を口にする。ふっと気分が和(やわ)らいで、「うーん、いいお茶だ。有難(ありがと)う」
「いいえ。でも、この娘(こ)、佐恵子(さえこ)さんみたいですね。何だかそっくり」
「ああっ、俺は人選(じんせん)を誤(あやま)ったかなぁ。こいつが、こんなことまでするとは」
「佐恵子さんって?」明日実は気になって、先輩に訊いてみた。
「京塚先生が売れ始めた頃に担当してた人よ。あなたの先輩ね」
 女性編集者は編集長に言った。「この娘(こ)にも、教えてあげた方がいいんじゃないですか?」
 編集長は明日実を資料室へ連れ出した。その部屋の奥まったところにある扉を開けると、編集長は中へ入るように促(うなが)した。明日実はこんなところに部屋があるなんて知らなかった。部屋の中は五メートル四方ほどで、壁には棚があり、本や写真が置かれていた。
 編集長は一枚の写真を指さして、「これが、川島(かわしま)佐恵子君だ」
 その女性は明日実とそんなに変わらない年齢(とし)に見えた。その微笑みからは、彼女の優しさや暖かさが伝わってくるようだ。
「この方、今どうされてるんですか? あたし、会ってみたいです」
「それは無理だな。五年前に亡くなったんだ。交通事故だった」
 編集長は重い口を開いて、「彼女が亡くなったとき、京塚先生はひどく落ちこんでな。筆を折るとまで言ったんだ。きっと、川島君は先生の世話を焼いていたんだな。お前みたいに…。だがな、ここでやめさせるわけにはいかなかった。先生の作品を待ってる読者がいるんだ。俺もその中の一人だ。何としてでも書いてもらわないと」
「それで…。作風が変わったんですね。あたしも、愛読者の一人なんです」
「そうか…。あの先生のスケジュール、君も知ってるだろ。前はあんなんじゃなかったんだ。――川島君が事故にあったとき、先生の家に向かう途中だったんだ。先生に突然呼び出されてな。彼女、慌てて出て行ったんだ。先生は、そのことを悔(く)やんでいるんだろう」
「慌ててたから、事故にあったんだと…」
「実際は、車の方が悪かったんだ。飲酒運転で歩道に突っ込んできた。先生のせいじゃない。防(ふせ)ぎようなんて、なかったんだ」
 明日実は、昨日のことを思い出していた。「きっと、あの仕事部屋には、彼女との思い出が詰まってたんですね。それなのに、あたしったら……」
<つぶやき>大切な人を失う哀しみは計り知れない。でも、前に進まないと。生きて…。
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2012年10月26日

「決まりごと」07

(再公開 2017/04/28)
「旅立ち」
 翌朝。明日実(あすみ)は京塚(きょうづか)の家の前にいた。きっと担当から外されることになるだろう、と彼女は覚悟していた。その前に、ちゃんと先生に謝りたかったのだ。
 時間は九時になろうとしていた。昨日の今日である。どんな顔で京塚に会えばいいのか…。逃げ出したい気分になるのを振り払うように、彼女は身体を震わせた。心臓の鼓動はどんどん速くなる。喉(のど)がやたら渇(かわ)いてきた。明日実は腕時計を見た。
 おかしい。腕時計が壊れてしまったのか、九時を五分も過ぎている。いつもなら、とっくに出て来て…。彼女の頭に、最悪な光景が浮かんだ。「まさか…。自殺とか」
 明日実は玄関の扉を勢いよく開ける。そして、手間取りながら靴を脱ぐと、仕事部屋へ駆け込んだ。部屋の中は昨日のままになっている。ふと、ゴミ箱に目が止まった。中には何も書かれていない原稿用紙が束になって捨てられている。
 明日実はキッチンからトイレにいたるまで、全ての部屋を開けて見た。でも、京塚の姿を見つけることはできなかった。彼女は玄関に座り込んだ。先生の行きそうな場所を必死に考えてみたが、担当になったばかりで思いつくはずもなかった。
 そんな時だ。どこかからパチパチと音が聞こえてきた。明日実が外へ飛び出すと、煙の臭いが鼻をくすぐる。ぐるりと周りを見回すと、家の裏手の方から白い煙が上がっていた。明日実は慌てて家の裏手へ走った。そこは小さな裏庭になっている。そこで、京塚が何かを燃やしていた。彼女は駆け寄り、息を切らしながら言った。
「な、何してるんですか! もう、あたし…、心配したんですから!」
 驚いたのは京塚の方かもしれない。裸足(はだし)のままの彼女を見て、
「君は、どういうつもりだ。僕には全く理解できない」
 ここで始めて靴を履(は)いていないことに気づいた彼女は、「いや、これは、ちょっと、いろいろ…、あれで…、だから…」しどろもどろになってしまった。
 十分後、二人は応接室にいた。裸足で外を歩いたものだから、明日実は足の指を切ってしまった。京塚は、彼女の足に絆創膏を貼りつけると、
「これでいい。ちゃんと消毒もしたし、大丈夫だろう」
 明日実はバツが悪そうに、「あ、ありがとうございます。あの、先生…。昨日は、すいませんでした。あたし、勝手なことをして…」
「いいんだ。もういいんだ」京塚は何だかさっぱりしたような感じで、「君のおかげかもしれない。ありがとう。何だか、肩の荷が下りたような気がするんだ。これで前へ進める」
 京塚は仕事部屋から原稿を持って来て、テーブルの上に置いて言った。
「連載の最終話です。編集長には話してありますので、持って行って下さい」
「それって、まさか…。もう、書かないってことですか?」
「明日から旅に出るんです。いろいろ考えたいこともあるし」
「ダメです。先生の作品を待ってる読者がいるんですよ。たくさんいるんです」
「そうですね」京塚はしばらく考えてから、「いつになるか分からないけど、また書きたくなったら書きますよ。僕には、他に何の取り柄(え)もありませんから」
<つぶやき>自分を見つめるには、旅をするのもいいですね。新しい道が見えてくるかも。
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2012年11月09日

