書庫 連載物語「いつか、あの場所で…」48~

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T:048「小さな恋の物語」1
「ねえ、昨日も遅かったの?」
「うん。明け方までやってたんだけど…」
 ママはお昼過ぎに眠そうな顔で起きてきて、大きなため息をついた。
 ママはひどいスランプなの。仕事が思うように進んでないみたい。家事をやっていても上の空で、失敗ばかりしていた。
 ママの仕事は、いろんなお話を作ることなんだ。雑誌なんかに短い物語やエッセイを書いているの。パパと結婚する前からこの仕事をしてたんだって。身近なことを題材にするときもあるのよ。でも、そのほとんどが私のことなんだけど…。
 子供の成長記録だからって言って、私に無断で載せてしまう。もし、私のことを知っている人が読んだら、すぐに分かっちゃうよ。だから、友達にはママの仕事のことは話さないようにしているの。ゆかりや高太郎も、そこまでは知らないはず。ママにはちゃんと口止めしてあるんだ。
「ねえ、さくらーぁ…」ママは私に抱きついてきて、
「どうしよう、書けないよーぉ」
 ママはスランプになると小さな子供に変身する。甘えん坊になってしまうんだ。
 べたべたと私にまとわりついてくる。スキンシップをして自分を落ち着かせているのかもしれない。
「ねえ、パパはどこ?」
「パパは…、出かけたんじゃないかな」
「えーっ、どこ行っちゃったの?」
「さあ、知らないよ。散歩じゃないの」
 パパはきっと逃げ出したんだ。
「そんなぁ…。パパがいないと書けないよぉ。どうしよう、さくらぁ…」
 そんなこと言われても…。
 小さい頃は、こうしてまとわりついてきても遊び感覚で受け入れられたけど、今はもうそんな歳じゃないんだから。私も早く逃げ出さなきゃ。
 ママは甘える相手がいると、仕事を放り出してしまうんだ。これもママのためなんだから…。
「私、これから出かけるね」
「えっ、行っちゃうの?」
「お昼の用意してあるから、温めて食べてね」
<つぶやき>スランプの時って、誰にもありますよね。そういう私も、よくはまります。
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T:049「小さな恋の物語」2
 ママがスランプの時は、なるべくパパと私で家事を分担することにしているの。そうしないと家の中がメチャクチャになってしまう。
「一緒に食べようよーぉ」
「私はもう食べたから。これから友達と約束があるの」
「家に来てもらえばいいじゃないィ」
「だめよ。そんな事したら仕事できないでしょう」
「いいよ、仕事なんて…」
「締め切り、もうすぐなんでしょう」
「そうだけど…」
「書かなきゃだめよ。ママなら絶対にできる。頑張ってね」
「でも、さくらーぁ」
「もうすぐパパも帰ってくるから。そうだ。夕食はママの好きなもの作ってあげる」
「じゃ、あれ作ってくれる?」
「了解!」
 家であれって言ったら、あれしかない。我が家特製のカレーライス。秘伝の味なのよ。とっても美味しいんだから。ママに初めて教えてもらった料理なの。私のカレーを食べると、ママは幸せな気分になるんだって。私の味は、ママみたいに美味しくないのに。何でかな?
 私は笑顔で家を出る。ママは寂しそうな顔をしてたけど、私がいない方が良いんだから。今日こそは、スランプから抜け出して欲しい。これでも、パパも私もいろいろと気をつかっているんだから…。
 これからどうしようかな? ゆかりは家族とどこかに行くって言ってたし。高太郎と二人だけで会うのは…。
 実は、友達と約束なんてしてないの。あれは逃げ出す口実。とりあえず、駅前の郵便局に行って手紙を出してこよう。私、文通をしているの。前に通っていた学校の友達と。転校が多いと、いろんな場所に友達が出来る。これはメリットかもね。
 私は郵便局に向かって自転車を走らせた。
<つぶやき>家庭の味ってそれぞれの家で違うよね。わが家の家庭の味って、何だろ?
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T:050「小さな恋の物語」3
 駅前で信号待ちをしているとき、おばあさんから声をかけられた。道に迷ったみたい。手書きの地図を私に見せて、
「ここまで行きたいんだけど、教えてもらえないかな?」
 この町のこと、私もだいぶ分かってきた。どこに何があるのかってことを。でも、地図の場所は私の行ったことのない所だった。私は地図を見ながら、分かるところまで教えてあげた。おばあさんは私の言葉にひとつひとつ頷いて…。
 ちゃんと分かったのかな? うまく説明できたのか自信がない。
 おばあさんは「ありがとうね」って言って、私から離れていく。私は信号を渡って、何げなく後を振り向いた。さっきのおばあさんが荷物を抱えて歩いていた。ちゃんと行けるのかな? 荷物も重そうだし…。私は迷っていた。
 …やっぱり行こう。優しそうな人みたいだし、助けてあげなくちゃ。
「お嬢さんは、この近くの小学校に通っているの?」
「はい。山波小です」
 私はおばあさんの荷物を自転車のかごに入れて、一緒に探してあげることにした。夕方までに家に帰れば良いんだから。それまで時間はたっぷりある。
「そうなの。じゃ、岡本先生って知ってる?」
「岡本…、久美子先生ですか?」
「そうよ」
「私たちの担任です。先生のこと、知ってるんですか?」
「ええ。私の孫なんだよ」
「えっ!」
「これから会いに行こうと思ってね」
 私は驚いた。先生のおばあさんなんだ。探しているのは先生の家!
 おばあさんは先生のことをいろいろ教えてくれた。子供の頃の先生は人見知りの激しい子で、知らない人と話をするのが苦手だったんだって。今の先生を見ていると、とてもそんな風には見えない。私たちはお喋りしながら歩き続けた。
 …いつの間にか、知らない道に来ていた。私は、思わず立ち止まる。
 …どうしよう。私は自分に言い聞かせる。大丈夫、一人じゃないんだから…。ちゃんと行ける。地図だってあるじゃない。
「どうしたの?」おばあさんが聞いてくる。
 私は笑顔で、「いえ、何でもないです」
 この地図、おかしいよ。こんな所に道なんてない。この道じゃないのかな? やっぱり迷ってしまった。ここは何処なんだろう。私のせいで…。何やってるんだろう。
<つぶやき>知らないところへ行くのは勇気がいります。でも、わくわくしませんか?
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T:051「小さな恋の物語」4
「誰かに聞いてみましょう」
 おばあさんは、困り果てている私に優しく言ってくれた。白状しちゃうけど、私も知らない人に話し掛けるのは苦手なんだ。でも、おばあさんが側にいるだけで、不思議と話すことが出来た。おばあさんの優しい笑顔が、私に力を貸してくれたのかも…。何度か道を聞きながら、私たちはやっと先生のアパートにたどり着いた。
「居ないみたいだね」やっと見つけたのに、先生は出かけていた。
「連絡してなかったから、仕方ないね。せっかくさくらちゃんに連れてきてもらったのに。悪いことしちゃったね」
「そんな…。これからどうするんですか?」
「そうね…。もう少し付き合ってくれない」
 道案内をしたお礼に何かご馳走してくれるんだって。でも、良いのかな? 私たちは近くのお店に入って、通りがよく見渡せる席に座る。
「何が良いかな?」メニューを私に見せながら、「お腹空いてるでしょう」
 どうしよう。ほんとに良いのかな…。
「あなたって久美子によく似てる。あの子もね、そうやっていつももじもじしてたわ」
 おばあさんは私に笑いかけて、「さくらちゃんは、何が好きなのかな?」
 おばあさんはとっても話し上手だ。私の好みを聞き出して、料理を注文してくれた。私、そんなに役に立ってないのに…。
「好きな子いるの?」
 この突然の質問に、料理を食べていた私はむせってしまった。
 私はどぎまぎして、「いえ、そんな…」
「やっぱりいるんだ。…そうよね」
 私は、顔が熱くなってきた。なんで…。
「で、良い男なの?」
「そ、そんなんじゃありません」
「そういえば、久美子もあなたぐらいの時、初恋をしたのよ」
 もし、ゆかりがここにいたら喜ぶだろうなぁ。こんな話、めったに聞けないもん。
「でも、なかなか告白が出来なくて…。あの子、内気だったからねぇ。私は久美子に言ってやったの。手紙でも書いたらって。そしたらあの子…、可笑しいのよ。こんな大きな紙に、大きな字で「すき」って書いて、私に見せに来たの。とっても良い字だった。心がこもっていて、あの子の気持ちが伝わってくるようだった」
「それからどうなったんですか?」私はその先が知りたかった。「手紙、渡したんですか?」
「ポストまで手紙を出しに行ったわ。脇目も振らずに、手紙を握りしめて。一途なところがあるからね。誰に似たんだろう」
 おばあさんは、その頃を懐かしむように話している。
<つぶやき>今は昔、初恋なんてことも…。何だか思い出すだけで面映ゆいのは私だけ?
