書庫 読切物語51~
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T:051「ライバル出現」
「あたし、今日は帰りたくないな~ぁ」
智子(ともこ)のこの甘い言葉で、今までしぶっていた紀夫(のりお)の気持ちがぐらついた。そして、ついに智子は彼のマンションへお邪魔することに…。この日をどれだけ待ったことか。
紀夫は真面目で優しくて、性格は申し分なかった。仕事だって堅実(けんじつ)な会社で、年収も悪くはない。顔は美男子とまでは言えないが、全てがそろっている男なんてそうそう見つかるはずはないし、白馬の王子が現れるなんてあり得(え)ない。智子は現実的な女なのだ。
あと、確認すべきことは彼の私生活だ。外面(そとづら)だけ良い男はいっぱいいる。変な趣味をもっていたり、妙なこだわりのある男だと、結婚したあと苦労することになるかもしれない。それを見きわめるには、彼の部屋を覗(のぞ)くのが一番いいのだ。それも、不意打(ふいう)ちで…。まさに、今日がその日になったわけだ。お泊まりの準備も万全だし、どういう状況になっても大丈夫。彼女は、準備を怠(おこた)らない女でもある。
彼のマンションは悪くはなかった。彼の年収から考えても、背伸びをせずに経済観念(けいざいかんねん)もしっかりしている。部屋の中は予想以上に奇麗に片づいていた。ここまできっちりしていると、何だかこっちも気分がいい。彼がお茶の支度をしている間、智子は部屋の中を見渡した。どうやら、いかがわしいものはなさそうだ。でも、そういうものは人目につく場所には置かないもの。結論を出すのは早すぎるわ。
二人は、たわいのない話でしばらく談笑(だんしょう)した。そのうち、何となく無口になって、お互いの目と目が合う。何となく良い雰囲気。彼が少しずつ近寄って来て、どちらからともなく、顔を近づける。まさにその瞬間、部屋の中が真っ暗になった。
「なに? どうしたの? いやだ」誰もがする反応を智子はした。
「あれ? 停電かな。ちょっと待ってて」
紀夫はそう言うと手探りで彼女から離れて行った。彼はすぐに懐中電灯をつけると、ブレーカーを確認したり、動揺する様子もなかった。けっこう頼もしいんだ。智子は彼の知らなかった一面を見ることができた。これは、収穫である。彼はそのまま外へ出ていった。
外の方から彼の声が聞こえた。「やっぱり停電だよ。真っ暗になってる」
その時だ。智子は部屋の中で何かが動く気配を感じた。それが、だんだん近づいて来る。智子は悲鳴をあげた。それを聞いた紀夫か駆け込んでくる。彼の持つ懐中電灯の灯りで見えたのは、小学生くらいの女の子。智子は一瞬こおりついた。子供がいたなんて…。
彼は笑みを浮かべて、「どうしたの? しずちゃん」
女の子はほっとしたような顔で、「真っ暗になっちゃって、それで…」
「そうか。お母さん、まだ帰って来てないんだ。それじゃ、怖かったよね」
女の子は智子を見て言った。「このおばちゃん、だれ?」
「ああ、このおばちゃんはね」と言って紀夫は慌てて訂正した。「このお姉さんは、智子さんっていうんだよ」紀夫は智子に、「この子は、隣に住んでる子で…」
女の子はしっかりとした口調で言った。「あたしは、のり君のお嫁さんの静恵(しずえ)です。のり君のこと、誘惑(ゆうわく)しないでください。お・ば・ちゃ・ん」
<つぶやき>思いもよらない展開。もしかすると、この子の母親も彼を狙っているのか?
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T:052「約束」
「誰? そこにいるのは誰なの?」
私はかすんだ目をこすった。だんだんはっきり見えてくる。そこには、お下げ髪の女の子が立っていた。私のほうを向いて、必死に手を振り何かを叫んでいる。私は、はっとした。それは、紛(まぎ)れもなく私。小学生の私の姿だった。
そこで、私は目が覚めた。何でこんな夢を見たんだろう。きっと、あれよ。小学校の同窓会のはがきが届いたからだ。私は髪をかきむしった。
一ヵ月後、私は静岡のとある町に降り立った。もちろん、明日の同窓会に出席するためだ。この町に来たのは十年ぶり。小学五年の時に引っ越して、それ以来一度も訪れたことはなかった。町を歩いていると、何となくその当時の記憶がよみがえってくる。町の様子も、ほとんど変わっていないように思えた。
駅から少し離れたところにある民宿。確か、ここには同級生の男の子がいたはずだ。私はどんな子だったか思い出そうと、民宿の前でしばらく立ち止まっていた。そこへ突然、
「さゆりちゃん? さゆりちゃんだよな!」
私は驚いて振り返る。そこに立っていたのは、真っ黒に日焼けした男性。彼は有無も言わさず私の手を取り、力いっぱい握(にぎ)りしめた。
「ほんと久しぶりだよな。俺のこと、覚えてる?」
民宿に落ち着くと、彼は私のことはお構いなしにまくしたてた。「もう、予約の名前見て、もしかしたらって、思っちゃったよ。で、何しに来たの? まさか、俺に会にとか?」
「何言ってるの。違うわよ」
私は少し怒った顔で言った。何だか昔に戻ったようだ。この子、お調子もんで、いつも女の子にちょっかい出してたっけ。「同窓会よ。明日、あるんでしょ」
「同窓会?」彼はキョトンとして首をひねった。「そんなの、知らないな」
私は案内のはがきを出して、「ほら、明日になってるでしょ」
「えっ! 俺だけ除(の)け者かよ」彼ははがきを手に取り見ていたが、突然大声を出して、
「嘘(うそ)だろ、この幹事って――。亡くなってるんだけど」
「えっ、どういうこと?」
「だから、この中村宏(なかむらひろし)だよ。五年前に病気で死んでるんだ。俺、葬式(そうしき)に行ったし」
「やだ…。そうなの? 何で、私のところに…」
中村宏。私はどんな子だったのか、まったく思い出せなかった。
「ほら、いただろ。体育の授業で、いつも見学してたやつ。けっこう学校も休んでたから、思い出せないのも無理ないけどな」
私は、彼の言葉でふっと記憶がよみがえってきた。私、中村君と約束したことがあった。何でそんな約束したのか分からないけど…。二人で富士山に登ろうって。中村君から言ってきて。私、いいよって。一緒に登ろうねって。軽い気持ちで約束した。何で中村君、そんなこと言ってきたんだろう。もしかしたら…。私、決めた。富士山に登ろう。私は、お調子もんの彼に手伝ってもらって、富士山頂で同窓会を開くことにした。
<つぶやき>子供の頃、誰かと約束してませんか。今からでも、約束を果たしましょう。
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T:053「恋に恋して」
好きなのに好きって言えない。とっても簡単な言葉なのに、それを言ってしまうと壊(こわ)れてしまいそうな、そんな気がして…。私は、いつまでもうじうじしていた。
彼とは友だち。の、はずだった。でも、いつからか意識し始め、気がつけば、彼のことをずっと見ていた。彼は、そんな私のことなんてまったく気づいていないみたい。そんなこと当たり前のこと。私と彼の間には、ものすごく距離があるの。それを縮(ちぢ)めることなんて、今の私にはとても無理だわ。
私は親友に相談してみた。彼女は、とってもさばさばしていて、思っていることは何でも言ってしまう。私とはまったく真逆(まぎゃく)な性格をしていた。今までもいろんな悩みを聞いてくれたし、私のことをいつも励(はげ)ましてくれていた。
彼女は私の言うことを黙って聞いてくれて、
「何だ。そんなの、訊いてみればいいじゃない」
「そ、そんなこと訊けないよ。もし、私のこと好きじゃなかったら…」
「それを確かめるんでしょ。でなきゃ、いつまでもスッキリしないままよ」
「そうだけど…。でもね、でも……」
「もう、しょうがないな。あたしが訊いてきてあげる。あんたのこと、どう思ってるのか」
翌日。彼女は私のところへ来て言った。
「彼ね。他に好きな人がいるんだって。だから、あんたとは付き合えないって」
私は、何だがホッとしたような…。だって、もし彼と付き合うことになったら、どうしたらいいかまた悩んでしまいそうで。これで、よかったのよ。
それから一ヵ月後。私は他の友だちが話しているのを聞いてしまった。私の親友と彼が付き合ってるって。私は、自分の耳を疑ってしまった。だって、彼には他に好きな人がいるって――。それって、彼女のことだったの?
