読切物語

*** 作品リスト ***
  No、  公開日   作品名(本文表示へ)
0002 2009/04/17 001「バー・マイロード」
0005 2009/04/25 002「ありがとう」
0008 2009/05/05 003「記念写真」
0020 2009/06/02 004「お嬢様教育コース」
0023 2009/06/07 005「夢の中の君」
0026 2009/06/12 006「幸せの一割」
0029 2009/06/17 007「最強の彼女」
0032 2009/06/22 008「女の切り札」
0035 2009/06/27 009「運命の赤い糸」
0038 2009/07/02 010「仕事と恋」
0041 2009/07/07 011「同化」
0044 2009/07/15 012「ラブレター」
0047 2009/08/03 013「最後のラブレター」
0050 2009/08/09 014「怪盗ブラック」
0053 2009/08/17 015「彼女のスイッチ」
0056 2009/08/22 016「疑似家族」
0059 2009/09/02 017「タイミング」
0062 2009/09/21 018「携帯つながり」
0065 2009/10/13 019「飛び立つ男」
0068 2009/12/15 020「子供カタログ」
0071 2010/01/11 021「ロスト・ワールド」
0074 2010/02/02 022「マイ・ブラックホール」
0077 2010/02/19 023「女子たちの戦場」
0080 2010/03/03 024「太陽焼却炉計画」

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T:024「太陽焼却炉計画」
 大手の産業廃棄物処理会社の大会議室。今、社運をかけた一大プロジェクトが始まろうとしていた。社長のひと声で始まったこととはいえ、研究員をはじめ、重役たちも成功すると思っているものは一人もいなかった。
「で、あるからして」社長の野太い声が広い会議室に響き渡った。「ロケットを太陽に向けて打ち上げることにより、より多くの廃棄物を処理することが可能になる」
「しかし、社長」研究員の一人が恐る恐る手を上げた。「そんなことをしたら、太陽に悪影響を与えることになるのでは…」
「何をバカな」社長は研究員を睨みつけた。「太陽は地球の130万倍もあるんだぞ。温度は6千度だ。核爆弾の100発や200発打ち込んだって、びくともしやせん」
 社長の一喝で会議室は静まりかえった。この会社で社長に口答えしたらどうなるか、知らない者は一人もいなかった。社長の目配せ一つで、研究員は会議室からつまみ出された。
「それに」社長は威圧的に言った。「太陽に廃棄物を投棄するなという法律はどこにもない」
 誰一人、口を開く者はいなかった。皆、自分の身を守ることしか考えていないようだ。
「ねえ、太陽さん、お腹こわさないかな?」突然、どこからか子供の声が響いた。
 声のした方に皆の視線が集まった。そこには小さな女の子が座っていた。隣にいた父親らしき男は、あわてて子供の口を押さえた。
「静かにしてなきゃいけないよ」と男は女の子の耳元にささやいた。
「だって」女の子は父親の手をつかみ、「そんなに食べたら、お腹いっぱいになって…」
「だから、それは」男は冷や汗をかきながら言った。「大丈夫なんだよ。心配ない」
 ツカツカと靴音が会議室に響いた。男が顔を上げると、目をつり上げた社長が間近に迫っていた。社長は男の前に仁王立ちすると、「君はどこの者だ。なぜ、子供を連れて来てる」
「わ、私は庶務課のもので」男は声を震わせて言った。「これは、娘でして…」
「ねえ、おじちゃん」女の子は不思議そうな顔をして言った。「どうして、そんなに恐い顔してるの。そんな恐い顔してると、お友達が逃げ出しちゃうよ」
 女の子の無邪気な笑顔に、社長は拍子抜けしてしまった。
「わしは、恐い顔なんかしとらん」社長は女の子に向かって言った。「わしはな、この地球にある無駄なものを処分してやってるんだ」
 女の子は社長の顔をじっと見つめた。彼の言うことをなんとか理解しようとしていた。
「だから」社長は面倒臭そうに、「いらなくなったものを、太陽に運んでだ…」
「いらなくなったら、ちゃんとリサイクルに出さないといけないんだよ」女の子はさとすように言った。「いつも、ママが言ってたわ。もったいないって」
「うん…」社長は言葉につまった。「そうか、それはそうだが…」
「これ、あげる」女の子はポケットから小さな手作りの御守り袋を取り出した。「ママからもらったの。これを持ってると、お友達がたくさんできるんだって」
 女の子は社長の掌の上にそっとそれを置いた。
「ママはお星さまになっちゃったけど、いつも私のこと空の上から見てるのよ」
<つぶやき>子供の無邪気な笑顔に勝るものはありません。無垢な気持ちを忘れないで。
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T:023「女子たちの戦場」
 圭子の心は乾いていた。乾き切っていた。もう一年以上も彼がいないのだ。彼女はすごい美人というわけでもないが、そこそこ男好きのする顔だちをしていた。なのに、なぜか男がくどいてこないのだ。
 そんな彼女にもやっとチャンスがめぐってきた。本社から転勤してきた男性社員。スポーツマンらしく、たくましい肉体とさわやかな笑顔は、全ての女子社員をとりこにした。色めき立つ女子たちを見て、圭子は先手必勝とばかり行動を開始した。
 誰よりも早く彼に声をかけ、まだこの土地に不慣れな彼にアドバイスをしまくったのだ。その甲斐あってか、翌日には彼のほうから気さくに話しかけて来るようになった。同僚の女子社員からはやっかみもあったが、圭子はまったく気にしなかった。
 半月ほどたった頃、彼のほうから誘いの声がかかった。
「ほんとですか?」圭子は飛び上がりたいのをぐっとこらえた。
「吉野さんには色々お世話になりましたし、皆さんとゆっくりお話とかしたいなと…」
「えっ、皆さん?」
「はい。同じ職場なのに、まだ皆さんのことよく知らないんで…」
「ああ、そういうこと…」圭子は周りをうかがって、「で、もう声をかけたのかな?」
「それは、これからです。まず、吉野さんに…」
「じゃあ、それ、私から伝えとくわ。まかせて。幹事、得意なのよ」
 圭子は彼に微笑みかけた。そして、半ば強引に飲み会の幹事に就任した。
 終業時間になると圭子は彼をつかまえて、そそくさと職場をあとにした。圭子の不審な行動に、同僚の女子たちは疑いの目を向けた。
「あの、他の方たちは…」洒落た雰囲気のお店に落ち着いた彼は、圭子に訊いた。
「あっ、ごめんなさい。みんな、なんか都合が悪いみたいで。ほんと、ごめんなさいね」
「そうなんですか…。じゃあ、他の日にすれば良かったですね」
「まあ、良いじゃない。今日は二人だけってことで…」圭子は、これでもっと親密になれるとほくそ笑んだ。そして、アルコールも入り二人の距離はさらに近くなった。
 しかし、圭子の思惑もここまでだった。数人の女性客が二人のテーブルを取り囲んだ。
「吉野さん、やっぱりここにいたのね」同僚の芳恵が声をかけた。
「なによ」圭子は一瞬ひるんだが、「あーら、残業じゃなかったの」
「だって、山本さんの歓迎会でしょ」芳恵は彼の隣に座り、「頑張っちゃったわよ」
「そーぉなんだー」圭子は芳恵を睨みつけた。
 二人は笑顔で会話をしているが、目は真剣そのもの。いや、かなり血走っていた。二人が言い合っている間に、他の女子たちがこっそりと彼を別のテーブルに連れ出した。
 翌日。圭子は、彼が後輩の女子社員と楽しそうに話をしているのを目撃した。彼女の心に不安がよぎった。しかし、「あんな子に負けるはずないわ」とすぐに打ち消した。
 数週間後。彼と後輩の女子が付き合っていると知らされたとき、圭子は動揺を隠すことができなかった。でも、彼の相手が芳恵でなかったことが、せめてもの救いになった。
<つぶやき>職場では、いろんな大人のバトルが繰り広げられているのかもしれません。
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T:022「マイ・ブラックホール」
 薄暗い部屋に、キャンドルのほのかな明かりが揺らめいていた。テーブルの上には、真っ黒に塗りつぶされたブリキ缶。キャンドルの光を妖しく反射させていた。
 育代はその缶を睨みつけていた。長い沈黙のあと、彼女は意を決したように缶のフタに手をかけた。そして、一瞬の戸惑い。このフタを開けるには、よほどの覚悟がいるようだ。
 彼女は持てる勇気をふりしぼり、ブリキ缶のフタを静かに開けた。そして、自分の身に付けているネックレスをはずす。彼女はそれをいとおしそうに見つめたのち、ハンカチにくるんで箱の中に納めた。育代はここで大きく息をつき、缶のフタをもとに戻した。
 これらの一連の動作を、育代はまるで何かの儀式のように、決められた手順でもあるかのように執り行った。すべてのことを終えると、彼女の顔に安堵の表情がうかんだ。
 次の瞬間、部屋の明かりがつき、育代は現実の世界に引き戻された。
「もういいでしょ」安江はうんざりしたような顔で言った。「あたしも暇じゃないし、そうそうあんたに付き合ってられないんだから」
「ごめん。でも、私たち親友でしょ」育代は真剣な目をして言った。「これが、最後だから」
「はいはい」安江はなかばあきらめ顔で、「その言葉、何回聞いたっけ」
「そうね、たしか…」育代は指を折って、「三回目…じゃない」
「六回よ。男と別れるたびに呼び出されて…。あたし、何やってるんだろ」
 そう言いながらも、安江は育代のことが放っておけないのだ。この女を一人にしたら、きっとだめになってしまう。安江はそう感じていた。誰かがそばにいてあげないと。
「で、今度は何で別れたの?」と安江は訊いてみた。「<君とはもうやっていけない>とか言われたりして」
