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T:001「憧れの人」
明日実(あすみ)は、突然編集長に呼ばれた。デスクへ行くと編集長は彼女をじっと見つめて、
「うーん。そうだなぁ、君にやってもらおうか」
明日実は何のことか分からずポカンとしていた。編集長は一冊の本をデスクに置いて、
「明日から、この作家を担当しろ。いいか」
明日実は本を見て驚いた。京塚雅也(きょうづかまさや)。今、凄(すご)く人気のある作家だ。明日実は身体が震えた。だって、彼に会いたくて出版社に入社したくらいだ。こんなに早く本人に会うことができるなんて、思ってもいなかった。
「は、はい。でも、でも、あたしなんかでいいんですか? こんな有名な作家さんに…」
「心配するな。この先生は、全く手のかからない人だ。変なわがままも言わないし、原稿だって一度も遅れたことはない。だがな」編集長は念(ねん)を押すように続けた。「くれぐれも言っておくが、余計(よけい)なことはするな。いいか」
明日実は編集長の言葉など耳に入らないみたいに、肯(うなず)きながらふわふわと自分のデスクへ戻って行った。その様子を見ていた他の編集者が編集長に声をかけた。
「ほんとに、大丈夫ですか? あいつに任せて」
「まあ、ちょっと抜けてるほうが、あの先生には合うのかもしれない。他に適任者(てきにんしゃ)がいないんだから、しばらく様子をみるしかないだろ」
編集長の心配などよそに、明日実は完全に舞い上がっていた。着ていく服を選ぶのに時間をかけ、手ぶらではいけないと差し入れを考えるのに明け方までかかった。
なぜこれほど彼女がこの作家に心酔(しんすい)しているのか。それは書いている恋愛小説もそうなのだが、表には絶対に顔を出さない神秘さもあるのだ。出版社の中で彼のことを知っている人は限られているし、その中に自分も入ることができる。彼女が浮かれるのも当然なのかもしれない。
男性経験の少ない彼女にとって、彼の書く本はまさに恋愛のバイブルのようなものだ。もし、自分がこの本の主人公のようになったら…。そう考えただけで、胸がキュンとなって――。彼女の妄想(もうそう)は際限(さいげん)なく続いていくのだ。
目覚まし時計の音で彼女は目を覚ました。寝ぼけた目で時計を見る。しばらくは何をするでもなくボーッとしていたが、突然叫び声をあげた。
「ダメダメ、あたし何してんのよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ」
明日実は猛然(もうぜん)と動き出した。手早く朝食をすませると、鏡の前に向かった。いつもなら、適当に化粧をするところだが、今日は気合いの入り方が違う。目の下のクマもどうにか誤魔化して時計を見ると、もうギリギリの時間になっていた。彼女はカバンをつかむと、一目散に駆け出した。
出版社に顔を出してから、明日実は作家の家に向かった。彼女が朝までかけて選んだ差し入れは、有名店のケーキ。これは、彼が書いた本の中にも出てくるのだ。これならきっと気に入ってくれると彼女は確信していた。編集長から渡された地図を手に、彼女の胸は高鳴っていた。それにつれて、自然と彼女の歩(あゆ)みも早くなっていくようだ。
<つぶやき>憧れの人に会える。それだけでテンションはヒートアップしてしまうのです。
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T:002「ここなの?」
「おかしいなぁ、この辺りだと思うんだけど…」
明日実(あすみ)は地図をグルグル回して、辺りをキョロキョロと見回した。だが、それらしい建物もなく、そこにあるのは雑木林? それも全く手入れとかされていない、うっそうとした森状態。明日実は、そこに小さな小道を発見した。道は曲がりくねっているようで、木々に邪魔をされて先が見えなくなっている。まるで、森に呑み込まれるような感じ。