私は確かめようと、彼女に会いに行った。でも、そんなこと訊けないよ。私はまたうじうじうじうじ。結局、何も訊けなかった。それからというもの、私は彼女を避けるようになってしまった。彼女の方も…。
私は、こんなことで親友をなくすなんて。それもこれも、私のはっきりしない性格のせいよ。私は、いつも他の人に頼ってばっかり。こんなんじゃ、いつまでたっても恋なんてできないわ。自分のことは自分で何とかしなきゃ。でも、そう簡単に自分の性格を変えることなんてできそうにない。
私は一人でいることが多くなった。今日もひとりでランチ。もう慣(な)れてしまったというか、開き直ったと言ってもいいかも。さあ食べようって思ったとき、私は声をかけられた。
「あの、ここいいですか?」
顔をあげると、そこには見知らぬ男性。私に微笑みかけている。これって…。
「すいません。ここしか、あいてないものですから」
何だ。そういうことね。私は、愛想(あいそ)笑いをしてしまう。ああ、私も恋がしたい。もう、うじうじなんてしてられないわ。
<つぶやき>出会いはどこに転がっているか分かりません。チャンスは逃がさないように。
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T:054「また明日」
三年付き合っていた彼が突然いなくなった。何の前触(まえぶ)れもなく。別れぎわに、また明日って言ってたのに。これって、どういうことよ。あたし…、捨てられたってこと。
彼と最後に会った日のことは今でも覚えてる。仕事帰りに二人で待ち合わせ。いつものお店で食事して、たわいのない話で盛り上がる。いつもと変わらない、全然、まったく別れ話なんかなかったし、喧嘩(けんか)だってしてないでしょ。なのに、どうして?
次の日、メールして。返信がなかったけど、仕事が忙しいんだなって思ってた。夜になって電話して。つながらなかったけど、まだ仕事なのかなって…。そういうことって、今までだってあったから。それに、彼って、そういうのマメじゃないし。
でも、三日たっても連絡がなくて。さすがのあたしも、変だなって思った。それで、彼の会社に電話してみた。そしたら、彼、会社辞(や)めてたの。辞めた理由を訊いてみたら、一身上(いっしんじょう)の都合(つごう)ですって。それって、何よ。まったく分かんない。
あたし、彼のアパートへ行ってみたわ。そしたら、誰もいなくて。たまたま顔を合わせた隣の人に言われちゃった。二、三日前に引っ越したって。あたし、目の前が真っ暗になったわ。もう、笑うしかないじゃない。あたしは、何度も何度も、彼の携帯に電話した。何度かけたって、電源が入ってないってそればっかし。
あたし、一人で考えてみたわ。あたしが捨てられた理由。でも、いくら考えたって、そんなの思いつかないわよ。あたしの、何がいけなかったの。いなくなる前に、教えてほしかったわよ。もうダメ。これ以上一人でいたら、あたしどうにかなっちゃう。無性(むしょう)に淋(さび)しくて、叫びたくなるくらい腹が立った。
あたしは友だちに電話した。誰かに聞いてもらわないと、あたしおかしくなりそう。友だちは慰(なぐさ)めてくれたわ。そんな身勝手(みがって)な男のことなんか忘れなさいって。別れて正解だったのよ。ほんと、そうかもしれない。でも、でもね。あたしもそうしようと思ったわよ。思ったけど、どうしても心のどっかに彼のことが引っかかってるの。このままじゃ、あたし前へ進めない。仕事も手につかないし。
今、あたしは彼の実家へ向かっている。興信所(こうしんじょ)で調べてもらったの、彼のことを。そしたら、彼の居場所(いばしょ)が見つかったわ。一ヵ月ぶりの再会。彼には、言いたいことが山ほどある。でも、その前に一発ぶん殴(なぐ)ってやる。それくらいのこと、許されるはずよ。
地図を見ながらあたしは歩く。――何なのここは。畑ばっかりで、家なんでどこにあるのよ。道を訊こうにも、人なんかまったく歩いてないじゃない。彼が、こんな田舎で育ったなんて、まったく知らなかった。あたし、彼のことどこまで知ってたんだろう。
遠くの畑で働いている人影を見つけた。あたしは、その人の方へ歩いて行く。これでやっと道を訊くことができるわ。だんだん近づくにつれて、あたしはハッとした。その人の背格好(せかっこう)、身体つき…。そして、帽子の下で見え隠れする顔。あたしは足を止めた。それは、間違いなく彼だった。あたし、身体が震えたわ。頭へ血がカーッとのぼって…。
あたしはゆっくりと彼に近づく。あたしを見つけた彼の顔は、ハトみたいに口を開けちゃって。あんなに言いたいことがあったのに、あたし何も言えなくなっちゃった。
<つぶやき>人生は出会いと別れの連続です。悔いのないように、一期一会(いちごいちえ)で生きましょ。
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T:055「別れの言葉」
義之(よしゆき)はふらふらとした足取りで歩いていた。大学の研究室にこもっていて、もう三日も満足(まんぞく)に寝ていないのだ。ビルの角(かど)に差しかかったとき、義之の身体に何かがぶつかってきた。はずみで彼は倒れ込んでしまった。その彼の上に覆(おお)い被(かぶ)さるように乗っかって来たのは、大きなサングラスにキャップをかぶった女の子。彼女は周(まわ)りを気にしながら立ち上がると、
「大丈夫(だいじょうぶ)? ごめんなさい、急いでたんで。ケガとかしてない?」
義之はオドオドしながら立ち上がり、「こっちこそ、気がつかなくて、すいません」
彼が顔を上げると、彼女がいきなり抱きついて来て、彼に唇(くちびる)を押しつける。その時、すぐ傍(そば)まで走って来た黒ずくめの男たちのしゃべり声が聞こえた。
「おい、どこ行ったんだ? 見失(みうしな)ったらやばいぞ。お前たちは向こうへ行け」
男たちは方々(ほうぼう)に散(ち)らばって駆(か)けて行った。彼女は義之から離れると、走り去る男たちを目で追った。キスをされた義之は目を丸くしていた。完全に目が覚めたようだ。
「あ、あの…。い、今のは、ど、どういうこと…」と、しどろもどろになっている。
「気にしないで。あたし、悪い人たちに追われてるの。ねえ、駅はどっち?」
「あっ、それなら、僕もそっちへ行くところで…」
彼女は義之の手をつかむと、「案内して。あたし、行かなきゃいけない所があるの」
義之と女の子は同じ電車に乗っていた。彼女がお金を持っていなかったからだ。義之は横に座っている彼女を見た。眠ってしまったようで、義之の方へもたれかかっている。
義之は自分の唇に指(ゆび)を当てた。さっきのキスの感覚がまだ残っている。義之は彼女のことが気になりだした。そっと彼女のサングラスをはずしてみる。彼女の顔立(かおだ)ちは整(ととの)っていて、とても可愛(かわい)らしく見えた。どうやら、年下みたいだ。
義之が彼女の顔を眺(なが)めていると、周りにいた女学生がひそひそと囁(ささや)きだした。彼女が目をさます。サングラスがないことに気づくと、慌(あわ)てて手を頭の方へ…。その拍子(ひょうし)に、かぶっていたキャップが床に転がった。次の瞬間、彼女の肩へ真っ黒な黒髪がはらはらと落ちてきた。それを合図(あいず)に、彼女は女学生たちに囲(かこ)まれてキャーキャーと大騒(おおさわ)ぎになった。ちょうど電車が停まって、扉(とびら)が開く。彼女はキャップをつかむと、人をかき分けて電車から飛び降りた。義之も慌てて後を追いかける。何とか外へ出ると、電車は走り去って行った。
二人は空港にいた。彼女が行かなきゃいけないと言った場所だ。彼女は搭乗口(とうじょうぐち)の近くで誰かを見つけると、一人で駆け出した。義之はその場から動けなかった。こっから先は、行かない方がいいと思ったのだ。彼女は男性の前で立ち止まり、見つめ合う。何を話しているのか義之には分からなかった。でも、恋人なのだろうと想像(そうぞう)はつく。しばらくして、男性は搭乗口へ歩き出した。彼女は男性が見えなくなるまで見送っていた。義之は彼女から目をそらす。何だか彼女が泣いてるみたいで…。彼女が戻ってくると、
「ありがとうね。こんなとこまで付き合わせちゃって」彼女はサングラスをはずし、「でも、あなた、あたしのことほんとに知らないの?」
