T:001「絵画(かいが)盗難事件(とうなんじけん)」1
「合(ごう)コンじゃなかったの?」アンは綾佳(あやか)をつかまえて、がっかりしたようにささやいた。
「違(ちが)うわよ。今日(きょう)はおじいちゃんのホームパーティー」綾佳(あやか)はクスッと笑(わら)って、「アンが来(き)てくれてよかった。これでパーティーも退屈(たいくつ)しなくてすむわ」
「えーっ、せっかく気合(きあ)い入(い)れて来(き)たのに」
「それより、あなたが連(つ)れて来(き)たお友達(ともだち)、変(か)わってるわね」綾佳(あやか)は部屋(へや)の隅(すみ)をうろうろしている女(おんな)の子(こ)を指(ゆび)さして、「さっきからずっと、部屋(へや)の中(なか)を見(み)てまわってるわよ」
「ああ」アンは微笑(ほほえ)んで、「ユリよ。大学(だいがく)で知(し)り合(あ)ったの。今(いま)ではいちばんのダチね」
「へえ、珍(めずら)しい。あなたがあんな大人(おとな)しそうな子(こ)を友達(ともだち)にするなんて」
「あいつは特別(とくべつ)なんだよ」
アンと綾佳(あやか)は高校(こうこう)の同級生(どうきゅうせい)。今日(きょう)、久(ひさ)し振(ぶ)りに会(あ)ったので、その頃(ころ)の話(はなし)に夢中(むちゅう)になった。ふと、アンは袖(そで)が引(ひ)っぱられているのに気(き)がついた。振(ふ)り向(む)くと、ユリが隣(となり)に来(き)ていた。
「あの…」ユリは伏(ふ)し目(め)がちに、とても小(ちい)さな声(こえ)で言(い)った。「ちょっと来(き)て」
ユリはアンの腕(うで)を引(ひ)っぱって歩(ある)き出(だ)した。綾佳(あやか)も二人(ふたり)の後(あと)をついて行(い)く。ユリは美術品(びじゅつひん)が並(なら)べられている小部屋(こべや)に入(はい)ると、小(ちい)さな絵(え)の前(まえ)で立(た)ち止(ど)まった。
「どうしたのよ。ユリ?」アンはユリの顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)むようにして言(い)った。
「これね」ユリは緊張(きんちょう)で声(こえ)を震(ふる)わせながら、「この絵(え)、本物(ほんもの)じゃない。どの部屋(へや)にも立派(りっぱ)な美術品(びじゅつひん)が置(お)いてあるわ。きっと、ここの人(ひと)は目利(めき)きのはずよ。こんな絵(え)は、飾(かざ)らない」
アンは驚(おどろ)いて、絵(え)をまじまじと眺(なが)めて言(い)った。「おまえ、絵(え)のことがわかるのか?」
――屋敷(やしき)の前(まえ)にはパトカーが並(なら)び、警官(けいかん)たちが出入口(でいりぐち)をかためた。パーティーに来(き)ていた客(きゃく)たちは足止(あしど)めされ、一人(ひとり)ずつ取(と)り調(しら)べを受(う)けていた。
「ほんとに本物(ほんもの)が掛(か)けてあったのか?」大熊(おおくま)警部(けいぶ)は贋作(がんさく)の前(まえ)で顎(あご)をなでた。
「ええ、間違(まちが)いないそうです」隣(となり)にいた若(わか)い刑事(けいじ)が答(こた)えた。
「じゃあ、この絵(え)は」警部(けいぶ)は顎(あご)をしゃくって、「証拠物件(しょうこぶっけん)として運(はこ)んどけ」
警部(けいぶ)はそう言(い)うと、部屋(へや)を出(で)ようと出口(でぐち)の方(ほう)へ振(ふ)り返(かえ)って驚(おどろ)いた。すぐ後(うし)ろに、ユリが立(た)っていたのだ。警部(けいぶ)は危(あや)うくユリとぶつかるところだった。
「山科(やましな)!」警部(けいぶ)は顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にして若(わか)い刑事(けいじ)に怒鳴(どな)った。「何(なん)でここに容疑者(ようぎしゃ)がいるんだ」
「すいません」若(わか)い刑事(けいじ)はすぐに飛(と)んできてユリに言(い)った。「ここへは入(はい)らないで…」
山科(やましな)はユリの顔(かお)を見(み)て、思(おも)わず言葉(ことば)につまった。「さ、小百合(さゆり)さん。何(なん)でここに…」
「あっ、タモツさん…」ユリも驚(おどろ)いたようで、顔(かお)を赤(あか)らめて目(め)を伏(ふ)せた。
「何(なに)やってんだ」警部(けいぶ)は後(うし)ろから山科(やましな)の頭(あたま)を叩(たた)き、「さっさと連(つ)れてけ」