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T:052「小さな恋の物語」5
「その子とは、どうなったんですか?」
 なぜか高太郎のことが頭に浮かんだ。
「それがね、何日かして、その子に呼び出されたの。久美子、嬉しそうに出掛けていったわ。でも、帰ってきたときはしょんぼりしてた。その子には他に好きな子がいたんだって。それも久美子の親友で…」
「えっ、親友同士で同じ子を好きになったんですか?」
「後で話しを聞いたら、親友の子はその子を好きじゃなかったんだって。二人とも片思いだったのね。でも、その日はすごく落ち込んじゃって。振られたのがよっぽどショックだったのね。夕飯も食べないで、閉じこもってしまって…」
 先生にも、こんな悲しい思い出があったなんて。あんなに明るくて、いつも元気なのに。
「とても見てられなくてね、近くの海岸へ散歩に連れ出したの。砂浜に座って星を眺めようと思ってね。とっても奇麗だったのよ。でも、久美子は見ようともしないでうつむいてばっかり。私は久美子の背中を叩いて言ってやったの。ほら、星がいっぱい輝いてるでしょう。男なんて星の数ほどいるのよ。一人や二人に振られたからって、めそめそしないの。もっと、良い男を見つけなさい」
 このおばあさん、見た目よりもすごい人なのかも…。
「そしたらあの子、いきなり立ち上がってね。近くにあった流木を持って、渚まで走っていったの。何をするのかと思ったら、砂浜に線を引き始めた。なにを書いたと思う?」
「さあ…」私にはとても分からない。
「大きな字で「バカ」って。変な子でしょう。でも、これで吹っ切れたみたい。初恋は実らなかったけど、良い思い出になったんじゃないかな。とっても笑える話だと思わない」
 おばあさんはニコニコ笑っている。私はなんて答えれば良いんだろう。
「それから何回か恋をしたみたいだけど、振られるたびにバカなことしてたわねぇ。困ったもんね。いつになったら結婚してくれるのか。実はね、今日はお見合い写真を持ってきたの。とっても良い男なのよ。見てみたい?」
 どんな人なのか、とっても興味があった。良い男がどんなのかよく分からないけど、写真の人はとっても優しそうに見えた。
 それから私たちは、良い男の話しで盛り上がった。おばあさんが出会った最愛の人のことも話してくれた。
 人それぞれにいろんな恋があるんだなぁ。私は…、どんな恋をするんだろう。
 時間のたつのも忘れて、話しに夢中になってしまった。
<つぶやき>婚活も大変だよね。こればっかりは相手次第ですから。赤い糸、見つけましょ。
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T:053「小さな恋の物語」6
 ふと、通りに目をやる。あっ、先生だ! 通りを先生が歩いている。それも、男の人と一緒に…。私はおばあさんに…。
 おばあさんも気がついたみたい。微笑みながら先生を見つめていた。先生は腕を組んで、とっても楽しそうだ。通りの店を二人で見て回っていた。きっと先生の好きな人、最愛の人なのかもしれない。教室で私たちに見せている顔じゃなかった。あれは…、大人の女性の顔。恋する女の顔だと思った。
 恋をすると女は美しくなる。あんなに輝いて…。私も恋をしたい。心が熱くなるような、そんな恋。私は…、なに考えてるんだろう。高太郎の顔がちらついた。どうしたんだろう、また顔が熱くなってきた。私は気づかれないように顔を伏せた。
「じゃ、行きましょうか。駅までお願いできるかな?」
「えっ?」でも、先生に…。
「あんな顔を見たのは、久し振りだわ。お節介って言われないうちに退散しないとね」
 私たちは先生に気づかれないようにそっとお店を出る。
 なんで会わないで帰るのかな? せっかく来たのに…。
 帰り道は、私の話しになってしまった。どんな子が好きなのか…。おばあさんに聞かれると、つい話したくなってしまう。私、恋をしているのかな?
 駅に着くとおばあさんは、「写真のことは、久美子には内緒にしてね。お願いよ。そうだ。これ、あなたにあげる。いろいろお世話になったからね」
 自転車のかごに入れていた荷物を指して、「おはぎなの。あの子に食べさせようと思ったんだけど…。あなたに食べてもらいたいなぁ」
 私はもらえないよ。断ろうと思ったんだけど…。
「また持って帰るのも大変でしょう。助けると思って。お願い」
 断れなかった。私はお礼を言って、おばあさんとさよならした。
 おばあさんは別れぎわに、「良い男を見つけなさい。幸せは自分でつかまえないとね」
 こんなに魅力的な人に出会ったのは初めてだ。先生の側には、こんなにすごい人がいたんだ。だから先生もあんなに…。私も先生みたいに良い顔になれるかな? なんだか幸せな気分になっていた。あっ! もうこんな時間。早く帰らないと…。辺りはもう暗くなりかけていた。私は軽快に自転車を走らせた。
 家に帰るとカレーの良い香りがしてきた。私は約束していたことを思い出す。慌てて家の中に飛び込むと…。パパが食事の用意をしていた。パパもカレーを作れるなんて、知らなかった。ママは幸せそうな顔で、働いているパパを見つめている。ママにとって最愛の人はパパなんだって確信した。
 ママは嬉しそうに、「パパのカレーなんて何年ぶりかなぁ」
 ところで、原稿出来たのかな? 私は聞いてみる。ママの顔が一瞬くもり、
「これ食べたら、ちゃんとやるから…。食べさせてーぇ」私にすがりついてきた。
<つぶやき>何かに夢中になってる人って、とっても素敵な顔をしてると思いませんか?
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T:054「小さな恋の物語」7
 先生の恋の話は、クラスのみんなには黙っていた。もちろん、ゆかりにも。もし話したら学年中に広まってしまうから…。でも、久美子先生に放課後来るように言われた。なんで? 誰にも言ってないのに…。
「昨日、変なおばあさんに会わなかった?」「えっ?」
「先生のアパートまで来て…」「なんで…」
「やっぱり、そうなんだ」どうして分かっちゃったんだろう?