「嵐の夜」01

(再公開 2017/06/13)
「必然の始まり」
 人里(ひとざと)離れた山中にある古びたお屋敷。嵐(あらし)のために道に迷った車が、その屋敷の前に停まった。車の中には四人の若者たち。彼らは土砂降(どしゃぶ)りの雨の中、屋敷の玄関まで駆け出した。
「なあ、ほんとにここなのか?」賢治(けんじ)は濡(ぬ)れた服を気にしながら言った。
「ここよ。灯りがついてるの見えたもん」好恵(よしえ)は紀香(のりか)の腕を取り、「あなたも見たでしょ?」
 紀香は首をかしげながら、「いや、あたしは…。分からないわ、一瞬だったし…」
「そこに呼び鈴があるから、鳴らしてみようよ」最後に車から降りたアキラが言った。
 一番近くにいた賢治が、呼び鈴の紐(ひも)を引っ張る。だが、何の音もしなかった。雨の音と時おり聞こえるゴロゴロという雷(かみなり)の音が聞こえるだけ。
「ねえ、誰もいないのよ。もう行きましょ」紀香はたまらず言った。
 その時、玄関の開く音が響いた。みんなは一瞬ぎょっとする。好恵が玄関の扉を開けたのだ。好恵は中を覗(のぞ)いて言った。「真っ暗よ。入ってみようよ」
 四人は恐る恐る屋敷の中へ。暗闇(くらやみ)を手探(てさぐ)りしながら歩くしかなかった。一番最後にいたアキラがライターの火をつけた。微(かす)かな明かりが部屋の一部を浮かびあがらせた。
 中は洋館の造りになっていた。サイドボードには埃(ほこり)がたまり、壁には誰が書いたのか落書きが残されている。誰が見ても空き家に間違いなかった。
「誰もいないじゃないか。車へ戻ろうよ」賢治が不機嫌そうに言った。
「だって、私、ほんとに見たのよ。ちゃんと灯りがついてたの」
 その時、閃光(せんこう)が走り大きな雷鳴(らいめい)がとどろいた。女の子たちは悲鳴をあげる。一瞬、部屋の中が青白い灯りに満たされ、すぐに暗闇がまた襲いかかってきた。
「イヤだ、怖い!」紀香が泣きそうな声で叫んだ。
 好恵は彼女の方へ手をのばした。彼女の身体に触(ふ)れると、しっかりと抱き寄せて言った。
「大丈夫よ。私がいるから、心配ないわ」
 部屋の中央で小さな明かりがともった。アキラがライターをつけたのだ。アキラがテーブルの上にあったランプへ火を移す。暗闇はみんなから遠ざかって行った。
「これで少しは落ち着けるだろ」アキラはそう言うとみんなの顔を見た。
 みんなは明かりのそばへ集まった。それぞれホッとしたような顔をしている。
「なあ、これからどうする?」賢治が呟(つぶや)いた。
 アキラは部屋の中を見回しながら、「朝までここにいた方がいいんじゃないかな」
「イヤよ。あたし、こんなとこにいたくない」
 紀香がヒステリックに言った。彼女の身体は小刻(こきざ)みに震えている。アキラは上着を脱ぐと、そっと紀香の肩にかけてやって、「動かない方がいいよ。今ここが何処(どこ)なのか全く分からないし。外は真っ暗だ」
「何で道に迷うかな、信じられない」好恵は賢治の顔を覗き込んだ。
「何だよ。俺のせいか?」賢治は言い訳がましく言った。「仕方ないだろ。昨夜(ゆうべ)、突然カーナビがぶっ壊(こわ)れたんだから」
 その時、外からガシャンという大きな音が響いた。みんなの顔に緊張が走った。
<つぶやき>嵐の夜には何かが起こる。それは必然であり、誰もそこから逃れられない。
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2013年02月13日

「メビウスの輪」01

(再公開 2015/06/15)
「変死体」
 夜の公園。数時間前まで子供たちの歓声(かんせい)が聞こえていた。今は黄色いテープが張られ、警察関係者が忙しく動き回っている。照明が昼間のように辺りを照らしていた。
 神崎(かんざき)警部はうんざりした顔で黄色いテープの下をくぐった。神崎を迎(むか)えたのは、まだ新人の曽根(そね)刑事だ。曽根は緊張した顔で言った。
「通報があったのは一時間くらい前です。現場は、まだそのままに…」
「そうか。今日は何て日だ。これで三人目だぞ。これが最後にして欲しいよ」
 神崎警部は一人言(ひとりごと)のように呟(つぶや)いた。彼が愚痴(ぐち)をこぼすのも無理はない。さっきまで別の現場にいたのだ。そこで連絡を受けて、取るものも取りあえず駆(か)けつけたのだ。
「また変死体(へんしたい)じゃないだろうな。身元(みもと)が分かるものは――」
 神崎警部はシートが張られた現場に入って口をつぐんだ。目の前のベンチに男が座っていて、今にも立ち上がりそうな…。とても死体には見えないのだ。警部は死体に手を合わせると、じっくりと観察を始めた。曽根刑事が急に思い出したように報告を始めた。
「あの、近所の子供たちの話なんですが…。夕方、この被害者が、ここにいるのを見たと言っています。ずっとここに座っていたので、気味(きみ)が悪くて憶(おぼ)えていたんです」
「夕方というと、三、四時間前ってことか」
 警部は近くにいた鑑識(かんしき)に声をかけた。「ここ、もういいかな?」
「ええ、もう済(す)んでます。後は、被害者を運び出すだけです」
 それを聞いた警部は、被害者の肩(かた)を軽く押してみた。すると死体はベンチに倒(たお)れ込んだ。
「まただ」警部はいまいましそうに呟いた。「何で、死後硬直(しごこうちょく)してないんだ。まるで、ついさっきまで生きていたみたいに…。すぐに検視(けんし)に回してくれ。頼んだぞ」
 数時間後、神崎警部は捜査本部にいた。最初の被害者の検死(けんし)報告によると、外傷(がいしょう)はなく、薬物反応も認められなかった。だが病死と判断できる材料もなく、結局、殺人を含めての捜査となった。難問(なんもん)なのは、三人の被害者の身元を示すものが何もないことだ。衣服のほかは、所持品もなくお手上げ状態。警部は現場付近の防犯カメラを全て洗い出すように指示を出した。被害者の足取りや、三つの事件に共通するものが見つかるかもしれない。
 神崎警部は目を閉じて、じっとデスクに座っていた。いつものことなのだが、こうやって頭の中を整理して、何が起きたのかを推理(すいり)しているのだ。時間は夜の十二時になろうとしていた。けたたましく電話のベルが鳴った。警部は素早く受話器を取る。
「神崎だ。…ああ、曽根君か。検視は終わったのか?」
 電話の相手は曽根刑事だった。検視を依頼した大学病院に張りつかせていたのだ。曽根はかなり取り乱していた。早口でまくしたてるので何を言っているのか聞きとれない。
「落ち着け。何を慌(あわ)ててるんだ。分かるように言ってくれ」
 受話器の向こうの曽根は息を整(ととの)えると、はっきりと聞きとれる声で言った。
「それが、消えたんです。ちょっと目を離しただけなのに…」
 警部は怪訝(けげん)そうな顔をして言った。「何の話だ。何が消えたって――」
「死体ですよ! それも、三人とも。運び込んだ死体が、消えてなくなったんです」
<つぶやき>これはまだ序章にすぎない。これから何が起こるのか、誰にも分からない。
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2014年04月18日