「まさか、ここってこと?」明日実は恐る恐るその小道を入って行った。
小道は思ったほど長くはなく、すぐに開けた場所に出た。そこに、一軒の古い平屋(ひらや)が建っている。玄関の上には表札があり、「京塚(きょうづか)」と記されていた。
「えーっ、ここなの?」明日実はしばらくぼう然と立ちつくした。
彼女は小説に出てくるような、オシャレで豪華(ごうか)な邸宅(ていたく)を想像していた。それが、こんなみすぼらしくて、今にも壊れそうな……。
――明日実は気をとり直して玄関の呼び鈴を押した。しばらく待ってみる。……。だが、何の反応もなかった。もう一度、呼び鈴を押す。………。やっぱり、何の返事も返ってこない。留守のはずはない。今日訪ねることは、ちゃんと連絡してあるのだから。そっと玄関の戸を開けてみる。戸はガラガラと音をたてながら開いた。明日実は「ごめんください」と声をかけた。…………。家の中は静まりかえっている。ここで帰るわけにはいかない。だって、憧(あこが)れの京塚雅也(きょうづかまさや)がすぐそこにいるかもしれない。
明日実は家の中へ足を踏み入れた。目の前には廊下があり、その突き当たりと左右に部屋の扉が見えた。彼女はそこでもう一度声をかけ、靴を脱いで上がろうとした。ちょうどその時、右側の扉が開き男が出て来た。その男はもじゃもじゃの髪に、不精ヒゲをはやしている。着ているものと言ったら、薄汚れたTシャツに穴の開いた紺のジャージ。どう見ても、有名な作家先生には見えなかった。彼女はホッとして声をかけた。
「あの、すいません。先生はご在宅ですか? あたし、出版社から…」
男はぶっきらぼうに答えた。「遅かったですね」
明日実は腕時計を見て、「あっ、すいません。初めてなので、ちょっと場所が…」
男はじっと彼女を見ていたが、顎(あご)で左の扉を示して、「こっちで待っててもらえますか」
「はい。すいません。ありがとう…」
男は彼女の言葉を最後まで聞かずに、出て来た扉の中へ引っ込んだ。
彼女は口をとがらせて言った。「何なのよ。変なひとね」
明日実は玄関を上がると、左の扉を開けて中に入った。そこは応接室になっていた。部屋の中は奇麗に片付けられていて。と言うか、余計な飾りとか全くなかった。ほんとに殺風景な、色のない部屋だと彼女は思った。
彼女はソファに座ると、テーブルの上にケーキの箱をそっと置いた。――どのくらい待っただろう。彼女は腕時計を見て、「もう、いつまで待たせるのよ」
あれから一時間は過ぎている。明日実は待ちきれなくなって、応接室を出て男が入っていった扉をノックした。やっぱり返事は返ってこない。彼女は静かに扉を開けてみた。
<つぶやき>初めての場所へ行く時は、事前にチェックをしましょうね。そうしないと…。
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T:003「思い込み」
部屋の中は仕事場になっていた。南側の窓からは木漏(こも)れ日が入り…。目の前には、さっきの男が机に向かっている後ろ姿が見えた。明日実(あすみ)は声をかけた。でも、男は何の反応も示さない。よく見ると、その男の耳にはヘッドホンが…。これじゃ聞こえるはずないわ。彼女はそう呟(つぶや)くと、部屋に足を踏み入れた。
明日実は部屋に入ったとたん、鼻をつまんだ。この臭(にお)いは、タマネギが腐ったような…。彼女は部屋の中を見回してみた。すると、ソファの上とか積み上げられた本の間に、服が脱ぎ捨てられていて、その中には下着のようなものまで見え隠れしていた。彼女はたまらず窓へ走った。そして、窓を全開に開け放つ。部屋の中へ爽(さわ)やかな風が吹き込んできた。
「あーっ、死ぬかと思った」明日実は大きく息をついた。