「ばあちゃんから聞いたの。電話の様子がおかしくて問い詰めたら、アパートまで来たって言うじゃない。ごめんね。さくらさんに、迷惑かけちゃったわね。それで…、何か聞いてない? どうして訪ねて来たのかとか…」
 お見合い写真の話は聞いてないんだ。私はおばあさんとの約束を思い出す。
「あの…、おはぎ。おはぎを食べさせたかったって言ってました。それで、そのおはぎ、私がもらちゃって…」
「そう…。別に良いのよ。美味しかったでしょう。先生、大好きだったのよ。子供の頃、よく食べてたわ。…他には何か言ってなかった?」
「えっと、先生の初恋の…」「えっ?」
「あの、砂浜で大きな字を書いたって…」
「そんなこと話したの? ばあちゃんったら、なんで話すかな生徒に…。もう、信じられない!」先生は一人で怒っている。
「ねえ、絶対、絶対に誰にも話さないで。お願い」「それが…」
「話しちゃったの?」「いえ、…言ってません。私、誰にも話しませんから」
 ほんとのことは言えなかった。実は、話してしまったんだ。パパとママに…。だって、おはぎのことを聞かれて、話さないわけにはいかなかったの。さらに悪いことには、ママがこの話を気に入ってしまって、どうしても書きたいって言いだしたの。その夜のうちに、一気に書き上げてしまった。実名はもちろん出さないけど、もし先生が読んだら…。
 あーっ、どうしよう。ばれないことを祈るしかないわ。
 もうすぐクリスマス。家では毎年ケーキを作って、家族だけでささやかなパーティーをしているの。今年は、高太郎を誘って…。私は一大決心をした。学校の帰り道、ゆかりとさよならして二人だけになったとき…。私はどきどきしながら、話しかけてみた。
「ねえ、クリスマスイヴに、家に遊びに来ない?」「えっ?」
「家で、ケーキを作るの。一緒に食べようよ。ご馳走もいっぱいあるんだから…」
 高太郎は、ぽかんとしていた。えっ…、まずい。食べ物で誘ってる。
「…もちろん、ゆかりも呼んで、三人で楽しもうよ」
 これが今の私の限界。でも、いつか気持ちを打ち明けるんだ。もっと良い女になって、私の魅力で誘ってみせる。
 あっ、雪が降ってきた。今年の初雪。この雪、積もるかな? 私たちは雪の落ちてくる空を眺めていた。ホワイト・クリスマスになると良いなぁ。
<つぶやき>クリスマスは大切な人と一緒に過ごして、楽しい思い出を増やしましょう。
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T:055「黒猫ノラの大冒険」1
 ノラ。あなたとはいつ会えるんだろう? いつもすれ違ってばかり…。
 私がこんなに会いたいって思っているのに、あなたは知らん顔して通りすぎる。少しぐらい待っててくれても良いじゃない。私にも、幸せを運んで来て…。もう、あんまり時間がないんだから。早く私の前に姿を現して。あと、もうちょっとで…。

「さくら、あいつが現れたんだって」
 朝、ゆかりが私のところに飛んできた。
「学校終わったら、行ってみようよ」
「ほんとなの?」
「近くで見かけた人がいたんだって」

 これが最後のチャンスかもしれない。ずっと会えなかったから、私の中でノラのイメージがふくらんでいた。
 とっても艶(つや)やかな黒毛をしていて、大きくて透き通るような目で私を見ているの。それで、身のこなしも軽やかに駆けてきて、私の足にすり寄って挨拶をする。私はノラを撫でてあげるの。ノラは嬉しそうに目を細めて喉を鳴らす。私はノラを抱き上げて…。けっこう重いかも。ノラが私の顔を嘗めてきて、くすぐったい…。
 私の勝手な想像は、すぐに吹き飛んでしまった。私たちが黒猫亭で出会ったのは…。傷だらけで横たわっているノラ。自慢の黒毛は泥で汚れていて、血の固まりが毛にこびりついていた。額の傷も痛々しく、苦しそうな顔で私たちを見つめていた。
「こんな姿になって…。やっとさくらちゃんに会えたっていうのにな」
 おじさんはノラの横に座り込んで…、私たちを迎えてくれた。
「どうしたんですか?」
 私が側に近づくと、ノラは傷だらけの体を起こして警戒する。
「人には馴れてないから、手を出すと引っかかれるよ」
 おじさんはノラの前に水の入った器を置く。ノラは私のことを気にしながら水を飲み始めた。
「どっかで喧嘩でもしてきたんだろう。手当をしてやりたいけど、俺じゃだめなんだ。嫌われてるからな…」
 おじさんは悲しそうにノラを見ていた。
<つぶやき>猫の世界もいろいろ大変なんです。そこんとこ、わかってやって下さい。
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T:056「黒猫ノラの大冒険」2
 助けてあげたかった。何かしてあげたい。私はノラに近づいて…。
 ノラは私を睨んでいる。
 私は、ゆっくりと手を差し出す。ノラの爪がすごい速さで…。
「さくら、大丈夫? 血が出てるよ」
 ゆかりが私を止めようとする。おじさんも…。でも、私は止めなかった。ここで止めてしまったら…。
 私は何かを残したい。そういう衝動に駆られていた。
「何にもしないよ。大丈夫だから…」
 私はまたトライする。ノラに笑顔で話し掛けながら…。
 でも、また嫌われちゃった。爪の攻撃。
「そんなに怒らないで…。大丈夫、大丈夫だよ。仲良くしようよ」
 私は根気よく何度も続ける。ノラは根負けしたのか、攻撃を緩めてきた。私の手の匂いを嗅ぎ始める。鼻先まで手を持っていく。
 ノラは何を感じたのか、そのまま目をつむり横になった。私はノラの体を優しく撫でてあげた。毛に付いた泥が私の指先にあたる。
 …ノラは私に身を任せてくれた。
 おじさんに教えてもらって傷の手当てをしてあげた。体の汚れも奇麗にして…。
 ゆかりがノラの食事を作ってくれた。ノラはじっと痛みに耐えているようだ。
「今まで誰にも懐(なつ)かなかったのに…。気紛れな奴だ」
 おじさんは寝ているノラを撫でながら、「さくらちゃんに恋でもしたのかな?」
 寂しそうな笑顔。どうしたんだろう?
「喧嘩、負けたのかな?」ゆかりが心配そうに、「もし負けたらどうなるの?」
「ここで暮らしていけないかもな。でも、こいつは負けないよ。勝つまで戦う。こいつの帰ってくる場所は、ここしかないんだから…」
 おじさんは何を言いたかったんだろう?