「でも…」山科(やましな)は警部(けいぶ)を部屋(へや)の隅(すみ)まで連(つ)れて行(い)き声(こえ)をひそめて、「あの子(こ)…いや、あの方(かた)は、副総監(ふくそうかん)のお嬢(じょう)さんで…」
「フクソウカン? エッ、副総監(ふくそうかん)って!」警部(けいぶ)は思(おも)わず口(くち)を押(お)さえた。だが、声(こえ)をひそめて命令(めいれい)した。「ばか野郎(やろう)。いくら副総監(ふくそうかん)のお嬢(じょう)さんだってな、ダメなもんはダメなんだ」
山科(やましな)がユリを外(そと)へ連(つ)れ出(だ)そうとしたとき、アンが部屋(へや)に飛(と)び込(こ)んで来(き)て言(い)った。
「おい、何(なに)すんだよ」アンはユリをかばうように自分(じぶん)の方(ほう)に引(ひ)き寄(よ)せた。
<つぶやき>女子大生(じょしだいせい)のアンとユリ。二人(ふたり)はどうなるんでしょうか。そして事件(じけん)の行方(ゆくえ)は?
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T:002「絵画(かいが)盗難事件(とうなんじけん)」2
「大丈夫(だいじょうぶ)か?」アンはユリのことを気(き)づかって訊(き)いた。「どうしたんだ。何(なに)かされたのか」
「いえ、私(わたし)がいけなかったの。私(わたし)が…」ユリは消(き)え入(い)りそうな声(こえ)で答(こた)えた。
「おい、山科(やましな)」大熊(おおくま)警部(けいぶ)は若(わか)い刑事(けいじ)を睨(にら)みつけて言(い)った。「早(はや)くつまみ出(だ)せ!」
山科(やましな)は警部(けいぶ)に従(したが)うしかなかった。「はい」と返事(へんじ)をすると二人(ふたり)に近(ちか)づいて行(い)った。
「やるのか」アンは今(いま)にも若(わか)い刑事(けいじ)に飛(と)びかかろうとしていた。
それを止(と)めたのはユリだった。アンの腕(うで)にしがみついて必死(ひっし)に叫(さけ)んだ。「やめて。ダメ!」
ユリの叫(さけ)び声(ごえ)に、アンは驚(おどろ)いて立(た)ち止(ど)まった。彼女(かのじょ)がこんな大声(おおごえ)を出(だ)すなんて、思(おも)ってもみなかったのだ。ユリ自身(じしん)も自分(じぶん)の声(こえ)に驚(おどろ)いて、手(て)を口(くち)に当(あ)てて頬(ほお)を赤(あか)らめた。
「お前(まえ)ら何(なん)なんだ」警部(けいぶ)はあきれて言(い)った。「こっちはガキの相手(あいて)をしてる暇(ひま)はないんだ」
「なに言(い)ってんだ。あたしたちが見(み)つけてやったんだろ」アンも黙(だま)ってはいなかった。
「やめて」ユリはアンの袖(そで)を引(ひ)っぱって言(い)った。「お願(ねが)いだから…」
「わかったよ」アンはまだ何(なに)か言(い)いたげだったが、しかたなく引(ひ)き下(さ)がった。
「あの…、私(わたし)…、確(たし)かめてみたんです」ユリはおどおどしながら言(い)った。
「この部屋(へや)は、毎朝(まいあさ)、ここのご主人(しゅじん)がお掃除(そうじ)してるんですって。今朝(けさ)も、お掃除(そうじ)をしてて。その時(とき)は、間違(まちが)いなく、絵(え)は、本物(ほんもの)だったそうです」
「そんなことはな、とっくに調(しら)べてるんだよ」大熊(おおくま)警部(けいぶ)は見下(みくだ)すように言(い)った。
「そして…」ユリは途中(とちゅう)で言葉(ことば)を切(き)った。緊張(きんちょう)のために、息(いき)が荒(あら)くなってしまったのだ。
「大丈夫(だいじょうぶ)かよ」アンは心配(しんぱい)そうにユリに寄(よ)りそった。
ユリはアンの顔(かお)を見(み)て少(すこ)し落(お)ち着(つ)いたのか、先(さき)を続(つづ)けた。「私(わたし)がにせ物(もの)を見(み)つけたのが、お昼過(ひるす)ぎの一時(いちじ)ぐらいでした。だから、その間(あいだ)に、絵(え)がすり替(か)えられたことになります」
「そっか」アンは感心(かんしん)したように、「じゃあ、その時間(じかん)にこの屋敷(やしき)にいたやつが怪(あや)しいんだ」
「おい、山科(やましな)」警部(けいぶ)はうんざりしたように言(い)った。「このお嬢(じょう)さんたちに、説明(せつめい)してやれ」
「僕(ぼく)がですか?」山科(やましな)は聞(き)き返(かえ)したが、警部(けいぶ)は受(う)けつけなかった。
