T:001「バー・マイロード」
静(しず)かなジャズが流(なが)れるバーの店内(てんない)。初老(しょろう)のマスターとアルバイトの孫娘(まごむすめ)が働(はたら)いていた。ほとんどが常連(じょうれん)の客(きゃく)ばかりで、落(お)ち着(つ)ける雰囲気(ふんいき)のある、隠(かく)れ家(が)のような店(みせ)である。
今日(きょう)は暇(ひま)なようで、孫娘(まごむすめ)の真奈(まな)がカウンターの隅(すみ)の席(せき)に座(すわ)って、分厚(ぶあつ)い本(ほん)を読(よ)んでいた。マスターは最後(さいご)の客(きゃく)にウーロン茶(ちゃ)を出(だ)すと、
「そろそろ、店仕舞(みせじま)いにしようか」と孫娘(まごむすめ)に声(こえ)をかけた。
「はーい。じゃあ、表(おもて)の看板(かんばん)、片付(かたづ)けてくるねぇ」真奈(まな)はそう言(い)うと外(そと)へ出(で)ていった。
「ちょっと見(み)ないうちに、ずいぶんきれいになったね」ぽつりと客(きゃく)がつぶやいた。
「そうですかね。まだまだ子供(こども)ですよ」マスターはそう言(い)って微笑(ほほえ)んだ。
「僕(ぼく)が最後(さいご)に会(あ)ったときは、まだ高校生(こうこうせい)じゃなかったかな」
「今(いま)は大学(だいがく)で、小難(こむずか)しい勉強(べんきょう)をしているみたいですよ」
「そうか…。もうそんなに…」客(きゃく)は昔(むかし)のことを思(おも)い出(だ)そうとしているのか、店内(てんない)をぐるりと見回(みまわ)して、「もう三年(さんねん)か…。でも、この店(みせ)はちっとも変(か)わりませんね」
「そうですね。私(わたし)とおなじで、変(か)えようがありませんから」マスターは笑(わら)いながらそう言(い)うと、一枚(いちまい)の写真(しゃしん)を客(きゃく)の前(まえ)に差(さ)し出(だ)した。
写真(しゃしん)を見(み)て客(きゃく)の顔色(かおいろ)が一瞬(いっしゅん)変(か)わった。客(きゃく)はそっとその写真(しゃしん)を手(て)に取(と)り、「幸恵(ゆきえ)…」とつぶやいて、「この写真(しゃしん)は、あの時(とき)の…」
「はい。最後(さいご)に奥(おく)さんとお見(み)えになったとき、記念(きねん)にと、お撮(と)りしたものです。ずっと、お渡(わた)しすることができなくて」
「いつ来(く)るか分(わ)からないのに、残(のこ)しておいてくれてたんですか?」
「ええ、記念(きねん)ですから」マスターはそう言(い)うと、「また、お二人(ふたり)でおいで下(くだ)さい」
客(きゃく)は顔(かお)をくもらせて、「幸恵(ゆきえ)は、もういないんですよ」写真(しゃしん)のなかで微笑(ほほえ)んでいる妻(つま)をいとおしそうに見(み)つめながら、「病気(びょうき)だったんです。この日(ひ)は、入院(にゅういん)する前(まえ)の日(ひ)で…」
「そうだったんですか。それは、失礼(しつれい)しました」
「入院(にゅういん)して、一ヶ月(いっかげつ)もたたないうちに逝(い)ってしまいました。また、この店(みせ)に来(こ)ようって、約束(やくそく)してたんですがね」客(きゃく)は、悲(かな)しそうに笑(え)みをうかべた。
真奈(まな)が表(おもて)の片付(かたづ)けを終(お)えて戻(もど)ってくると、「おじいちゃん、今夜(こんや)はきれいな月(つき)が出(で)てるよ」そう言(い)って、屈託(くったく)のない笑顔(えがお)をふりまいた。マスターは困(こま)り顔(がお)で、
「お客(きゃく)さんの前(まえ)では、マスターと呼(よ)びなさい」と注意(ちゅうい)をして、カクテルを作(つく)り始(はじ)めた。
真奈(まな)は「はーい。ごめんなさーい」と言(い)って、客(きゃく)に笑顔(えがお)を向(む)けて、また本(ほん)を読(よ)み始(はじ)めた。
