書庫 短編物語 メビウスの輪
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T:001「変死体」
夜の公園。数時間前まで子供たちの歓声(かんせい)が聞こえていた。今は黄色いテープが張られ、警察関係者が忙しく動き回っている。照明が昼間のように辺りを照らしていた。
神崎(かんざき)警部はうんざりした顔で黄色いテープの下をくぐった。神崎を迎(むか)えたのは、まだ新人の曽根(そね)刑事だ。曽根は緊張した顔で言った。
「通報があったのは一時間くらい前です。現場は、まだそのままに…」
「そうか。今日は何て日だ。これで三人目だぞ。これが最後にして欲しいよ」
神崎警部は一人言(ひとりごと)のように呟(つぶや)いた。彼が愚痴(ぐち)をこぼすのも無理はない。さっきまで別の現場にいたのだ。そこで連絡を受けて、取るものも取りあえず駆(か)けつけたのだ。
「また変死体(へんしたい)じゃないだろうな。身元(みもと)が分かるものは――」
神崎警部はシートが張られた現場に入って口をつぐんだ。目の前のベンチに男が座っていて、今にも立ち上がりそうな…。とても死体には見えないのだ。警部は死体に手を合わせると、じっくりと観察を始めた。曽根刑事が急に思い出したように報告を始めた。
「あの、近所の子供たちの話なんですが…。夕方、この被害者が、ここにいるのを見たと言っています。ずっとここに座っていたので、気味(きみ)が悪くて憶(おぼ)えていたんです」
「夕方というと、三、四時間前ってことか」
警部は近くにいた鑑識(かんしき)に声をかけた。「ここ、もういいかな?」
「ええ、もう済(す)んでます。後は、被害者を運び出すだけです」
それを聞いた警部は、被害者の肩(かた)を軽く押してみた。すると死体はベンチに倒(たお)れ込んだ。
「まただ」警部はいまいましそうに呟いた。「何で、死後硬直(しごこうちょく)してないんだ。まるで、ついさっきまで生きていたみたいに…。すぐに検視(けんし)に回してくれ。頼んだぞ」
数時間後、神崎警部は捜査本部にいた。最初の被害者の検死(けんし)報告によると、外傷(がいしょう)はなく、薬物反応も認められなかった。だが病死と判断できる材料もなく、結局、殺人を含めての捜査となった。難問(なんもん)なのは、三人の被害者の身元を示すものが何もないことだ。衣服のほかは、所持品もなくお手上げ状態。警部は現場付近の防犯カメラを全て洗い出すように指示を出した。被害者の足取りや、三つの事件に共通するものが見つかるかもしれない。
神崎警部は目を閉じて、じっとデスクに座っていた。いつものことなのだが、こうやって頭の中を整理して、何が起きたのかを推理(すいり)しているのだ。時間は夜の十二時になろうとしていた。けたたましく電話のベルが鳴った。警部は素早く受話器を取る。
「神崎だ。…ああ、曽根君か。検視は終わったのか?」
電話の相手は曽根刑事だった。検視を依頼した大学病院に張りつかせていたのだ。曽根はかなり取り乱していた。早口でまくしたてるので何を言っているのか聞きとれない。
「落ち着け。何を慌(あわ)ててるんだ。分かるように言ってくれ」
受話器の向こうの曽根は息を整(ととの)えると、はっきりと聞きとれる声で言った。
「それが、消えたんです。ちょっと目を離しただけなのに…」
警部は怪訝(けげん)そうな顔をして言った。「何の話だ。何が消えたって――」
「死体ですよ! それも、三人とも。運び込んだ死体が、消えてなくなったんです」
<つぶやき>これはまだ序章にすぎない。これから何が起こるのか、誰にも分からない。
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T:002「消失」
明け方近くになって曽根(そね)刑事が捜査本部に戻ってきた。鑑識(かんしき)も入れたのだが、消えた三つの死体について何も手掛(てが)かりは得(え)られなかった。大学の防犯カメラにも不審者(ふしんしゃ)は捉(とら)えられていなかったし、大きな荷物を運び出した形跡(けいせき)も全くない。
神崎(かんざき)警部は、曽根の報告を聞き終えると、目頭を押さえてため息をついた。
「ご苦労だった。君も少し休みたまえ。私もちょっと横になるよ。長い一日だったな…」
警部は曽根を帰らせると、窓の外を見た。東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