「わかりました」山科(やましな)はそう言(い)うと二人(ふたり)の前(まえ)に出(で)て、「だからね。今(いま)、ここにいた人(ひと)たちを、一人(ひとり)ずつ事情(じじょう)聴取(ちょうしゅ)してるんだよ。それと、所持品(しょじひん)の検査(けんさ)もね」
「そうですよね」ユリはひとりごとのようにつぶやいた。そして、何(なに)か考(かんが)えごとでもするように、飾(かざ)られている美術品(びじゅつひん)に目(め)をうつした。
その時(とき)、中年(ちゅうねん)の刑事(けいじ)が入(はい)って来(き)て警部(けいぶ)に耳打(みみう)ちをした。警部(けいぶ)はその報告(ほうこく)を聞(き)いて唸(うな)った。
「なんてこった。こりゃ、やっかいだぞ」
「どうしたんですか?」山科(やましな)が駆(か)け寄(よ)って訊(き)いた。
「何(なに)も出(で)なかったとさ。目撃者(もくげきしゃ)もなしだ」警部(けいぶ)は頭(あたま)をかいた。
「じゃあ、絵(え)はどこにいったんだよ」アンが警部(けいぶ)に尋(たず)ねた。
「知(し)るかよ」警部(けいぶ)は不機嫌(ふきげん)に答(こた)えると、入(はい)って来(き)た刑事(けいじ)に向(む)かって言(い)った。
「客(きゃく)たちを帰(かえ)そう。これ以上(いじょう)引(ひ)き止(と)めるわけにはいかんだろ」
ユリは周(まわ)りのことなど気(き)にもとめず、無意識(むいしき)に傾(かたむ)いている絵(え)をもとに戻(もど)した。
<つぶやき>男勝(おとこまさ)りのアンと人見知(ひとみし)りのユリ。二人(ふたり)は絵(え)を見(み)つけられるのでしょうか?
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T:003「絵画盗難事件」3
次の日の朝、アンとユリは事件のあった屋敷へ向かっていた。
ユリは気になる事があると、他の事が見えなくなってしまうところがある。今日だって、大学の講義があるのにそれをさぼってしまったのだ。ユリは真面目に大学に通っているから大丈夫だが、アンは単位がギリギリなので気が気じゃなかった。でも、ユリの性格を知っているので、一人にするわけにはいかなかった。彼女は世間知らずで気が弱いくせに、危険なところへどんどん入り込んでしまうことがある。
二人が屋敷に到着すると、綾佳が出迎えてくれた。でも、何となく様子がおかしい。昨日の明るくて快活な感じがまるでないのだ。何か心配ごとでもあるような、そんな顔をしていた。
「あら、どうしたの?」二人の顔を見た綾佳は、驚いたように言った。
「わるい。ちょっといいかな」アンが申し訳なさそうに、「ユリがどうしてもって言うから」
「ごめん。今ちょっと、お客が来てるの。私の部屋で待っててくれるかな」
綾佳はそう言うと、二人を二階の自室に案内した。
玄関のホールを抜け、アンティーク風の木彫(もくちよう)の手摺りがついた階段を踊り場まで来たとき、階下から大きな声がした。
「こんなところで何をしてる!」
その声に驚いて、綾佳とアンは後ろを振り返った。アンははっとした。そこにいるはずのユリの姿が消えていたのだ。アンはしまったという顔をして、階段を駆けおりた。
声がした場所は、例のコレクションが並べられた小部屋だった。アンたちが部屋に飛びこんだとき、小柄な男がユリにつかみかかろうとしていた。
「やめろ!」アンが叫んだ。
男はその声にびくっとしたが、入ってきた二人を見て平静さをよそおった。
「いや、私は…」男は薄くなった頭をなでながら、「忍び込んでいた女を捕まえようと」
「彼女は私の友だちです」綾佳は鋭い声で言った。「あなたこそ、勝手に入らないで」
綾佳の、この男に対する態度は普通ではなかった。そこには、憎しみが込められているようにさえ思えた。男は平然として、薄笑いを浮かべて言った。
「お嬢さん、私は自分の絵を見に来ただけです」
「あの絵は、あなたには渡さないわ」綾佳は男に詰め寄って、「渡すもんですか!」
「困りましたね」男は綾佳の顔を覗き込み、「もう、売買契約は済んでるんですよ。今日は、絵を引き取りに来たんですがね」
「あの…、ちょっといいですか?」今まで黙って二人のやりとりを見ていたユリが、男に声をかけた。「あなた、昨日もいましたよね。パーティーのとき」
「それがどうしたんだ」男は刺すような視線をユリに向けた。
ユリはそんなこと気にもとめず、「今日は、ステッキを持ってないんですね。足が悪かったんじゃないんですか?」