「メビウスの輪」02

(再公開 2015/07/13)
「消失」
 明け方近くになって曽根(そね)刑事が捜査本部に戻ってきた。鑑識(かんしき)も入れたのだが、消えた三つの死体について何も手掛(てが)かりは得(え)られなかった。大学の防犯カメラにも不審者(ふしんしゃ)は捉(とら)えられていなかったし、大きな荷物を運び出した形跡(けいせき)も全くない。
 神崎(かんざき)警部は、曽根の報告を聞き終えると、目頭を押さえてため息をついた。
「ご苦労だった。君も少し休みたまえ。私もちょっと横になるよ。長い一日だったな…」
 警部は曽根を帰らせると、窓の外を見た。東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
 神崎警部が捜査本部に顔を出したのは朝の十時を少し過ぎた頃だ。警部を待ちかねたように、刑事たちが集まってきた。だが、これといって何の進展(しんてん)もなかった。警部が自分の席に腰(こし)を下ろすと、デスクの上にコーヒーカップが置かれた。
「ああ、ありがとう。助かるよ。ちょうど飲みたかったんだ」
 コーヒーの香(かお)りに誘(さそ)われて振り向くと、そこには三十代くらいの女性が立っていた。
「何だ、君か…」警部は少し驚いたように言った。
「若い婦警(ふけい)さんじゃなくてごめんなさい」
 女性は皮肉(ひにく)たっぷりに言うと、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。彼女は神崎直子(なおこ)。大学の准教授(じゅんきょうじゅ)で検死(けんし)を依頼(いらい)していた。二人の苗字(みょうじ)が同じなのは、従兄妹(いとこ)どうしなのだ。歳(とし)がわりと近いせいもあって、直子は警部のことを兄のように思っていた。警部は冗談半分(じょうだんはんぶん)に、
「死体が消えたんだって。家へ帰ったのかもしれないな」
「バカなこと言わないで。内臓(ないぞう)をちょん切った人間が生き返るわけないでしょ。もう、早く見つけてよ。あれは、普通の死体じゃないんだから。詳(くわ)しく調べたいの」
「そう言われてもな…。手掛かりが全くないんだ。そっちはどうなんだ? 何か――」
「全部なくなってるの。死体だけじゃなくて、写真もサンプルもメモ書きしたやつも。それに、パソコンに入れておいたデータまで完全に消されてるのよ」
「それは徹底(てってい)してるな。よほど知られたくなかったんだろう。秘密主義者ってやつだ」
「いい加減(かげん)にして。真面目に捜す気あるの?」
 直子は口をへの字に曲げた。彼女はちょっと気の強いところがある。それだからか、未(いま)だに独身を通している。浮(う)いた話もきかないので、警部も気を揉(も)んでいた。
「もちろんあるさ。今だって、みんな走り回ってる。ところで…」
 警部は自分の頭を指さして、「ここには残ってるんだろ。死体のことを教えてくれ」
 直子は少し考えてから、「そうねぇ、確かに見た目は普通の死体よ。外傷(がいしょう)もなかったし、病変(びょうへん)も見当たらなかった。死因を特定できるようなものは…。でもね、何か違うのよ」
 直子は両手の指を動かして感触(かんしょく)を確かめるように言った。
「うまく説明できないんだけど、人の身体を触(さわ)ってるって感じがしなかったの」
「それは、死後硬直(しごこうちょく)が起きなかったことと関係があるのか?」
「分からないわ。私もあんな死体は初めてなんだから」
 警部は目を閉じてしばらく考え込んだ。そして目を開けると、ほとんどひとり言のように呟(つぶや)いた。「人間じゃないってことか…。まさか、そんなこと」
<つぶやき>謎を解く鍵はあるのでしょうか。見えないところで何かが起きているのかも。
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2014年05月27日