 いつの間にか夜になっていた。私たちは急いで家に帰ることにした。
 ノラが寂しそうな目で私を見つめていた。
<つぶやき>戦士にも休息は必要なのです。それが、明日への力となるんですから。
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T:057「黒猫ノラの大冒険」3
 私はノラの世話をすることにした。学校が終わってから黒猫亭に駆け付ける。そして、おじさんの仕事が終わる夜まで、ノラの側にいてあげた。パパに頼み込んで、夜は迎えに来てもらうことにしたんだ。おじさんから「大変だから毎日来なくても…」って言われたんだけど、私はやりたかったの。どうしても…。
 逃げていたのかもしれない。私は、目の前にある問題から…。
 でも、ノラと一緒にいると、辛いことを忘れることが出来た。私がノラを慰めてあげなきゃいけないのに、私の方が慰められていたのかもしれない。
 ノラは日に日に元気になっていく。傷もあと少しで元通りに…。そんなある日、おじさんがノラのことを教えてくれた。たった一人、心を通わせた人がいたことを。その人は事故にあって、足が動かなくなってしまったんだって。まだ若い女性(ひと)で、これからやりたいことがいっぱいあるのに…。彼女は生きる希望を失って、家の中に閉じこもってしまったの。おじさんは、何とか元気づけようといろんな事をしたんだって。美味しい料理を作ったり、話し相手になってあげたり。彼女のどうしようもない怒りや、やるせない気持ちを一身に受け止めた。車椅子の彼女を外に連れ出したとき、ノラと出会ったんだって。
「あれは、運命だったのかもな。まだ子猫だったこいつを見て、彼女が笑ったんだ。あの笑顔は忘れられない。その時から、彼女の膝の上が、こいつの指定席になったんだ。この店にもいつも連れて来てた。俺にはあんまり懐かなかったけど…。この場所には彼女との思い出がいっぱいあるんだろうなぁ。だから、今でもこうしてやって来てる」
 ノラはいつも彼女と一緒にいたんだって。ノラのおかげで、彼女も少しずつ元気を取り戻した。生きる希望が出来たんだ。ノラは大きくなるにつれて、少しずつ彼女から離れていった。でも、彼女は無理に引き止めるようなことはしなかった。信じていたの。必ず戻ってくるって…。彼女はそう信じていたんだって。
「よく怪我をして戻ってきて、彼女がいつも手当をしてた。こいつ、変わってるんだ。誰にも懐かなかったくせに、いろんな家を自分の住み家にして…。行く先々で、いろんな名前で呼ばれていたんだ。でも、いつも戻ってきてた。彼女が寂しいと感じたとき、彼女が会いたいと思ったとき、いつもこいつが現れるんだ。どうして分かるのか不思議だけど、必ず帰ってきてた」
 おじさんはノラを見つめて涙ぐむ。
「彼女が死んだときも…、こいつはずっと側にいたんだ。最後まで、ずっと彼女を見つめていた。逃げないで、運命を受け入れていたんだ。こんなちっぽけな奴が、彼女の死を正面から受け止めて…。こいつは、大した奴だよ」
「その人って、おじさんの…」
「友達さ。…とっても大切な、掛け替えのない人だった」
<つぶやき>大切な人。空気みたいにいつもそばにいてくれる。それだけでいいんです。
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T:058「黒猫ノラの大冒険」4
 おじさんはノラのことをいろいろ聞かせてくれた。大きなボス猫と勇敢に戦ったこと。捨てられていた子猫を助けて、いつも出入りしている家に連れて行ったこと。まるで何かを考えているように、港でじっと海を見つめていたこと。おじさんは面白可笑しくいろんな話をしてくれた。いつものおじさん…、おかしなおじさんに戻っていた。どこまでほんとの話しなんだろう。黒猫ノラの大冒険。ママに教えてあげたら、きっとすごい物語になるかもしれない。
 ノラはずいぶん広い範囲を縄張りにしているみたい。誰にも束縛されずに、自由の天地でのびのびと生きている。どんな運命も受け入れて、逃げないで逞(たくま)しく生きている。それなのに、私は自分の運命から…。逃げているんだ。

「ねえ、高太郎。最近、さくら変じゃない?」
「そうかな?」
「ときどきぼーっとしてて、私の話をちゃんと聞いてないときがあるの」
「お前の話がつまんないからじゃないの」
「ひどいィ。何でそんなこと言うのよ」
「あれじゃないのか。いつも帰りが遅いみたいだから、眠いんだよきっと」
「そうかな? 旅行から帰って来たときから元気なかったよ。クリスマスの時は、楽しそうにはしゃいでたのに…。旅行で何かあったのかな?」

 私は年末から正月過ぎまで、家族と旅行に出かけていた。パパの故郷(ふるさと)。私は一度も行ったことがなかった。どんな所なのか、とっても楽しみだった。パパの実家は旅館をやっているの。とっても古い旅館なんだ。ほんとはパパがその旅館を継ぐはずだった。でも、おじいちゃんと喧嘩して家を飛び出したんだって。だから今まで一度も帰らなかったんだ。
 私は知らなかった。こんな所におじいちゃんやおばあちゃんがいたなんて…。ずっと隠してたんだ。ひどいと思わない? もう、最悪なんだから…。
 私には、話さないといけないことがある。それも出来るだけ早く。でも、言い出すタイミングが…。私はまだ逃げている。ノラの世話をすることを言い訳にして。そんな気持ちが、ノラに伝わってしまったのかもしれない。突然、私の前から姿を消してしまった。
<つぶやき>人生いろんなことがあるよ。辛いことや悲しいことも。でも、生きて行こう。
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T:059「黒猫ノラの大冒険」5
「ごめん、さくらちゃん。気をつけてたんだけど、急に飛び出しちゃって…」
 おじさんは私を気づかって、
「ほとんど治ってたから、心配ないと思うよ。またいつでも会えるさ」
 私は一人取り残されたような、何ともいえない寂しさに襲われた。もう会えないかもしれない悲しみと、やるせなさが交互にやってくる。私は店の前のベンチに座り込んで…。力が抜けてしまった。涙だけは元気に溢れてくる。私は泣き虫なんかじゃない。こんなことで泣かないんだから…。私は涙を止めようと、冬の空を仰ぎ見た。
「大丈夫だよ。あいつは元気に生きていくさ」
 おじさんが隣に座って励ましてくれた。
「私のこと、嫌いになったんだ。きっとそうだよ」
「そんなことないさ。あいつは自由が好きなんだ。行きたい所へ行って、食べたいものを食べて、寝たい所で寝る。一つ所に落ち着けない奴なのさ。さくらちゃんを嫌いになったわけじゃない。あいつは根っからの冒険家なんだよ」
「もう会えないよね。だって、半年待ってやっと会えたんだから…」
「いや、会いに来るんじゃないかな。さくらちゃんが会いたいって思ったとき、あいつは絶対やって来る。そういう奴なんだよ、あいつは」
「もうだめだよ。もう、私には時間がないの…」
 私はおじさんに打ち明けた。ゆかりや高太郎に話さなくてはいけないことを…。おじさんは、私の話を聞いてくれた。
「そっか…。それは、ちゃんと言ってあげないとな。心配しなくても、分かってくれるさ。さくらちゃんの気持ち、ちゃんと分かってくれる」
「そうかな?」
「良いなぁ。そんな風に思える人がいるなんて、羨ましいよ」
「おじさん…」
「あっ、俺じゃなくて…。ノラさ。あいつはもう会えないんだ。会いたいと思っても、もう会えない。彼女はもうどこにもいないんだから…。でも、さくらちゃんは違うだろう。会いたいと思ったら、いつでも会える。…元気だせよ。そうだ。また特製ジュース、作ってやろか? 今度のは美味(うま)いぞっ!」