<つぶやき>ちょっとした事が気になることってありますよね。私は大雑把ですけど…。
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T:004「絵画盗難事件」4
男はユリの言うことなど無視して、壁に掛けてある絵の方に歩み寄って言った。
「じゃあ、これはもらっていくよ」不敵な笑みを浮かべ、男は絵に手を伸ばす。
「触らないで!」綾佳は男に駆け寄り、その腕に飛びついた。
突然のことで、アンもユリも立ち尽くしていた。アンがやっと加勢に入ろうとしたとき、背後から、「何やってんだ」とすごみのある声が響いた。
そこに立っていたのは大熊警部。その後ろには、山科刑事がひかえていた。
「勝手なまねをしてもらっちゃ困るな」警部は男を睨みつけた。
男がひるんだ隙を見て、綾佳は絵をはずして両腕でしっかりと抱きしめた。それを見た男は舌打ちをして、いまいましそうに綾佳を睨みつけて帰って行った。
「すいません。勝手に入って来て」男を見送り山科が言った。「何度も声をかけたんですが」
「またお前たちか」大熊警部はアンたちを見て、「俺たちの邪魔だけはしないでくれよ」
警部は皮肉たっぷりに言うと、座り込んで震えている綾佳に手を差し出した。
「お嬢さん、大丈夫か?」警部はその顔に似合わず、優しく綾佳を立たせて訊いた。
「さっきの男は何者です? どうして、この絵を」
綾佳は固く口を閉ざして何も言わなかった。そんな彼女のようすを見て、警部もそれ以上詮索することはなかった。
応接間に通された刑事たちは、綾佳が淹れてくれた紅茶を口にした。警部は紅茶を飲み干すと、はーっと息を吐いた。警部のほころんだ顔つきを見て、アンは思わず吹き出した。
「なんだ」警部はアンを睨みつけて、「何でお前たちがここにいるんだ」
「いいだろう」アンは口をとがらせて、「綾佳に何かしたら、ただじゃおかないからな」
「だめだよ。そんなこと言っちゃ」隣にいたユリが小さな声で注意した。
「まあ、いい」警部は不機嫌そうにつぶやくと、山科に目配せした。
山科は緊張気味に、「こちらのご主人にお訊きしたいことがありまして、伺ったんですが」
「すいません。今、お爺さまは出かけておりまして…」伏し目がちに綾佳が答えた。
「そうですか…」
山科は判断を仰ぐために警部の方を見た。だが、警部はお茶菓子に出された手作りのクッキーを、美味しそうにほおばっていた。無視された山科はため息をついた。警部は自分の娘と同じ年頃の女性には、どうも手ぬるくなってしまうのだ。もちろん、例外はあるが。
「あの、ご存知でしたか?」山科は本題に入った。「盗まれた絵には、かなり高額な保険が掛けられていたことを」
「はい。ここにある高価なものには、保険を掛けてあると聞いたことがあります」
「で、あなたのお爺様の会社の経営状態が、あまりよくないそうですね」
「何が言いたいんですか?」綾佳は困惑した顔で訊いた。
「保険金詐欺を疑っているの?」突然、ユリが横から口を挟んだ。
「そんな…」綾佳は立ち上がり山科を睨みつけて、「おじいちゃんは、そんなことしないわ」
<つぶやき>恐い顔をしていても、実は優しい心の持ち主かも。父親は娘には弱いのです。
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T:005「絵画盗難事件」5
「まあ、お座り下さい」大熊警部は穏やかな口調で言った。だが、彼の目は刑事の鋭い目つきに変わっていた。「われわれもあらゆる可能性を考えていまして。保険が掛けられている以上、調べないわけにはいかないんですよ」
「それで、ですね」山科刑事が先を続けた。「お爺様が今どこにいるのか、ご存じですか? 会社の方には来ていないということなのですが」
「さあ…」綾佳は首を傾げながら座り、「朝早くに出かけたみたいで、私にはわかりません」
「そうですか」山科はちょっと困った顔をして言った。
さっきからずっと何かを考えていたユリが、一人言のようにささやいた。
「どうして、あの絵を欲しがっているんでしょう」
「えっ、どうしたんだ?」隣に座っていたアンが訊き返した。
「あの、さっきの人ね。どうして、あの絵を欲しがるのかなって思って。だって、有名な画家の絵じゃないし、私にはその理由がわからないの」
絵の話になると、綾佳の表情が曇った。それを見逃さなかった警部は、さっきよりも優しく尋ねた。「もし、お差し支えなければ、話していただけませんか?」