神崎警部が捜査本部に顔を出したのは朝の十時を少し過ぎた頃だ。警部を待ちかねたように、刑事たちが集まってきた。だが、これといって何の進展(しんてん)もなかった。警部が自分の席に腰(こし)を下ろすと、デスクの上にコーヒーカップが置かれた。
「ああ、ありがとう。助かるよ。ちょうど飲みたかったんだ」
コーヒーの香(かお)りに誘(さそ)われて振り向くと、そこには三十代くらいの女性が立っていた。
「何だ、君か…」警部は少し驚いたように言った。
「若い婦警(ふけい)さんじゃなくてごめんなさい」
女性は皮肉(ひにく)たっぷりに言うと、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。彼女は神崎直子(なおこ)。大学の准教授(じゅんきょうじゅ)で検死(けんし)を依頼(いらい)していた。二人の苗字(みょうじ)が同じなのは、従兄妹(いとこ)どうしなのだ。歳(とし)がわりと近いせいもあって、直子は警部のことを兄のように思っていた。警部は冗談半分(じょうだんはんぶん)に、
「死体が消えたんだって。家へ帰ったのかもしれないな」
「バカなこと言わないで。内臓(ないぞう)をちょん切った人間が生き返るわけないでしょ。もう、早く見つけてよ。あれは、普通の死体じゃないんだから。詳(くわ)しく調べたいの」
「そう言われてもな…。手掛かりが全くないんだ。そっちはどうなんだ? 何か――」
「全部なくなってるの。死体だけじゃなくて、写真もサンプルもメモ書きしたやつも。それに、パソコンに入れておいたデータまで完全に消されてるのよ」
「それは徹底(てってい)してるな。よほど知られたくなかったんだろう。秘密主義者ってやつだ」
「いい加減(かげん)にして。真面目に捜す気あるの?」
直子は口をへの字に曲げた。彼女はちょっと気の強いところがある。それだからか、未(いま)だに独身を通している。浮(う)いた話もきかないので、警部も気を揉(も)んでいた。
「もちろんあるさ。今だって、みんな走り回ってる。ところで…」
警部は自分の頭を指さして、「ここには残ってるんだろ。死体のことを教えてくれ」
直子は少し考えてから、「そうねぇ、確かに見た目は普通の死体よ。外傷(がいしょう)もなかったし、病変(びょうへん)も見当たらなかった。死因を特定できるようなものは…。でもね、何か違うのよ」
直子は両手の指を動かして感触(かんしょく)を確かめるように言った。
「うまく説明できないんだけど、人の身体を触(さわ)ってるって感じがしなかったの」
「それは、死後硬直(しごこうちょく)が起きなかったことと関係があるのか?」
「分からないわ。私もあんな死体は初めてなんだから」
警部は目を閉じてしばらく考え込んだ。そして目を開けると、ほとんどひとり言のように呟(つぶや)いた。「人間じゃないってことか…。まさか、そんなこと」
<つぶやき>謎を解く鍵はあるのでしょうか。見えないところで何かが起きているのかも。
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T:003「謎の女」
「ちょっと、なに言ってるのよ。ふざけないで」
神崎(かんざき)警部が呟(つぶや)いた言葉を聞いて、直子(なおこ)は呆(あき)れた顔をして言った。
「人間じゃないなんて、そんな非科学的なこと言わないでちょうだい」
警部はしまったという顔をして、「悪かったよ。そんなつもりじゃ――」
神崎直子は、ガチガチのリケジョである。この世界で起こるあらゆる現象は、ひとつの美しい方程式(ほうていしき)で説明できると信じていた。だから、オカルトや都市伝説の類(たぐ)いの眉唾物(まゆつばもの)の話を聞くだけで、イライラと機嫌が悪くなってしまうのだ。彼女は確信していた。どんなに不思議に思えることでも、ちゃんと検証(けんしょう)すれば説明のつかないことはないはずだ、ということを――。
この手の議論(ぎろん)をしても勝ち目のないことは、警部は何度も経験済(ず)みである。さてどうしたものかと考えていると、曽根(そね)刑事が顔を出した。直子を見るなり駆(か)け寄って来て、
「すいませんでした。僕が、僕が目を離したばっかりに…」
深々(ふかぶか)と頭を下げた。曽根は生真面目(きまじめ)な青年で、刑事になって初めての事件だった。それなのにこんな失態(しったい)をしてしまって、責任を感じていたのだ。