彼女が振り返ると、散乱(さんらん)した原稿用紙の中に男が立っていた。男は恐い顔をして言った。
「君は、僕の邪魔(じゃま)をしにきたのか。それとも…」
明日実は、そこで事の重大さを理解した。ここは、とりあえず謝っておかないと。
「す、すいません。でも、この部屋、あんまり臭(くさ)かったもんだから」
彼女は時に、余計なことを口走(くちばし)る。今がその時であることを、彼女は全く気づいていなかった。男は無言で原稿用紙を拾い始めた。彼女も慌てて、「あたしもやりますから」と散らかった原稿用紙を拾い集める。全てを集め終わると彼女は言った。
「今時、手書きの原稿なんて。パソコンとか使わないんですか?」
「これが僕のやり方だ」男は、彼女から原稿を受け取ると、また机に向かった。
「あの、先生はどこかへお出かけですか?」
「先生?」男は振り返ると言った。「ここには先生なんていない」
「えっ、どういうことですか? あたし、昨日、お電話して…」
「ここは僕の家で、僕は今、仕事をしている時間なんだ。邪魔しないでくれ」
「はあ…」彼女はキョトンとしていたが、突然大声を張りあげた。
「うそっ! あなた、京塚(きょうづか)先生? あの、あの、有名な…」
「だったらどうだって言うんだ。こんな汚い格好をしてるから、そうは見えなかったか」
「ああっ、すいません。想像してたのと、全然違ってたんで…」
「分かったら、とっとと出てってくれ」
明日実は応接室へ戻ると、ソファにどっと腰かけた。まさか、初対面がこんな最悪な形になるなんて。彼女は頭をかかえてしまった。もし憧れの先生に嫌われたら、間違いなく担当からはずされて…。そしたら、そしたら――。でも、彼女はめげなかった。
「きっと大丈夫よ。先生は、そんな度量(どりょう)の狭(せま)い人じゃないはず。だって、あんな素晴らしい作品を書いてるんだから。よし、まだ挽回(ばんかい)のチャンスはあるわ」
時に彼女は、自分に都合のいい思い込みをする時がある。それが的(まと)はずれであることを、彼女が気づくはずもなく。ますますトンチンカンな方向へと進んでいくのだ。
どのくらいたったろう。腕時計を見ると、もう四時を回っていた。お腹がグーッと鳴る。彼女はお昼を食べていないのに始めて気がついた。その時、突然ドアが開いた。
<つぶやき>思い込みをしてることって、誰にでもあるのかもしれません。あなたにも…。
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T:004「スケジュール」
京塚(きょうづか)は書き上げた原稿を明日実(あすみ)の前に置いた。そして、さっきの事はまるで気にしていないかのように、事務的な口調で言った。
「今週分の原稿です。よろしくお願いします」京塚は何のためらいもなく頭を下げた。
明日実は驚いた。こんな駆け出しの編集者にそんなことをするなんて。
「いえ、あの…。あたしこそ、すいませんでした」
明日実は立ち上がり、深々と頭を下げる。そして、差し入れのケーキを京塚の方へ押しやり、「これ…、お口に合うかどうか。ケーキなんです。先生の作品にも出てくる…」
その時、間の悪いことに明日実のお腹が、またグーッと声を上げた。生理現象で彼女を責めることはできないが、間違いなく京塚の耳にまで届いていた。
「それは、君が食べるといい」京塚は出て行こうと立ち上がった。
明日実は彼を引き止めるように言った。「あの、まだ怒ってるんですか?」
「いや。僕はケーキは食べないんだ。君は、前の人から何も聞いてないのか?」
明日実はぎこちなく肯(うなず)いた。前任者(ぜんにんしゃ)が誰だったのか、彼女はまったく知らないし、聞かされてもいないのだ。そう言えば、今朝も編集長が何か言っていたが、それが何だったのか、今となってはまったく思い出せない。