「それは過去の話よ。もう、ブラックホールに葬ってやったんだから」
 育代はそう言うと、ブリキ缶を押し入れの奥へ押し込んだ。
 彼女はこの黒いブリキ缶のことを、ブラックホールと名付けていた。今まで付き合った何人もの男の思い出が、この缶の中に封じ込められている。
「ねーぇ」育代は笑みをうかべて、安江に近づきながら言った。「また、誰か紹介してよ」
「なに言ってるのよ。前の彼、紹介したの私でしょ」
「ほら、まだいるでしょ。安江の人脈なら、きっと、もっといい男…」
「いないわよ。あんたさ、理想が高すぎるのよ。もっと、相手に合わせて…」
「合わせてるわよ。ただ、私はもっといい男にしてあげようと思って」
「それがいけないのよ。男の自尊心を傷つけてる。だから、すぐに捨てられるのよ」
「捨てられる…。私が!」育代は顔を紅潮させて叫んだ。「私が捨てたのよ。今までの男、全部。だって…、だって、私は何も悪くないもん。なんで、なんで…」
 安江はしまったと思った。だが、この機会にはっきりと言ってやらないと。それができるのは、自分だけなんだから。「ねえ、あんたは世話をやきすぎるのよ。もう少し…」
「それが私のいいところよ。ねえ、私みたいに世話好きな女性が好きな人、いるよね」
 育代は天真爛漫な目で微笑みかけた。安江の心配事はまだまだ続きそうである。
<つぶやき>きっと、そういう男性もいるのかも。でも、度が過ぎるのはいけませんよ。
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T:021「ロスト・ワールド」
 20XX年。人類は地球のほとんどの場所に足を踏み入れていた。だが、アマゾン奥地の一部の地域だけは別だった。そこは深い密林や湿地に守られた、いまだ人の侵入をこばみ続けている地球最後の秘境。探検家たちのあこがれの聖地になっていた。
 何人もの命知らずの探検家がその場所に挑んだが、いずれも失敗に終わっていた。深い森に足を踏み入れ、命を落とした者も数知れず。ちゃんとした地図もなく、自分たちの位置を見誤れば、生還することは難しい。こんな科学万能の時代に、不思議に思うかもしれない。地球の周りにはたくさんの衛星が飛び交い、詳細な写真を撮ることもできるはずだ。なのに地図すら作れないなんて。
 その原因は、この場所の特殊な環境によるものだ。ここはいつも厚い雲におおわれ、晴れることはほとんどなかった。それに、どういうわけか、この場所の地磁気が歪んでいるのだ。その影響もあるのか、衛星でえられるデータも信憑性はまったくない。
 その奇跡は突然起こった。分厚い雲がほんの短い時間だが、消え去ったのだ。その時、たまたま上空にいた観測衛星が写真を撮影することに成功した。このニュースは全世界を駆けめぐった。世界の名だたる探検家たちは色めき立った。
 写真には今まで謎だった地形がはっきり写されていた。森の様子や湿地の大きさ、川の存在も確認された。だが、いちばんみんなを驚かせたのは、密林の中央に断崖に囲まれた小高い丘があったことだ。その丘の中央には、どうにも不自然な緑の小山があった。
 さっそく探検隊が組織された。経験豊富な探検家と、有能な生物学者、地質学者たちが集められた。彼らの目的は、地磁気の綿密な調査と地形の測量、新種生物の発見。それに、あの不自然な緑の山が何なのかを調べることだ。
 探検隊はやっとの思いでジャングルを抜け、断崖までたどり着いた。そして、百メートルほどの断崖を登り切り、いよいよ未知の世界に踏み込んだ。そこは、倒木や立木にいたるまでいちめん苔でおおわれていて、今まで歩いてきたジャングルとはまったく違う様相を呈していた。彼らは驚きのあまり目を見張り、なにひとつ見逃すまいと身を引締めた。
「隊長! あれは何ですか?」しばらく歩いたところで隊員の一人が叫んだ。
 彼の指差すほうを見てみると、何かが倒木のあいだから頭を出していた。隊長はすぐに駆け寄り、驚きの声をあげた。
「何でこんなところにあるんだ!」隊長が手にしたのはペットボトルだった。
「こっちにも何かあります!」別の隊員が叫んだ。
 そこにあったのはスナック菓子の袋。次々と見つかる人の痕跡に、隊長をはじめ隊員たちは呆然と立ちつくした。
 何とか目的の小山にたどり着いたとき、みんなは言葉をなくした。驚きのあまりしゃがみ込む者や、憤りのあまり涙する隊員さえいた。そこにあったのは、ゴミの山。緑色のごみ袋が積み上げられて、山のようになっていたのだ。その時、どこからともなく飛行機の音がとどろき始めた。雲におおわれた空を見上げると、小型の輸送機か何かが旋回しているようだった。次の瞬間、緑色のごみ袋が次々と彼らの頭上に降ってきた。
<つぶやき>ゴミはちゃんと持ち帰りましょう。小さなことでも地球を救えるのです。
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T:020「子供カタログ」
「なあ、いいかな?」夫は妻のベッドに入り込みつぶやいた。「子供が欲しい。俺たちの」
「何よ、急に…」妻は戸惑った表情で夫を見つめた。夫はかまわず、妻の腰のあたりをまさぐり始めた。妻は飛び起きて、「やめてよ。いやよ、私」
「なんでだよ」夫は困惑した顔で起き上がり、「俺たち、夫婦だろ?」
「今はだめよ。仕事だってあるし。それに、子供を産んだら体型だって…」
「なんだよ、それ」夫は信じられないという表情で妻を見つめた。
「それより、もっと良い方法があるわ」妻はそう言うと、サイドテーブルの引き出しから一冊のカタログを取り出して、「今日、届いたの。これ、すごいのよ」
 夫はそれを手に取った。表紙には〈子供カタログ〉と書かれていて、中をパラパラと見てみると、子供ではなく成人の男女の写真が載せられていた。写真の横にはその人物の学歴や職歴、病歴、性格分析、好きな食べ物にいたるまで、あらゆる情報が書かれていた。
「その中から気に入った男女を選んで、子供を作ってもらうの」妻は嬉しそうに微笑んだ。
「えっ? そんなことできるわけないだろ」
「それが、できるのよ」妻は夫の腕に手をまわし、「それに、こっちの希望する年齢になるまで、その子供を育ててくれるのよ。たしか、最長で二十歳までだったかな」
「そんなばかな…」夫は信じられないと思いながらも、「お金、かかるだろ」
「それが、無料なの。なんでも、政府の機関が運営してるみたいよ。こっちが引き取るまでは、ちゃんとしつけとかしてくれて、一流の学校にも通わせてもらえるの」
「でも、なんかそれ、あやしくないか?」
「そんなことないわよ。ねえ、考えてみて。子育てに手がかからないわけだから、今の仕事つづけられるじゃない。それに、超エリートの子供を持つことができるのよ。それに、それに、養育費がかからないぶん、今よりもっといい暮らしができるわ。それでね、子供は女の子がいいなぁ。十八くらいで引き取って、その頃には、私は仕事をやめて…」
「えっ、仕事、辞めちゃうのか?」
「大丈夫よ。それまではバリバリ働くから。で、その子と姉妹みたいな母子になって…」
「なに夢みたいなこと言ってるんだよ。こんなの、でたらめにきまってるよ」
 夫はカタログを床に放り投げた。その時、突然、寝室のドアが開き、黒ずくめの男たちが入って来た。夫婦は一瞬、なにが起きたのかわからず凍りついた。
「あなたは選ばれました」男の一人が妻に言った。「我々と一緒に来て下さい」
「なんだよ」夫は我に返ると妻をかばいながら、「出てけ。出てかないと警察を…」
 男たちは夫の言うことなど気にもとめずに、妻に一枚の写真を手渡した。
「それが、あなたのお相手の男性です。彼と結ばれていただきます」
 妻はその写真の男性に見入っていた。夫よりもはるかに良い男であることは、誰が見ても明らかだった。妻は夫に微笑みかけ、「ちょっと、行ってくるわ。すぐ、戻るから」
 妻が去ったあと、男は呆然となった。床に放置されたカタログに目をやると、投げ捨てたとき偶然開いたページに、妻の幸せに満ちた写真が載せられていた。
<つぶやき>どんな時も、女は美しいものに憧れるのです。それが本能であるかのように。
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T:019「飛び立つ男」
 とある峠道。その道は、切り立った断崖の上を通っていた。そこからの眺めは素晴らしく、遠くの町まで見わたすことができた。断崖のふちに立ってみると、誰でも足がすくむほど高く感じられた。
 いつの頃からか、この崖に一人の男がやって来るようになった。彼は朝から晩まで、崖のふちに座っていた。そして、風が吹き始めると立ち上がり、両手を真横に広げて目をつむり、身体で風を受けて背筋を伸ばす。まるで飛び立とうとでもするように。
 そこに一人の女がやって来た。女は、男のしていることを不思議そうに眺めていたが、そっと男に近づいて、
「何をしているの?」と声をかけた。「あなた、昨日もここにいたわよね」
「僕は、待ってるんです」男は女のほうを振り向きもせずに答えた。
「誰かを待っているの?」女は恐る恐る崖に近づきながら言った。「でも、そんなところにいたら危ないわ。もし落ちたら、生きてなんかいられない」
 男は女の言っていることが耳に入らないのか、まったくやめようとはしなかった。女はあきらめて男に背を向けた。その時、今まで吹いていた風がやんだ。
「来てくれないのか…」と男はがっかりしたようにつぶやいた。
「あなた」と女は怒ったように言った。「もうやめなさい。命を粗末にしたらいけないわ」
「僕は待っているだけです」男はやっと女の方をふり返り言った。「僕の風をね」
「あなたの風?」女には、男の言っていることが理解できなかった。
「そうです。僕はずっと待っているんです。僕の風が吹いてくるのを」
「何を言っているの」と女は言った。「風は誰のものでもないわ。それに、どうやって自分の風を見分けるのよ。そんなことできっこないわ」
「そんなことありません。身体で感じるんです。あなたにだってできますよ」
「別に私は…。自分の風なんか欲しくないし、風がなんの役に立つのよ」