「メビウスの輪」03

「謎の女」
「ちょっと、なに言ってるのよ。ふざけないで」
 神崎(かんざき)警部が呟(つぶや)いた言葉を聞いて、直子(なおこ)は呆(あき)れた顔をして言った。
「人間じゃないなんて、そんな非科学的なこと言わないでちょうだい」
 警部はしまったという顔をして、「悪かったよ。そんなつもりじゃ――」
 神崎直子は、ガチガチのリケジョである。この世界で起こるあらゆる現象は、ひとつの美しい方程式(ほうていしき)で説明できると信じていた。だから、オカルトや都市伝説の類(たぐ)いの眉唾物(まゆつばもの)の話を聞くだけで、イライラと機嫌が悪くなってしまうのだ。彼女は確信していた。どんなに不思議に思えることでも、ちゃんと検証(けんしょう)すれば説明のつかないことはないはずだ、ということを――。
 この手の議論(ぎろん)をしても勝ち目のないことは、警部は何度も経験済(ず)みである。さてどうしたものかと考えていると、曽根(そね)刑事が顔を出した。直子を見るなり駆(か)け寄って来て、
「すいませんでした。僕が、僕が目を離したばっかりに…」
 深々(ふかぶか)と頭を下げた。曽根は生真面目(きまじめ)な青年で、刑事になって初めての事件だった。それなのにこんな失態(しったい)をしてしまって、責任を感じていたのだ。
 これには、警部も驚いた。だが、もっと驚いていたのは直子の方だ。彼女は目を丸くして、この事態(じたい)にどう対処(たいしょ)したらいいのか…。何しろ普段(ふだん)の彼女は、肩肘(かたひじ)張って周(まわ)りの人間を挑発(ちょうはつ)したり、近寄りがたい壁(かべ)のようなものを無意識に作っていた。だから、彼女に接(せっ)する人たちはどこかよそよそしく、まともに彼女に向き合う人は一人もいなかったのだ。まさに異星人(いせいじん)のような曽根の実直(じっちょく)な態度に、彼女は戸惑(とまど)うばかりである。
 その様子を微笑(ほほえ)ましく見ていた警部は、直子に助け船を出した。
「まあ、いいさ。失敗は誰にだってある。俺だって、何度失敗したか――」
「そうね。ほんとにそうよ」直子はここぞとばかり、「子供の頃なんか、何度も何度も――」
「おい、その話はいいだろう。余計(よけい)なことを言うなよ」
 警部にもよほどの失敗があったのだろう。直子はちょっと舌(した)を出して口を閉じた。
 ――警部はあらためて曽根に何があったのか訊(き)いてみた。曽根はその時のことを思い出しながら言った。
「検視(けんし)が終わって、安置室(あんちしつ)に遺体(いたい)が運ばれて…。僕はその部屋の前で検案書(けんあんしょ)ができるのを待ってたんです。そしたら、携帯(けいたい)が鳴(な)って…」
「おっ、恋人からの電話か? いいよな、若(わか)いもんは」
 口を挟(はさ)んだのは松野(まつの)刑事だ。定年を間近に控(ひか)えたベテラン刑事で、柔和(にゅうわ)な顔立ちと穏(おだ)やかな口調(くちょう)で誰からも慕(した)われていた。曽根は慌(あわ)てて否定して、
「そ、そんなんじゃありません。全然知らない人だったんです」
 警部は興味(きょうみ)を示(しめ)して、「で、それから…。相手はどんな人物だ。どんな話をしたのかね」
「相手は、声からすると、若い女性でした。それが、変なことを言うんです。メビウスの輪(わ)に気をつけろ。迷宮(めいきゅう)に近づくな…。僕は、何のことなのか訊いてみましたが、何も言わずに切られてしまって。それから、部屋の前に戻ってみると、扉が少し開(あ)いてたんです。変だなと思って、遺体を確かめてみると、消えてたんです」
<つぶやき>謎の女性の出現で、これから先、事件はどんな展開を見せるのでしょうか。
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2015年09月02日

「メビウスの輪」04

「手掛かり」
 神崎(かんざき)警部は小さく息を吐(は)くと、曽根(そね)刑事に訊(き)いた。
「どのくらい、その場から離れていたんだ?」
「そうですね」曽根は少し考えて、「ほんの二、三分だと思います。すぐ戻りましたから…」
「確か、あそこの安置室(あんちしつ)…、出入口は――」
 警部の言葉尻(ことばじり)をとらえて神崎直子(かんざきなおこ)が口を挟(はさ)んだ。「ひとつだけしかないわ。そんな短い間に死体を三つも運び出すなんて、どうやったのかしら?」
「そうなんですよ。僕もそこが引っかかっているんです」
 曽根は勢い込んで言った。「いくら何でも、気づかないはずはないんです」
「本当に消えたってことか…」
 警部はそう呟(つぶや)くと、ハッとして直子の方を見た。直子は頬(ほお)を膨(ふく)らまし、不機嫌(ふきげん)そうな顔をしていた。警部は愛想笑(あいそわら)いをして、自分の頬を叩(たた)いた。その時、松野(まつの)刑事が口を開いた。
「あの、ちょっと見てもらいたいんですが…。気になる女が映(うつ)ってるんですよ」
 松野刑事は、昨夜から防犯カメラの映像をチェックしていた。警部は勢いよく立ち上がると、デスクに置かれたモニターのところへ行った。松野はモニターの前に座っている刑事に、録画の再生をするように合図(あいず)して、
「これが、最初に死体が発見された川原(かわら)の、すぐ近くにある橋(はし)を映したものです」
 まだ早朝なので車や人の通行はほとんどなかった。薄暗い中で、橋の外灯(がいとう)があたっている所だけがはっきり見えている。画面の手前から、橋を渡っていく人影が現れた。
「ここからです。よく見ててくださいよ」
 松野がモニターを指(ゆび)さした。その人影は外灯の所まで来ると立ち止まった。明かりの中に映し出されたのは、白っぽいワンピースを着た髪の長い女。その女は突然振り返って、こちらの方を見つめる。それはまるで、モニターの中から反対に見つめられている感じがした。女はすぐに向き直ると、橋を渡って暗闇(くらやみ)に消えて行った。松野は次の指示をして、
「いまの、覚(おぼ)えててくださいよ。次のは、二件目の死体が発見されたオフィスビル一階の出入口の映像です。一瞬(いっしゅん)ですので、見逃(みのが)さないでください」
 昼の時間なのだろう、ビルの出入口にはサラリーマンやOLの姿が大勢(おおぜい)行き交っていた。その中で、どこから現れたのか白いワンピースの女がビルを出て行く姿が…。やはり髪の長い女で、さっきの女と同一人物のように思えた。松野はまた次の指示をして、
「これが三件目。公園の入口の所にあるカメラです。子供に交(ま)じって女が出て行きます」
 子供たちが駆け出していくすぐ後に、白のワンピースに髪の長い女が通り過ぎた。――三件の事件現場近くで、同じ女が映っているなんて。偶然(ぐうぜん)とは考えにくい。
 松野は警部に向き直ると、「いずれも、死体発見の一、二時間前の映像です。これだけで犯人とは断定(だんてい)できませんが、何か関係があるのかも知れません」
「そうだな」警部は肯(うなず)きながら、「他の場所の映像も調べてくれ。女の足取(あしど)りが分かるかもしれない。今はどんな些細(ささい)なことでも、手掛(てが)かりが必要なんだ」
 その場にいた刑事たちは大きく肯き、それぞれの捜査に飛び出して行った。
<つぶやき>この女の登場で捜査は進展するのでしょうか? 謎は深まるばかりですね。
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2015年10月08日