義之は首を傾(かし)げて、「ああ…、うん。君はどういう娘(こ)なんだい?」
彼女はにっこり笑うとサングラスをかけて、「よかった。あなたみたいな人がいてくれて」
<つぶやき>彼女の正体は何なのか? 彼がそれを知ることになるのはもう少し後のこと。
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T:056「残されたもの」
ある資産家が亡くなった。彼は良き家族を持っていたようで、世間で言う遺産争(いさんあらそ)いにはならなかった。でも、それはきちんとした遺言書(ゆいごんしょ)が作られていたからだろう。
それが見つかったのは、葬儀(そうぎ)も終わり、彼の家族が遺品(いひん)の整理をしていた時のことだ。それは本の間に挟(はさ)まっていて、茶封筒にきれいに折りたたまれて見つかった。それには意味不明の文字や絵がびっしりと羅列(られつ)されていた。封筒には<我が良き家族へ>と書かれている。そこにいた家族はみんな頭をかかえた。もしかしたら、まだ他に遺産があるのかもしれない。その隠し場所がここに書かれているのでは…。実際、彼の資産がどれだけあったのか、家族は誰も知らない。だから、そう思う者がいても不思議ではないのだ。
そこで家族たちは相談した。もしお宝が見つかったらみんなで折半(せっぱん)することを条件に、彼らは探偵を雇(やと)うことにした。最も信用があって、頭の切れそうな探偵を――。
「これが、問題の…」探偵はそれを見るなり口を閉じた。何事かを考えているように、じっとそれを見つめる。隣にいた助手が口を挟んだ。
「これが暗号なんですか? これだけじゃ、何が何だか分からないわ」
探偵は笑みを浮かべると助手に呟(つぶや)いた。「さっぱり分からん。君の言う通りだ」
落胆(らくたん)している家族を前に探偵は言った。
「亡くなった方のことを教えていただけませんか? そこにヒントがあるかもしれない」
家族の話をまとめると、茶目(ちゃめ)っ気たっぷりの人で、いつもみんなを煙(けむ)に巻いて楽しんでいたそうだ。探偵はますます頭をかかえた。残されていた遺品すべてを調べてみたが、謎を解く鍵は見つからなかった。探偵は家族の前でおもむろに言った。
「もう少し時間をいただけませんか。これを持ち帰って、じっくりと…」
家族たちの顔には失望(しつぼう)の色が出ていた。探偵は仕方なく、
「でも、一つだけ分かったことがあります。これには家族に対する感謝の気持ちが込められていました。よく見ると、この中にはアリが10匹、描かれています。つまり――」
「ありがとう?」助手が思わず呟いた。「だじゃれですか?」
探偵はそれを助手に押しつけて、話を続ける。「そうです。これはまさに、そういうことなんです。最後の最後まで、皆さんを楽しませようとされたのではないでしょうか」
家族たちはなるほどと、腑(ふ)に落ちたようだ。探偵はさらに調査を続けると約束して、その家を後にした。家を出てからも、助手はそれを首を傾(かし)げながら見つめていたが、
「先生、変ですよ。あたし、何度も数えてみたんですが、この中にアリが12匹いるんです。これって、どういうことなんですか?」
探偵は助手からそれを取り上げると言った。
「いいんだよ、そんなことは。それより」探偵はポケットから小さな手帳を取り出して、
「遺品の中でこれを見つけたんだ。この中にも、同じ絵が描かれていた」
「先生、黙って持って来ちゃったんですか? そんなことしたら…」
「人聞きの悪いことを…。ちょっと拝借(はいしゃく)しただけだ。これも依頼人のためだろっ」
「そんなこと言って。お宝を一人占(ひとりじ)めしようって…。ダメですよ、そんなことしちゃ」
<つぶやき>探偵も生きていくにはお金が必要なんです。でも、猫ババはダメですからね。
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T:057「待ちきれない」
彼女は待っていた。彼の口からプロポーズの言葉が出るのを…。でも彼は、何か言いたそうな素振(そぶ)りは見せるのだが、肝心(かんじん)なことになるとまるっきりダメなのだ。彼女にはそれがもどかしかった。――思い起(お)こせば、彼が告白しようとしたときも…。なかなか言い出してくれないから、仕方(しかた)なく彼女のほうから、
「あなたのこと好きかも…。私たち、付き合わない?」って言ってしまった。
だからこそ、プロポーズは彼の方からしてほしい。彼女はそう思っていた。今日のデートでも、言うチャンスはたくさんあったはずだ。それに、今日は特別な日。彼だってそれが分かってて、こんな素敵(すてき)なレストランを予約したはずよ。なのに…。
食事も終わりに近づいていた。デザートが運ばれて来て、二人の前に並べられる。彼女は小さな歓声(かんせい)をあげて、彼に笑顔を向ける。でも内心(ないしん)では、
「さあ、今よ。今でしょ。今言わないで、いつ言うのよ!」
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、彼は美味(おい)しそうにデザートを頬張(ほおば)った。彼女は小さく溜息(ためいき)をつき、デザートを口にする。美味しいはずなのに、ちっとも美味しく感じないのはなぜ…。今日、プロポーズしてくれるんじゃないの?
もう帰らなきゃいけない時間が迫(せま)っていた。彼も時計を気にしはじめた。二人の会話も途切(とぎ)れ途切れになり…。彼女は彼を見つめて、意味深な微笑(ほほえ)みを浮かべる。そして心の中で呪文(じゅもん)のように何度も呟(つぶや)いた。
「これが最後よ。言いなさい。プロポーズ、プロポーズ、プロポーズ…」
きっと心の声が顔に出てしまったのだろう。彼は心配そうに彼女の顔を見て言った。
「大丈夫? お腹(なか)でも痛いの?」
彼女は我(われ)に返って、「えっ、いや…。何でもない、何でもないわよ。別に…」
「だって、眉間(みけん)にシワ寄せて、苦しそうに見えたんだけど…」
彼女は思った。こいつ、プロポーズする気なんてないんだ。期待した私がバカだったのよ。あーっもう、せっかくの記念日なのに――。
二人は店を出ると、駅へ向かって歩き出した。彼女はどうやらご機嫌(きげん)ななめのようで、俯(うつむ)き加減(かげん)で黙(だま)って歩いていた。彼の方も、ポケットへ手を突っ込んでスタスタと…。ほどなくすると駅前に到着(とうちゃく)した。ここで二人は別れることとなる。
彼女は彼の顔を見るでもなく手を上げて言った。「じゃ、またね」
彼女の顔には、いつもの笑顔はなかった。足取りも重く、彼女は改札へ向かって歩き出す。すると、すぐに彼が彼女を呼び止めた。彼女が振り向くと、彼は指輪の箱を差し出して叫んだ。「あの…、ぼっ、僕と、け、けっ――」
彼女は顔を真っ赤にして駆(か)けて来ると、慌(あわ)てて彼の口を押さえて小さな声で、
「ちょ、ちょっと…。こんなとこで、それはないでしょ。みんなが見てるじゃない」
確かに駅前である。遅い時間でも人通りはある。彼はそこまで目に入らなかったようだ。
「ごめん。でも、今しかないと思って…。僕と、結婚してく――」
彼女はキスで彼の口を塞(ふさ)ぐと、彼の耳元で囁(ささや)いた。
「もう、帰りたくなくなっちゃうじゃない。どうしてくれるのよ」
<つぶやき>恋は盲目(もうもく)にするものなのです。恋人たちの邪魔(じゃま)だけはしないようにしましょ。
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T:058「恋の時計」
気がつけば、もう何年も恋なんかしていなかった。そりゃ、私だって学生の頃は、憧(あこが)れの先輩(せんぱい)とか、好きになった人もいたわよ。あの頃は、好きだって気持ちだけで充分(じゅうぶん)。それだけで幸せだった気がする。――社会人になってからは仕事に追(お)われて、恋に目を向ける余裕(よゆう)なんか…。
そんな私に、恋の女神(めがみ)が微笑(ほほえ)みかけた。私、好きな人ができたの。――でも、恋に鈍感(どんかん)になっていた私は、そんな自分の気持ちにも気づかなかった。