「えっ、いいよ。もう、飲みたくない」
 おじさんって、けっこう優しい人だったんだ。何だか気持ちが楽になった。
 私はもう悩まない。悩んでも、どうしようもないんだから…。明日、二人にちゃんと話そう。ノラだって寂しさに負けないで、頑張って生きているんだから。私も逃げないで、運命を受け入れるんだ。先のことは分からないけど、今を思いっ切り楽しもう。良い思い出をいっぱい作るんだ。いつまでも、忘れないように…。
<つぶやき>人には言えない秘密、誰でも持ってるんじゃないですか? 私の秘密は…。
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T:060「恋待ち岬の約束」1
「…そうなんだ」
 ゆかりがつぶやいた。
 僕は信じたくなかった。こんなことって…。
「ごめんね。旅館の仕事を手伝うことになっちゃって。せっかく友達になれたのに…」
「なんでだよ!」
 僕の中から訳の分からないものがこみ上げてくる。さくらが悪いわけじゃない。そんなこと分かってる。だけど…、
「そんなこと言うなよ」
「ほんとに、ごめんなさい。今度は、もう少し長く居られると思ったんだけど…」
 さくらの顔を見られなかった。僕はさくらを困らせているだけだ。
「さよならするのが、私の運命なんだ。だから、私のことは…」
「ねえ、私たちに時間をちょうだい。さくらと行きたいところや、やりたいことがいっぱいあるんだから…。嫌だなんて言わせないからね」
 ゆかりはさくらを抱きしめた。
 その日から、僕たちの思い出作りが始まった。ゆかりはさくらから離れなかった。何をするのもいつも一緒で、お喋りばかりしていた。よくそんなに話すことがあるよなぁ。
 僕が割り込めることろなんてどこにもなかった。僕だって、さくらのために何かしてあげたかったのに。でも、僕に何が出来るんだろう? 宿題はさくらに教えてもらっているし、面白いことを言って笑わせることも出来ない。
 ゆかりは良いよなぁ。さくらの家に泊まって、遅くまで何してるんだろう? 窓越しに声をかけても、すぐに追い払われる。僕がさくらと二人だけになれるのは、下校のときしかないんだ。ゆかりと別れてから、僕はさくらを誘ってみた。
「これから家に来ない? 一緒にプラモデル作ろうよ。今、すっごいの作ってるんだ」
 女の子にこんなこと言うなんて…。だって、ほかに思いつかなかったんだ。
「これから、ゆかりの家に行かないといけないの。約束してるんだ。だから…」
「えーっ!」
「ごめん…」
「じゃ、俺も行くよ。一緒にゆかりのとこ…」
「だめ。それは…、だめなんだ。ゆかりが連れてくるなって…」
「なんで?」
「ごめんね。あの…、明日じゃ、だめかな?」
<つぶやき>仲の良い友だちと別れるのは寂しいよ。でも、そのぶん再会したときの…。
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T:061「恋待ち岬の約束」2
 次の日、さくらは約束を守ってくれた。でも、なんでゆかりまで来るんだよ。
「良いじゃない。私もプラモデル作りたかったの」
 あのな、せっかく二人だけで…。さくらは棚に飾ってあるプラモデルを見て、
「すごい。こんなにあるんだ」
「ねえ、これ作るときに私も手伝ったんだよ」
 ゆかりがプラモデルに手を伸ばす。僕は慌てて、「触るな!」
 ゆかりには、今までいくつも壊されている。これ以上壊されたら…。
 さくらは楽しそうにプラモデルを作り始めた。ゆかりは…。彼女には簡単な作業をまかせた。すっごく不満そうだ。さくらにちょっかいを出している。ほんとは…、もっとゆっくり作って、さくらと一緒にいられる時間を増やしたかった。でも、予想以上に早く出来てしまった。このプラモデルは、僕にとって大切なものになった。大事に飾っておくんだ。ゆかりには絶対に触らせない。
 僕たちはいろんな所へさくらを連れて行った。この町の良い所を全部見せたかったんだ。でも、たまに僕を誘ってくれないときがあった。いつの間にか二人でどっかに消えちゃって。僕だってさくらと…。
「ねえ、黒猫に一緒に行かない?」
 さくらが…、さくらが僕を誘ってくれた。僕のこと忘れてなかったんだ。
 僕たちは二人で、今度こそ…。ちょっと待てよ。前にも似たようなことが…。嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
「もう、遅い!」
 ゆかりだ。やっぱり居たんだ。期待してたのに…。
「あっ。今、嫌な顔した」
「してないよ」
「どうせ私は、おじゃま虫ですよっ!」
「なに言ってるの。そんな…」
「また喧嘩してるの? ほんと、仲が良いよねぇ」
「お姉ちゃん! なんで…」
 なんで、こんなとこに居るんだよ。お姉ちゃんは厨房から突然現れて、
「ほら、二人で渡すものがあるんでしょう」
 お姉ちゃんに言われて二人は厨房へ。
「少しは姉ちゃんに感謝しなよ」
 そんなこと言われても、何のことなのか分かんないよ。お姉ちゃんはニヤニヤ笑ってる。
 二人は大きな箱を持って来て…。
 何だろう? びっくり箱で驚かそうとしてるのかな?
<つぶやき>サプライズ。私は嫌いではありませんが、おどかされるのは苦手です。
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T:062「恋待ち岬の約束」3
「私たちの気持ちなんだ。受け取って」
 さくらはにっこり笑って差し出した。
 えっ? さくら…。何なの?
「ほんと、鈍感なんだから」
 何で、ゆかりにそんなこと言われなきゃいけないんだよ。
「ここまで鈍いとは思わなかったわ」
 お姉ちゃんまで…。
「今日は、何の日?」
「えっ?」何の日って…。
 あっ。僕はすっかり忘れていた。バレンタイン…。
「開けてみて。がんばって作ったんだから…」さくらは恥ずかしそうに笑ってる。
「詩織姉ちゃんにも手伝ってもらったんだ。力作なんだぞぉ」ゆかりも得意げだ。
 最近、お姉ちゃんの帰りが遅かったのは…。
「デートだって言ってなかった?」
「なに言ってるの。デートのときもあったわよ」お姉ちゃんは慌ててる。
「ほら。いいから、早く開けなさいよ!」話をそらそうとしてる。間違いない。
 僕は箱を開ける。…チョコレートケーキだ! ハートの形で、いろんなお菓子で飾り付けがしてある。とっても奇麗で、食べてしまうのがもったいない気がした。でもひとつだけ…、これはどうなんだろう? 真ん中にゆがんだ字で「愛」って書いてある。これってもしかして、ゆかりが書いたんじゃ…。下手な字。僕は笑いながら、
「ふつう、こんなこと書かないでしょう。それに…」
 みんなの顔色が変わった。また、余計なことを言ってしまった。さくらが顔を赤くして、
「ごめんなさい。私が…」
 えっ! さくらが書いたの?
「もしかして、私だと思った?」勝ち誇った顔でゆかりが、「私は止めようって言ったんだけど、さくらが書きたいって言ったから…」
 僕はなんて間が悪いんだろう。
「じゃ、そういうことで。これは…」
 お姉ちゃんがケーキを持っていこうとする。
「僕がもらったんだから…」
「あんた、まさか独り占めしようなんて思ってないよね」
 女は食べ物のことになると、やたらと強くなるような気がする。僕はそれ以上何も言えなかった。
 お姉ちゃんはケーキを切り分けて持ってきた。けっこう美味しかったよ。おじさんは甘いのは苦手だって言ってたけど、ゆかりが強引に引っ張ってきた。おじさんにも食べて欲しかったみたい。時間はあっという間に過ぎていく。いつの間にか暗くなってしまった。
<つぶやき>私、ケーキは好きかも。そんで、チョコも好きです。これで、いいのか?