「もし自分の風を感じることができたら、飛び立つことができます」
 男はそれが当たり前のことのように、確信を持って言い切った。女はあきれてしまった。こんな馬鹿なことを考える人がいるなんて、信じられなかった。
「飛び立つ?」と女はあきれ顔でつぶやいた。「人は飛ぶことなんてできないわ」
「誰が決めたんですか?」男は女の顔を覗き込み、「思い込んでいるだけですよ」
「そんなことない」女はむきになって、「人の身体は飛ぶようにはできてないの」
「それは辛抱が足りないからです。辛抱して自分の風を待ち続ければ、誰でも飛び立つことができるんです。あなたもやってみませんか?」
「そんな馬鹿なこと…。だいいち、今まで飛んだ人がいたなんて、聞いたこともないわ」
「もしかすると、あなたが第一号になるかもしれませんよ」
「あきれた。私には、そんな無駄なことをする時間はないの。あなたもそんなこと考えてる暇があるなら、ちゃんと働いた方がいいわ。あなたにだって家族がいるんでしょ」
「いましたよ。でも、妻も子供たちも、どっかへ飛んで行ってしまいました」
<つぶやき>男は夢中でロマンを追い求め、女は安定した生活を望むのかもしれません。
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T:018「携帯つながり」
 駅前にある女神の銅像。いつからか、ここは恋人たちの待ち合わせの場所になっていた。今宵も女神が見守るなか、何組もの恋人たちが夜の街に消えていった。
 亜紀は駅の大時計を何度も見上げていた。今夜は、一週間ぶりに彼に会える。この一週間、お互いの仕事が忙しくて、電話でちょっと話しをしただけだったのだ。
 亜紀は人混みの中に彼を見つけて、思わず笑みがこぼれた。彼も彼女を見つけたらしく、軽く手を振った。彼がだんだん近づいてくるにつれて、亜紀の心はまるで初恋のときみたいにときめいていた。
「もう、遅い。遅刻よ」と亜紀はちょっとふくれ顔で言った。
「ごめん。ちょっとさ…」
「どこへ行こうか? なんか美味しいもの食べたいなぁ」亜紀は彼の腕をとって言った。
「それがさ」彼は彼女から一歩離れて、「さっき、携帯で…。なんか、急に、戻って来いって…。なんか、トラブルがあったみたいでさ、行かないといけなくなった」
「なにそれ。トラブルってなによ。だって、そんな…」亜紀は顔をくもらせて言った。
「悪いな。また、電話するよ。ほんと、ごめん」
 彼は亜紀を置き去りにして、逃げるように去っていった。残された彼女は、悲しい気持ちでいっぱいになった。淋しくて、気がついたら彼のことを追いかけていた。
 彼は駅ビルの中に入っていった。電車に乗るのかと思ったら、改札の前を通り過ぎ、駅裏の方に歩いていく。会社に戻るなら、電車のほうが早いのに。亜紀はどこへ行くのか、知りたくなった。彼からつかず離れずついていく。
 彼は駅裏の喫茶店に入っていった。店の窓越しに中をうかがう亜紀。彼は若い女が座っているテーブルに腰掛けた。いかにも親しげで、まるで恋人のように微笑み合う二人。亜紀は、若い女の顔がよく見える場所に移動した。それは、見たことのない顔だった。若い女は彼の手を取り、なにか話しかけている。彼は嬉しそうに聞いていた。彼の楽しげな顔を見たとき、亜紀は心の中で何かが壊れるのを感じた。
 亜紀はつかつかと喫茶店に入り、彼の前に立った。彼が驚いたのは言うまでもない。
「どうして…」彼は思わず立ち上がり、口をもごもごさせた。
「携帯貸して」と無表情な顔で亜紀が言った。
 亜紀のこんな冷たい目を、彼は今まで見たことがなかった。彼女の気迫にけおされた彼は、持っていた携帯電話を彼女に渡してしまった。亜紀はいくつかのボタンを押してから、彼の胸に携帯を押しつけた。恐る恐る携帯を見た彼は、アドレスや履歴などのデータがすべて消されているのに気がついた。
「あっ、仕事のやつも消すなんて…。なに考えてんだ!」と彼は叫んだ。
「これで、この女と楽しくやれるでしょ。じゃあ、さようなら」と亜紀は冷たく言うと、座っている女に微笑みかけて、彼に背を向けて歩き出した。後ろで彼が何かわめいていたが、亜紀の心にはもう届かなかった。
 店を出てからも、彼女は颯爽(さつそう)と歩きつづけた。でも、彼女の頬にはひとすじ、涙がこぼれていた。彼女はそれをぬぐいもせずに、前をしっかりと見つめていた。
<つぶやき>どんな時でも、きりりとしていたい。でも、悲しい時は泣いてもいいんだよ。
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T:017「タイミング」
 祐太は会社の同期の女性に思いを寄せていた。彼女は美人というほどでもなく、どこにでもいるようなごく普通の女性だった。彼にしても、別に彼女に一目惚れしたというわけでもなかった。職場でたわいのない話をしたり、仕事のあとの飲み会とかで仲良くなって。自分でも意識しないうちに、なんか良いよな、やっぱり気になる、好きになっちゃったのかも。てな感じで、<どうしようか>と思い始めたのは一ヵ月前だった。それからというもの、普通に話しているつもりでも、なんだかぎこちなくなっている自分がいた。
 同じ職場で働き始めてもう1年ぐらいになるのだが、彼女のプライベートのこととなると、祐太はまったく知らなかった。もしかすると付き合っている人がいるのかもしれない。そんな不安がよぎり、彼の告白の決意をにぶらせた。
 ある日のこと、たまたま会社の備品倉庫で二人だけになるという好機がめぐってきた。この機会を逃したら、もうこんなことは二度とないかもしれない。
「あの…」祐太は思い切って声をかけてみた。「実はですね…」
「何を探してるんです。よかったら、私も一緒に」
「いや、そういうことじゃなくて。その…」
 彼がまさに告白を切り出そうとしたとき、後ろから先輩の声がした。
「なにさぼってるんだよ。みんな待ってるんだから、早くしろよ」
 これで祐太は、せっかくのチャンスを逃してしまった。祐太の落ち込みようといったら。何かひとつでも彼女のことを聞くことができたら、少しは救いになったのだが…。
 そんな祐太に突然チャンスがめぐってきた。街を歩いていた祐太の目の前に、彼女が現れたのだ。彼女はびっくりしたような顔をして言った。
「この近くに友達が住んでるんです。今日はそこでパーティがあって」
「ああ、そうですか。あの、僕、このあたりに住んでて…」
「そうなんですか。あっ、そうだ。もし、よかったら、これから一緒に行きませんか?」
「えっ、僕と? いや、僕なんかが行ったら…」
「いいんですよ。その友達、新婚なんです。それに、今日来ることになってる他の友達も、どうせ旦那や彼氏と一緒だし。私、そういう人っていないんですよね」
「そうなんだ…」
「だから、付き合ってもらえると、すごく助かるんですけど…」
「うーん」と祐太はうなった。彼の頭の中でいろんなことがぐるぐるめぐった。
「やっぱり、だめですよね」彼女はがっかりしたように言った。
「ごめんなさい。今日、田舎から母親が出てくるんで、迎えに行かないといけないんです。ほんとに、すいません」
「そうなんですか。いえ、いいんですよ」彼女はそう言うと、にっこり笑った。「田中さんって、母親思いなんですね」
 彼女と別れた祐太は、思いっきりため息をついた。彼女ともっと親しくなれたかもしれないのに。それに、彼女に悪いことをしてしまったようで、心苦しかった。
<つぶやき>なにをするにもタイミングは大切です。一つ間違えると、大変なことに…。
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T:016「疑似家族」
 疑似家族計画。これは政府が新しく打ち出した政策で、いよいよ今月から施行されることになった。この計画は、一人暮らしの老人や、親のいない子供たちに家族を作ろうという目的で始まった。それと、結婚適齢期なのに、いまだに独身という男女にも適用された。国が結婚相手を選び出し、少しでも少子化を解消させようという狙いもあったのだ。
 この計画が発表されたとき、反対を唱える人たちもいた。だが、その声もいつしか消えてしまった。国民全体が、この計画に期待とあこがれを持つようになったのだ。
 のぞみは母親を去年亡くしたばかりで、今は一人で暮らしていた。
 大学から帰った彼女は、郵便受けの中に赤い封筒が入っているのを見つけた。差出人を見ると、<疑似家族計画推進委員会>となっていた。封筒を開けてみると、赤い紙の命令書が入っていた。彼女はそこに指定されている場所へ行き、まったく知らない人たちと暮らすことになるのだ。持っていけるものは、トランクひとつと決められていた。もしこの命令に従わないときは、罰せられることになってしまう。
 のぞみは不安な気持ちで、真新しい家の呼び鈴を鳴らした。中から出てきたのは中年の夫婦。もちろん、この二人も推進委員会が選び出し、夫婦になることを決められたのだ。
「やあ、いらっしゃい」満面の笑顔で男が言った。「あっ、違うな。お帰りなさいだ」
「あなた、しっかりしてよ。お帰り、のぞみ」女はそう言うと、のぞみを抱きしめた。
「あの、これからよろしくお願いします」のぞみは少しホッとした。そんな変な人たちじゃないみたいだ。これなら、仲良くやっていけるかもしれない。
 夕食の後、男はお茶をすすりながら、おもむろに言った。
「のぞみは、マニュアルは読んだかい?」
「マニュアル?」のぞみはしばらく考えて、「ああ、あの分厚い…」
「あら、いやだ」女はあきれた顔で、「だめじゃないの。ちゃんと読まないと」
「ごめんなさい。つい、面倒になっちゃって」
「いいかい」男はさとすように、「これから、私たちは仲良く暮らさなきゃいけない。そして、ポイントをどんどん貯めていく。そうすると、もっと大きな家に引っ越せたり、海外旅行にだって格安で行けるようになるんだ。だから私たちは、これから一致団結して…」
「あなた、そんなに頑張らなくても大丈夫よ。私たちは仲良くやっていけるわよ」
「もちろん、父さんだって。でも、もし意見の食い違いとか、もめ事があると…」