これには、警部も驚いた。だが、もっと驚いていたのは直子の方だ。彼女は目を丸くして、この事態(じたい)にどう対処(たいしょ)したらいいのか…。何しろ普段(ふだん)の彼女は、肩肘(かたひじ)張って周(まわ)りの人間を挑発(ちょうはつ)したり、近寄りがたい壁(かべ)のようなものを無意識に作っていた。だから、彼女に接(せっ)する人たちはどこかよそよそしく、まともに彼女に向き合う人は一人もいなかったのだ。まさに異星人(いせいじん)のような曽根の実直(じっちょく)な態度に、彼女は戸惑(とまど)うばかりである。
その様子を微笑(ほほえ)ましく見ていた警部は、直子に助け船を出した。
「まあ、いいさ。失敗は誰にだってある。俺だって、何度失敗したか――」
「そうね。ほんとにそうよ」直子はここぞとばかり、「子供の頃なんか、何度も何度も――」
「おい、その話はいいだろう。余計(よけい)なことを言うなよ」
警部にもよほどの失敗があったのだろう。直子はちょっと舌(した)を出して口を閉じた。
――警部はあらためて曽根に何があったのか訊(き)いてみた。曽根はその時のことを思い出しながら言った。
「検視(けんし)が終わって、安置室(あんちしつ)に遺体(いたい)が運ばれて…。僕はその部屋の前で検案書(けんあんしょ)ができるのを待ってたんです。そしたら、携帯(けいたい)が鳴(な)って…」
「おっ、恋人からの電話か? いいよな、若(わか)いもんは」
口を挟(はさ)んだのは松野(まつの)刑事だ。定年を間近に控(ひか)えたベテラン刑事で、柔和(にゅうわ)な顔立ちと穏(おだ)やかな口調(くちょう)で誰からも慕(した)われていた。曽根は慌(あわ)てて否定して、
「そ、そんなんじゃありません。全然知らない人だったんです」
警部は興味(きょうみ)を示(しめ)して、「で、それから…。相手はどんな人物だ。どんな話をしたのかね」
「相手は、声からすると、若い女性でした。それが、変なことを言うんです。メビウスの輪(わ)に気をつけろ。迷宮(めいきゅう)に近づくな…。僕は、何のことなのか訊いてみましたが、何も言わずに切られてしまって。それから、部屋の前に戻ってみると、扉が少し開(あ)いてたんです。変だなと思って、遺体を確かめてみると、消えてたんです」
<つぶやき>謎の女性の出現で、これから先、事件はどんな展開を見せるのでしょうか。
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T:004「手掛かり」
神崎(かんざき)警部は小さく息を吐(は)くと、曽根(そね)刑事に訊(き)いた。
「どのくらい、その場から離れていたんだ?」
「そうですね」曽根は少し考えて、「ほんの二、三分だと思います。すぐ戻りましたから…」
「確か、あそこの安置室(あんちしつ)…、出入口は――」
警部の言葉尻(ことばじり)をとらえて神崎直子(かんざきなおこ)が口を挟(はさ)んだ。「ひとつだけしかないわ。そんな短い間に死体を三つも運び出すなんて、どうやったのかしら?」
「そうなんですよ。僕もそこが引っかかっているんです」
曽根は勢い込んで言った。「いくら何でも、気づかないはずはないんです」
「本当に消えたってことか…」
警部はそう呟(つぶや)くと、ハッとして直子の方を見た。直子は頬(ほお)を膨(ふく)らまし、不機嫌(ふきげん)そうな顔をしていた。警部は愛想笑(あいそわら)いをして、自分の頬を叩(たた)いた。その時、松野(まつの)刑事が口を開いた。
「あの、ちょっと見てもらいたいんですが…。気になる女が映(うつ)ってるんですよ」
松野刑事は、昨夜から防犯カメラの映像をチェックしていた。警部は勢いよく立ち上がると、デスクに置かれたモニターのところへ行った。松野はモニターの前に座っている刑事に、録画の再生をするように合図(あいず)して、
「これが、最初に死体が発見された川原(かわら)の、すぐ近くにある橋(はし)を映したものです」
まだ早朝なので車や人の通行はほとんどなかった。薄暗い中で、橋の外灯(がいとう)があたっている所だけがはっきり見えている。画面の手前から、橋を渡っていく人影が現れた。
「ここからです。よく見ててくださいよ」
松野がモニターを指(ゆび)さした。その人影は外灯の所まで来ると立ち止まった。明かりの中に映し出されたのは、白っぽいワンピースを着た髪の長い女。その女は突然振り返って、こちらの方を見つめる。それはまるで、モニターの中から反対に見つめられている感じがした。女はすぐに向き直ると、橋を渡って暗闇(くらやみ)に消えて行った。松野は次の指示をして、
「いまの、覚(おぼ)えててくださいよ。次のは、二件目の死体が発見されたオフィスビル一階の出入口の映像です。一瞬(いっしゅん)ですので、見逃(みのが)さないでください」