「メビウスの輪」05

「新たな事件」
 刑事たちの努力も虚(むな)しく、それから一週間たっても何の手掛(てが)かりも見つからなかった。現場近くで聞き込みをしたが、白いワンピースの女の目撃(もくげき)証言は得(え)られなかったし、他の防犯カメラの映像にも女の姿は残されていなかった。あの女はどこへ行ってしまったのか…。消えた三つの死体についても、何の進展(しんてん)もなかった。完全に捜査は暗礁(あんしょう)に乗り上げた。
 そんな時だ。別の殺人事件の連絡が入った。神崎(かんざき)警部をはじめ、その場にいた刑事たちに緊張(きんちょう)が走った。警部は、刑事たちを引きつれて現場に急いだ。
 現場は繁華街(はんかがい)の中にある小さな公園。その植え込みの中に男が仰向(あおむ)けに倒れていた。死体を確認した警部は、ホッと胸をなで下ろした。不謹慎(ふきんしん)なことだが、率直な感情だった。他の刑事たちも同様のようである。
 今度のやつは、今まで続いていた不可解(ふかかい)な死体ではなく、見ただけではっきりと殺人と分かるものだった。倒れている男の腹には何カ所も刺(さ)し傷があり、着ているワイシャツは真っ赤に染(そ)まっている。
 男の所持品を調べていた警部は、名刺入れに目を止めた。中を見てみると、〈クラブ メビウス 篠崎亮(しのざきりょう)〉と書かれている名刺が数枚入っていた。警部は首をかしげた。クラブ・メビウス…、どこかで聞き憶(おぼ)えのある――。
 その時、横から覗き込んでいた曽根(そね)刑事が声をあげた。
「これって、僕が…、あの、おかしな電話の女が言ってたのと――」
「メビウスの輪か!」警部は勢(いきお)い込んで言った。「まさかとは思うが、あの事件と関係があるかもしれんな。調べてみる価値(かち)はありそうだ」
 名刺に書かれていた住所は、ここからそんなに離れてはいなかった。警部は、他の刑事たちに指示をすると、曽根刑事を連れて現場を離れた。
 時間は朝の十時を過ぎた頃。飲み屋などが入っている雑居(ざっきょ)ビルが建ち並ぶ通りは、人もまばらで夜の賑(にぎ)やかさが嘘(うそ)のようだ。二人は、とあるビルの前で立ち止まった。一階の店舗(てんぽ)はシャッターが降ろされていて、その横に狭(せま)い階段が上へ続いていた。曽根刑事がビルを見上げて言った。
「ここですよ。看板(かんばん)があります。二階のようですね」
 小さな看板が、申し訳ていどについていた。二人は狭い階段を上がって行った。二階に着くと、目の前に重厚(じゅうこう)そうな扉(とびら)があった。扉には「クラブ メビウス」とプレートが付いている。こんな時間に誰かいるとは思えないが、警部は扉を叩いてみた。
 何度か繰り返してみたが、中からは何の反応もなかった。最後に、警部は扉の取っ手を回してみた。すると、取っ手が動いて扉が開(ひら)いた。二人は顔を見合わせて、ゆっくり扉を開けると中へ入った。店内は真っ暗だ。外からの明かりで何とか店内の様子が分かった。警部は声をあげた。
「誰かいませんか! 警察です。ちょっとお伺(うかが)いしたいことがありまして…」
 店内は静まり返っていた。警部は曽根刑事に明かりをつけるように目配(めくば)せした。曽根は手探りでカウンターの方へ向かった。警部は店の奥へと進んで行った。すると扉でもあるのか、下の方に明かりが洩(も)れているのが見えた。警部は曽根刑事に合図(あいず)した。
<つぶやき>さあ、誰かいるんでしょうか? 何か手掛かりが見つかるといいんですが…。
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2015年11月13日