その人には、好きな人がいたの。それも、私の親友。私が、その人に親友を紹介(しょうかい)したの。だって、私、その時は、その人のこと会社の先輩としか思ってなかったから…。二人から付き合うことになったって聞いた時は、びっくりして言葉も出なかったわ。
それからというもの、親友から先輩との仲(なか)むつまじい話を聞くたびに、私の心はざわついて…。私、何でこんな気持ちになるのか全然(ぜんぜん)分からなかった。前は、親友と会えるのが楽しみだったのに、だんだん彼女を避(さ)けるようになってしまった。仕事が忙(いそが)しいって理由(りゆう)を作って…。
そんな時、先輩から彼女が入院したって聞かされた。私は驚いて、病院へお見舞いに行ったわ。病室へ入るとき、何だが後ろめたくて立ち止まってしまったけど…。ベッドの上の彼女は、全然変わっていなかった。いつもの笑顔で私に話しかけてくる。私は、何だかホッとして、昔のようにおしゃべりをすることが出来た。
でも、何度も見舞に行ったけど、彼女の病気は…。
――半年ほどして、彼女は帰らぬ人になってしまった。後から聞いた話だけど、先輩は、彼女が亡くなる二日前にプロポーズをしたらしい。だけど、彼女はほんの少し微笑んだだけで、目を閉じて何も答えなかったって。
――あれから二年たったけど、先輩の心にはまだ彼女がいて…。そこに、私の入る余地(よち)なんてどこにもない。そんなこと分かってた。分かってたけど、私は思いきって先輩に告白した。だって、私、先輩のことずっと好きだったから。
先輩はちょっと困った顔をしたけど、私を見つめてこう言ったわ。
「僕、もう恋はしないんだ。一生分の恋をしてしまったから。――ごめんね」
そんなこと言われたら、もう何も言えなくなっちゃうじゃない。ずるいよ。――思い出の中の彼女は、ずっと美しいままじゃない。私が何をしたってかなうわけない。だけど…。このままじゃいけないわ。いいわけないじゃない。こんなこと、親友の彼女だって望(のぞ)んでなんかいない。
私、決心したわ。女子力を磨(みが)いて、良い女になってみせる。そして何度でも告白して、先輩を振り向かせてやる。うざい女って思われてもかまわない。嫌(きら)われたって…、それはちょっとイヤだけど…。先輩の、止まってしまった恋の時計を動かさなきゃ。
それでもだめなら、私、潔(いさぎよ)くあきらめるわ。でも…、私じゃなくても、誰かと恋をして、結婚して、幸せな家庭をもって…。彼女がつかめなかった幸せを、先輩にはかなえてほしいの。そのためなら、私、何だってするから――。
<つぶやき>一途な想いを持ち続けるのは大変ですよね。でも、人は前へ進まなくては…。
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T:059「ヤドカリ」
頼子(よりこ)が仕事から帰って来られたのは、もう九時を少し回った頃だった。いつもならもっと早く帰れるのだが、ちょっと仕事でトラブってしまったのだ。マンションのエレベーターを降りて部屋の前まで来たとき、窓から明かりが洩(も)れているのを見つけた。頼子は慌(あわ)ててカギを開けて中へ入ると、ニコニコしながら希世(きよ)が出迎(でむか)えた。
「お帰り。遅(おそ)かったのね。連絡してくれれば――」
「どうして? だって、一晩(ひとばん)だけって…」
「ごめんね。そのつもりだったんだけど、部屋がなかなか決まらなくて…。もうしばらく泊(と)めてくれないかなぁ。お願い! ねえ、いいでしょ? お願いよぉ」
希世とは同郷(どうきょう)で、高校の同級生だった。昨日の昼間、たまたま街で出会って、――同窓会で会って以来だから三年振りの再会である。まさか、こっちに来てるなんて思ってもいなかった。その時は、連絡先を交換(こうかん)して、また会おうねって別れた。頼子にしてみれば、そんなに親しい友達ってわけでもないし、言葉を交(か)わした記憶(きおく)もほとんどない。
その日の夕方、希世から電話がかかってきた。「泊めてくれない?」って。頼子は、どうせ一人暮らしだし、一晩くらいなら、と泊めてあげることにしたのだ。
「夕飯(ゆうはん)、まだだよね」
希世は、頼子の腕(うで)を取り食卓(しょくたく)の前へ連れて行くと、「さあ、座(すわ)って。一緒(いっしょ)に食べよ」
頼子はテーブルに並んでいる料理を見て目を丸くした。まるで、高級レストランに来たみたい。「これ、あなたが作ったの? 全部…」
「だって、タダで泊めてもらうんだから、これくらいしないとね。それから、部屋が散(ち)らかってたから掃除(そうじ)しといたよ」
頼子は部屋の中を見渡した。確(たし)かに、きれいに片づけられている。まるで、自分の部屋でないみたいに…。希世は母親にでもなったみたいに言った。
「それと、洗濯物(せんたくもの)、あんなにためてちゃダメだよ。いくら仕事が忙(いそが)しいからって、こまめにしないと汚(よご)れが落ちないんだから」
頼子は洗濯カゴに走った。だが、そこには何も入っていなかった。いつの間(ま)にか、頼子の背後(はいご)に立っていた希世が、耳元(みみもと)で優しくささやいた。
「洗濯しといたよ。ちゃんとたたんで、しまってあるから」
頼子は、希世に向き直ると言った。「何で、こんなことまでするのよ。勝手(かって)なこと…」
希世はそんなこと耳に入らないのか、少し甘(あま)えたような声で、
「ねえ、あたし、お腹(なか)すいちゃった。ずっと待ってたんだからね。早く食べようよ」
頼子は、はぐらかされてしまって次の言葉が出なかった。希世に引っ張(ぱ)られるまま食卓につく。頼子は、これを食べたら話をつけようと心の中で思った。だが食事を始めると、あまりの美味(おい)しさに思わず頬(ほお)が緩(ゆる)んでしまう。それを見て希世がぽつりと言った。
「頼子は、付き合ってる人、いるよね」
頼子は唐突(とうとつ)な質問に驚(おどろ)いて、むせ返(かえ)ってしまって、「な、なによ、急にそんな…」
希世は平然(へいぜん)として続けた。「彼氏が来るときは言ってね。その間、あたし消えるから。でも、お泊まりはダメだからね。約束(やくそく)よ」
<つぶやき>希世はここに住みつくつもりなのでしょうか。頼子の生活は一変しそうです。
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T:060「寄生虫」
真夜中、由香里(ゆかり)はあまりの空腹(くうふく)に目を覚ました。たまらず布団(ふとん)から起き上がると、お腹がグーッと鳴り響(ひび)いた。こんなこと初めてだ。彼女はキッチンへ行って、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出してグイグイと口へ流し込んだ。――これで大丈夫。由香里は布団に戻ろうとしたが、途端(とたん)にまたお腹がグーッと鳴った。さっきより、ますますお腹が空(す)いてきた。
由香里は、昨日、友達からお土産(みやげ)でもらったチョコレートのことを思い出した。こんな時間に食べるのはいけないのだが、どうにも我慢(がまん)ができない。由香里は包(つつ)みを開けると、チョコレートを一かけ口に入れた。スーッと口の中でチョコが溶(と)け、喉(のど)の方へ流れて行く。不思議なことに、ひとくち食べただけなのに、さっきまでの空腹が嘘(うそ)のように消えてしまった。彼女はホッと胸をなで下ろして呟(つぶや)いた。「ひとくちだけよ。太(ふと)ったりなんか…」
朝。由香里はいつもと違う自分に驚いていた。寝起きもすっきりだし、お化粧(けしょう)ののりもすごく良い。何だか心がウキウキして、思わず鼻歌(はなうた)が飛び出すほどだ。
会社へ行く途中(とちゅう)、由香里はコンビニに寄った。いつもはそんなことしないのに――。そこで由香里は、チョコレートをカゴ一杯に入れてレジの前に立った。こんなにまとめ買いする客はいないのだろう。店員が驚いた顔をして由香里を見つめた。由香里はハッとして我(われ)に返った。目の前のチョコの山を見て、彼女は顔を赤らめて店を飛び出した。
会社へ向かいながら、由香里は呟いた。「何で、何であたし…、あんなこと…」