昼の時間なのだろう、ビルの出入口にはサラリーマンやOLの姿が大勢(おおぜい)行き交っていた。その中で、どこから現れたのか白いワンピースの女がビルを出て行く姿が…。やはり髪の長い女で、さっきの女と同一人物のように思えた。松野はまた次の指示をして、
「これが三件目。公園の入口の所にあるカメラです。子供に交(ま)じって女が出て行きます」
子供たちが駆け出していくすぐ後に、白のワンピースに髪の長い女が通り過ぎた。――三件の事件現場近くで、同じ女が映っているなんて。偶然(ぐうぜん)とは考えにくい。
松野は警部に向き直ると、「いずれも、死体発見の一、二時間前の映像です。これだけで犯人とは断定(だんてい)できませんが、何か関係があるのかも知れません」
「そうだな」警部は肯(うなず)きながら、「他の場所の映像も調べてくれ。女の足取(あしど)りが分かるかもしれない。今はどんな些細(ささい)なことでも、手掛(てが)かりが必要なんだ」
その場にいた刑事たちは大きく肯き、それぞれの捜査に飛び出して行った。
<つぶやき>この女の登場で捜査は進展するのでしょうか? 謎は深まるばかりですね。
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T:005「新たな事件」
刑事たちの努力も虚(むな)しく、それから一週間たっても何の手掛(てが)かりも見つからなかった。現場近くで聞き込みをしたが、白いワンピースの女の目撃(もくげき)証言は得(え)られなかったし、他の防犯カメラの映像にも女の姿は残されていなかった。あの女はどこへ行ってしまったのか…。消えた三つの死体についても、何の進展(しんてん)もなかった。完全に捜査は暗礁(あんしょう)に乗り上げた。
そんな時だ。別の殺人事件の連絡が入った。神崎(かんざき)警部をはじめ、その場にいた刑事たちに緊張(きんちょう)が走った。警部は、刑事たちを引きつれて現場に急いだ。
現場は繁華街(はんかがい)の中にある小さな公園。その植え込みの中に男が仰向(あおむ)けに倒れていた。死体を確認した警部は、ホッと胸をなで下ろした。不謹慎(ふきんしん)なことだが、率直な感情だった。他の刑事たちも同様のようである。
今度のやつは、今まで続いていた不可解(ふかかい)な死体ではなく、見ただけではっきりと殺人と分かるものだった。倒れている男の腹には何カ所も刺(さ)し傷があり、着ているワイシャツは真っ赤に染(そ)まっている。
男の所持品を調べていた警部は、名刺入れに目を止めた。中を見てみると、〈クラブ メビウス 篠崎亮(しのざきりょう)〉と書かれている名刺が数枚入っていた。警部は首をかしげた。クラブ・メビウス…、どこかで聞き憶(おぼ)えのある――。
その時、横から覗き込んでいた曽根(そね)刑事が声をあげた。
「これって、僕が…、あの、おかしな電話の女が言ってたのと――」
「メビウスの輪か!」警部は勢(いきお)い込んで言った。「まさかとは思うが、あの事件と関係があるかもしれんな。調べてみる価値(かち)はありそうだ」
名刺に書かれていた住所は、ここからそんなに離れてはいなかった。警部は、他の刑事たちに指示をすると、曽根刑事を連れて現場を離れた。
時間は朝の十時を過ぎた頃。飲み屋などが入っている雑居(ざっきょ)ビルが建ち並ぶ通りは、人もまばらで夜の賑(にぎ)やかさが嘘(うそ)のようだ。二人は、とあるビルの前で立ち止まった。一階の店舗(てんぽ)はシャッターが降ろされていて、その横に狭(せま)い階段が上へ続いていた。曽根刑事がビルを見上げて言った。
「ここですよ。看板(かんばん)があります。二階のようですね」
小さな看板が、申し訳ていどについていた。二人は狭い階段を上がって行った。二階に着くと、目の前に重厚(じゅうこう)そうな扉(とびら)があった。扉には「クラブ メビウス」とプレートが付いている。こんな時間に誰かいるとは思えないが、警部は扉を叩いてみた。
何度か繰り返してみたが、中からは何の反応もなかった。最後に、警部は扉の取っ手を回してみた。すると、取っ手が動いて扉が開(ひら)いた。二人は顔を見合わせて、ゆっくり扉を開けると中へ入った。店内は真っ暗だ。外からの明かりで何とか店内の様子が分かった。警部は声をあげた。
「誰かいませんか! 警察です。ちょっとお伺(うかが)いしたいことがありまして…」