京塚はそのまま何も言わずに応接室をあとにした。残された明日実は、ソファに倒れ込みじたばたしながら、「何でよ。何で、こうなるのよ!」と子供のように悔(くや)しがった。間の悪いことは続くものだ。そんな姿を、すぐに戻って来た京塚にバッチリ見られてしまった。京塚と目が合ったとき。明日実は顔から火が出たみたいに熱くなり、全身から冷たい汗が吹き出るのを感じた。
京塚は何も見なかったように振る舞った。でも、明日実は思った。あたしのこと絶対に変な女だと思ってる、と。京塚は一枚の紙を明日実に渡して言った。
「これが、僕のスケジュールです。仕事をしている間は、邪魔(じゃま)しないで下さい」
その紙には、一週間分のスケジュールが分刻みに細かく書き込まれていた。明日実は目を細めた。京塚はさらに続ける。
「そこに、原稿を取りに来てもらう時間も書き込んであります。次からは、ちゃんと守って下さい。でないと、今日みたいにずっと待ってもらうことになりますから」
「は、はい。そうなんですか…」
明日実は食い入るようにスケジュールを見つめてから、何かを思いついたように言った。「じゃあ、仕事の時間以外で、お邪魔してもいいでしょうか?」
「それは、構わないが。話し相手には…」
「いえ、いいんです。それは、大丈夫ですから」
出版社では、編集長がイライラしながら待っていた。明日実の顔を見たとたん、編集長の雷が部屋中にとどろいた。でも、明日実が原稿を見せると編集長の怒(いか)りもおさまり、
「おう、そうか。ご苦労さま。で、先生とは、うまくいったのか?」
明日実は元気に微笑むと、「はい、任せてください」
<つぶやき>新人は恐いもの知らずと言います。それを生かすも殺すも、本人次第ですが。
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T:005「空回り」
「小林(こばやし)! ちょっと来い」編集長はデスクに戻ると、大声で呼んだ。
近くにいた編集者が答えて、「小林さんなら、いませんよ」
「どこ行ったんだ?」
「何か、朝イチで京塚(きょうづか)先生の所へ行くとかって、連絡が」
「何だって。今日は行く日じゃないだろ。あいつ、なに考えてんだ。すぐに小林に電話!」
「あっ、はい。分かりました」
編集者は明日実(あすみ)の携帯に電話をかけた。だが、電源が切られているようでつならがない。編集長の叫び声がとどろいたのは言うまでもない。
「編集長、また血圧が上がりますよ」女性の編集者がお茶を出しながら言った。
「わかっとる。あのバカ。余計なことするなって、あれほど言ったのに」
その頃、明日実は京塚の家の前にいた。大きな荷物を抱えている。彼女は腕時計を確認。ちょうど九時をさそうとしていた。彼女が玄関を見つめていると、扉がガラガラと開いて京塚が顔を出した。目の前に明日実がいるので、彼は思わず後退(あとずさ)る。
「おはようございます!」明日実は朝から元気だ。「すごい。時間通りなんですね」
「君は…。こんなに早く、何だ?」予期(よき)していないことに、京塚は動揺(どうよう)していた。
「散策(さんさく)に行かれるんですよね。あたし、その間、お留守番してますから」
「しかし、それは…、困る」
「大丈夫ですから。ほら、スケジュール通りにしないと。行ってらっしゃい」
明日実は躊躇(ちゅうちょ)している京塚の背中を押してやった。京塚は後ろを何度も振り返り、出かけて行く。明日実は彼を見送ると、腕まくりをして荷物を持ち、家の中へ入って行った。
お昼を少し回った頃、京塚はいつも通り帰って来た。玄関を開けると、美味しそうな匂いが漂ってきた。彼は驚いて、キッチンへ駆け込んだ。
「お帰りなさい」明日実は嬉(うれ)しそうに言うと、「すぐに食べられますから、手を洗ってきて下さい。でも先生って、ほんとスケジュール通りなんですね。すごい」
「君は、何をしてるんだ。勝手に、こんなことをして…」