午前中の仕事をいつも通りこなすと、由香里は朝のことなんかすっかり忘れてしまった。昼食はいつも、仲(なか)のいい職場の同僚(どうりょう)とテーブルを囲(かこ)んでお弁当を食べることにしていた。今日もワイワイとお弁当を広げて食べ始める。由香里も弁当の包みを広げると、弁当箱のフタを開けた。――由香里の顔から血(ち)の気(け)がスーッとひいた。弁当箱に入っていたのは、お土産のチョコレート。それも、目一杯(めいっぱい)詰(つ)め込んである。由香里は慌(あわ)ててフタを閉じると、みんなに気づかれないようにおどけた口調(くちょう)で言った。
「あたし、どうかしてるわ。お弁当、作る時間なかったのに…。ちょっと買って来るね」
由香里はみんなの顔も見ないで、お弁当をつかんで部屋を飛び出した。
あーっ、何やってるんだろう。由香里は心の中で呟きながら歩いていた。気がつくと、近くの公園のベンチに座っていた。由香里は、朝のことを必死に思い出そうとした。弁当箱にチョコを詰めるなんて…、そんな記憶(きおく)はまったくなかった。
次の瞬間、由香里は口の中に甘(あま)みが広がるのを感じた。彼女はいつの間にか、弁当箱を広げてチョコを頬張(ほおば)っていたのだ。どんどん口の中へチョコが運ばれていく。彼女の意志(いし)とは無関係に、手が勝手に動いているのだ。どこからか、声が聞こえてた。
「こんなに美味(うま)いものがあるなんて、知らなかったぞ」
由香里は回りを見回したが、彼女に話しかけている人なんかいなかった。また声が…。
「俺様(おれさま)は、お前の腹(はら)の中にいるんだ。いいか、これからはこいつを腹一杯(いっぱい)食わせてくれ」
「イヤよ! そんなことしたら、太っちゃうじゃない。出てって。ここから――」
「やだよ。こんな居心地(いごこち)のいいところ出て行けるか。もし言うこときかなきゃ、お前の脳(のう)みそを食ってやるぞ。それでもいいのか?」
<つぶやき>気をつけてください。こいつは、あなたのすぐ横にいるかもしれませんよ。
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T:061「海栓」
一年ほど前から、世界各国の海岸の水位が下がり始めた。多くの科学者が原因の究明(きゅうめい)に乗り出したが、極地(きょくち)の氷(こおり)が増えたわけでもなく、これといった原因をつかめないでいた。水位の減り方は日を追うごとに増えていき、それに伴(ともな)ってか海流の変化も起こりはじめた。
一人の科学者が海流の流れを調べていた。パソコンの世界地図に、科学者仲間から提供(ていきょう)されたデータを打ち込んでいく。すると不思議なことに、すべての海流が地球の一点を目指しているのが分かった。その場所は太平洋のど真ん中。近くには島もなく、船の航路からも離れていた。その科学者は、さっそく調査へ向かうことを決めた。
「先生、見て下さい! 島が見えますよ」助手の青年が叫(さけ)んだ。
科学者は地図を広げて、「おかしいな…、こんな所に島なんてないはずだが」
突然、老船長が叫んだ。「舵(かじ)を切れ! 面舵(おもかじ)いっぱい!」
船が大きく揺(ゆ)れた。科学者は危(あや)うく転びそうになり、老船長に叫んだ。
「どうしたんだ? なぜ舵を切るんだ! このままあの島へ向かってくれ」
老船長はいかつい顔で言った。「それは無理な相談だ!」
老船長は海の方を指(ゆび)さして、「見てみろ。あの島の回りは、潮(しお)の流れが速すぎる。まるで渦(うず)を巻いているようだ。こんなボロ船じゃ、乗り切ることなどできん」
「そんな! せっかくここまで来たのに…」科学者は悔(くや)しさをかくしきれず、手にしていた地図を放り投げた。その時、荷物運搬用(うんぱんよう)の小型ヘリに目が止まった。
「そうだ。――船長、あのヘリを飛ばしてくれ。空からなら行けるだろ」
「ダメだ。あれは人を乗せるようには…」
「座席は必要ない。俺を荷物みたいにくくりつけてくれ。それならいいだろ?」
助手が慌てて口を挟(はさ)んだ。「ダメですよ、先生! 危険すぎます」
科学者は助手を制(せい)して言った。「大丈夫だ。この目で確かめたいんだ」
「どうなってもわしは知らんぞ」と、老船長は渋々(しぶしぶ)聞き入れた。
小型ヘリは、科学者の身体を荷台に縛(しば)りつけ飛び立った。空は思ったよりも風が強かった。ヘリは左右に揺れながら、それでも科学者は手にしたカメラを向け続けた。
上空から見ると、確かに小さな島を中心に、海水が渦を巻くように流れている。老船長の言うとおり、もし突っ込んでいれば船は海にのみ込まれたに違(ちが)いない。島がどんどん近づいてくる。直径二、三十メートルというところか。回りは五メートルほどの断崖(だんがい)になっていて、この辺りの水深(すいしん)からいくと海底(かいてい)から何百メートルもあることになる。海から突き出ている部分は、不自然なくらい平(たい)らになっている。
ヘリが島の上空に来たとき、科学者は声をあげた。「あれは何だ!」
島の平らな場所に〈PUSH〉と大きく書かれている。科学者は降りるように合図(あいず)した。操縦士(そうじゅうし)はゆっくりとヘリを降下(こうか)させる。島に機体が着陸すると、突然、島が大きく揺れはじめた。慌てて操縦士は機体を離陸(りりく)させた。みるみる島が海の中へ沈んでいく。それと同時に、渦を巻いていた海流もおさまっていった。
ヘリが船へ戻ってくると、老船長が呟(つぶや)いた。「きっと誰かが、海の栓(せん)を抜(ぬ)いたんだな」
それを聞いた科学者は、肯(うなず)くしかなかった。
<つぶやき>抜けた海水はどこへ流れて行ったんでしょう。それを考えると眠れません。
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T:062「生きること」
とあるビルの屋上(おくじょう)に女が一人立っていた。彼女の目には生気(せいき)がなく、彼女の顔には悲しみと失望(しつぼう)の色が表(あらわ)れていた。――彼女は全てを失ったのだ。お金も、夢も、人生も…、ひとりの男のせいで何もかも消えてしまった。まるでゴミのように捨てられたのだ。
彼女の頬(ほお)にひとすじ涙(なみだ)が流れた。もう涙なんか出ないと思っていたのに…。彼女は空(そら)を見上げた。空はどこまでも青く、陽(ひ)の光は暖かく希望をまき散らしていた。今この瞬間(しゅんかん)、この広い世界のいたるところで、幸(しあわ)せをかみしめている人がいるんだ。でも、彼女は羨(うらや)ましいなんて思ってはいなかった。そんなこと、もう彼女にはどうでもいいこと…。
彼女は一歩を踏(ふ)み出した。手すりに手をかけ、下を覗(のぞ)き込む。これで全てを終わらせることが出来る。もう、苦(くる)しまなくてもいいんだ。彼女は手すりを強く握(にぎ)りしめた。
その時だ。強い風が彼女を押(お)し戻した。彼女は思わずしゃがみ込み目を閉じた。しばらくして目をあけると、そこは全く知らない場所――。
彼女は立ち上がり、辺りを見回した。小さな公園…。回りにはブランコや滑(すべ)り台があり、彼女の目の前には猫(ねこ)の額(ひたい)ほどの砂場(すなば)があった。砂場では、たったひとり、女の子が遊んでいた。まだあどけないその姿(すがた)に、彼女は引き寄せられるように近づいた。
女の子は彼女に気がつくと、駆(か)け寄ってきて話しかけた。
「おねえちゃん、なにしてるの?」
彼女は腰(こし)を下ろして、女の子に訊(き)いてみた。「ここは、どこなの?」
「ここは、どんぐり公園だよ。知らないの?」
その時、彼女の名前を呼ぶ声がした。彼女はドキッとして後ろを振(ふ)り返った。そこには、まだ若い女性が立っていた。女の子は、「おかあさん」と言って駆け出した。
おかあさん…。その言葉が、彼女の心の中で何度もくり返された。おかあさん…。
――彼女の母親は、彼女がまだ小さいころ亡(な)くなっていた。彼女には母親の記憶(きおく)がほとんどないのだ。彼女は、その若い母親にも訊いてみた。母親は笑みを浮かべて、
「変なこと聞くんですね。この辺りは時町(ときまち)ですよ」