店内は静まり返っていた。警部は曽根刑事に明かりをつけるように目配(めくば)せした。曽根は手探りでカウンターの方へ向かった。警部は店の奥へと進んで行った。すると扉でもあるのか、下の方に明かりが洩(も)れているのが見えた。警部は曽根刑事に合図(あいず)した。
<つぶやき>さあ、誰かいるんでしょうか? 何か手掛かりが見つかるといいんですが…。
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T:006「女の子」
神崎(かんざき)警部はゆっくりと明かりの方へ近づいて行った。――足音をしのばせてドアの前まで来ると、ドアの取っ手に手を伸(の)ばした。その時だ。突然(とつぜん)ドアが開いて、部屋の中から黒い影(かげ)が飛び出してきた。その拍子(ひょうし)に、警部はドアに押されて態勢(たいせい)を崩(くず)された。
警部は叫(さけ)んだ。「止まれ! 止まるんだ!」
それと同時に、店の明かりが点いて曽根(そね)刑事が出口の前に駆(か)けつけた。黒ずくめの人物は一瞬(いっしゅん)躊躇(ちゅうちょ)したが、曽根に向かって突っ込んでくる。曽根も、新米(しんまい)といえども一応(いちおう)刑事である。向かってくる相手を両腕(りょううで)で押さえて踏(ふ)みとどめる。と、そのはずみで相手の黒い帽子(ぼうし)が床(ゆか)に落ちた。すると、黒髪(くろかみ)がはらりと落ちて来て曽根の手にかかった。曽根は、思わず力を緩(ゆる)めてしまった。相手はチャンスとばかり、曽根の足を思いっ切り踏んづけた。
曽根は「あぅ」と声を上げたが、痛みをこらえて、相手を床に倒(たお)してその上にのしかかった。曽根の手が相手の胸(むね)を押さえつける。その柔(やわ)らかな感触(かんしょく)に曽根が気づいたとき、女性の悲鳴(ひめい)があがった。曽根は、思わず胸から手を放した。女の子の声が店内に響(ひび)き渡った。
「どこさわってんのよ! この変態(へんたい)おやじ!」
相手は女性、それもどう見ても高校生ぐらいに見える。彼女に睨(にら)まれた曽根は、たじろいでしまった。どうやら、女性にはめっぽう弱(よわ)いのかもしれない。それはさておき、警部は女の子を立たせると、店のソファに座らせた。女の子は、さっきまでの威勢(いせい)のよさはなくなり、口をギュッと結(むす)んで、不安そうな目をしていた。
警部は彼女のそばに座り、優しく話しかけた。
「君に、訊(き)きたいことがあるんだけど、教えてもらえるかな?」
女の子はちらっと警部の方を見たが、ますます顔をこわばらせて床へ目を落とした。警部は、彼女の気持ちを和(やわ)らげるように言った。
「さっきはすまなかったね。こいつを許(ゆる)してもらえるかな?」
警部は曽根の方を見てから、「これでも、けっこう良い奴(やつ)なんだよ。まあ、女性にモテたって話は聞かないけどね。どう見ても、女性に好かれるタイプじゃないだろ?」
曽根は抗議(こうぎ)するように、「警部。そ、それは…、言いすぎです。僕は、これでも…」
二人のやりとりを見て、女の子は思わず微笑(ほほえ)んだ。そして、警部に同意(どうい)するように、
「ほんと、どう見たって良い所なんてないわ」
曽根は、「君には関係ないだろ。だいたい、君が逃げたりするから、ああいうことになるんだ。それに、僕は変態でもないし、おやじでも――」
「まあまあ、その辺にしとけ」警部は曽根をなだめると、彼女に向き直って言った。
「こっちも、これが仕事でね。君には、いろいろと質問しなくちゃならない。それは、分かってもらえるかな?」
女の子は観念(かんねん)したように答えた。「捕(つか)まっちゃたんだから、仕方(しかた)ないわね。いいわよ。でも、何でも話すかは、おじさんの質問しだいだけど」
「いや、手厳(てきび)しいねぇ。おじさんも、気をつけて質問をしなくちゃなぁ。じゃあ…、まず、君の名前から教えてもらえないかな?」
<つぶやき>この娘は何者なのでしょう。そして、一連の事件とどう関わっているのか…。
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T:007「キューブ」
女の子はちょっと微笑(ほほえ)むと、「あたしは、チータンよ。チータンっていうの」
神崎(かんざき)警部は首をかしげた。側(そば)にいた曽根(そね)刑事が怒(おこ)った顔で言った。
「本名だ。君の名前を言いなさい。そんなふざけたこと言ってると――」
「チータンは、あたしのハンドルネームよ。何か文句(もんく)でもあるの?」
警部は曽根が反論(はんろん)するのを抑(おさ)えて、
「じゃあ、チータンさん…。君は…、いくつかな?」