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T:063「恋待ち岬の約束」4
「やっぱり、チョコを渡す人いないんだ」
 帰り道、ゆかりと別れてから、僕はお姉ちゃんに聞いてみた。
「あっ! 忘れてた。電話しなきゃ」
 お姉ちゃんはそう言うと…。一人で走れよなぁ。なんで僕たちまで走らせるんだよ。
「こんな時間に一人で帰ったら、かあさんに怒られるでしょう」
 さくらは笑ってる。僕はさくらと並んで家まで走った。
 家に着くとお姉ちゃんは慌てて入って行った。僕はさくらに、
「じぁ、また明日」
 さくらは息を弾ませて、「高太郎。これ…」小さな包みを差し出した。
「一人で作ったんだ。変な形になっちゃったんだけど…」
 えっ! 僕に…。「ありがとう」嬉しかった。僕も何か…、何かしてあげたかった。
 その夜、僕は必死になって考えた。僕に出来ること、何があるのか…。
 そうだ! 僕はすごい計画を思いついた。次の日、さっそくゆかりに持ちかける。さくらには秘密にして、僕たちは準備をすることになった。
 いよいよその日がやってきた。天気予報では晴れ。絶好の日になった。夜明け前。まだ、外は真っ暗だ。さくら、来てくれるかな? 僕は家の前でさくらを待っていた。身体がどんどん冷えてくる。僕は寒さを追い払おうと身体を動かした。
「おはよう。黙って出て来ちゃった」さくらが声をひそめて、「だって、なんにも教えてくれないから…」
「えっ、それまずいよ」
「大丈夫。書き置きしておいたから。でも、怒られるときは、ちゃんと付き合ってね」
「うん。分かった」
 僕たちは自転車を走らせた。町はまだ眠っているように静かだ。暗い中で、家の明かりがぽつぽつと点いている。冷たい空気なのに、何だか気持ちが良い。さくらは白い息を吐いて、ほっぺたを赤くしている。やっぱり可愛いよなぁ。途中でゆかりと合流する。
「遅いよ。早く行かないと間に合わないよ」
 僕たちはゆかりに急かされて、目的地に向かって出発した。冬の夜空に、星がきらきら輝いている。
「さくら、大丈夫?」
「ねえ、ゆかり。どこまで行くの?」
「ひ・み・つ!」
「えっ?」
「もうちょっと行くと登りなるからね。がんばって」
「ねえ、教えてよっ!」
<つぶやき>サイクリングは車みたいに速くないけど、風を切って走るのは気持ちいい。
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T:064「恋待ち岬の約束」5
 僕たちは町を抜けてさらに進む。家の明かりも見えなくなった。道の両側は林になっていて、暗闇の世界が広がっている。所々にある街灯が僕たちの行く手を照らしていた。いよいよ坂道に差し掛かる。しばらく坂が続くから、自転車で走るのはちょっと大変だ。でも、ここを越えれば…。
 さくらは必死になって付いてきている。大丈夫かな? ゆかりが後から励ましている。
「もうちょっとだよ。がんばれ」
「分かってるけど…。もうだめ」さくらは止まってしまった。
「少し休ませてよ」
「頂上まで歩こう。まだいいよね」
 ゆかりの提案で、僕たちは坂の上まで歩くことにした。あともう少しだから…。
 少しずつ明るくなってきていた。僕はちょっと心配になった。間に合わなかったら大変だ。せっかくここまで来たんだから…。
「もうそろそろ、教えてくれてもいいんじゃないの」さくらが不満をもらした。
 でも、ゆかりは、「だめ! 坂を下りて、林を抜ければ分かるよ」
「もう、疲れたぁ」
「そんなこと言わないの」
 ほんと、この二人は良いコンビになってる。昔っから知っていて、何でも分かってしまうような…。幼なじみみたいだ。
 やっと坂の頂上にたどり着くと、辺りはだいぶ明るくなっていた。僕たちは一気に坂を駆け下りた。両側の木がだんだん少なくなっていく。どこからか波の音が聞こえてきた。林を抜けるとぱっと視界が広がった。そこは枯れ草の野原になっていて、その向こうに白い灯台。そして、その先には海が、まだ暗い海が僕たちの目に飛び込んできた。
「わーぁ、すてきっ!」さくらの声が聞こえてきた。僕はなんだか嬉しくなった。
「灯台まで競争よ!」ゆかりはそう言って僕たちを追い抜いた。
「よし!」僕もスピードを上げる。
 さくらは、「待ってよ!」
 僕たちは息を弾ませて灯台にたどり着いた。さくらは少し遅れて、
「もう、ひどい。私を置いてきぼりにして」
 さくらはほっぺたを赤くして怒っている。僕たちはそんなさくらを見て笑っていた。
「笑うことないでしょう」
「ほら、あれ」ゆかりが海を指さす。日の出だ! …間に合ったんだ。さくらにこれを見せたかった。ここからの日の出がいちばん奇麗なんだ。
<つぶやき>心に刻みつけられた風景、全身で感じた感動。それは、あなたの宝物です。
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T:065「恋待ち岬の約束」6
「わーぁ、すごいーっ!」
 さくらはとびっきりの笑顔で見つめていた。
 お日様が雲の間から少しずつ昇ってきて、空や海、野原や海岸を彩り始めた。さくらの顔も、朝日を浴びて輝いている。まるで天使のようだ。ゆかりが僕の腕を引っ張った。僕たちはそっとさくらの側から離れる。そして、朝食の準備に取り掛かった。
 寒さを防ぐためにシートと毛布を下に敷く。防寒の用意は僕の役目だ。ゆかりは料理担当。温かいスープやサンドイッチ、おにぎりなんかを持ってきてくれた。さくらはずっと日の出を見ていた。この景色を忘れないように、目に焼き付けているようだ。海鳥の鳴き声や波の音が心地よく聞こえている。準備を終えてさくらのところに戻ると…。
「ほんと、すごいよね。こんなの見たことないよ」さくらは目を潤ませている。
 ゆかりはささやくように、「ねえ、お腹空いた。食べようよ、朝ご飯」
 さくらに身体を押し付けて、「寒くない? あったかいスープもあるよ」
「うん。食べようか」
 さくらは嬉しそうにゆかりとじゃれあいながら行ってしまう。僕は一人取り残されて、
「ちょっと、待ってよ」
 朝のすがすがしい空気と自然の景色を眺めながら、僕たちは時間のたつのも忘れて楽しんだ。あと少しでさよならしないといけないのに…。誰もそんなことは口にしなかった。今を思いっ切り楽しむ。それしか考えられなかったんだ。
「ねへ、ほほはなんへいふほころなの?」
 さくらがおにぎりを頰張りながら聞いてくる。
「ほほはねぇ…」ゆかりも真似して…。
 なに言ってるのか分かんないよ。
 ここは姫崎。みんなは恋待ち岬って呼んでいる。ここには言い伝えがあるんだ。昔々、恋する人をこの岬から見送ったお姫様がいたんだって。毎日この岬に来ては海をいつまでも見つめていた。恋する人の帰りをずっと待ち続けていたんだ。でも、その人はいつまでたっても帰ってこなかった。お姫様はそれでも待ち続けて、とうとう悲しみのあまり岩になってしまったんだって。その岩は今でも海の中に立っている。
「ほら、あの岩がそうだよ」ゆかりが岬の先にある岩を指さした。
「悲しい話しね。好きな人と会えないなんて…」その岩を見てさくらがつぶやいた。
<つぶやき>昔話にはロマンがありますね。のどかで、でもちょっと恐い話もあったり。
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T:066「恋待ち岬の約束」7
「この話しには続きがあるんだ」
 僕はなんでこんなこと言っちゃったんだろう。
「えっ、そんなのあったっけ?」
 僕はゆかりを黙らせて話を続けた。
「実は、その人はちゃんと戻ってきたんだ。この岬に。それで…、そのあと二人は…」
「それ、いま作ったんじゃないの? そんな話し聞いたことない」
 ゆかりは疑いの目で僕を見る。
「違うよ。お前が知らないだけだよ」
「そのあと、どうなったの?」
 さくらが真面目な顔で聞いてきた。僕は…、困った。必死に考えて…、
「二人はこの岬で再会して、仲良く暮らしたんだ。それで…、それから、この岬に一緒に来た恋人…、いや、友達は、どんなに遠く離れていても、何年も会えなくても、また絶対に再会できるんだ」
 なんかメチャクチャなこと言ってしまった。でも、僕の本心から出た言葉なんだ。
 ゆかりが嬉しそうに、「じゃ、私たちも絶対に再会できるね」
 さくらはうつむいて、悲しそうな顔をしている。
「もう、さくら。約束だからね」
「ゆかり…」
「絶対だからね。これは運命なんだから」
 ゆかりもメチャクチャなことを言っている。さくらは少し困った顔をしてたけど、笑顔で答えてくれた。僕たちは約束した。何年たっても、どんなに離れていても、またここで再会することを。いつまでも僕たちは親友なんだ。…それは絶対に変わらない。
「また三人で来ようね。絶対、絶対だからね」
 ゆかりは海に向かって、広い海に向かって、「また来るからなっ!」
 僕たちもゆかりに負けないように大声で叫んでいた。
「ぜったい戻ってくるっ!」さくらはありったけの力を振り絞っていた。