そう言うと、母親は子供の手を取り歩き出した。彼女はなぜか懐(なつ)かしい、ぬくもりのようなものを感じた。ふらふらと親子の後を追(お)うように、彼女は公園を出た。公園の前には広い通りがあり、ちょうど信号(しんごう)が青に変わったところだった。親子は、小走りに横断歩道を渡り始めた。その時、すごいスピードで車が突っ込んできた。
それは一瞬(いっしゅん)の出来事(できごと)だった。道路には母親が倒(たお)れていて、そばには女の子が、動かなくなった母親を見下ろしていた。彼女は駆け寄って、女の子を強く抱きしめた。
事故に気づいた人達が集まって来る。大勢の人の話し声や叫び声が、彼女の耳に飛び込んできた。彼女は目を閉じ、震(ふる)えながら心の中で叫(さけ)んだ。
「これは、あたし! あたしなの。おかあさん…」
いつの間にか、人の騒(さわ)ぎが聞こえなくなっていた。彼女がゆっくり目をあけると、そこは元(もと)の場所…ビルの屋上で、彼女は手すりを握りしめていた。――彼女は大きく息(いき)をつく。彼女の両(りょう)の目から涙が溢(あふ)れてきた。でも、それは暖かい、血の通った人間の証(あか)しだった。彼女はいつまでも泣き続けた。まるで辛(つら)かった人生を洗(あら)い流すように…。
<つぶやき>人生には忘れてはいけないことがあるのです。それさえあれば、きっと…。
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T:063「付喪神」
押し入れの奥(おく)、おせんべいの缶(かん)の中に仕舞(しま)われていた鉛筆(えんぴつ)たち。普通なら使われて短くなり、最後には捨てられる運命(うんめい)にあったのだが…。長い間、使われることなく忘れ去(さ)られたおかげで、そのうちの一本に命(いのち)が宿(やど)って付喪神(つくもがみ)になった。その鉛筆は自分の意志(いし)で缶の中から飛び出して、押し入れの隙間(すきま)から抜(ぬ)け出てきた。そして人間たちが寝静(ねしず)まった家の中を、仲間を求(もと)めてさまよい歩き、子供部屋へと入って行った。
――朝、芳恵(よしえ)は憂鬱(ゆううつ)な気持ちで目を覚ました。今日から期末試験が始まるのだ。昨夜(ゆうべ)も遅くまで勉強をしていたので、少々寝不足気味(ぎみ)である。彼女は布団(ふとん)から起き上がると、ベッドを下りて大きく伸(の)びをした。そして昨夜(ゆうべ)の勉強の残骸(ざんがい)を片づけようと勉強机に向かった。その時、何か固(かた)い物を踏(ふ)みつけて、芳恵はビクッとして足を上げた。そこにあったのは、鉛筆――。彼女はため息をつくと、鉛筆を拾い上げ自分の筆箱(ふでばこ)へ収(おさ)めた。
芳恵は普段から鉛筆を使っていた。友達から何でシャーペンを使わないのかとよく訊(き)かれるが、彼女に特別の理由があるわけではない。ただ何となく、好きなのだ。鉛筆を持ったときのあの感触(かんしょく)や匂(にお)い、鉛筆を削(けず)るときの――。芳恵が落ちていた鉛筆に不審(ふしん)を抱かなかったのはこのせいだ。きっとベッドに入るときに落としてしまったのだと。今の鉛筆は、昔の鉛筆と較(くら)べても形やデザインはほとんど変わってはいないのだ。
試験の初日。最初の科目は国語だった。問題用紙が配(くば)られて、先生のはじめの合図(あいず)がかかると、教室のあちこちで小さな溜息(ためいき)がもれる。ヤマを外した男子生徒たちの悲痛(ひつう)な叫(さけ)びだ。芳恵はそんなことまったく気にする様子(ようす)もなく、問題に目を通した。そして心の中で呟(つぶや)いた。「なーんだ、簡単(かんたん)じゃん」と余裕(よゆう)の態(てい)。
芳恵は鉛筆を取ると、(もちろんそれは例(れい)の鉛筆なのだが)回答を書きはじめた。鉛筆はスラスラと動き、まるで踊(おど)るように文字を書いていった。芳恵は思った。
「この鉛筆、すごく書きやすいわ。私の思う通りに動いてくれる」
芳恵は夢中(むちゅう)になって回答を書きまくった。こんなに集中(しゅうちゅう)したことは、今まで一度もなかったかもしれない。答(こたえ)をすべて書き終わると、芳恵は満足(まんぞく)そうに息(いき)を吐(は)いた。教室の時計を見るとまだ少し時間がある。そこで彼女は回答を見直(みなお)すことにした。
解答用紙にあらためて目を落として、芳恵は愕然(がくぜん)とした。そこに書かれてある文字は、いつも彼女が書いている丸文字ではなく、昔の人が書くような草書(そうしょ)文字。それに難(むずか)しい漢字(かんじ)がいっぱいあって、何て書いてあるのか彼女にはまったく理解できなかった。――彼女が書き直そうと消しゴムを取ったとき、無情(むじょう)のチャイムが鳴り響(ひび)いた。答案用紙が彼女の手から離れていく。彼女にはどうすることもできなかった。
次の試験が始まった。教科は英語。芳恵は気を取り直して問題用紙をひらいた。深呼吸をして、まず解答用紙に自分の名前を書く。英語は得意(とくい)科目だ。彼女には自信があった。問題に目を通してみると、答が頭の中にどんどん浮(う)かんでくる。彼女の顔に笑(え)みがこぼれた。これなら大丈夫、絶対良い点が取れるはず。彼女は、鉛筆を握(にぎ)る手に自然と力が入った。解答用紙に鉛筆を置き、手を動かそうとした。――だが、動かない。手が動かないわけではなく、鉛筆が…、鉛筆が止まってしまったのだ。彼女がどうやっても鉛筆はびくともしない。時間だけがどんどん過ぎていった。そして――。
<つぶやき>鉛筆さんも困ったのではないでしょうか。だって、英語を知らないから…。
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T:064「家政婦ルミ」
玄関(げんかん)を開けると、真っ黒に日焼けした青年が立っていた。彼は人なつっこそうに微笑(ほほえ)むと元気な声で言った。「叔父(おじ)さん、ご無沙汰(ぶさた)してます。お元気でしたか?」
迎(むか)え入れた主人は驚(おどろ)いて、だが嬉(うれ)しそうにこれに答えた。「ああ、貴志(たかし)君! いつ帰って来たんだ? たしか、南米(なんべい)の方へ行っていたんだろ。さあ、入ってくれ」
大きなリュックをかかえて青年は上がり込んだ。そして、リビングのソファーに身を投げ出すと大きく伸(の)びをして、懐(なつ)かしそうに部屋を眺(なが)めまわしてから言った。
「ねえ、叔父さん。あの研究はどうなりましたか?」
主人は青年の言うことなど耳に入らないのか、わくわくした目をして青年の前に座(すわ)ると、
「で、見つかったのか? 新薬(しんやく)につながる微生物(びせいぶつ)は。それに、どうだったんだ? アマゾンの密林(みつりん)は…。聞かせてくれないか、三年間の君の冒険談(ぼうけんだん)を――」
そこへ家政婦(かせいふ)のルミがお茶を運んで来た。青年は目を見開いて、ルミの顔を食い入るように見つめる。ルミは怪訝(けげん)そうな顔をした。主人はすかさずルミに言った。
「この青年はね、私の甥(おい)なんだよ。久しぶりに日本に帰って来て――」
青年は主人の言葉をさえぎって言った。「まさか、叔父さん…、これが、あの…。あれですよね…、とうとう、完成(かんせい)したんですか?」
主人はキョトンとした顔を見せたが、すぐに悪戯(いたずら)っぽく微笑むと青年に顔を近づけて小声で話しかけた。
「そうなんだよ。なかなかのもんだろ? 私の自信作(じしんさく)だ。これでね、苦心(くしん)したんだよ。見た目ばかりじゃない、身体の温(ぬく)もりも肌(はだ)の柔(やわ)らかさにいたるまで、人間に近づけたんだ」
ルミは首をかしげながら主人の話を聞いていたが、それが自分のことだと気づくと呆(あき)れた顔をして主人を見つめた。青年は落ち着きを失っていた。息をはずませながら、
「叔父さん、すごいじゃないですか! ちょっと触(さわ)ってもいいですか?」
青年は突然(とつぜん)立ち上がるとルミに手を伸(の)ばした。ルミは反射的(はんしゃてき)に後ろへ下がると言った。
「止めて下さい。セクハラで訴(うった)えますよ」
青年はルミに睨(にら)まれると手を引っ込めて、「セクハラって…。叔父さん、これは――」
「まあ、あれだ」主人はニヤニヤしながら、「アンドロイドといっても、人間の心を持たせているからな。扱(あつか)いは、今どきの女の子と同じにしないとヘソを曲(ま)げるぞ」