「チータンでいいわよ。おじさん、女性に年齢(とし)を聞くのってどうなの?」
「ああ、そうか…。でもね、これもおじさんの仕事でね。どうしても訊(き)かなきゃいけないんだ。教えてくれないかな?」
「そう、じゃあ教えてあげる。あたし17よ。これでも高校生なの」
「そうか…。で、どこの高校に通ってるのかな?」
「それは教えない。それに、あたし学校には行ってないの。つまんないんだもん。別に行かなくてもどうってことないし…」
「でも友達に会えないんじゃ、寂(さび)しくないかい?」
「別に…。あたし、友達なんか必要ないから。そういうの、面倒(めんどう)なだけよ」
その時、電話のベルが鳴り出した。彼女は慌(あわ)てて上着の下からポーチを出して、その中からサイコロを大きくしたようなものを取り出した。彼女はそれを手のひらに乗せ、光っている面を軽くなでた。すると、ベルの音が鳴り止んだ。
警部たちが怪訝(けげん)そうに見ていると、彼女はそのキューブに向かって話し出した。
「ごめん、アリス。捕(つか)まっちゃった。あたし、どうしたらいい?」
警部は思わず訊いた。「それは…、何だい?」
彼女は自慢気(じまんげ)に答えた。「いいでしょ、ネットで手に入れたの。最新モデルの――」
突然、彼女の後ろから手を伸(の)ばした曽根が、そのキューブを取り上げて言った。
「何だ、これは…。スマホにしては妙(みょう)な形だな。何の表示(ひょうじ)も出てないし…」
彼女は立ち上がり、曽根からそれを取り返しそうと手を出しながら叫(さけ)んだ。
「ちょっと返してよ。それはあたしのよ!」
曽根は取られまいとしながら、それを振(ふ)ってみた。するとベルが鳴り出した。曽根は驚いて、思わす手を放してしまった。そのキューブは宙(ちゅう)を舞(ま)った。弧(こ)を描いて落下していく。でも、彼女が素早(すばや)くそれを受け止めた。そして曽根に詰(つ)め寄って、
「もう、何て人なの。いい加減(かげん)にしてよ。ほんと、最低な――」
どこからか、彼女の名を呼ぶ女の声がした。「チータン、もうやめて」
彼女の手の中でキューブが光り出した。彼女は手を開いて、それに話しかけた。
「ごめんね。こいつが急に…。もう誰にも渡さないから」
「いいのよ。あなたをこれ以上巻き込むことはできないわ。あなたのお仕事はもう終わり」
「そんなのイヤよ。あたし、まだやれるわ。もっと手伝わせてよ」
女の声を聞いていた曽根が、急に叫んで言った。
「警部! この声です。あの時、僕の携帯(けいたい)にかけてきたのは、この女ですよ!」
<つぶやき>謎の女の正体がこれで分かるのかな。それにしてもこのキューブは何なの?
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T:008「謎の工場」
街(まち)外れにある閉鎖(へいさ)されている工場。思ったよりも敷地(しきち)は広く、周りは高い塀(へい)に囲まれていて中の様子をうかがい知ることはできない。出入口は正面にある鉄製の門だけで、その格子(こうし)の隙間(すきま)から建物の一部をかろうじて見ることができた。
夜明け前、まだ辺りは暗がりに包まれていたが、東の空がかすかに色を取り戻しつつあった。――門から少し離れた所に、一台の車が止まっていた。その中にいたのは神崎(かんざき)警部で、門の方をじっと見つめていた。彼はまるでひとりごとのように呟(つぶや)いた。
「本当にここなのか? 人の出入りは全くないし、明かりもついていない」
助手席の方から女性の声がした。それは例のキューブからだ。
「中には人はいないはずよ。それに機械(きかい)を動かすのに明かりは必要ないわ」
「でも、アリス。まだ信じられないよ。ここで人間を造っているなんて…。直子(なおこ)にそのことを話したら、目を丸くしてね。絶対に無傷(むきず)で押収(おうしゅう)しろって、うるさいんだ」
「それはやめておいた方がいいわ。あなたたちが、それを手にするのは早すぎる」
その時、後ろのドアをノックして松野(まつの)刑事が乗り込んできた。
「警部、遅くなってすいません。この工場なんですがね、二年ほど前に買収(ばいしゅう)されて、今の所有者は〈ブレイン〉という会社です。ですがね、この会社、どうも実体(じったい)がつかめなくて…。登記されていた住所や電話番号もでたらめで、連絡の取りようがありません」
「そうか、ご苦労さん。夜明けを待って突入しよう」