「そうね…」女は声を落として、「私、ちょっと小耳にはさんだんだけど、問題を起こした家族は、更生施設に送られるんですって」
「更生施設?」のぞみは不安になって訊いてみた。「それって、どういう…」
「これは、噂なんだけど」女は二人の耳元にささやいた。「そこへ送られたら最後、二度と出てこられないんですって」
 その時、呼び鈴が突然鳴り響いた。三人は顔を見合わせた。玄関の扉を開けてみると、髪を赤く染めた男の子が、ふて腐れた感じで立っていた。彼は三人をにらみつけて、
「なに見てんだよ。息子が帰って来たんだろ。なんか言うことあんだろッ!」
<つぶやき>夫婦も最初は他人です。時間をかけて、少しずつ絆を深めていきましょう。
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T:015「彼女のスイッチ」
 エリカはベッドで熟睡していた。昨日で担当していたプロジェクトが一段落したのだ。睡眠時間を削って、なんとかここまでがんばってきた。こんなに心地よい眠りは何日ぶりだろう。彼女は至福のときを味わっているようだった。
 朝の穏やかな光が彼女をつつみ、さわやかな風が彼女の頬を撫でた。小鳥たちのさえずりでエリカは目を覚ました。ベッドの中で寝返りをうち、気持ちよさそうに伸びをした。
 ふと、彼女は違和感を覚えた。何かが違う。ハッと、彼女は気がついた。色が…、色がないのだ。見えるものすべての色が消えている。目覚まし時計の赤も、観葉植物の緑も、彼女の好きなピンクのカーテンもすべてモノクロになっていた。
「なにこれ」彼女は起き上がると目をぱちくりさせて、「まだ夢の中なの?」
 彼女はほっぺたをつねってみた。それも、思いっきり。
「痛い!」彼女は飛び上がらんばかりに叫んだ。「夢じゃない。なんで、どうしちゃったの」
 エリカはこの現実をどう受け止めたらいいのか、まったく分からなかった。彼女は恐る恐る窓から外を見た。そこには青い空も、木々の緑もなかった。街の色すべてが灰色に染まっていた。彼女は、しばらくそこから動けなくなっていた。
 エリカは診療所へ行くことにした。子供の頃からの掛かり付けの小さな診療所。そこの先生はどんな病気や怪我でも、たちどころに治してくれた。まるで魔法のように。
「大丈夫よ」エリカは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「色がないだけで、ちゃんと見えてるじゃない。なんの問題もないわ」
 彼女は玄関の扉を開けて外へ出た。いつもの光景。エリカはほっと胸をなで下ろした。家を出て、いつもの道を歩く。周りの人たちも、彼女の異変に気がつくはずもなかった。しかし、最初の交差点に来て彼女は愕然とした。信号が、何色か見分けがつかないのだ。
「どうしよう」彼女は必死に考えた。「そうよ。みんなと同じにすればいいじゃない」
 彼女は他の人が歩き出したら青、止まっていたら赤と判断した。
 その診療所は古びたビルの中にあった。表に看板が出ているわけでもなく、通りすがりの人にはまったく気づかれそうになかった。診療所に入ると、待合室には誰もいなかった。彼女自身、この診療所で他の患者さんと出くわしたことなどなかった気がする。こんなんでよく続けられるなと、エリカは不思議でならなかった。彼女は待合室の椅子に腰掛けた。ここの先生なら治してくれる。なぜか彼女は、そんな確信のようなものを感じていた。
「どうされました?」温和な顔の白髪の先生が聞いた。「どこか、調子が悪いのかな」
 エリカは今までのことを説明した。世界が灰色になってしまったことを。先生は、カルテに何か書き込んでいたが、彼女の顔を見て微笑んだ。
「心配ありません。いろんなものを見すぎたんです。インクを交換すれば直りますよ」
「インク…」エリカは首をかしげて、「交換って、どういうことですか?」
「すぐに終わりますよ。カートリッジを替えるだけですから」先生はそう言うと、彼女の両方の耳たぶを引っぱった。すると、彼女はすべての機能を停止させた。
<つぶやき>あなたは、友達の耳たぶを引っぱって確認しないでね。怒られちゃいますよ。
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T:014「怪盗ブラック」
 達也は自分の叫び声で目を覚ました。ひどい頭痛だ。彼は頭をふって、あたりを見回した。なんとか頭痛がおさまると、やっと自分がどこにいるのか理解した。
 この部屋の持ち主は、怪盗ブラックと名乗っていた。先月、ある美術館から名画を盗んだことで、世間から注目を集めたばかりだ。なぜ彼がここにいるのか。それは、彼こそが怪盗ブラックだから。というより、彼の中に怪盗が同居しているのだ。
 達也は大きなため息をついた。自分の中にいる別の自分が、また悪事を働こうとしている。でも、それを止めることは彼にはできなかった。ふと、彼は手に握りしめている紙に目をやった。テーブルに広げてみると、それは地図と、どこかの建物の見取り図だ。地図には赤い線が引かれ、見取り図にはばつ印がつけてあった。彼は地図の赤い線の行き着く先を見て驚いた。そこは、彼のよく知っている人の屋敷だった。
「ご、ごめんなさい。こんなところへ呼び出して…」達也は落ち着かない様子で言った。
「そんな、いいんです。うれしい。達也さんから誘ってもらえるなんて」
 しゃれたオープンカフェにいる二人は、誰が見ても不釣り合いなカップルに見えた。達也は時代遅れの黒縁眼鏡をかけて、何ともさえない服装をしていた。それにひきかえ彼女のほうは、清楚で気品があり良家の子女という雰囲気だ。
「今度、家でパーティがあるんです。よかったら、達也さんも…」
「いや、ぼ、僕なんか駄目ですよ。それより、綾乃さんに聞きたいことがあって…。あの、綾乃さんの家に、家宝と言えるような大切なものってありますか?」
「家宝? そう言えば、子供の頃、家にはお宝があるって聞いたことがあります」
「あの、こ、これから話すことは誰にも言わないで下さい。お願いします」彼は声をひそめた。「実は、そのお宝を盗もうとしている悪党がいるんです」
「えっ!」彼女は思わず小さく叫んだ。
 その日の夜中。暗闇にまぎれて屋敷に忍び込む人影があった。身軽に塀を乗り越えて、大きな庭木をよじ登り二階のベランダに飛び移った。そして、ガラス窓をいとも簡単に開けてしまった。部屋に入ると、すぐに隠し金庫を見つけだし、ものの十数秒で開けてしまった。その手口の鮮やかなこと。怪盗は中にあった小さな木箱を取り出し、にやりと笑った。
 そのとき突然、部屋の明かりがつき、大勢の警官がなだれ込んだ。怪盗は逃げる余裕すらなく、取り押さえられ観念した。手錠をかけられ連行される男。
 屋敷の玄関は大勢の人であふれていた。その中に、綾乃の姿もあった。綾乃は怪盗を見て驚いた。その顔は、まぎれもなく達也の顔だった。達也は綾乃を見つけると、優しく微笑んだ。まるで、すべてのことが分かっていたみたいに。
 綾乃は刑事から木箱を渡された。それは昼間、達也から本物とすり替えるようにと渡されたものだった。綾乃は達也との約束を守っていたのだ。彼女はそっと箱を開けてみた。中にはウサギの小さな置物が入っていた。綾乃はハッとした。これは子供の頃、達也にプレゼントしたものだった。添えられていたカードには、「これで終わらせることができます。僕は、綾乃さんのことは忘れません。ありがとう。幸せになって下さい」
<つぶやき>人生にはどうしようもないことってありますよ。でも、負けないで下さい。
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T:013「最後のラブレター」
 かすみさんがこの手紙を見つけたとき、もう僕はこの世界から消えてしまっていると思います。でも、悲しまないで下さい。僕とあなたが過ごした三十年のあいだ、楽しいことがたくさんあったから。僕は、あなたと一緒にいられて、とても幸せでした。
 僕がこんなことを言うと、かすみさんは怒るかもしれませんね。だって、僕は良い夫ではなかったから。仕事にばかり夢中になって、あなたのことを一人ぼっちにしてしまった。子供たちのことも、みんなかすみさんに任せてしまっていたしね。
 でも、あなたのおかげで、子供たちも無事に育ってくれました。とても感謝しています。こんなこと、面と向かっては言えなかった。ちゃんと言っておけばよかったね。
 あなたはいつも家族のことを考えていてくれたよね。僕が入院したときも、毎日のように来てくれた。僕がそんなに来なくていいよって言っても、あなたは僕と一緒にいられる時間が増えたのよ、こんな幸せなことはないって笑ってくれた。僕は、あなたの笑顔がいちばん好きだったんだよ。あなたの笑顔はみんなを幸せにしてくれる。
 僕がいなくなっても、笑顔を忘れないで下さい。これからは、あなたのやりたいことを好きなだけしていいんだよ。僕から、かすみさんへのご褒美です。ありがとう。

「何してるの?」押し入れの前で座り込んでいる娘に、母は声をかけた。
「ねえ、私、すごいもの見つけちゃった」興奮を抑えながら娘は古びた本を差し出した。
「これ、かあさんの…」母は懐かしそうに微笑んだ。「これは、おばあちゃんがとっても大切にしていた本よ。この本のおかげで、おじいちゃんと出会えたってよく言ってたわ」
「そうなんだ。だから…」娘は目を潤ませて、「この中に手紙がはさんであったの。おじいちゃんからのラブレターよ。それも、最後のラブレター」
 娘は色あせた手紙を母に手渡した。母は手紙を読み終えると、
「こんな手紙もらってたなんて、ちっとも知らなかったわ」
「おばあちゃん、いい恋してたんだよね。こんなに愛されていたなんて…」
「あなたはどうなの。いい恋、してないの?」
「私は…。どうなんだろ、わかんなくなっちゃった」娘は投げやりに言った。
「隆さんとうまくいってないの?」
「うーん。やっぱり、遠距離って続かないのかな?」
「なに弱音吐いてるの。そんなんじゃ、おばあちゃんに笑われるわよ」