「何でそんな機能(きのう)をつけたんですか?……でも、それもありかもしれませんね」
青年はルミの周(まわ)りをぐるりと回りながら、「ああ、中を見てみたいなぁ。どんな構造(こうぞう)になっているのか…。ねえ、叔父さん。いいでしょ?」
ルミは胸元(むなもと)を押さえると、訴えるような目を主人に向けた。主人は笑いを押し殺して、
「それが、ダメなんだ。一度起動(きどう)させてしまうと、彼女がそう望まない限り誰にも止めることは出来ない。いくらお前の頼みでも無理(むり)な相談(そうだん)だ」
「何だ、残念(ざんねん)だなぁ」青年はルミに言った。「ねえ、頼むよ。ほんのちょっとでいいんだ」
ルミは顔を赤らめて言った。「絶対にイヤです。誰があなたなんかに」
ルミはぷいっと行ってしまった。すかさず主人は、青年の耳元(みみもと)でささやいた。
「どうだい? あの娘(こ)と、人間同士(どうし)として付き合ってみたら。お似合(にあ)いだと思うけどな」
<つぶやき>悪戯も度を越してますよ。でも本気にしちゃうなんて、初心(うぶ)なんですかね。
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T:065「なんなの?」
「キミって、好きな人はいるのかな?」
クラスメイトの男子から唐突(とうとつ)に訊(き)かれた彼女。「別に、そんな人はいないけど…」
と、思わず答えた彼女だったが、心の中では別の考えが頭をよぎっていた。
〈なに? まさか、わたしに告白(こくはく)とかするつもりなのかな?〉
でもその男子は、そのまま何も言わずに行ってしまった。彼女は彼を見送りながら思った。〈えっ? なに? 今の何だったの。何でそんなこと訊いたのよ?〉
彼女は、その男子のことは何とも思っていなかった。たまたま同じクラスになっただけで、話をしたこともほとんどなかった。でも、それ以来(いらい)、その男子のことが気になって、つい彼の方へ目がいってしまう。彼女は思った。
〈これは、彼のとこが好きになったってことじゃないわ。絶対(ぜったい)違う! ただ、彼の言ったことが気になってるだけ。何であんなこと訊いたのよ〉
彼女はこのもやもやを晴(は)らそうと、放課後、彼を捕(つか)まえて訊いてみた。
「ねえ、あの時、何であんなこと訊いたのよ」
男子は、彼女が何を言っているのか理解(りかい)できなかったのか、最初はキョトンとした顔をしていたが、やっと思い出したようで、
「ああ…、別に理由(わけ)なんてないよ。ただ、訊いてみたかっただけで…」
「はあ? なによそれ、おかしいでしょ。そんなこと、ふつう訊かないわ。本当のこと、言いなさいよ。わたしと付き合いたいんでしょ」
今までに、彼女は告白されたことが何度かあった。けど、その人と付き合いたいと思えたことは一度もなかった。男子に興味(きょうみ)がなかったわけではないが、誰(だれ)かと付き合うってことに意味を見出(みいだ)せなかっただけなのかもしれない。
彼は即答(そくとう)した。「それはないと思うけど…」
「ないはずないでしょ。絶対、付き合いたいって思ってるはずよ。そうじゃなきゃ、〈好きな人いるか〉なんて訊かないはずよ」
彼はしばらく考えていたが、「そんなに言うんなら、僕(ぼく)と付き合ってくれる?」
彼女は一瞬(いっしゅん)かたまった。今の彼の言葉が頭の中を駆(か)けめぐった。そして、彼女は顔が火照(ほて)ってくるのを感じて、慌(あわ)てて彼から顔をそむけた。
「いやいやいやいや…。どうして、わたしが、あなたと…」
「でも、付き合ってる人いないんでしょ? だったら――」
「ちょっと待ってよ。何でそうなるの? おかしいでしょ…。別に、わたし、あなたのことなんか…。それに、あなた、わたしのこと好きでもなんでもないんでしょ」
「まあ、今のところ、そんな感じかな…。でも、好きになれるかどうかって、付き合ってみなきゃ分からないじゃない。それじゃ、ダメかな?」
「変(へん)よ。そんなの絶対変だわ。そういうのは、付き合ってるっていうんじゃないと思う」
「そうか…。じゃあ、友だちとして、付き合うっていうんなら?」
「そ、それは…。ありだと思うけど。でも、それって、今までと変わらないんじゃないのかな? わたしは、そういうのは……」
<つぶやき>女心は複雑なのよ。自分で自分の気持ちが分からなくなってしまうことも…。
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T:066「欲望の罠」
あれは何だったのか、今でも分からない。でも確かに現実に起こったことには違いない。僕たちは不思議な世界に迷い込んでしまったんだ。
それは突然のことだった。気がつくと、僕たちは豪勢(ごうせい)なお屋敷(やしき)の大きな食卓(テーブル)の前に座っていた。僕と、木村(きむら)君と、相川(あいかわ)君と、吉岡(よしおか)君…。僕たちは大学で同じサークルの仲間だった。すごく気があって、何をするのもいつも一緒(いっしょ)だった。
三人とも、僕と同じように驚(おどろ)いた顔をして座っていた。どうやってここに来たのか、さっきまで何をしていたのか思い出せない。僕たちが顔を見合わせていると、目の前に見たこともないような美しいドレスをまとった女が現れた。その女は僕たちに微笑(ほほえ)んで言った。
「ようこそ、歓迎(かんげい)いたしますわ。何か望(のぞ)みがあれば、すべてかなえて差し上げます」
女は木村君と目が合うと、目を細めて肯(うなず)いて言った。「うけたまわりました」
女が手を上げる。すると食卓(テーブル)の上に豪華(ごうか)な料理が現れた。どれもこれも美味(うま)そうな、学生の身分(みぶん)じゃ食べられないようなものばかりだ。女は言った。
「どうぞお召(め)し上がりを。存分(ぞんぶん)に食欲(しょくよく)をみたして下さい」
木村君が真っ先に声を上げた。「いいんですか? これ、全部食べても」
女は肯いた。木村君は食(く)いしん坊(ぼう)なので、目の前の料理をガツガツと食べ始めた。僕たちも、それにつられて食事を始めた。しばらくすると、女は相川君にささやいた。
「うけたまわりました。どうぞ、お好きなだけお持ち帰り下さい」
女が手を上げると、相川君の前に金貨(きんか)の山が現れた。相川君は目を輝かせて言った。
「これ、全部もらってもいいんですか?」
「ええ、かまいませんよ。存分に物欲(ぶつよく)をみたして下さい」
相川君は目の前の金貨をかき集めると、いくらあるのか数え始めた。女は、今度は吉岡君に微笑みかけて、彼の手を取って言った。「うけたまわりました」
女が手を上げると、美しい女たちが現れた。彼女たちは僕らにまとわりつき、甘(あま)いささやきで僕らを誘惑(ゆうわく)した。女は言った。「存分に、色欲(しきよく)をみたして下さい」
その女たちの中に、僕の知っている顔があった。その女は僕に抱(だ)きついてきて言った。
「ねえ、あたしと楽しみましょ。あなたを満足(まんぞく)させてあげるわ」
僕は女を振(ふ)りはらい叫(さけ)んだ。「やめてくれ! 君は、静(しずか)ちゃんなんかじゃない!」
次の瞬間(しゅんかん)、僕は大学の教室にいた。目の前には、僕が片思いをしている静ちゃんがいて、僕を睨(にら)みつけている。僕はわけが分からず呟(つぶや)いた。「えっ、なんで、ここに…」
静ちゃんは口をとがらせて言った。
「それはこっちの台詞(せりふ)よ。なんでこんなとこでそんなこと言うのよ。あたしは、別にあなたと付き合いたいなんて思ってないわ。まったく信じられない。あなたにはデリカシーってものがないの? そんな人だとは思わなかったわ」
僕は、何をしたんだ…。静ちゃんはそのまま教室を出て行った。入れ替(か)わりにあの三人が入って来て、僕を見つけると冷たい目で僕に言った。「お前とはもう絶交(ぜっこう)だ」
僕が茫然(ぼうぜん)としていると、三人は無表情な顔を僕に近づけてささやいた。
「これは伝言(でんごん)だ。もう会うことはないだろう。あちらの世界で欲(よく)にまみれているからな」
<つぶやき>あまり欲張らないでね。でも、静ちゃんの本当の気持ちはどうだったのかな?