「メビウスの輪」06

「女の子」
 神崎(かんざき)警部はゆっくりと明かりの方へ近づいて行った。――足音をしのばせてドアの前まで来ると、ドアの取っ手に手を伸(の)ばした。その時だ。突然(とつぜん)ドアが開いて、部屋の中から黒い影(かげ)が飛び出してきた。その拍子(ひょうし)に、警部はドアに押されて態勢(たいせい)を崩(くず)された。
 警部は叫(さけ)んだ。「止まれ! 止まるんだ!」
 それと同時に、店の明かりが点いて曽根(そね)刑事が出口の前に駆(か)けつけた。黒ずくめの人物は一瞬(いっしゅん)躊躇(ちゅうちょ)したが、曽根に向かって突っ込んでくる。曽根も、新米(しんまい)といえども一応(いちおう)刑事である。向かってくる相手を両腕(りょううで)で押さえて踏(ふ)みとどめる。と、そのはずみで相手の黒い帽子(ぼうし)が床(ゆか)に落ちた。すると、黒髪(くろかみ)がはらりと落ちて来て曽根の手にかかった。曽根は、思わず力を緩(ゆる)めてしまった。相手はチャンスとばかり、曽根の足を思いっ切り踏んづけた。
 曽根は「あぅ」と声を上げたが、痛みをこらえて、相手を床に倒(たお)してその上にのしかかった。曽根の手が相手の胸(むね)を押さえつける。その柔(やわ)らかな感触(かんしょく)に曽根が気づいたとき、女性の悲鳴(ひめい)があがった。曽根は、思わず胸から手を放した。女の子の声が店内に響(ひび)き渡った。
「どこさわってんのよ! この変態(へんたい)おやじ!」
 相手は女性、それもどう見ても高校生ぐらいに見える。彼女に睨(にら)まれた曽根は、たじろいでしまった。どうやら、女性にはめっぽう弱(よわ)いのかもしれない。それはさておき、警部は女の子を立たせると、店のソファに座らせた。女の子は、さっきまでの威勢(いせい)のよさはなくなり、口をギュッと結(むす)んで、不安そうな目をしていた。
 警部は彼女のそばに座り、優しく話しかけた。
「君に、訊(き)きたいことがあるんだけど、教えてもらえるかな?」
 女の子はちらっと警部の方を見たが、ますます顔をこわばらせて床へ目を落とした。警部は、彼女の気持ちを和(やわ)らげるように言った。
「さっきはすまなかったね。こいつを許(ゆる)してもらえるかな?」
 警部は曽根の方を見てから、「これでも、けっこう良い奴(やつ)なんだよ。まあ、女性にモテたって話は聞かないけどね。どう見ても、女性に好かれるタイプじゃないだろ?」
 曽根は抗議(こうぎ)するように、「警部。そ、それは…、言いすぎです。僕は、これでも…」
 二人のやりとりを見て、女の子は思わず微笑(ほほえ)んだ。そして、警部に同意(どうい)するように、
「ほんと、どう見たって良い所なんてないわ」
 曽根は、「君には関係ないだろ。だいたい、君が逃げたりするから、ああいうことになるんだ。それに、僕は変態でもないし、おやじでも――」
「まあまあ、その辺にしとけ」警部は曽根をなだめると、彼女に向き直って言った。
「こっちも、これが仕事でね。君には、いろいろと質問しなくちゃならない。それは、分かってもらえるかな?」
 女の子は観念(かんねん)したように答えた。「捕(つか)まっちゃたんだから、仕方(しかた)ないわね。いいわよ。でも、何でも話すかは、おじさんの質問しだいだけど」
「いや、手厳(てきび)しいねぇ。おじさんも、気をつけて質問をしなくちゃなぁ。じゃあ…、まず、君の名前から教えてもらえないかな?」
<つぶやき>この娘は何者なのでしょう。そして、一連の事件とどう関わっているのか…。
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2015年12月17日

「メビウスの輪」07

「キューブ」
 女の子はちょっと微笑(ほほえ)むと、「あたしは、チータンよ。チータンっていうの」
 神崎(かんざき)警部は首をかしげた。側(そば)にいた曽根(そね)刑事が怒(おこ)った顔で言った。
「本名だ。君の名前を言いなさい。そんなふざけたこと言ってると――」
「チータンは、あたしのハンドルネームよ。何か文句(もんく)でもあるの?」
 警部は曽根が反論(はんろん)するのを抑(おさ)えて、
「じゃあ、チータンさん…。君は…、いくつかな?」
「チータンでいいわよ。おじさん、女性に年齢(とし)を聞くのってどうなの?」
「ああ、そうか…。でもね、これもおじさんの仕事でね。どうしても訊(き)かなきゃいけないんだ。教えてくれないかな?」
「そう、じゃあ教えてあげる。あたし17よ。これでも高校生なの」
「そうか…。で、どこの高校に通ってるのかな?」
「それは教えない。それに、あたし学校には行ってないの。つまんないんだもん。別に行かなくてもどうってことないし…」
「でも友達に会えないんじゃ、寂(さび)しくないかい?」
「別に…。あたし、友達なんか必要ないから。そういうの、面倒(めんどう)なだけよ」
 その時、電話のベルが鳴り出した。彼女は慌(あわ)てて上着の下からポーチを出して、その中からサイコロを大きくしたようなものを取り出した。彼女はそれを手のひらに乗せ、光っている面を軽くなでた。すると、ベルの音が鳴り止んだ。
 警部たちが怪訝(けげん)そうに見ていると、彼女はそのキューブに向かって話し出した。
「ごめん、アリス。捕(つか)まっちゃった。あたし、どうしたらいい?」
 警部は思わず訊いた。「それは…、何だい?」
 彼女は自慢気(じまんげ)に答えた。「いいでしょ、ネットで手に入れたの。最新モデルの――」
 突然、彼女の後ろから手を伸(の)ばした曽根が、そのキューブを取り上げて言った。
「何だ、これは…。スマホにしては妙(みょう)な形だな。何の表示(ひょうじ)も出てないし…」
 彼女は立ち上がり、曽根からそれを取り返しそうと手を出しながら叫(さけ)んだ。
「ちょっと返してよ。それはあたしのよ!」
 曽根は取られまいとしながら、それを振(ふ)ってみた。するとベルが鳴り出した。曽根は驚いて、思わす手を放してしまった。そのキューブは宙(ちゅう)を舞(ま)った。弧(こ)を描いて落下していく。でも、彼女が素早(すばや)くそれを受け止めた。そして曽根に詰(つ)め寄って、
「もう、何て人なの。いい加減(かげん)にしてよ。ほんと、最低な――」
 どこからか、彼女の名を呼ぶ女の声がした。「チータン、もうやめて」
 彼女の手の中でキューブが光り出した。彼女は手を開いて、それに話しかけた。
「ごめんね。こいつが急に…。もう誰にも渡さないから」
「いいのよ。あなたをこれ以上巻き込むことはできないわ。あなたのお仕事はもう終わり」
「そんなのイヤよ。あたし、まだやれるわ。もっと手伝わせてよ」
 女の声を聞いていた曽根が、急に叫んで言った。
「警部! この声です。あの時、僕の携帯(けいたい)にかけてきたのは、この女ですよ!」
<つぶやき>謎の女の正体がこれで分かるのかな。それにしてもこのキューブは何なの?
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2016年01月18日