「はい。もう準備はできてます。それとここへ来る途中で近くの交番(こうばん)に寄ったんですが、ちょと面白い話を耳にしましてね。何でも、一ヵ月ほど前に、ここで賭博(とばく)の検挙(けんきょ)があったそうで…。本庁からマル暴(ぼう)の刑事が大勢来てたみたいです」
「その話なら聞いたことがあるな。ここだったのか…。でも、よく分かったな?」
「それがね、半年ほど前から、柄(がら)の悪そうな連中が出入りするようになって、それで内偵(ないてい)をしてたみたいですね。交番の警官にも気をつけるように言われていたそうです」
「なるほど。じゃ、その〈ブレイン〉って会社も暴力団がらみかもな」
「話はそれだけじゃないんですよ。二ヵ月ほど前に、この工場へ大型トラックが入って行ったそうなんですが、誰も出ていくのを見ていないんですよ。検挙に入った時にくまなく工場内を調べても、トラックどころか何の機械もなくてガランとしてたそうで」
「どういうことだ…。じゃあ、今も何もないってことか?」
「それは違うと思うわ」二人の話を黙って聞いていたアリスが言った。「電力会社に入って調べてみたけど、この工場にかなりの電力を供給(きょうきゅう)してるわ。それも、無償(むしょう)でね」
「無償って?」松野は驚いて言った。「そんなことできるのか?」
「彼にはたやすいことよ。データを書き替えればいいだけだから。この場所を買い取るのだって、世界中の銀行から同じことをして資金(しきん)を集めたはずよ」
「彼って…」警部は戸惑(とまど)いを隠(かく)しきれず、「いったい誰なんだ? 君の正体も教えてもらえないし…。本当に、君を信用(しんよう)していいのか分からないよ」
「じゃあ、一つだけ…。彼の名は、ブレインよ」
<つぶやき>あの女の子はどうしたのって、気になりますよね。それは次回と言うことで。
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T:009「突入」
車のヘッドライトが、神崎(かんざき)たちがいる車の後ろへゆっくりと近づいて来た。そして路肩(ろかた)によせると少し後方に停車した。その車に乗っていたのは曽根(そね)刑事だった。曽根は車から降りると、小走りにやって来て車の窓(まど)を叩いてドアを開けた。曽根は車へ乗り込むと、申し訳なさそうに神崎警部に言った。
「遅くなりました。あの娘(むすめ)にさんざん連れ回されて大変だったんです」
「それは羨(うらや)ましいなぁ。俺も若い娘(こ)と一緒(いっしょ)に…」冗談(じょうだん)まじりに言ったのは松野(まつの)だった。
「そんなんじゃ…。あれ? 松野さん、殺人事件の方に行ってたんじゃ」
「ああ。あれはもう解決したさ。犯人が近くの交番に出頭(しゅっとう)して来たんだ。女のことでもめて、ついカッとなってブスリとやったらしい。まったくなに考えてんだか」
松野は吐(は)き捨てるように言った。神崎警部が後ろを振り返って、
「で、あのお嬢(じょう)さんをちゃんと送り届けたんだろうな?」
「もちろんです。でも、お腹(なか)が空(す)いたから食事をさせろとか、ゲーセンへ連れてけとか…。おかげで僕の財布(さいふ)はすっからかんですよ」
「お前も楽しんだんだろ? それくらい我慢(がまん)しろよ」笑いながら松野がささやいた。
曽根は気を取り直して報告を続けた。「それでやっと帰る気になって、家に着いたのが夜中の二時でした。その家って言うのが、すっごい豪邸(ごうてい)で――」
曽根の声がうわずった。だが、場違いなことに気づいて言葉を切った。「すいません。それで、その邸(やしき)の若い女中にこっそり聞いたんですが…。娘の名前は鈴木千夏(すずきちなつ)。どっかの大企業の創業者のひ孫(まご)だそうです。高校生なんですが、学校へは行ってなくて部屋に引きこもっていたようですね。それがここ一週間くらい前から出かけるようになって…」
今まで黙(だま)っていたアリスが言葉を挟(はさ)んだ。「それは私がお願いをしたからよ」
「お願い…」神崎警部がキューブを手に取り、「君とあの娘(こ)はどういうつながりなんだ?」
アリスは光を点滅させながら答えた。「それは、彼女が優秀なハッカーだったからよ。私の指示(しじ)に的確(てきかく)に答えてくれて、それ以上のことをしてくれたわ」
「なるほど、まだ子供なのにそんなに優秀とは気づかなかったよ」
警部は感心したように言った。――まだ日の出前だが、外はすっかり明るくなっていた。警部の顔つきが変わり、無線で全員に突入待機(たいき)の指示を出した。
「さあ、ちょっとお邪魔(じゃま)しようじゃないか。歓迎(かんげい)されるといいんだがね」
