「決まりごと」03

(再公開 2017/03/23)
「思い込み」
 部屋の中は仕事場になっていた。南側の窓からは木漏(こも)れ日が入り…。目の前には、さっきの男が机に向かっている後ろ姿が見えた。明日実(あすみ)は声をかけた。でも、男は何の反応も示さない。よく見ると、その男の耳にはヘッドホンが…。これじゃ聞こえるはずないわ。彼女はそう呟(つぶや)くと、部屋に足を踏み入れた。
 明日実は部屋に入ったとたん、鼻をつまんだ。この臭(にお)いは、タマネギが腐ったような…。彼女は部屋の中を見回してみた。すると、ソファの上とか積み上げられた本の間に、服が脱ぎ捨てられていて、その中には下着のようなものまで見え隠れしていた。彼女はたまらず窓へ走った。そして、窓を全開に開け放つ。部屋の中へ爽(さわ)やかな風が吹き込んできた。
「あーっ、死ぬかと思った」明日実は大きく息をついた。
 彼女が振り返ると、散乱(さんらん)した原稿用紙の中に男が立っていた。男は恐い顔をして言った。
「君は、僕の邪魔(じゃま)をしにきたのか。それとも…」
 明日実は、そこで事の重大さを理解した。ここは、とりあえず謝っておかないと。
「す、すいません。でも、この部屋、あんまり臭(くさ)かったもんだから」
 彼女は時に、余計なことを口走(くちばし)る。今がその時であることを、彼女は全く気づいていなかった。男は無言で原稿用紙を拾い始めた。彼女も慌てて、「あたしもやりますから」と散らかった原稿用紙を拾い集める。全てを集め終わると彼女は言った。
「今時、手書きの原稿なんて。パソコンとか使わないんですか?」
「これが僕のやり方だ」男は、彼女から原稿を受け取ると、また机に向かった。
「あの、先生はどこかへお出かけですか?」
「先生?」男は振り返ると言った。「ここには先生なんていない」
「えっ、どういうことですか? あたし、昨日、お電話して…」
「ここは僕の家で、僕は今、仕事をしている時間なんだ。邪魔しないでくれ」
「はあ…」彼女はキョトンとしていたが、突然大声を張りあげた。
「うそっ! あなた、京塚(きょうづか)先生? あの、あの、有名な…」
「だったらどうだって言うんだ。こんな汚い格好をしてるから、そうは見えなかったか」
「ああっ、すいません。想像してたのと、全然違ってたんで…」
「分かったら、とっとと出てってくれ」
 明日実は応接室へ戻ると、ソファにどっと腰かけた。まさか、初対面がこんな最悪な形になるなんて。彼女は頭をかかえてしまった。もし憧れの先生に嫌われたら、間違いなく担当からはずされて…。そしたら、そしたら――。でも、彼女はめげなかった。
「きっと大丈夫よ。先生は、そんな度量(どりょう)の狭(せま)い人じゃないはず。だって、あんな素晴らしい作品を書いてるんだから。よし、まだ挽回(ばんかい)のチャンスはあるわ」
 時に彼女は、自分に都合のいい思い込みをする時がある。それが的(まと)はずれであることを、彼女が気づくはずもなく。ますますトンチンカンな方向へと進んでいくのだ。
 どのくらいたったろう。腕時計を見ると、もう四時を回っていた。お腹がグーッと鳴る。彼女はお昼を食べていないのに始めて気がついた。その時、突然ドアが開いた。
<つぶやき>思い込みをしてることって、誰にでもあるのかもしれません。あなたにも…。
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2012年09月16日