「だって…。逢いたいときに逢えないなんて、つらすぎるよ」
「おばあちゃんだったら、今ごろ飛んで行ってるでしょうね」
「私は…。ひとりでアメリカなんて行けないよ」
「もう、いつまでも子供なんだから。そんなんじゃ、何にも出来ないよ」
「わかったわよ」娘は立ち上がり、「行くわよ、行けばいいんでしょ。私だって…」
「でも、遺品の整理を済ませてからにしてよ。ひとりじゃ大変なんだから。それと、隆さんにちゃんと連絡しときなさい。向こうで、金髪の美女と鉢合わせしないようにね」
「もう、かあさん! なに言ってるのよ。そんなことあるわけないでしょ」
<つぶやき>人生の節目にあたり、心のこもった感謝のラブレターを書いてみませんか。
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T:012「ラブレター」
 山田君へ。突然こんな手紙を書いてしまって、ごめんなさい。
 私が廊下で転んでプリントをばらまいてしまったとき、山田君は一緒に集めてくれたよね。あのとき、私、ちゃんとお礼も言えなくて。山田君は、そんなこともう忘れているかもしれないけど。私は、ずっと後悔してて。なんで、ちゃんとありがとうって言わなかったんだろう。ちゃんと言ってれば…。
 私、山田君と同じクラスになったときから、山田君のことがずっと気になってて。でも、声をかけることが出来なくて。この手紙を書くのだって、ずっと迷ってて。友達に相談したらね、ちゃんと告白した方がいいって言われたの。それで、私、決めたの。
 私、山田君のことが好きです。山田君は、他に好きな人がいるかもしれないけど、それでもいいの。私の片思いでもいい。こんな気持ちになったのは初めてで、自分でもどうしたらいいのか分からないんだ。今もドキドキしてる。でも、なんだか心の中がほわっとしてて、あったかいの。今まで悩んでいたことが、どっかへ行っちゃった。
 あのときは助けてくれて、ほんとにありがとう。もし、私のこと好きじゃなかったら、好きになれなかったら、この手紙は捨ててください。

「ねえ、あなた。さっきから何やってるの。そんなんじゃ、ちっとも片付かないでしょ」
「ちょっとね、昔の手紙を見つけてさ」
「もう、今日中にやらないと、あさっての引っ越しに間に合わないでしょ」
「ごめん。でも、懐かしくてさ。きみ、これ覚えてる?」
 男は女に色あせた手紙を手渡した。女はそれを手に取ると、「なに、これ?」
「何だよ。覚えてないの? ほら、学生のとき、きみが僕に…」
「知らないわよ。私、手紙なんか書いたことないし」
「えっ、そうだった?」
「もしかして、これラブレター?」女が手紙を読もうとしたので男は慌てて、
「駄目だって…」
 男は女から手紙を取り上げようとするが、女は逃げまわりながら、
「ねえ、誰からもらったのよ。白状しなさい」
「だから、きみからだと…」男はなんとか手紙を取り戻して、「よっしゃ!」
「もう、子供なんだから」女は悔しそうに言うと、「ほんとに覚えてないの?」
「うん」男は手紙をかざして、「名前も書いてないし。ほんとにきみじゃないの?」
「私は知ーらない。ねえ、そんなことより、あなたのガラクタなんとかしてよ」
「ガラクタって。あれは、僕の大切なコレクションなの」
「そうですか。あなたが片付けないと、私、明日の不燃ゴミに出しちゃうわよ」
「やめてくれよ」男はそう言うと自分の部屋に駆け込んだ。
「まだ持ってたなんて…」女は男が置き忘れていった手紙を手に取ると、懐かしそうにつぶやいた。「でも、これは、私が預かりますからね」
<つぶやき>初恋は青春の思い出。心のどこかに隠れてて、時々現れては消えていく。
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T:011「同化」
 その研究室は大学構内の奥まった場所にあった。そこへ行くためには、迷路のような通路を通り、いくつもの扉を抜けないとたどり着くことはできない。大学関係者ですら、この研究室にたどり着けた者は数えるほどしかいなかった。そんなわけだから、学生でこの研究室の存在を知る者など、全くと言っていいほどいなかった。
 この研究室では、ある実験が行われていた。それは、いろいろな物を掛け合わせて、新しい物を作り出すというものだ。教授はこの実験を何十年も続けていた。
 ある日、教授は研究室の前まで来て驚いた。部屋の中から美味しそうな匂いが漂ってくるのだ。研究室に入ってみると、助手のかえでが机の上にたくさんの料理を並べ、昼食を取っていた。
「君は、何をしているのかね?」教授は驚いた顔で助手に尋ねた。
「すいません」かえでは申し訳なさそうに、「食堂まで行くのがめんどうなので、つい…」
 かえでは偶然この研究室に迷い込んできた学生で、どういうわけか教授のことが気に入ってしまい、押しかけ助手として研究の手伝いをしていた。
「それにしても」教授は机に並んだ料理を見て、「どうやってこんなに作ったのかね?」
「ほんとに、すいません」かえでは深々と頭を下げると、「実は、あの装置を使ったんです」
「装置を?」教授は研究室の一角を占領している機械の塊を見て、「まさか君、この装置で料理を作ったのかね? 信じられない。そんな使い方ができるわけがない」
「でも、教授。それができちゃったんです」かえではそう言うと、まだ残っていたジャガイモや豚肉などの食材と調味料を容器の中に入れると、装置のボックスにセットした。
「えっと、これでパワーを弱にして…」かえでは装置のスタートボタンを押した。
 装置はぶうぉーんと音を響かせて動き出した。しばらくすると、ボックスから白い煙が立ち上がった。それを合図に、かえでは装置のスイッチを切った。そして、ボックスの扉を開ける。中から出てきたものは、肉じゃがだった。
「でも、難点は…」かえでは肉じゃがを机の方に運びながら、「どんな料理になるのか、わからないことです。同じ材料を入れても、同じ料理ができるとは限らないんです」
「これは、たまげたな」教授はそう言うと、容器の中で湯気を立てている肉じゃがを、まじまじと見つめた。
「食べてみますか?」かえではそう言うと、教授に大きなスプーンを手渡した。
 教授は恐る恐る口にした。その瞬間、教授の顔色が変わり、目から大粒の涙がこぼれた。かえでは教授の変わりように驚いて、急いで出来たての肉じゃがを口にしてみた。
「…まずい! 何で、これだけ。他の料理はとっても美味しいのに」
「これは、妻の味だ。私の妻は、どういうわけか、肉じゃがだけがまずくてね」
「妻って、あの、教授の、行方不明になっている…」
「そうだ。もう、二十年になる。私と一緒に研究してたんだが、この研究室で事故があってね。それ以来、行方がわからなくなっていたんだ。だが、とうとう見つけた。あいつは、この装置と同化していたんだ。ずっと、私のそばにいてくれたんだよ」
<つぶやき>愛する人のことを思い続けることができるなんて、素敵なことですね。
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T:010「仕事と恋」
「何でそんなこと言うの? 約束したじゃない! ずっと一緒にいるって」
 涼子は電話口で声を荒らげた。電話相手の彼とは、もう三年の付き合いになる。ここ数ヶ月はお互いの仕事が忙しく、なかなか逢うことが出来なかった。それに、電話も夜遅くしか出来ないので、長話をするわけにもいかなかった。涼子は淋しい思いを我慢していた。
 だから、今日はまだ早い時間なのに彼から電話がかかってきて、涼子は飛び上がらんばかりに喜んだ。それが、まさかこんな事になるなんて、夢にも思わなかった。
「どういうことよ。はっきり言ってよ」
 涼子の声は震えていた。相手の話を身動きもせずに聞いていたが、
「分かんないよ! 仕事がそんなに大切なの。……そりゃ、私だって、仕事が忙しくて、急に逢えなくなったときあったけど…」涼子の目から、一筋の涙がこぼれた。
「ねえ、どうしてもだめなの。離れたくないよ。ずっと一緒にいようよ」
 彼は涼子が泣いているのに気づいたのか、
「泣いてなんかいないわよ。楽しみにしてたんだから。それなのに…」
 彼女は、自分が無茶なことを言っているのはわかっていた。でも、許せなかった。
「……延期?! 何でよ、あなたから言いだしたのよ。それを…。簡単に言わないで!」
 涼子はしばらく、無言で彼の話を聞いていた。しかし、
「わがまま? 何それ! 私、わがままなの? 私が、この日のためにどれだけ…」
 彼の方も、声を荒げて、何かしきりにしゃべりはじめた。こうなると、お互い相手の話など耳に入らない。自分のことしか、考えられなくなっていた。とうとう彼女は、
「もういいよ! 私一人で行くから。一人で泊まって、2人分、ご馳走食べてやる!」
 彼女はそのまま電話を切ってしまった。本当に腹が立った。彼女は怒りをぶつけるように、そばにあったクッションを電話に投げつけた。
 しばらくして、気がおさまると、今度は後悔の念が嵐のように襲いかかってきた。
「ああ…、何であんなこと言っちゃたのかな。どうしよう…」彼女は電話に手を伸ばした。でも、途中で思いとどまって、「何で、私から…。悪いのは、あの人なんだから…。大丈夫よ…。向こうからきっと電話してくるはず」
 涼子は待った。五分、十分、二十分…。でも、いくら待っても電話はかかってこなかった。彼女は不安になってきた。いろいろな想像が、頭を駆けめぐる。
「もしかして、私、嫌われたの? でも、悪いのあの人よ。でも…。まさか…、他に好きな人が…。いいえ、そんなことあるわけない。でも…。違う、仕事が忙しいから会えなかったのよ。私以外の人とそんな…」
 その時、突然電話が鳴り出した。涼子は、思わず電話に飛びついた。
「はい……。なんだぁ、愛子なの…」それは、涼子の親友からの電話だった。
 久し振りに親友の声を聞いてほっとした涼子は、それから話し込んでしまった。電話を切ったときには、もう十二時を過ぎていた。
「あれ、私、何してたんだっけ…。あっ、もうこんな時間。早く寝なきゃ」