客(きゃく)はしばらく写真(しゃしん)を見(み)つめていたが、残(のこ)っていたウーロン茶(ちゃ)を飲(の)みほすと、「そろそろ、帰(かえ)ろうか」とつぶやいて、立(た)ち上(あ)がった。マスターは「もう少(すこ)しだけ」と言(い)って客(きゃく)を呼(よ)び止(と)めて、カウンターにグラスを二(ふた)つ並(なら)べて、作(つく)っていたカクテルを注(そそ)ぎ入(い)れた。
「僕(ぼく)は、アルコールは…」客(きゃく)がそう言(い)うと、
「これは、店(みせ)からのサービスです。奥(おく)さんのお気(き)に入(い)りでしたから…。ゆっくりしていって下(くだ)さい。まだ、時間(じかん)はありますから」
心地(ここち)よいジャズが流(なが)れる店内(てんない)で、二人(ふたり)ですごした思(おも)い出(で)が、心(こころ)にあふれだしていた。
<つぶやき>心(こころ)にしみる思(おも)い出(で)をいっぱい残(のこ)して、逝(い)きたいものです。
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006「幸(しあわ)せの一割(いちわり)」 読切物語ID
T:002「ありがとう」
初夏(しょか)の晴(は)れた日(ひ)。今日(きょう)は大吉(だいきち)と涼子(りょうこ)の結婚式(けっこんしき)当日(とうじつ)。支度(したく)を終(お)えた涼子(りょうこ)は、花嫁(はなよめ)の控(ひか)え室(しつ)でドキドキしながら式(しき)の始(はじ)まるのを待(ま)っていた。大吉(だいきち)も一人(ひとり)、控(ひか)え室(しつ)で落(お)ち着(つ)かない様子(ようす)。二人(ふたり)が結婚(けっこん)を決意(けつい)するまでには、いろいろなことがあったのだろう。
大吉(だいきち)には一(ひと)つだけ心残(こころのこ)りがあった。それは、いちばん喜(よろこ)んでほしかった妹(いもうと)を、ここに呼(よ)ぶことができなかったこと。もう、七年(ななねん)も音信不通(おんしんふつう)のままになっていた。
控(ひか)え室(しつ)のドアをノックする音(おと)で、大吉(だいきち)は我(われ)に返(かえ)った。もう式(しき)の始(はじ)まる時間(じかん)である。きっと式場(しきじょう)の人(ひと)が呼(よ)びに来(き)たのだと思(おも)い、大吉(だいきち)は「どうぞ」と声(こえ)をかけた。しかし、誰(だれ)も入(はい)っては来(こ)なかった。大吉(だいきち)は誰(だれ)かが悪戯(いたずら)でもしたのかと、ドアを開(あ)けてみた。
「えっ…」大吉(だいきち)は思(おも)わず声(こえ)をあげた。ドアの外(そと)には、きれいに着飾(きかざ)った若(わか)い女性(じょせい)が立(た)っていたのだ。それも、見覚(みおぼ)えのある。
「お兄(にい)ちゃん…」その女性(じょせい)は、恥(は)ずかしそうにそう言(い)って、「元気(げんき)にしてた?」
「あゆみ…。おまえ……」あまりの驚(おどろ)きに、大吉(だいきち)は言葉(ことば)が出(で)なかった。
「お兄(にい)ちゃん、結婚(けっこん)するんだ」あゆみは控(ひか)え室(しつ)に入(はい)って、大吉(だいきち)の服装(ふくそう)をチェックしながら、「なかなか、格好(かっこ)いいじゃない」
大吉(だいきち)はたまっていた思(おも)いを吐(は)き出(だ)すように、「おまえ、どこにいたんだ! お兄(にい)ちゃん、どれだけ心配(しんぱい)したか。急(きゅう)に家(いえ)、飛(と)び出(だ)して。それで…、みんな…」
「ごめんね。勝手(かって)なことばっかりして…」
あゆみは大吉(だいきち)の胸(むね)に飛(と)び込(こ)んだ。大吉(だいきち)も優(やさ)しく妹(いもうと)を抱(だ)きとめた。ひとしきり兄(あに)の胸(むね)で泣(な)いたあゆみは、「お兄(にい)ちゃんに、言(い)っておきたいことがあるの」