 さくらはきっと戻って来てくれる。僕はそう確信した。冬の朝日がまぶしくて、海が宝石のように輝いている。冷たい風が吹いてきた。僕たちは一つの毛布にくるまった。自然の音に包まれて…。広い海、広い空、すべてが僕たちだけのものになった。それぞれの思いで胸がいっぱいになって…。もう僕たちには言葉はいらない。側にいるだけで、それだけで良かった。僕たちは冬の青い海と、透き通るような空をいつまでも見つめていた。海鳥が鳴きながら飛んでいく。もうすぐ春が…、すぐそこまで来ているんだ。僕たちに残された時間は…。別れのときが近づいていた。
<つぶやき>あなたにはいますか? とっても会いたいって思える人。それは幸せなこと。
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T:067「いつか、あの場所で…」1
 私は…、喜んでいた。ほんの一瞬だったけど、さくらが引っ越すって言ったとき。なんか心がふわっとして、これで高太郎を…。高太郎のいちばん近くにいられるって思った。さくらは親友なのに、なんでこんなひどいことを…。
 その時から、私の心の底に後ろめたいものがずっと残ってしまった。このまま別れたくない。ちゃんと謝らないと…。
 いつもは平気で何でも言えるのに、なんでためらっているんだろう。そんな自分にイラついて、兄ちゃんや弟に当たり散らしていた。母ちゃんがそんな私の悩みを聞いてくれた。
「今の気持ちを正直に話せばいいじゃない。ゆかりの気持ち、きっと分かってくれるよ」
「でも…」
「親友なんでしょう。いつものゆかりは、どこにいっちゃったの」
 終業式の次の日に、さくらは行ってしまう。お母さんと一緒に。お父さんは仕事の都合でもうしばらくここに残るんだって。
 式の前の最後の日曜日、さくらの誕生会を開くことになった。私たちの最後のイベント。黒猫のおじさんの好意で、お店を使わせてもらうことになった。先生やクラスのみんなでお祝いしてあげるんだ。
 さくらは驚いていた。初めてなんだって、こんなことをしてもらうのは。
 朝から私たちは準備に取り掛かる。みんなでいろんなものを持ち寄って…。おじさんもなんだか張り切っている。人数が多いから店の表にもテーブルを用意した。まだちょっと寒いけど、たき火をすれば大丈夫。その火でお餅なんかを焼いたりも出来るしね。いろんな飾りも取り付けて、お昼には誕生会が始まった。
 さくらは嬉しそうにケーキのロウソクを吹き消した。みんなからいっぱいプレゼントをもらって、笑いながら目に涙をためている。みんながそれぞれに雑談を始めたとき、私はそっとさくらを表に連れ出した。二人ならんで堤防に座って…。さくらはいつもの笑顔で私に話し掛けてくる。私は…。
「どうしたの? 今日のゆかり、変だよ」
「あのね…。私、謝らないといけないことがあるの。さくらが引っ越すって言ったとき、一瞬だけど、ほんの一瞬だけど、良かったって思った。これで高太郎とまた二人だけになれるって…」
 さくらは私から目をそらして、「いいよ。そんなこと…」
 さくらは青い海を見つめていた。
<つぶやき>誕生日の思い出って、たぶん、ずっと心の中に残っているんだろうなぁ。
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T:068「いつか、あの場所で…」2
 私は…、
「さくら、ごめんね」
「ゆかりは高太郎のことが好きなんでしょう。ちゃんと分かってるよ」
「でも、さくらだって…」
「いいの、私のことは。喧嘩ばっかりしてたらだめだからね。優しくしてあげれば、ゆかりのこと気づいてくれる。ちゃんとね」
「あいつは鈍感だから…」
「私はこのままで良いんだ。…いつまでも親友のままで」
 さくらは笑ってるけど、どこか寂しそうだ。
「そんなのだめだよ。さくらも自分の気持ちを伝えないと…」
「もしかしたら、向こうで良い男が見つかるかも。そしたら、ゆかりにも教えてあげるね」
「なに言ってるの。私のせいにしないでよ。私がいるから諦めようなんて、そんなの…。そんなことしないでよ!」
 なんでこんなこと…。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
「それは、違うよ。私は…」
 さくらは何かを言いかけて口ごもる。
「何やってるの? さくらが消えたらまずいだろ」
 高太郎が邪魔しに来た。もう…。
「ごめん。じゃ、戻るね」
 さくらはそう言うと、先に行ってしまう。私は、高太郎を睨み付けてやった。
「なに? 俺、何かした?」
「別に、何でもない」
 私の怒ってる顔を見て、高太郎は首をかしげていた。さくらは少し離れた所から私たちに向かって叫んだ。
「わたし、羨ましかったんだよ! ずっとねーっ!」
 さくら…。
「えっ、何のこと?」高太郎が聞いてくる。
 私は、「もう、うるさい。向こう行けよ」
<つぶやき>相手の気持ちを思いやる。とても大切だけど、難しいことかもしれません。
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T:069「いつか、あの場所で…」3
 楽しい時はあっという間に過ぎてしまう。さくらがここに来て、まだ一年もたってないのに。ずっと前から友達だったような、そんな感じがしていた。別れるのがこんなに悲しいことだなんて…。私は初めて知った。さくらは、何度もこういうことを経験してたのかな? さくらは終業式のあいだ、ずっと笑顔を絶やさなかった。教室でも楽しそうに…。高太郎は平気なのかな? 私は、一人で沈んでいた。
「何やってるんだよ」高太郎がやって来て、「お前が暗い顔してどうするんだよ」
「だって…。高太郎は平気なの? もう会えないかもしれないんだよ」
「平気じゃないよ。笑ってさよならしたいから…。もう会えないなんて言うなよ」
「…ごめん」
 高太郎の言うとおりだ。私はどうかしてたんだ。これでもう会えないわけじゃない。会いたいと思ったらいつでも会えるんだ。高太郎のおかげで、いつもの私に戻ることが出来た。明日、笑ってさよならしよう。私はそう決めた。
 さくらはみんなにお別れを言って教室を出る。三人で帰るのはこれが最後。私たちはさくらと並んで歩いた。さくらは黙っていた。ときどき後を振り向いて…。
 校門のところでさくらのお母さんが待っていた。先生に挨拶をしに来たんだって。
「これから寄る所があるの。だから、ここで…」
 さくらはお母さんの顔を見る。
「今までありがとうね。仲良くしてくれて、ほんとにありがとう」
 お母さんが私たちに頭を下げる。私たちは困ってしまった。
「ママ、もう良いから。行こうよ」
「さくら。明日、見送りに行くからね」
 私の言葉に、さくらは俯いて、「…いいよ」
「駅まで送りたいの。高太郎と一緒に行くから」
「私、そういうのいやだから…」
「なに言ってるの?」
「もう行かないと…。じゃ、さよなら。元気でね」
 さくらはそのまま行ってしまう。私はさくらに、さくらの後ろ姿に、
「また明日ね!」
 私の声に、さくらは振り向いて手を振った。どこか寂しげな笑顔だった。
<つぶやき>さよならは淋しいけど、次に会ったときの歓びは、格別かもしれません。
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T:070「いつか、あの場所で…」4
 さくらと別れて、高太郎と二人で帰る。高太郎はずっと黙っていた。私も…。さくらが転校してくる前は、こうしていつも二人で帰っていた。前と同じなのに、前の生活に戻るだけなのに、なにかが違う。さくらと出会ったことで、私たちの中の何かが…。分かんないけど、何か変わってしまったのかな? 何なんだろう、この気持ち…。
「なあ。さくら、おかしくなかったか?」高太郎が、「いつもと違うような…」
「明日で行っちゃうからだよ」
 さくらは寂しがり屋なんだから。さよならするのが…。
「でも、<元気でね>なんて、もう会えないみたいに…」
「えっ?」
 私は…。なんで気づかなかったんだろう。さくらは別れるのが苦手だって言ってた。まさか、このまま…。
「ねえ、おじさんっているよね」
「えっ?」
「さくらのお父さんよ」
 確かめなきゃ。
「今日は、家の片付けをするって…」
「走るわよ。おじさんに会わなきゃ」
 走りながら高太郎に説明する。もしかしたら、行くつもりなのかもしれない。私たちに黙って。だからあんなに寂しそうな顔してたんだ。きっとそうだ。
 私たちは息を切らして坂道を駆け上がる。
 さくらのお父さんは家の前で掃除をしていた。私たちは駆け寄って、
「あの…、さくら…」息が切れて言葉にならない。高太郎が代わりに聞いてくれた。
「さくらはもう…。えっ、聞いてないの?」おじさんは驚いて、「急にね、今日行くって言い出して…」
「そんな…。高太郎、行こう。まだ、間に合うかも」
 私が走り出そうとするのを、高太郎が呼び止めた。
「自転車で行った方が早いよ」そういって家に飛び込む。
 おじさんが、「さくらのがあるから…」さくらの自転車を貸してくれた。
「そういえば、どこかに寄るって言ってたなぁ」おじさんが自転車を出しながら、
「えっと、猫に会いに行くとか…」
 ノラだ! 私たちはおじさんにお礼を言って、黒猫亭へ向かって自転車を走らせた。私は走りながらずっとさくらに…。さくらのバカ。私に黙って行こうなんて。許さないからね。ぶっ飛ばしてやる。もう、バカ、バカ、バカっ!