<つぶやき>仕事と恋の両立は難しい。どっちも大切ですから。明日、仲直りしましょう。
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T:009「運命の赤い糸」
「まだそんなこと信じてるのか?」と英太は呆れ顔で言った。
「いいでしょ」さよりは口をとがらせて、「私の子供の頃からの夢なんだから」
「おい!」と後ろから突然声がして、哲也が二人の間に割って入った。「おまえらな、さっきから呼んでるのに、気づけよな。で、なに楽しそうに話してたんだよ」
「別にたいしたことじゃないけどさ」英太はにやにやしながら、「こいつが…」
「ちょっと」すかさずさよりが話を断ち切り、「余計なこと言わないで。もし、しゃべったら、ほんとに怒るからね」そう言って、さよりはぷいっと走り去った。
 さよりを見送った英太は、ちょっとした悪戯を思いついた。それは、さよりの夢をかなえてやること。哲也を巻き込んで、極秘作戦がスタートした。
 日曜の朝。鳥かごを抱えた哲也は、英太の部屋に入るなりつぶやいた。
「なあ、ほんとにまずいよ。もし、姉ちゃんにばれたら、俺、殺されるから…」
「心配すんなって。どうせ姉ちゃん、仕事でいつ帰ってくるかわかんないんだろ。大丈夫だって。ちょっと、塗るだけだよ」そう言うと、英太は青いマジックを取り出した。
「ちょっ、待てよ!」驚いた哲也は英太の腕をつかんで、「マジックじゃ、消えないだろ」
「だって、白い文鳥じゃ意味ないじゃん。この作戦には青い鳥が必要なんだ」
「いや、そう言うことじゃなくて…。もし、ピー子に何かあったら…」
 哲也の心配をよそに、英太はピー子をまだらな青い鳥に塗り替えた。
 その日のうちに、英太はさよりを近くの海岸に呼び出した。砂浜は人もまばらで、さよりを見つけるのは簡単だった。岩陰で待ち伏せしていた二人は、速やかに作戦を実行した。
「ねえ、こんなとこに呼び出して、話ってなによ?」さよりはわざと迷惑そうに言った。でも、急に呼び出されたのに、しっかりおしゃれをして来たことは誰が見てもわかった。
「あの、実は…」英太はそう言いながら、後ろ手で哲也に合図を送った。哲也は赤い糸を鳥の足に結びつけるのに手間取ったが、慌ててピー子を放した。ところが、逆の方向に飛んで行ったピー子を見て、哲也は思わず立ち上がり、「ああっ!」と叫んでしまった。
 ピー子はぐるりと旋回すると、さよりに向かって飛んできた。さよりはそれを見てすべてを理解した。哲也は慌ててピー子を追いかける。赤い糸がひらひらと宙を舞っていた。
 三人はピー子を捕まえようと、砂浜を走り回った。ピー子は英太の手をすり抜けて、さよりの肩に止まった。英太の腕には赤い糸が絡みついていた。
 その時、突然女性の叫び声が聞こえた。その女性の姿を見た哲也は、震え上がり腰を抜かした。さよりの肩に止まっていたピー子は、赤い糸を器用にほどいて飼い主の方へ飛んで行った。そして、それを追いかけるように、鳥かごを抱えた哲也も走り去った。
 砂浜に残された英太とさよりは、しばし見つめ合い…。さよりは赤い糸を巻き取りながら英太に近づいて、にっこり微笑んだ。次の瞬間、さよりの平手が空を切った。
 次の日。哲也の顔には何枚も絆創膏が貼られていた。英太とさよりは、昨日のことが嘘のようにいつも通りだ。でも、さよりの筆箱には、昨日の赤い糸が大切に入れられていた。
<つぶやき>子供の頃のたわいない夢。でも、その夢を忘れなかった人は、幸せかもね。
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T:008「女の切り札」
 純子は一人、部屋でパソコンとにらめっこをしていた。彼女はフリーのライターをしているのだが、締切が間近に迫っていてあせっていた。今、彼女の頭の中は完全に煮詰まっていて、昨夜から一睡もしていないのだ。こんな時、彼女は豹変する。
「ただいまぁ…」夫の隆が残業を終えて、静かにドアを開けて帰ってくる。
 この二人、最近結婚したばかりなのだが、彼女の仕事が立て込んでいて、いまだに新婚生活を味わっていなかった。この部屋も彼女が引っ越しが面倒だと言うので、彼の方から越してきたのだ。でも、隆は満足していた。だって、彼が住んでいた部屋より、こっちの方が断然広いのだ。
 彼は純子の仕事について理解しているつもりだった。でも、一緒に住んでみて、その大変さに驚いた。だから、彼女が仕事に没頭しているときは、家事のほとんどを彼が担当することになった。
 今日も仕事中に彼の携帯が鳴り、夜食の買い物を言いつけられた。でも、彼はそれを嫌がることはなかった。隆は純子のことを愛していたし、大切に思っていたのだ。
 彼は純子の仕事部屋をちらっとのぞいてから、キッチンへ向かった。テーブルの上にエコバッグを置き、流しを見て驚いた。昼食の残骸が無残にも投げ込まれていたのだ。
 彼はため息をついた。その時、突然後ろから声がした。「何なのこれ?」
 隆が振り返ると、穴蔵から抜け出したような、うつろな目をした純子がエコバッグからカップ麺を取り出していた。その目には、ただならぬものが感じられた。
「私は醤油味を頼んだのよ。何でとんこつ味を買ってくるの?」
「だって、ちょうど売り切れてたから」隆はヤカンに水を入れながら答えた。
「私は今、醤油味を食べたいの。それ以外あり得ないから」
「いいじゃない。これだって美味しいって、このあいだ…」
「そりゃ、とんこつも美味しいわよ。でも、今は醤油なの。醤油味を食べたいの!」
「そんなのいいじゃん。美味しけりゃ、同じだって」隆は無頓着な人間のようだ。
「買ってきて」純子はエコバッグを隆に突きつけて、「今すぐ買ってきて!」
 隆は純子のわがままには慣れっこになっていた。でも、何故か今日はぷつっと切れた。
「お前な、いい加減にしろよ! 前から言いたかったんだけど…」
「なによ」純子は動じる様子もなく、彼を睨みつけた。隆は一瞬ひるんだが、
「前から言いたかったんだけど…、朝食の目玉焼きに醤油なんかかけるなよ。目玉焼きはケチャップだろ。僕がせっかく美味しく作ってるのに…」
「なに言ってるの」純子は鼻で笑って、「目玉焼きは醤油じゃない。常識でしょ。それより、早く行ってよ。15分だけ待っててあげる。もし、ちょっとでも遅れたら、もうこの部屋には二度と入れないから」
「何だよ…」隆は背筋に冷たいものが走るのを感じた。今の彼女は何をするかわからない。
「分かった。行ってきまーす」隆はそう言うと、部屋から飛び出していった。
<つぶやき>隆、負けるな。いつかきっと、報われる時が来るから。たぶん…。
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T:007「最強の彼女」
 やよいは両親を早くに亡くして、母方の祖父母のもとで育てられた。祖父母の家は道場をやっていて、柔道や空手、剣道、居合道、なぎなたなど、あらゆる武術を教えていた。やよいは淋しさを紛らわすように、小さい頃から武術の稽古に熱中した。そして、今では師範と呼ばれるほどに成長し、屈強の男でも彼女には太刀打ちできなかった。
 やよいは母親に似て可愛い顔立ちで、おしとやかとはいえないが優しい心を持っていた。でも、やよいと付き合おうとする男たちは、彼女の最強ぶりを知ると、怖じ気づいてしまうのかすぐに逃げ出した。そこで、やよいは決心した。今度付き合う彼には、絶対に強いところは見せないと。そして、おしとやかな女性になるために、お茶やお花を習い始めた。
 出会いは突然おとずれた。習い事の帰り道、やよいは引ったくりに襲われた。いつもなら簡単にねじ伏せてしまうのだが、着物を着ていたし、油断もあったのでひっくり返ってしまったのだ。ちょうどそこに居合わせた人が、犯人に体当たりをしてバッグを取り戻してくれた。その人はやよいを助け起こすと、バッグを手渡した。やよいはその人の顔が間近にきたとき、その優しそうな眼差しにうっとりとした。道場に来ている厳つい男たちとは、あきらかに人種が違うのだ。
 やよいのアタックは素早かった。口実を作って彼の連絡先を聞き出すと、毎日のように電話した。そして、いつの間にか二人の気持ちはつながった。やよいは彼と一緒にいると、居心地がよすぎて時間を忘れてしまうほどだ。でも、腕力だけは見せないように細心の注意をはらった。それでも、思わずお皿をへし折ったりしたが、そこは上手くごまかした。
 付き合い始めて一年目のこと。「結婚しようか」と彼が口にした。やよいは突然のことに、何度も聞き返した。そして彼女は、涙ぐみながらも、「はい」と返事をした。
 その日、やよいは夢見心地で家に帰った。家では、強面の男たちが彼女を出迎えた。彼らは道場で修業している弟子たちで、一緒に暮らしていて家族同然の存在だった。彼らを目にして、やよいは我にかえった。<結婚するってことは、彼をここに連れてきて…>
「わーっ!」やよいは思わず叫んだ。「どうしよう。また、嫌われちゃうわ」
 朝まで、やよいは一睡もできなかった。悩んで、悩んで、悩んだあげくに、彼女は心を決めた。彼に本当のことを言おう。彼なら私のことを受け止めてくれる、そう信じた。
「あの…、あのね」やよいは彼を前にして口ごもった。いざとなると、最悪の状況が頭に浮かび、この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
「今度さ、僕も習い事を始めようと思って」と彼は照れくさそうに言った。「ほら、やっぱり健康が一番だろ。得意先の近くに、いい道場を見つけたんだ」
「道場!」やよいは思わず叫んだ。「えっ、何をやるのよ?」
「子供の頃、少しだけ柔道をやってて。そこの道場、初心者にも教えてるみたいなんだ」
「そうなんだ。柔道、やってたんだ。知らなかったわ」やよいは少しだけほっとした。
「鬼塚道場っていって、たぶん君の家の近くだと思うんだけど。知ってる?」
 やよいは道場の名前を聞いて凍りついた。<鬼塚道場って、私の家じゃない!>
<つぶやき>正直が一番なんですけど。誰にでも知られたくないことってありますよね。