「あたし、驚いちゃいました。仕事部屋がグチャグチャだったから覚悟してたんです。でも、他の部屋はすごくきれいにしてるんですね。このキッチンだって…」
「まさか、あの部屋に入ったのか?」
京塚は仕事部屋に駆け込んだ。足の踏み場もないくらい散らかっていたのに、見違えるように片づいている。全てのものが有るべき位置に戻され、埃ひとつ見つからない。京塚はその場に崩れ落ちた。京塚の背後から明日実の声がした。
「大変だったんですよ、ここまでするのに。どうしてこの部屋だけ、あんなに汚くしてたんです。もう信じられない。でも、これで執筆(しっぴつ)もはかどりますよね」
京塚は声を荒(あら)らげて言った。「何てことをしてくれたんだ! 出てってくれ。もう二度とここへは来るな! 来ないでくれ!!」
京塚は、力任せに明日実を突き飛ばす。彼の顔は哀しみにゆがんでいた。
<つぶやき>おせっかいも程ほどにしておかないと。相手を傷つけることもあるんです。
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T:006「悲しい過去」
「どういうことだ。説明してみろ!」
編集長の怒鳴(どな)り声がひびいた。明日実(あすみ)はずっと頭を下げている。
「何やらかしたんだ。京塚(きょうづか)先生をあんなに怒らせるなんて。お前、俺の話を聞いてたのか。俺は、余計なことはするなと言ったよな。それを…」
明日実は顔をあげて、「あの、本当に申し訳ありませんでした。でも、あたしは少しでも先生の役に立ちたかったんです。だから、食事を作ったり、掃除なんかをして」
「お前は家政婦か。仕事も半人前(はんにんまえ)のくせして…」
そこへ編集者の女性がお茶を持ってきて、「編集長、血圧上がっちゃいますよ」
「わかっとる。もう、口をはさまないでくれ」
編集長はお茶を口にする。ふっと気分が和(やわ)らいで、「うーん、いいお茶だ。有難(ありがと)う」
「いいえ。でも、この娘(こ)、佐恵子(さえこ)さんみたいですね。何だかそっくり」
「ああっ、俺は人選(じんせん)を誤(あやま)ったかなぁ。こいつが、こんなことまでするとは」
「佐恵子さんって?」明日実は気になって、先輩に訊いてみた。
「京塚先生が売れ始めた頃に担当してた人よ。あなたの先輩ね」
女性編集者は編集長に言った。「この娘(こ)にも、教えてあげた方がいいんじゃないですか?」
編集長は明日実を資料室へ連れ出した。その部屋の奥まったところにある扉を開けると、編集長は中へ入るように促(うなが)した。明日実はこんなところに部屋があるなんて知らなかった。部屋の中は五メートル四方ほどで、壁には棚があり、本や写真が置かれていた。
編集長は一枚の写真を指さして、「これが、川島(かわしま)佐恵子君だ」
その女性は明日実とそんなに変わらない年齢(とし)に見えた。その微笑みからは、彼女の優しさや暖かさが伝わってくるようだ。
「この方、今どうされてるんですか? あたし、会ってみたいです」
「それは無理だな。五年前に亡くなったんだ。交通事故だった」
編集長は重い口を開いて、「彼女が亡くなったとき、京塚先生はひどく落ちこんでな。筆を折るとまで言ったんだ。きっと、川島君は先生の世話を焼いていたんだな。お前みたいに…。だがな、ここでやめさせるわけにはいかなかった。先生の作品を待ってる読者がいるんだ。俺もその中の一人だ。何としてでも書いてもらわないと」
「それで…。作風が変わったんですね。あたしも、愛読者の一人なんです」
「そうか…。あの先生のスケジュール、君も知ってるだろ。前はあんなんじゃなかったんだ。――川島君が事故にあったとき、先生の家に向かう途中だったんだ。先生に突然呼び出されてな。彼女、慌てて出て行ったんだ。先生は、そのことを悔(く)やんでいるんだろう」
「慌ててたから、事故にあったんだと…」