警部は少しおどけて言うと車のドアを開けた。警部の後に松野と曽根刑事が続いた。まずは少人数で中の様子をさぐるのだ。工場の入口には二十人ほどの警官が待機していた。警部が扉(とびら)の近くの刑事に合図(あいず)をすると、その刑事は持っていた道具で扉にかかっていたチェーンを壊(こわ)した。まずは警部が扉をくぐり、続いて松野刑事、そして曽根が入ろうとしたとき、そばにいた刑事が言った。「おい、この娘(こ)も連れていくのか?」
曽根が振り返ろうとしたとき、後ろから押されて、曽根は扉の中へ転がり込んだ。曽根の後ろに立っていたのはチータンこと千夏だった。彼女は隣(となり)にいた刑事ににっこり微笑(ほほえ)むと、扉の中へ吸い込まれるように入って行った。
<つぶやき>おてんばなお嬢さんの登場です。でも、どうやってここまで来たんでしょう。
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T:010「迷宮入り?」
曽根(そね)刑事は柔道(じゅうどう)の受け身よろしく、地面をくるりと回転して止まった。それを見ていた松野(まつの)刑事が呟(つぶや)いた。「おい、なにカッコつけてんだ」
曽根が反論(はんろん)するよりも早く千夏(ちなつ)が口を開いた。「ほんと、役に立たないくせに」
曽根は後ろに千夏が立っているのを見て、驚いた顔をして言った。
「ど、どうして…。どうやってここに来たんだ」
「だって、あたしが後ろに乗ってても、ぜんぜん気づかないんだもん。鈍感(どんかん)!」
「あっ、あの時か? 僕が女中に話しを聞いてるとき――」
その時、神崎(かんざき)警部が声を上げた。「静かに…」そして千夏に向かって、「やっぱり来たか、困ったお嬢(じょう)さんだ。曽根、しっかり守ってやれよ」
「えっ、僕がですか? もう子守(こもり)はかんべんして下さいよ」
四人は工場の建物に向かって歩き出した。途中でアリスがささやいた。
「おかしいわ。監視(かんし)カメラが作動してないし、静か過ぎる」
建物の入口は大きな扉(とびら)になっていた。曽根と松野が左右に分かれて、扉の取っ手をつかんでゆっくりと開けていく。開いた隙間(すきま)から警部が中を覗(のぞ)き込んだ。
――警部は小さなため息をつくと、二人に扉を開けるように合図(あいず)した。薄暗い工場の中は何も見えない。ガランとした空間が広がっているだけのようだ。四人は建物の中へ入って行った。曽根が照明のスイッチを見つけて明かりをつけた。
そこには、やはり何もなかった。でも広い工場内の真ん中辺りに小さな机がぽつんとあった。その上には何かが置かれているようだ。四人は回りを警戒(けいかい)しながら近づいて行く。机の上にあったのは小型のタブレット。警部がスイッチを入れるとメッセージが表示された。
〈わたしを見つけようなんて無駄(むだ)なことはやめたまえ。しかしながら、ここまでたどり着けたことは称賛(しょうさん)にあたいする。だが、次はそう簡単(かんたん)にはいかないだろう。アリス、わたしは待っているよ。君がわたしのもとへ戻ってくることを、楽しみにしている〉
この後、工場の敷地内をくまなく捜索(そうさく)したが、何も見つけることはできなかった。警部はアリスに言った。「君たちはいったい何者なんだ? どうしてこんなことを」
アリスは少し間をおいて話し出した。「私とブレインは、光と影。コインの表と裏のようなものよ。お互いを打ち消しあっているの。さあ、私ももう行かないと」
「また何か事件を起こすのかな? 君の、その影は…」
「そうね、そうなる前に止めるわ。そうしないと、私の方が影になってしまう。今まで協力してくれてありがとう。さようなら」
警部が持っていたキューブの光が消えて、それきり何も動かなくなった。警部はため息をつくとひとり呟いた。
「こりゃ、またあいつにかみつかれるな。どうしたもんか…」
警部が署に戻ると、神崎直子(なおこ)が腕(うで)を組んで待っていた。警部の姿を見ると飛んで来て、
「ねえ、どういうこと? 私、言ったよね。どうしてこういうことになるわけ?」
「仕方(しかた)ないだろ、何もなかったんだから…。どうしようもないじゃないか」
警部のポケットの中で、あのキューブがかすかに光を放ったように見えた。
<つぶやき>次はどんな事件が起こるのでしょうか? それはまた、次回ということで…。
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短編物語End