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T:006「幸せの一割」
「ねえ、ここに置いといた今月分の家賃、持っていったでしょう。返して!」
「いいだろ。金がいるんだ。また、銀行からおろしてこいよ」
 安男はそう言うと、ふいと出て行ってしまった。残された佐恵子はため息をついた。
 二人は付き合い始めて五年。安男は、以前はとても優しい男だった。それが、一緒に暮らすようになると、彼はまったく働かなくなり、遊ぶ金欲しさに佐恵子に無心する始末。さっさと別れてしまえばいいのだが、彼女にはその決断をすることが出来なかった。
 銀行への道すがら、佐恵子は不思議な占い師に出くわした。その女占い師は客待ちしているでもなく、分厚い洋書を開いて、読むでもなく目を落としていた。
「ちょっと、あんた」と占い師は、ちょうど前を通りかかった佐恵子を呼び止めた。
「あんた、悩み事があるね。占ってあげよう。ここに、お座りなさい」
 佐恵子は言われるままに、ふらふらと座ってしまった。まるで、何かに引き寄せられるように。占い師は大きな天眼鏡で佐恵子の顔を覗き込んだ。
「なるほど」と占い師はつぶやいて、「男が悩みのタネか…」
「えっ、わかるんですか? 私の…」
「これでも占い師のはしくれだからね。今の男との相性は悪くはない。ただ、位置がよくないね。このままだと、どちらかが傷つくよ。ひとつ、私の言う通りにやってみるかい。そうすれば、運気が変わるかもしれない」
 占い師は彼女に助言を与えた。それは、いつでも笑顔でいること。そして、彼の言うことは何でもかなえてあげること。これを聞いて、佐恵子はまた、ため息をついた。
「お金のことなら心配ないよ」と占い師は言った。「それと、見料だけど。あんたの幸せの一割をいただくよ。それでいいかい」
 佐恵子はわけも分からずうなずいた。何だかキツネにつままれたような、変な感じだ。
 占い師と別れた彼女は銀行でお金をおろし、ふと通帳を見て驚いた。預金の残高が増えていたのだ。通帳をよく見ると、エンジェルの名で大金が振り込まれていた。
「まさか、あの人が…」と佐恵子はつぶやいた。「エンジェル?」
 佐恵子は占い師に言われたように、その日から実行することにした。いつも笑顔で、そして彼の言うことは何でもかなえてあげた。すると不思議なことに、安男は毎日きちんと帰ってくるようになり、喧嘩をすることもなくなった。でも、まだ佐恵子は不安だった。
 佐恵子はふっと、別れぎわに占い師が言った言葉を思い出した。
<最後の仕上げは、何でもいいからお願い事をしてごらん。まず、些細なことからはじめて、少しずつ増やしていくんだ。そこまで行けば、もう男はあんたのものさ。>
 安男は初めのうちは嫌々だったが、そのうち、安男の方から用事はないかと聞くようになった。この頃にはもう、安男は以前の優しい男に戻っていた。仕事もするようになり、生活にゆとりが戻ってきた。そこで、佐恵子は一番のお願いをした。「私と結婚して!」
 この後、二人は幸せに暮らした。でも、佐恵子にはひとつ悩みが残った。それは、あの時の占い師に見料をどうやって払えばいいのか。あれ以来、一度も会えないままなのだ。
<つぶやき>こんな占い師がいたら、私にも良い人が見つかるかも。会ってみたいなぁ。
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T:005「夢の中の君」
 夜中の二時、慎吾は夢にうなされて目を覚ました。ここ一週間というもの、毎晩おなじ夢をみていた。いま住んでいるアパートにいて…。その部屋は、家具の配置から何もかも現実とまったく変わらなかった。ただ違うのは、小夜という名の女がいて…。夢の世界では、その人と結婚していて、一緒に食事をしたり、たわいのない話をしていたようだった。<ようだった>と言うのは、慎吾自身、断片的にしか夢を思い出せないのだ。でも、とてもリアルな、本当に二人で暮らしている感覚が、目が覚めてからも消えずに残っていた。
 慎吾には結婚を約束している彼女がいた。とても明るくて優しい女性で、もとは同じ職場で働いていたのだが、今は配属が変わって別の課になってしまった。
「ねえ、大丈夫?」目を覚ました慎吾に、ひかるは優しく声をかけた。「今日は病欠だって聞いて、びっくりしちゃった。昨夜も、なんかおかしかったし、心配したんだからね」
「ひかる? どうして…」慎吾はうつろな目でひかるを見つめた。
「ふふ…、合い鍵、使っちゃった。ねえ、何か作ろうか? お腹、すいてるでしょ」
 ひかるはそう言うと、スーパーの袋を持ってキッチンに入って行った。ひかるは何度もここで料理をしているので、どこに何が置いてあるのかすべて分かっていた。でも、今日に限ってその配置が変わっていた。「ねえ、置き場所、変えたの? いつもと違うわ」
 ひかるはあちこち探し回ったりして手間取ったが、手際よく調理をすませると、
「慎吾、出来たわよ。起きて」ひかるはうつらうつらしている慎吾に呼びかけた。
 慎吾はだるそうに身体を起こすと、「ああ…、お帰り。小夜」とつぶやいた。
「なに?」ひかるはちょっと首をかしげたが、「もう、寝ぼけてるでしょう」と聞き流した。
「えっ、僕、何か言ったか?」慎吾はひかるの顔をじっと見つめて、「君は…」
「ねえ、ほんとに大丈夫? 病院、行った方がいいんじゃない?」
「ああ、大丈夫だよ。薬のせいさ。それで、ぼうっとしているだけさ」
 ひかるはますます心配になってきた。ここ一週間、彼の行動が変なのだ。二人で話をしていても、急に眠ってしまったり。二人で行ったことのない場所なのに、一緒に行ったみたいに話をすのだ。もちろん、ひかるには身に覚えはない。だが、話をよく聞いてみると、それは昔の話しではなく、ごく最近の話なのだ。もしかしたら、他に誰かと付き合っているの…。ひかるはそんな考えがうかぶたびに、<そんなことない>と打ち消してきた。
「やっぱり、病院に行こうよ。これ食べたら、私が連れてってあげる」
「でも、僕はここにいないと」慎吾はひかるの作った食事をゆっくりと食べながら、「もうすぐ、帰ってくるんだ。だから、待っててあげないと」
「えっ、誰が来るの?」ひかるは不安になって、「はっきり言ってよ」
 その時、玄関の扉が開いた。慎吾は玄関に目をやり、「お帰り。小夜」と言って微笑んだ。
 ひかるが驚いて振り返ると、そこには見たことのない女が立っていた。
「あなた」女は慎吾をそう呼ぶと、「起きてて大丈夫なの? 寝てないとだめだよ」
 ひかるは意識が遠くなっていくのを感じた。ふっと手を見ると、向こう側が透けて見えた。そして、ひかるの身体も透き通ってきて、ついに夢のように消えてしまった。
<つぶやき>自分は本当にそこにいるのか、それとも…。自分の存在に自信あります?
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T:004「お嬢様教育コース」
「ここは何処よ!」ファッションモデルのように着飾った若い女性が叫んだ。「エッフェル塔は? 凱旋門は何処にあるのよ!」
 あたりには灼熱の風が吹きわたり、彼女は目がくらみそうになった。よろよろとタラップを降りると、まわりをぐるりと見わたした。そこは、荒涼とした荒れ地の中で、空港のさびれた建物と、何軒かの小さな家が点在しているだけだった。彼女はどこまでも続く大地を、ただ呆然と見つめていた。突然、不安な気持ちがこみ上げてきて体が震えた。
「ここ、ガルバね」と一人の男がにこやかに近づいて来て言った。
「ガルバ…」女は男に駆け寄り、「ガルバってどこよ! ここはフランスでしょう?」
「なに言ってる。ここはアフリカの秘境あるよ」
「アフリカって…。なんで…、何でよ。私は…」
「なにも心配ないよ。私が、ちゃんとお世話するね。どうね、良い景色でしょう」
「どこがよ。何にも無いじゃないの!」女は頭をかきむしった。そして、思いついたように叫んだ。「吉田! どうなってるのよ。ちゃんと説明…」
 彼女が振り返ったとき、ちょうど自家用飛行機が飛び立つところだった。
「ええ、なんでよ…」彼女は思わず走り出した。でも、追いつくはずもなかった。滑走路には彼女の荷物がひとつ、ぽつんと取り残されていた。
「私、ちゃんと吉田さんに頼まれたね」男はそう言うと、滑走路に倒れ込んでいる女を抱き起こし、「心配ないよ。私が、ついてるね」
「なに言ってるのよ」女は男の手を振りはらい、「私はパリに行くの。パリが私を待ってるのよ。絶対、行くんだから…行くんだから…」女は何度もそうつぶやきながら歩き出した。
「ちょっと、待ちなさい。こっちね」男はそう言うと、女から荷物をつかみ取り、「あの飛行機、一ヵ月後しか戻ってこないよ。それに、次の定期便が来るの、たぶん二週間後ね」
「じゃ、チャーターしなさい。お金はいくらかかってもいいわ。カードだって…」彼女はそう言うと、肩から提げたポーチの中を探し始めたが、「ない。何で、ちゃんとここに…」
「ここ、お金、使わないよ。物々交換ね。もちろん、カードもだめよ」
「物々交換?」女は顔をひきつらせて、「なにそれ。じゃあ、どうするのよ」
「あなた、ここで仕事する。そういう約束ね。私、きいてる」
「そんなの、知らないわよ! いいわ、パパに電話して…」
「さあ、出発ね」男は女の腕をつかむと歩き出し、「早くしないと、夜になってしまうよ」
「行くって、どこによ。私は、どこにも行かないわよ。ここのホテルに泊まるから」
「ホテルなんてないよ。あなた、私の家に住む。ちゃんと、みんな待ってるね」
「待ってるって…。どういうことよ。ちゃんと説明してよ!」
 男は埃まみれの車に彼女を押し込むと、「あなたが来てくれてほんとによかったよ。今、収穫の時期。人手、欲しかったね。これから一ヵ月、とっても楽しみね」
「一ヵ月って…。これからどこへ行くのよ」女はか細い声で言った。
「そう、六時間ほど走れば、村に到着ね」そう言うと、男は猛スピードで車を発進させた。
<つぶやき>お金では手に入らないものが、見つかるかもね。がんばれ、お嬢様!