「メビウスの輪」08

「謎の工場」
 街(まち)外れにある閉鎖(へいさ)されている工場。思ったよりも敷地(しきち)は広く、周りは高い塀(へい)に囲まれていて中の様子をうかがい知ることはできない。出入口は正面にある鉄製の門だけで、その格子(こうし)の隙間(すきま)から建物の一部をかろうじて見ることができた。
 夜明け前、まだ辺りは暗がりに包まれていたが、東の空がかすかに色を取り戻しつつあった。――門から少し離れた所に、一台の車が止まっていた。その中にいたのは神崎(かんざき)警部で、門の方をじっと見つめていた。彼はまるでひとりごとのように呟(つぶや)いた。
「本当にここなのか? 人の出入りは全くないし、明かりもついていない」
 助手席の方から女性の声がした。それは例のキューブからだ。
「中には人はいないはずよ。それに機械(きかい)を動かすのに明かりは必要ないわ」
「でも、アリス。まだ信じられないよ。ここで人間を造っているなんて…。直子(なおこ)にそのことを話したら、目を丸くしてね。絶対に無傷(むきず)で押収(おうしゅう)しろって、うるさいんだ」
「それはやめておいた方がいいわ。あなたたちが、それを手にするのは早すぎる」
 その時、後ろのドアをノックして松野(まつの)刑事が乗り込んできた。
「警部、遅くなってすいません。この工場なんですがね、二年ほど前に買収(ばいしゅう)されて、今の所有者は〈ブレイン〉という会社です。ですがね、この会社、どうも実体(じったい)がつかめなくて…。登記されていた住所や電話番号もでたらめで、連絡の取りようがありません」
「そうか、ご苦労さん。夜明けを待って突入しよう」
「はい。もう準備はできてます。それとここへ来る途中で近くの交番(こうばん)に寄ったんですが、ちょと面白い話を耳にしましてね。何でも、一ヵ月ほど前に、ここで賭博(とばく)の検挙(けんきょ)があったそうで…。本庁からマル暴(ぼう)の刑事が大勢来てたみたいです」
「その話なら聞いたことがあるな。ここだったのか…。でも、よく分かったな?」
「それがね、半年ほど前から、柄(がら)の悪そうな連中が出入りするようになって、それで内偵(ないてい)をしてたみたいですね。交番の警官にも気をつけるように言われていたそうです」
「なるほど。じゃ、その〈ブレイン〉って会社も暴力団がらみかもな」
「話はそれだけじゃないんですよ。二ヵ月ほど前に、この工場へ大型トラックが入って行ったそうなんですが、誰も出ていくのを見ていないんですよ。検挙に入った時にくまなく工場内を調べても、トラックどころか何の機械もなくてガランとしてたそうで」
「どういうことだ…。じゃあ、今も何もないってことか?」
「それは違うと思うわ」二人の話を黙って聞いていたアリスが言った。「電力会社に入って調べてみたけど、この工場にかなりの電力を供給(きょうきゅう)してるわ。それも、無償(むしょう)でね」
「無償って?」松野は驚いて言った。「そんなことできるのか?」
「彼にはたやすいことよ。データを書き替えればいいだけだから。この場所を買い取るのだって、世界中の銀行から同じことをして資金(しきん)を集めたはずよ」
「彼って…」警部は戸惑(とまど)いを隠(かく)しきれず、「いったい誰なんだ? 君の正体も教えてもらえないし…。本当に、君を信用(しんよう)していいのか分からないよ」
「じゃあ、一つだけ…。彼の名は、ブレインよ」
<つぶやき>あの女の子はどうしたのって、気になりますよね。それは次回と言うことで。
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2016年03月13日