綾佳は一瞬迷ったが、意を決して頷いた。
「あれは母が描いたんです。あの絵に描かれているのは、母との思い出の場所。子供の頃、よく遊びに行った場所なんです。その母も二年前に亡くなって…」
母親のことを思い出したのか、綾佳は言葉をつまらせた。警部は彼女が落ち着くのを待って、口を挟んだ。「なぜ、そんな大切な絵を手放すことにしたんです?」
「違います」綾佳は首を振り、「最初はほかの絵だったんです。それなのに、母の絵の方がいいって、急に言いだして」
「なるほど」警部は頷いた。
「あの、最初の絵って、何だったんですか?」
ユリが横から口を出したので、警部は咳ばらいをして睨みつけた。ユリは小さくなって、アンの方に身を寄せた。
「あの絵です。昨日、盗まれた」
綾佳の言葉に、刑事たちは顔を見合わせた。
その時、玄関の方で音がした。誰かが入って来たようだ。綾佳は、「おじいちゃん…」とつぶやいて部屋を飛び出していった。
この家の主人は初老の男だった。髪は白く、目には優しさと教養の高さがうかがえた。とても犯罪を犯すような人間には見えない。主人は刑事たちの質問に答えて、
「たしかに会社の経営はよくありません。ですが、保険金をだまし取ろうなんて。そんなこと考えたこともありません」
老人はきっぱりと言った。そして、さっきの男の話になると驚いたように、「私があの絵を手放すわけがない。私の大切な…、娘の絵なんですから」
<つぶやき>他人には価値がなくても、その人にとってはとても大切なものってあるよね。
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T:006「絵画盗難事件」6
大熊警部は男のことについて詳しく訊いた。
主人の話では、その男は一ヵ月ほど前に突然現れて、山本と名乗ったそうだ。職業は画商で、この屋敷のコレクションのことをどこかで聞いてやって来たのだ。その後も何度か訪ねて来て、数日前に絵を売ってほしいと持ちかけてきた。
警部は主人が話し終えると、「うーん」と唸った。何かひっかかるものがあるようだ。
「あのーォ」ユリが恐る恐る警部に声をかけた。「あの人、昨日ここに来てましたよ」
「なに!」警部は大声で叫んだ。ユリは思わずアンの後ろに隠れた。
「そんなはずないよ」山科刑事が言った。「昨日の客の中に山本なんて…」
「あの人はお客なんかじゃありません」綾佳が答えた。「パーティが始まる頃には帰ったはずです」
警部は顎をさすって主人に訊いた。「その山本という男は、何をしに来たのですか?」
「いつものように、絵を見せてほしいと。今日は忙しいからと断ったのですが、どうしてもと言われるものですから…」
「それで、コレクションの部屋に入ったんですね」
主人は頷いた。そこで、すかさず身を乗り出してユリが話に割って入った。
「あの、その部屋で、その人、ひとりになった時ってありました?」
主人は戸惑ったように警部の方を見た。警部は微妙に嫌な顔をしたが、自分も訊きたいことだったので何も言わず促した。
「はい。ちょうどお客が来られる時間でしたので…。ですが、ほんの数分だと思います」
「その山本って人は、いつもステッキを持ってましたか?」ユリはうれしそうに訊いた。
「ええ。足が悪いみたいでしたが…」
主人は首を傾げて答えた。なぜそんな質問をするのか理解できないようだ。それは警部も同様だった。ひとりでニヤニヤしている小娘が、気に食わないという顔をしていた。
「あの、もう一度あの部屋を見せてもらえませんか?」ユリは主人にお願いした。
部屋は事件が起こった時のままにされていた。贋作の絵だけが外されて、ぽっかりと穴が空いたようになっている。ユリは部屋の中を見まわした。すべての作品が整然と並べられ、ある種の緊張感を漂わせている。彼女はあの母親が描いたという絵の前に歩み寄った。そして、何かを確認するように絵の額縁にふれた。
「私、わかっちゃいました」
ユリは嬉しそうに振り返って言った。「たぶん、ここにあります」
みんなはきょとんとした顔でユリを見た。アンが心配そうに駆け寄ってきてささやいた。
「ねえ、そんなこと言っちゃって大丈夫なの? あのおじさん、すごい顔で睨んでるよ」
たしかに、警部の我慢も限界にきていた。横で山科がおろおろしている。でも、ユリはそんなことおかまいなしに綾佳に声をかけた。
「ねえ、この絵、外してもいいですか?」
<つぶやき>いよいよ事件は核心へと向かいます。はたして絵は見つかるのでしょうか?