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T:003「記念写真」
 とある山の頂上付近に、一本の樫の大木が立っていた。そこからは遠くまで見渡せて、なかなかの眺めである。ここは有名な観光地でもなく、ハイキングコースにもなっていなかった。
 初夏の晴れた日。樫木の前で三脚を立てている初老の男がいた。毎年、同じ日に夫婦そろってこの場所に来て、記念写真を撮っていたのだ。もう三十年以上も続けている行事で、幸いなことに<悪天候で延期>になったことはなかった。この夫婦には二人の娘がいた。娘たちが小学生の頃までは、いつも一緒に写真を撮っていた。でも、娘たちが成長するにつれ、あまりついて来なくなった。娘たちは思っていたのかもしれない。この日は両親にとって特別な日だから、二人だけにしてあげようと。そんな娘たちもいまは嫁いで、ここ数年は夫婦二人だけに戻ってしまった。
 でも、今年はいつもと違っていた。半年前に妻が亡くなってしまったのだ。一人になってしまった男は、気が抜けてしまったように見えた。父親のことを心配した娘たちは、なにかにつけて実家に顔を出すようになった。可愛い孫たちを引き連れて。その甲斐あってか、男は元気を取り戻した。遊び回っている孫たちの笑顔を見ていると、生きる力がどこからか不思議とわいてくるのだ。
 男はもう記念写真を撮るのは止めようと思っていた。でもその日になってみると、早く目が覚めてしまってどうにも落ち着かない。妻の位牌に手を合わせて、「今日はどうしようか?」と訊いてみた。そんなこんなで、やっぱり今年も来てしまったのだ。
 男はカメラを覗いて、いつもの場所にピントを合わせた。本当ならそこには妻が立っていて、あれこれと注文をつけているはずなのに…。そう考えると、男はなんとも言えない淋しさを感じた。カバンから妻の写真を取り出すと、「さあ、撮るよ。今年も良い天気になってよかったね」とつぶやいて、カメラをタイマーに切り替えた。
 ふと、誰かに呼ばれたような気がして男は振り返った。見ると、娘たちがまだ小さな子供たちを連れてこちらへ登って来ていた。孫たちはおじいちゃんを見つけると手を振った。
「お前たち、どうしてここに?」やっとたどり着いた娘たちに男は声をかけた。
「やっぱり来てた」長女はそう言うと、「どう、私の言ったとおりでしょう」妹に向かって自慢気につぶやいた。
「はいはい。さすがお姉ちゃん。まいりました」妹は芝居がかった口調で答えると、姉妹二人で子供に戻ったように笑いあった。
 孫たちはあっけにとられている男に駆け寄ってきて、来る途中で摘んできた花を手渡した。男は孫たちのことを心配して、「大変だったろう。疲れやしなかったか?」
「大丈夫よ。私の娘だもの」次女はそう言うと、「私も小さい頃、ここに来てたじゃない」
「ねえ、いっしょに写真撮ろうよ。いいでしょう、お父さん」長女はそう言うと、子供たちをいつもの場所に連れて行き、並ばせ始めた。
「ちょっと、お姉ちゃん。そっちは私の場所でしょ。間違えないでよね」
 男はまるで昔に戻ったようで、しばらく二人のやりとりを見つめていたが、
「よし。じゃあ撮るぞ。今年は、良い写真が撮れそうだ」
<つぶやき>家族って、いるのが当たり前で…。だから、たまには抱きしめてあげよう。
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T:002「ありがとう」
 初夏の晴れた日。今日は大吉と涼子の結婚式当日。支度を終えた涼子は、花嫁の控え室でドキドキしながら式の始まるのを待っていた。大吉も一人、控え室で落ち着かない様子。二人が結婚を決意するまでには、いろいろなことがあったのだろう。
 大吉には一つだけ心残りがあった。それは、いちばん喜んでほしかった妹を、ここに呼ぶことができなかったこと。もう、七年も音信不通のままになっていた。
 控え室のドアをノックする音で、大吉は我に返った。もう式の始まる時間である。きっと式場の人が呼びに来たのだと思い、大吉は「どうぞ」と声をかけた。しかし、誰も入っては来なかった。大吉は誰かが悪戯でもしたのかと、ドアを開けてみた。
 「えっ…」大吉は思わず声をあげた。ドアの外には、きれいに着飾った若い女性が立っていたのだ。それも、見覚えのある。
「お兄ちゃん…」その女性は、恥ずかしそうにそう言って、「元気にしてた?」
「あゆみ…。おまえ……」あまりの驚きに、大吉は言葉が出なかった。
「お兄ちゃん、結婚するんだ」あゆみは控え室に入って、大吉の服装をチェックしながら、「なかなか、格好いいじゃない」
 大吉はたまっていた思いを吐き出すように、「おまえ、どこにいたんだ! お兄ちゃん、どれだけ心配したか。急に家、飛び出して。それで…、みんな…」
「ごめんね。勝手なことばっかりして…」
 あゆみは大吉の胸に飛び込んだ。大吉も優しく妹を抱きとめた。ひとしきり兄の胸で泣いたあゆみは、「お兄ちゃんに、言っておきたいことがあるの」
「そんなことより」大吉はあゆみの手を取り、「母さんに顔を見せてやれ。どれだけ会いたがっていたか」あゆみはその手を振りほどいて、「もう、時間がないの」
「なに言ってるんだ。じゃ、俺が呼んできてやるよ」
「待って! ねえ、聞いてよ。私の話を」
 大吉は、妹の真剣な表情に足を止めた。
「私、お兄ちゃんから、いろんなものをいっぱいもらってたんだよね。小学校の運動会のとき、一番大きな声で応援してくれた。中学で陸上部に入ったときも、お兄ちゃんが励ましてくれたから、最後まで走れたの。大学の受験を失敗したときも、ひと晩中、側にいてくれたよね。それなのに私…。でもね、ずっと帰りたかったんだ。帰りたかったけど…」
「もう、いいよ。おまえは…、ちゃんと帰って来たじゃないか」
「今まで、ありがとう。こんなダメな妹だったけど、ほんとに、ありがとう」
「なに言ってるんだよ。おまえは俺の大事な妹じゃないか。そんなことは…」
 大吉はドアのノックの音で目が覚めた。いつの間に眠ってしまったのだろう。ただ、妹のぬくもりがまだ手に残っているようで、どうしても夢だとは思えなかった。
 大吉のもとに訃報が届いたのは、結婚式から一週間後だった。妹の友人が遺品の整理をしていて、大吉の住所を見つけたのだ。重い病気にかかり入院して、結婚式のあった日に昏睡状態になり、数時間後に息を引き取ったそうである。
<つぶやき>大切な人って、知らない間に心の奥に入り込み、気づくとそこにいるんです。
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T:001「バー・マイロード」
 静かなジャズが流れるバーの店内。初老のマスターとアルバイトの孫娘が働いていた。ほとんどが常連の客ばかりで、落ち着ける雰囲気のある、隠れ家のような店である。
 今日は暇なようで、孫娘の真奈がカウンターの隅の席に座って、分厚い本を読んでいた。マスターは最後の客にウーロン茶を出すと、
「そろそろ、店仕舞いにしようか」と孫娘に声をかけた。
「はーい。じゃあ、表の看板、片付けてくるねぇ」真奈はそう言うと外へ出ていった。
「ちょっと見ないうちに、ずいぶんきれいになったね」ぽつりと客がつぶやいた。
「そうですかね。まだまだ子供ですよ」マスターはそう言って微笑んだ。
「僕が最後に会ったときは、まだ高校生じゃなかったかな」
「今は大学で、小難しい勉強をしているみたいですよ」
「そうか…。もうそんなに…」客は昔のことを思い出そうとしているのか、店内をぐるりと見回して、「もう三年か…。でも、この店はちっとも変わりませんね」
「そうですね。私とおなじで、変えようがありませんから」マスターは笑いながらそう言うと、一枚の写真を客の前に差し出した。
 写真を見て客の顔色が一瞬変わった。客はそっとその写真を手に取り、「幸恵…」とつぶやいて、「この写真は、あの時の…」
「はい。最後に奥さんとお見えになったとき、記念にと、お撮りしたものです。ずっと、お渡しすることができなくて」
「いつ来るか分からないのに、残しておいてくれてたんですか?」
「ええ、記念ですから」マスターはそう言うと、「また、お二人でおいで下さい」
 客は顔をくもらせて、「幸恵は、もういないんですよ」写真のなかで微笑んでいる妻をいとおしそうに見つめながら、「病気だったんです。この日は、入院する前の日で…」
「そうだったんですか。それは、失礼しました」
「入院して、一ヶ月もたたないうちに逝ってしまいました。また、この店に来ようって、約束してたんですがね」客は、悲しそうに笑みをうかべた。
 真奈が表の片付けを終えて戻ってくると、「おじいちゃん、今夜はきれいな月が出てるよ」そう言って、屈託のない笑顔をふりまいた。マスターは困り顔で、
「お客さんの前では、マスターと呼びなさい」と注意をして、カクテルを作り始めた。
真奈は「はーい。ごめんなさーい」と言って、客に笑顔を向けて、また本を読み始めた。
 客はしばらく写真を見つめていたが、残っていたウーロン茶を飲みほすと、「そろそろ、帰ろうか」とつぶやいて、立ち上がった。マスターは「もう少しだけ」と言って客を呼び止めて、カウンターにグラスを二つ並べて、作っていたカクテルを注ぎ入れた。
「僕は、アルコールは…」客がそう言うと、
「これは、店からのサービスです。奥さんのお気に入りでしたから…。ゆっくりしていって下さい。まだ、時間はありますから」
 心地よいジャズが流れる店内で、二人ですごした思い出が、心にあふれだしていた。
<つぶやき>心にしみる思い出をいっぱい残して、逝きたいものです。
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読切物語End