「実際は、車の方が悪かったんだ。飲酒運転で歩道に突っ込んできた。先生のせいじゃない。防(ふせ)ぎようなんて、なかったんだ」
明日実は、昨日のことを思い出していた。「きっと、あの仕事部屋には、彼女との思い出が詰まってたんですね。それなのに、あたしったら……」
<つぶやき>大切な人を失う哀しみは計り知れない。でも、前に進まないと。生きて…。
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T:007「旅立ち」
翌朝。明日実(あすみ)は京塚(きょうづか)の家の前にいた。きっと担当から外されることになるだろう、と彼女は覚悟していた。その前に、ちゃんと先生に謝りたかったのだ。
時間は九時になろうとしていた。昨日の今日である。どんな顔で京塚に会えばいいのか…。逃げ出したい気分になるのを振り払うように、彼女は身体を震わせた。心臓の鼓動はどんどん速くなる。喉(のど)がやたら渇(かわ)いてきた。明日実は腕時計を見た。
おかしい。腕時計が壊れてしまったのか、九時を五分も過ぎている。いつもなら、とっくに出て来て…。彼女の頭に、最悪な光景が浮かんだ。「まさか…。自殺とか」
明日実は玄関の扉を勢いよく開ける。そして、手間取りながら靴を脱ぐと、仕事部屋へ駆け込んだ。部屋の中は昨日のままになっている。ふと、ゴミ箱に目が止まった。中には何も書かれていない原稿用紙が束になって捨てられている。
明日実はキッチンからトイレにいたるまで、全ての部屋を開けて見た。でも、京塚の姿を見つけることはできなかった。彼女は玄関に座り込んだ。先生の行きそうな場所を必死に考えてみたが、担当になったばかりで思いつくはずもなかった。
そんな時だ。どこかからパチパチと音が聞こえてきた。明日実が外へ飛び出すと、煙の臭いが鼻をくすぐる。ぐるりと周りを見回すと、家の裏手の方から白い煙が上がっていた。明日実は慌てて家の裏手へ走った。そこは小さな裏庭になっている。そこで、京塚が何かを燃やしていた。彼女は駆け寄り、息を切らしながら言った。
「な、何してるんですか! もう、あたし…、心配したんですから!」
驚いたのは京塚の方かもしれない。裸足(はだし)のままの彼女を見て、
「君は、どういうつもりだ。僕には全く理解できない」
ここで始めて靴を履(は)いていないことに気づいた彼女は、「いや、これは、ちょっと、いろいろ…、あれで…、だから…」しどろもどろになってしまった。
十分後、二人は応接室にいた。裸足で外を歩いたものだから、明日実は足の指を切ってしまった。京塚は、彼女の足に絆創膏を貼りつけると、
「これでいい。ちゃんと消毒もしたし、大丈夫だろう」
明日実はバツが悪そうに、「あ、ありがとうございます。あの、先生…。昨日は、すいませんでした。あたし、勝手なことをして…」
「いいんだ。もういいんだ」京塚は何だかさっぱりしたような感じで、「君のおかげかもしれない。ありがとう。何だか、肩の荷が下りたような気がするんだ。これで前へ進める」
京塚は仕事部屋から原稿を持って来て、テーブルの上に置いて言った。
「連載の最終話です。編集長には話してありますので、持って行って下さい」
「それって、まさか…。もう、書かないってことですか?」
「明日から旅に出るんです。いろいろ考えたいこともあるし」
「ダメです。先生の作品を待ってる読者がいるんですよ。たくさんいるんです」
「そうですね」京塚はしばらく考えてから、「いつになるか分からないけど、また書きたくなったら書きますよ。僕には、他に何の取り柄(え)もありませんから」
<つぶやき>自分を見つめるには、旅をするのもいいですね。新しい道が見えてくるかも。
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短編物語End