<つぶやき>さよならするのは苦手です。別れのシーンって、いつまでも心に残ってる。
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T:071「いつか、あの場所で…」5
 急いで走ってきたから、二人とも息切れしていた。黒猫亭は静かで、さくらの居る気配はなかった。私が店に入ろうとしたとき、高太郎が呼び止めた。
「ほら、あそこ」高太郎が指さす。
 堤防に人影が見えた。…さくらだ。私たちは堤防に向かって走った。さくらは私たちに気づいて目をそらす。私は、すごく怒っていた。でも、さくらの顔を見たら、なんにも言えなくなってしまった。言いたいことがいっぱいあったのに…。私は睨み付けてやった。高太郎が私たちの間に入って止めようとする。
 さくらは決まりが悪そうに笑って、「やっぱり、分かっちゃったんだ」
「これくらい分かるわよ。さくらが考えてることぐらい…」
「今日、行っちゃうのか?」高太郎が真面目な顔で聞いた。
 さくらは頷いて、「さっきから、海を見てたんだ。今度、いつこられるか分からないから」
 そう言ってさくらは堤防に座った。波の音が、いつもと同じ海の音がしていた。私はさくらの隣に座って、
「黙って行くことないだろ」
 さくらに私の身体をぶつけてやった。
 さくらは、「痛いっ…」
「私たちに嘘ついた罰よ」
「ごめんね。…ほんとに、ごめん」
「許さないからね」
 口ではこんなこと言っちゃったけど、ちゃんと許していた。会えたから…。こうして会えたから。高太郎が横に座って、
「それで、ノラには会えたの?」
 さくらは、「ううん。居なかった。やっぱり、嫌われたのかな…」
「そんなことないよ。さくらのこと嫌いになる奴なんて、どこにもいないよ」
 高太郎が優しく…。私には…、こんなに優しくしてもらったことなんてない。
「私ね、今まで故郷(ふるさと)って呼べるところ無かったんだ。でもね、ここにしようって決めたの。ここを私の故郷にしようって。だって、ここにはいっぱい思い出が…、楽しい思い出が出来ちゃったから」さくらは笑顔で私たちを見て、「それに、こんなに素敵な親友が二人もいるんだよ。これって、すごいことだよね」
「さくら…」それで良いの? このままで…。
<つぶやき>思いが届くときもあれば、届かないときもある。人生はままならないです。
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T:072「いつか、あの場所で…」6
「ねえ、高太郎と二人だけにしてくれない」
「えっ?」私はさくらのこの言葉にドキッとした。高太郎も驚いている。
「…分かった」私はその場を離れた。
 黒猫亭に戻るあいだ、足がふるえた。頭の中がグチャグチャになって…。胸がどきどきしていた。私は後ろを振り返る。二人は何を話しているんだろう? きっと、告白するんだ。高太郎はさくらのことが好きだから…。私は…、私は……。
 しばらくして、二人は黒猫亭に戻ってきた。さくらが何を話したのか、私は知らない。高太郎も教えてくれなかった。私はすごく気になった。でも、私は知らない方が良いのかなって思ったんだ。聞く勇気もなかったし…。
 私たちは黒猫亭でさくらを見送った。さくらがここでいいって言い張ったから…。
「また来るね。ここに戻ってくる。あの場所へ、またみんなで行こう」
 さくらは笑いながら、目に涙をためていた。ほんとに泣き虫で、頑固なんだから。
「また会おうね。絶対、絶対だからね」私はさくらをギュッと抱きしめた。
「元気でね。また三人で行こうよ。…ありがとう」高太郎はさくらと握手した。
 何げなく堤防の方を見たとき、あいつがそこに座っていた。こっちを、さくらを見ている。ノラ。やっぱり来たんだ。あいつもお別れをしに…。さくらは嬉しそうにノラを見つめていた。ノラはこっちには近づいて来なかったけど、さくらはさよならって手を振った。ノラもなんだか寂しそうだ。ずっとさくらを見つめて、別れを悲しんでいる。私には、そう思えた。桜のつぼみがほころび始めている。春はもう来ているんだ。私たちのこの場所に…。さくらは、お母さんと一緒にここから旅立っていった。私たちは笑顔で見送った。さくらが見えなくなるまで、ずーっと。また会えることを信じて…。
『エピローグ』
 あれから、どれくらいたったのかな?
 私たちはそれぞれの夢に向かって歩き出した。でも、いつも心はつながっている。どれだけ会えなくても、どんなに遠く離れていても、いつまでも親友なんだ。あの場所へ行けば、子供の頃に戻ることが出来る。ここはさくらの、私たちの故郷なんだから…。
 さくらとは手紙のやり取りをしたり、たまに電話で話したりしていた。もうすぐ高校最後の夏。高太郎とはずっと同じ学校に通っているんだ。いつも側にいて私は恋人のつもりなのに、高太郎は相変わらず昔のまま。私を恋人と認めようとしないんだ。私のこと好きだって思ってるくせに…。いつもはぐらかされてしまう。
 今年の夏こそ、好きって言わせてやるんだ。実は、高太郎に内緒にしていることがある。夏休みにさくらが帰ってくるんだ。遊びに来ることになっている。高太郎、びっくりするだろうなぁ。今から楽しみにしてるんだ。さくらとまた会える。私はわくわくしている。
 この町も、青い海や空、恋待ち岬もみんなさくらを待っている。そして、私たちの夏が始まる。さくらと過ごす、とびっきり楽しい夏が…。     <おわり>
<つぶやき>これから先、どんな物語が続くのでしょうか。それは、また別のお話し…。
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連載物語End