「そんなことより」大吉(だいきち)はあゆみの手(て)を取(と)り、「母(かあ)さんに顔(かお)を見(み)せてやれ。どれだけ会(あ)いたがっていたか」あゆみはその手(て)を振(ふ)りほどいて、「もう、時間(じかん)がないの」
「なに言(い)ってるんだ。じゃ、俺(おれ)が呼(よ)んできてやるよ」
「待(ま)って! ねえ、聞(き)いてよ。私(わたし)の話(はなし)を」
大吉(だいきち)は、妹(いもうと)の真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)に足(あし)を止(と)めた。
「私(わたし)、お兄(にい)ちゃんから、いろんなものをいっぱいもらってたんだよね。小学校(しょうがっこう)の運動会(うんどうかい)のとき、一番(いちばん)大(おお)きな声(こえ)で応援(おうえん)してくれた。中学(ちゅうがく)で陸上部(りくじょうぶ)に入(はい)ったときも、お兄(にい)ちゃんが励(はげ)ましてくれたから、最後(さいご)まで走(はし)れたの。大学(だいがく)の受験(じゅけん)を失敗(しっぱい)したときも、ひと晩中(ばんじゅう)、側(そば)にいてくれたよね。それなのに私(わたし)…。でもね、ずっと帰(かえ)りたかったんだ。帰(かえ)りたかったけど…」
「もう、いいよ。おまえは…、ちゃんと帰(かえ)って来(き)たじゃないか」
「今(いま)まで、ありがとう。こんなダメな妹(いもうと)だったけど、ほんとに、ありがとう」
「なに言(い)ってるんだよ。おまえは俺(おれ)の大事(だいじ)な妹(いもうと)じゃないか。そんなことは…」
大吉(だいきち)はドアのノックの音(おと)で目(め)が覚(さ)めた。いつの間(ま)に眠(ねむ)ってしまったのだろう。ただ、妹(いもうと)のぬくもりがまだ手(て)に残(のこ)っているようで、どうしても夢(ゆめ)だとは思(おも)えなかった。
大吉(だいきち)のもとに訃報(ふほう)が届(とど)いたのは、結婚式(けっこんしき)から一週間後(いっしゅうかんご)だった。妹(いもうと)の友人(ゆうじん)が遺品(いひん)の整理(せいり)をしていて、大吉(だいきち)の住所(じゅうしょ)を見(み)つけたのだ。重(おも)い病気(びょうき)にかかり入院(にゅういん)して、結婚式(けっこんしき)のあった日(ひ)に昏睡状態(こんすいじょうたい)になり、数時間後(すうじかんご)に息(いき)を引(ひ)き取(と)ったそうである。
<つぶやき>大切(たいせつ)な人(ひと)って、知(し)らない間(あいだ)に心(こころ)の奥(おく)に入(はい)り込(こ)み、気(き)づくとそこにいるんです。
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006「幸(しあわ)せの一割(いちわり)」 007「最強(さいきょう)の彼女(かのじょ)」 読切物語ID
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T:003「記念写真(きねんしゃしん)」
とある山(やま)の頂上(ちょうじょう)付近(ふきん)に、一本(いっぽん)の樫(かし)の大木(たいぼく)が立(た)っていた。そこからは遠(とお)くまで見渡(みわた)せて、なかなかの眺(なが)めである。ここは有名(ゆうめい)な観光地(かんこうち)でもなく、ハイキングコースにもなっていなかった。