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T:067「曲げられないこと」
彼女の職業は探偵(たんてい)。名探偵と呼ばれていた父親の後を継(つ)いだのだが、彼女もまた非凡(ひぼん)な才能(さいのう)に恵(めぐ)まれているようだ。まだ駆(か)け出しだが、すでにいくつかの難事件を解決していた。
今回の依頼人は宝石商をしているK氏だった。K氏が催(もよお)した展示会で起きた盗難(とうなん)事件は、まだ世間の記憶(きおく)に新しい。警察もやっきになって捜査していた。K氏からの依頼は、その盗まれた宝石を取り戻すこと。早速(さっそく)、彼女は警察に協力するかたちで捜査を始めた。
警察はすでに五人まで容疑者を絞(しぼ)り込んでいた。展示会の客はすべて招待客であったこと、それに犯行時間が特定されていることから、この中に犯人がいることは間違いない。だが、これはという決め手に欠(か)けていて、捜査は行き詰(づ)まっていた。
――数日たっても、捜査は何ら進展(しんてん)をみせなかった。警察関係者のいら立ちは、女探偵に向けられた。今回ばかりは何の役(やく)にも立たないと、あからさまに言うものまで出てきた。
その頃、彼女は事務所にこもり一人悩(なや)んでいた。見かねた父親が声をかけた。
「なぜ動かない。――鍋島裕二(なべしまゆうじ)、彼に何か特別な感情(かんじょう)を持っているのか?」
「違(ちが)うわよ! そんなんじゃないわ。ただ……」
「彼は容疑者(ようぎしゃ)の一人だ。捜査に私情(しじょう)をはさむなといつも言ってるだろ」
「そんなの、分かってるわよ。私、もう子供じゃないんだから」
「子供じゃないから心配なんだ。その意味、分かるだろ?」
翌日、彼女は重い腰(こし)を上げた。鍋島裕二を呼び出したのだ。もちろん、彼にはもれなく捜査員が張(は)りついて来る。オープンカフェに彼女の姿を見つけた鍋島は開口一番(かいこういちばん)、
「君が探偵をしてるなんて知らなかったよ。昔から曲(ま)がったことが嫌(きら)いだったもんな」
「私も知らなかったわ。あなたが宝石のブローカーをしてるなんて」
「そうか? 結構(けっこう)、俺に似合(にあ)ってる仕事だと思うんだけどなぁ」
「昔は…、そんなことする人じゃなかったのに。どうして? あんなに優しかったのに…」
「君から誘ってもらって、これでも結構舞(ま)い上がってるんだけどなぁ。……分かっちまったんじゃ仕方ないか。あんまりながいはしない方がよさそうだ」
「ねえ、自首(じしゅ)して。私、それが言いたくて…」
「ごめんね。俺は、捕(つか)まるわけにはいかないんだ。これでも、いろいろあってね」
鍋島は立ち上がると、彼女の手を取りささやいた。
「もし、あの宝石を手に入れたかったらここへ行くといい」
鍋島が手を離すと、彼女の手に小さな紙片が残っていた。鍋島は続けて言った。
「俺の名前を出せば、三百で譲(ゆず)ってくれるはずだ。ただし、警察には内密(ないみつ)に頼(たの)むよ。さもないと二度と宝石にはお目にかかることは出来ないからね」
「ずいぶん親切(しんせつ)なのね。ありがとう。でも――」
彼女が身構(みがま)えようとするのを押さえて鍋島は、「やめといた方がいい。君を傷つけたくないんだ。いつかまた会おう。それまで元気でな」
「私は…、もう会いたくないわ」
「それは残念だ」
鍋島はそう言うと駆け出した。捜査員たちが後を追(お)ったのは言うまでもない。
<つぶやき>犯人を捕まえることが出来たのでしょうか? この二人の関係は初恋かもね。
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T:068「ご挨拶」
「ほんとに大丈夫(だいじょうぶ)かな? これ、おかしくないか? 背広(せびろ)なんて着慣(きな)れてないから…」
彼は彼女と歩きながら、自分の服装(ふくそう)を気にして言った。彼女はクスッと笑いながら、
「大丈夫よ、バッチリ決まってるわ。もうすぐ、そこだから」
二人は彼女の家へ向かっていた。彼女は何だが楽しそうなのだが、彼の方はどんどん足が重くなっているようだ。前を歩く彼女を呼び止めて、彼は言った。
「なあ、ほんとに大丈夫なのかな? 僕のこと…、どう思ってるんだろ? 君のお父さん」
彼女は後ろを振り返り、「そうねえ、良い人だって私は言っといたけど…」
「けど…? まさか、反対されるとか…、そういうの、あるのかな? ほら…、ドラマとかでよくある、<お前なんかに娘はやらん>的なこと…」
「ないとは言えないわね。でも、父から言い出したんだから、会いたいって」
「そ、そうなんだけど…。君の話を聞いてると、なんかすっごく厳(きび)しい人だから。ひょっとして、いきなり胸(むな)ぐらつかまれて……。あの、やっぱり止めないか? 今日は…」
「もう、なに言ってるのよ。今日は決めてやるって言ったじゃない」
「だから、今日は、いきなりそういう、<ください>的なこと言わないで、僕がどういう人間かってことを知ってもらう日ってことで…。だって初対面(しょたいめん)だから、ここはその線(せん)で…」
彼女は少し怒った顔をして、「意気地(いくじ)なし。ほんとに私のこと愛してるの?」
彼はたじろいで、「もちろん、そんなこと、決まってるじゃないか…」
「だったら、今日はビシッと言って下さい」彼女は真顔(まがお)で念(ねん)を押(お)した。
数分後、彼は、座卓(ざたく)を挟(はさ)んで、彼女の父親と対面(たいめん)していた。彼女から聞いていた以上に、父親は強面(こわもて)な面構(つらがま)えをしていた。それが、ひと言(こと)も口をきかないで、彼のことをずっと睨(にら)みつけているのだ。この状況(じょうきょう)で、平常心(へいじょうしん)を保(たも)つことなどできるだろうか?……彼は、じっと耐(た)えていた。もう、喉(のど)はカラカラで、全身に変な汗(あせ)が流れている。
そこへ、母親がお茶を運んで来た。彼女もその後について、彼のとなりに座った。彼は、彼女を見て少しほっとした。それで、出されたお茶を何気(なにげ)に口に運んでしまった。次の瞬間(しゅんかん)だ、悲劇が起こったのは。お茶が熱すぎたのだ。彼は思わずお茶を吹き出した。
まるでコメディを見ているようだ。――父親は、顔にかかったお茶を拭(ふ)くこともせず、微動(びどう)だにしなかった。だが、その強面な顔に赤味(あかみ)がさしたかと思うと、いきなり父親は立ち上がり座敷(ざしき)を飛び出した。突然のことで、彼は何もできなかった。母親は笑いをこらえながら座卓を拭き、彼女は父親の後を追って座敷を後にした。
「もう、お父さん。何やってるの? ちゃんとやってくれなきゃ困るわ」
娘はキッチンへ逃げてきた父親に言った。父親は息を切らしながら、
「勘弁(かんべん)してくれよ。ずっと黙(だま)ってるなんて、俺には無理だ。それに…」父親は笑いながら続けた。「なかなか、面白(おもしろ)い奴(やつ)じゃないか。父(とう)さんは、お前が好きになったんなら、別に反対とかそういうのは――」
「ちょっと」娘はしっかりした口調(くちょう)で言った。「まだでしょ。ちゃんと最後まで頑固親父(がんこおやじ)を続けてよ。これは娘のためなのよ。私は、彼の本心(ほんしん)が知りたいの。何があっても私を幸せにする覚悟(かくご)があるかどうか、これで決まるんだから。すぐに戻って」
<つぶやき>娘には頭が上がらないのかもしれません。でも、父親だから。娘の幸せを…。
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読切物語End