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T:007「絵画盗難事件」7
翌日、屋敷の応接間に山本が座っていた。テーブルの上にはあの絵が置いてある。
「しかし、驚いたね。絵を売る気になるなんて」
山本はにやつきながら、お金の入った封筒を綾佳の前に差し出した。綾佳は落ち着いた様子で、封筒の中のお金を確かめて言った。「残念ですけど、これではお売りできませんわ」
「なに言ってるんだ。約束した金は…」
「他に買い取りたいってうい方がいまして。この十倍の額を提示されましたの」
「十倍? 何を馬鹿な…。どこのどいつだ。そんなことを言ったのは」
この時、応接間のドアが開いて、いかにもセレブといった女性が入って来た。大きな帽子と奇麗なドレスで着飾ってはいるが、何ともぎこちない動作である。
「あたくしですわ。あの…、あたし、この絵が気に入ってしまって」
「どこのお嬢さんか知らないが、この絵にそんな価値はない。素人は引っ込んでな」
山本は女を睨みつけた。女は少したじろいだが前に進み出て、「じゃあ、どうしてあなたは、そんな価値のない絵を欲しがるんですか? 本当は、この中にある別の絵が…」
男は突然立ち上がった。その顔には殺気がみなぎっている。女は驚いた拍子にバランスを崩し、尻餅をついてしまった。大きな帽子が彼女の頭から滑り落ちる。
「お前は…」女の顔を見て男は言った。「昨日の、生意気な女か」
その女は、ユリだった。男は座り込んでいるユリの胸ぐらをつかんで言った。
「クソッ、バレちゃしょうがねえ。こんなに早く贋作が見破られるとは思わなかったよ。おかげで、手荒なまねをしなくちゃいけなくなった」
男はポケットからナイフを取り出して、刃先をユリの目の前に突き出した。ユリは思わず目をつむった。男は綾佳に向かって、「さあ、絵を渡してもらおうか」
綾佳は絵を持つと、ゆっくりと男の方に近づいた。そして、男の手がユリから離れると、綾佳は男に向かって絵を投げつけた。それを合図に、刑事たちが部屋になだれ込んで来る。まっ先に山科が男に飛びかかった。しかし、逆に殴り飛ばされてしまう。男は必死にナイフを振りまわす。動けなくなっているユリが目に入ると、男はやけくそになって彼女に切りかかった。次の瞬間、男の身体は宙を飛んでいた。
「助かったよ。おかげで怪我人を出さなくて済んだ」大熊警部は無骨につぶやいた。
「いや、あたしはユリを助けたかっただけで」アンが照れくさそうに答えた。
「誰に習ったか知らんが、警官にならないか? お前だったら、いい刑事になれるかもな」
警部はそう言うと、答えも聞かずに帰って行った。ユリの介抱をしていた山科が、その後からばつが悪そうについて行く。二人を見送って、アンはユリの方へ走り寄った。
「なあ、あの若い刑事と知り合いか? どういう関係なんだよ」
「関係って?」ユリは顔を赤らめて、「そんなんじゃないわよ。ただの、幼なじみ」
「へーぇ、ユリって、ああいうへなちょこが好きなんだ」
アンは嬉しそうにユリの頬を突っついた。ユリの顔はますます真っ赤になった。
<つぶやき>事件は無事に解決です。この後も、この二人の活躍は続くのでしょうか?
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