「メビウスの輪」09

「突入」
 車のヘッドライトが、神崎(かんざき)たちがいる車の後ろへゆっくりと近づいて来た。そして路肩(ろかた)によせると少し後方に停車した。その車に乗っていたのは曽根(そね)刑事だった。曽根は車から降りると、小走りにやって来て車の窓(まど)を叩いてドアを開けた。曽根は車へ乗り込むと、申し訳なさそうに神崎警部に言った。
「遅くなりました。あの娘(むすめ)にさんざん連れ回されて大変だったんです」
「それは羨(うらや)ましいなぁ。俺も若い娘(こ)と一緒(いっしょ)に…」冗談(じょうだん)まじりに言ったのは松野(まつの)だった。
「そんなんじゃ…。あれ? 松野さん、殺人事件の方に行ってたんじゃ」
「ああ。あれはもう解決したさ。犯人が近くの交番に出頭(しゅっとう)して来たんだ。女のことでもめて、ついカッとなってブスリとやったらしい。まったくなに考えてんだか」
 松野は吐(は)き捨てるように言った。神崎警部が後ろを振り返って、
「で、あのお嬢(じょう)さんをちゃんと送り届けたんだろうな?」
「もちろんです。でも、お腹(なか)が空(す)いたから食事をさせろとか、ゲーセンへ連れてけとか…。おかげで僕の財布(さいふ)はすっからかんですよ」
「お前も楽しんだんだろ? それくらい我慢(がまん)しろよ」笑いながら松野がささやいた。
 曽根は気を取り直して報告を続けた。「それでやっと帰る気になって、家の着いたのが夜中の二時でした。その家って言うのが、すっごい豪邸(ごうてい)で――」
 曽根の声がうわずった。だが、場違いなことに気づいて言葉を切った。「すいません。それで、その邸(やしき)の若い女中にこっそり聞いたんですが…。娘の名前は鈴木千夏(すずきちなつ)。どっかの大企業の創業者のひ孫(まご)だそうです。高校生なんですが、学校へは行ってなくて部屋に引きこもっていたようです。それがここ一週間くらい前から出かけるようになって…」
 今まで黙(だま)っていたアリスが言葉を挟(はさ)んだ。「それは私がお願いをしたからよ」
「お願い…」神崎警部がキューブを手に取り、「君とあの娘(こ)はどういうつながりなんだ?」
 アリスは光を点滅させながら答えた。「それは、彼女が優秀なハッカーだったからよ。私の指示(しじ)に的確(てきかく)に答えてくれて、それ以上のことをしてくれたわ」
「なるほど、まだ子供なのにそんなに優秀とは気づかなかったよ」
 警部は感心したように言った。――まだ日の出前だが、外はすっかり明るくなっていた。警部の顔つきが変わり、無線で全員に突入待機(たいき)の指示を出した。
「さあ、ちょっとお邪魔(じゃま)しようじゃないか。歓迎(かんげい)されるといいんだがね」
 警部は少しおどけて言うと車のドアを開けた。警部の後に松野と曽根刑事が続いた。まずは少人数で中の様子をさぐるのだ。工場の入口には二十人ほどの警官が待機していた。警部が扉(とびら)の近くの刑事に合図(あいず)をすると、その刑事は持っていた道具で扉にかかっていたチェーンを壊(こわ)した。まずは警部が扉をくぐり、続いて松野刑事、そして曽根が入ろうとしたとき、そばにいた刑事が言った。「おい、この娘(こ)も連れていくのか?」
 曽根が振り返ろうとしたとき、後ろから押されて、曽根は扉の中へ転がり込んだ。曽根の後ろに立っていたのはチータンこと千夏だった。彼女は隣(となり)にいた刑事ににっこり微笑(ほほえ)むと、扉の中へ吸い込まれるように入って行った。
<つぶやき>おてんばなお嬢さんの登場です。でも、どうやってここまで来たんでしょう。
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2016年04月17日

「メビウスの輪」10

「迷宮入り?」
 曽根(そね)刑事は柔道(じゅうどう)の受け身よろしく、地面をくるりと回転して止まった。それを見ていた松野(まつの)刑事が呟(つぶや)いた。「おい、なにカッコつけてんだ」
 曽根が反論(はんろん)するよりも早く千夏(ちなつ)が口を開いた。「ほんと、役に立たないくせに」
 曽根は後ろに千夏が立っているのを見て、驚いた顔をして言った。
「ど、どうして…。どうやってここに来たんだ」
「だって、あたしが後ろに乗ってても、ぜんぜん気づかないんだもん。鈍感(どんかん)!」
「あっ、あの時か? 僕が女中に話しを聞いてるとき――」
 その時、神崎(かんざき)警部が声を上げた。「静かに…」そして千夏に向かって、「やっぱり来たか、困ったお嬢(じょう)さんだ。曽根、しっかり守ってやれよ」
「えっ、僕がですか? もう子守(こもり)はかんべんして下さいよ」
 四人は工場の建物に向かって歩き出した。途中でアリスがささやいた。
「おかしいわ。監視(かんし)カメラが作動してないし、静か過ぎる」
 建物の入口は大きな扉(とびら)になっていた。曽根と松野が左右に分かれて、扉の取っ手をつかんでゆっくりと開けていく。開いた隙間(すきま)から警部が中を覗(のぞ)き込んだ。
 ――警部は小さなため息をつくと、二人に扉を開けるように合図(あいず)した。薄暗い工場の中は何も見えない。ガランとした空間が広がっているだけのようだ。四人は建物の中へ入って行った。曽根が照明のスイッチを見つけて明かりをつけた。
 そこには、やはり何もなかった。でも広い工場内の真ん中辺りに小さな机がぽつんとあった。その上には何かが置かれているようだ。四人は回りを警戒(けいかい)しながら近づいて行く。机の上にあったのは小型のタブレット。警部がスイッチを入れるとメッセージが表示された。
〈わたしを見つけようなんて無駄(むだ)なことはやめたまえ。しかしながら、ここまでたどり着けたことは称賛(しょうさん)にあたいする。だが、次はそう簡単(かんたん)にはいかないだろう。アリス、わたしは待っているよ。君がわたしのもとへ戻ってくることを、楽しみにしている〉
 この後、工場の敷地内をくまなく捜索(そうさく)したが、何も見つけることはできなかった。警部はアリスに言った。「君たちはいったい何者なんだ? どうしてこんなことを」
 アリスは少し間をおいて話し出した。「私とブレインは、光と影。コインの表と裏のようなものよ。お互いを打ち消しあっているの。さあ、私ももう行かないと」
「また何か事件を起こすのかな? 君の、その影は…」
「そうね、そうなる前に止めるわ。そうしないと、私の方が影になってしまう。今まで協力してくれてありがとう。さようなら」
 警部が持っていたキューブの光が消えて、それきり何も動かなくなった。警部はため息をつくとひとり呟いた。
「こりゃ、またあいつにかみつかれるな。どうしたもんか…」
 警部が署に戻ると、神崎直子(なおこ)が腕(うで)を組んで待っていた。警部の姿を見ると飛んで来て、
「ねえ、どういうこと? 私、言ったよね。どうしてこういうことになるわけ?」
「仕方(しかた)ないだろ、何もなかったんだから…。どうしようもないじゃないか」
 警部のポケットの中で、あのキューブがかすかに光を放ったように見えた。
<つぶやき>次はどんな事件が起こるのでしょうか? それはまた、次回ということで…。
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2016年05月19日