「決まりごと」06

(再公開 2017/04/19)
「悲しい過去」
「どういうことだ。説明してみろ!」
 編集長の怒鳴(どな)り声がひびいた。明日実(あすみ)はずっと頭を下げている。
「何やらかしたんだ。京塚(きょうづか)先生をあんなに怒らせるなんて。お前、俺の話を聞いてたのか。俺は、余計なことはするなと言ったよな。それを…」
 明日実は顔をあげて、「あの、本当に申し訳ありませんでした。でも、あたしは少しでも先生の役に立ちたかったんです。だから、食事を作ったり、掃除なんかをして」
「お前は家政婦か。仕事も半人前(はんにんまえ)のくせして…」
 そこへ編集者の女性がお茶を持ってきて、「編集長、血圧上がっちゃいますよ」
「わかっとる。もう、口をはさまないでくれ」
 編集長はお茶を口にする。ふっと気分が和(やわ)らいで、「うーん、いいお茶だ。有難(ありがと)う」
「いいえ。でも、この娘(こ)、佐恵子(さえこ)さんみたいですね。何だかそっくり」
「ああっ、俺は人選(じんせん)を誤(あやま)ったかなぁ。こいつが、こんなことまでするとは」
「佐恵子さんって?」明日実は気になって、先輩に訊いてみた。
「京塚先生が売れ始めた頃に担当してた人よ。あなたの先輩ね」
 女性編集者は編集長に言った。「この娘(こ)にも、教えてあげた方がいいんじゃないですか?」
 編集長は明日実を資料室へ連れ出した。その部屋の奥まったところにある扉を開けると、編集長は中へ入るように促(うなが)した。明日実はこんなところに部屋があるなんて知らなかった。部屋の中は五メートル四方ほどで、壁には棚があり、本や写真が置かれていた。
 編集長は一枚の写真を指さして、「これが、川島(かわしま)佐恵子君だ」
 その女性は明日実とそんなに変わらない年齢(とし)に見えた。その微笑みからは、彼女の優しさや暖かさが伝わってくるようだ。
「この方、今どうされてるんですか? あたし、会ってみたいです」
「それは無理だな。五年前に亡くなったんだ。交通事故だった」
 編集長は重い口を開いて、「彼女が亡くなったとき、京塚先生はひどく落ちこんでな。筆を折るとまで言ったんだ。きっと、川島君は先生の世話を焼いていたんだな。お前みたいに…。だがな、ここでやめさせるわけにはいかなかった。先生の作品を待ってる読者がいるんだ。俺もその中の一人だ。何としてでも書いてもらわないと」
「それで…。作風が変わったんですね。あたしも、愛読者の一人なんです」
「そうか…。あの先生のスケジュール、君も知ってるだろ。前はあんなんじゃなかったんだ。――川島君が事故にあったとき、先生の家に向かう途中だったんだ。先生に突然呼び出されてな。彼女、慌てて出て行ったんだ。先生は、そのことを悔(く)やんでいるんだろう」
「慌ててたから、事故にあったんだと…」
「実際は、車の方が悪かったんだ。飲酒運転で歩道に突っ込んできた。先生のせいじゃない。防(ふせ)ぎようなんて、なかったんだ」
 明日実は、昨日のことを思い出していた。「きっと、あの仕事部屋には、彼女との思い出が詰まってたんですね。それなのに、あたしったら……」
<つぶやき>大切な人を失う哀しみは計り知れない。でも、前に進まないと。生きて…。
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2012年10月26日