初夏(しょか)の晴(は)れた日(ひ)。樫木(かしのき)の前(まえ)で三脚(さんきゃく)を立(た)てている初老(しょろう)の男(おとこ)がいた。毎年(まいとし)、同(おな)じ日(ひ)に夫婦(ふうふ)そろってこの場所(ばしょ)に来(き)て、記念写真(きねんしゃしん)を撮(と)っていたのだ。もう三十年(さんじゅうねん)以上(いじょう)も続(つづ)けている行事(ぎょうじ)で、幸(さいわ)いなことに<悪天候(あくてんこう)で延期(えんき)>になったことはなかった。この夫婦(ふうふ)には二人(ふたり)の娘(むすめ)がいた。娘(むすめ)たちが小学生(しょうがくせい)の頃(ころ)までは、いつも一緒(いっしょ)に写真(しゃしん)を撮(と)っていた。でも、娘(むすめ)たちが成長(せいちょう)するにつれ、あまりついて来(こ)なくなった。娘(むすめ)たちは思(おも)っていたのかもしれない。この日(ひ)は両親(りょうしん)にとって特別(とくべつ)な日(ひ)だから、二人(ふたり)だけにしてあげようと。そんな娘(むすめ)たちもいまは嫁(とつ)いで、ここ数年(すうねん)は夫婦(ふうふ)二人(ふたり)だけに戻(もど)ってしまった。
でも、今年(ことし)はいつもと違(ちが)っていた。半年前(はんとしまえ)に妻(つま)が亡(な)くなってしまったのだ。一人(ひとり)になってしまった男(おとこ)は、気(き)が抜(ぬ)けてしまったように見(み)えた。父親(ちちおや)のことを心配(しんぱい)した娘(むすめ)たちは、なにかにつけて実家(じっか)に顔(かお)を出(だ)すようになった。可愛(かわい)い孫(まご)たちを引(ひ)き連(つ)れて。その甲斐(かい)あってか、男(おとこ)は元気(げんき)を取(と)り戻(もど)した。遊(あそ)び回(まわ)っている孫(まご)たちの笑顔(えがお)を見(み)ていると、生(い)きる力(ちから)がどこからか不思議(ふしぎ)とわいてくるのだ。
男(おとこ)はもう記念写真(きねんしゃしん)を撮(と)るのは止(や)めようと思(おも)っていた。でもその日(ひ)になってみると、早(はや)く目(め)が覚(さ)めてしまってどうにも落(お)ち着(つ)かない。妻(つま)の位牌(いはい)に手(て)を合(あ)わせて、「今日(きょう)はどうしようか?」と訊(き)いてみた。そんなこんなで、やっぱり今年(ことし)も来(き)てしまったのだ。
男(おとこ)はカメラを覗(のぞ)いて、いつもの場所(ばしょ)にピントを合(あ)わせた。本当(ほんとう)ならそこには妻(つま)が立(た)っていて、あれこれと注文(ちゅうもん)をつけているはずなのに…。そう考(かんが)えると、男(おとこ)はなんとも言(い)えない淋(さび)しさを感(かん)じた。カバンから妻(つま)の写真(しゃしん)を取(と)り出(だ)すと、「さあ、撮(と)るよ。今年(ことし)も良(い)い天気(てんき)になってよかったね」とつぶやいて、カメラをタイマーに切(き)り替(か)えた。
ふと、誰(だれ)かに呼(よ)ばれたような気(き)がして男(おとこ)は振(ふ)り返(かえ)った。見(み)ると、娘(むすめ)たちがまだ小(ちい)さな子供(こども)たちを連(つ)れてこちらへ登(のぼ)って来(き)ていた。孫(まご)たちはおじいちゃんを見(み)つけると手(て)を振(ふ)った。
「お前(まえ)たち、どうしてここに?」やっとたどり着(つ)いた娘(むすめ)たちに男(おとこ)は声(こえ)をかけた。
「やっぱり来(き)てた」長女(ちょうじょ)はそう言(い)うと、「どう、私(わたし)の言(い)ったとおりでしょう」妹(いもうと)に向(む)かって自慢気(じまんげ)につぶやいた。
「はいはい。さすがお姉(ねえ)ちゃん。まいりました」妹(いもうと)は芝居(しばい)がかった口調(くちょう)で答(こた)えると、姉妹(しまい)二人(ふたり)で子供(こども)に戻(もど)ったように笑(わら)いあった。
孫(まご)たちはあっけにとられている男(おとこ)に駆(か)け寄(よ)ってきて、来(く)る途中(とちゅう)で摘(つ)んできた花(はな)を手渡(てわた)した。男(おとこ)は孫(まご)たちのことを心配(しんぱい)して、「大変(たいへん)だったろう。疲(つか)れやしなかったか?」
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。私(わたし)の娘(むすめ)だもの」次女(じじょ)はそう言(い)うと、「私(わたし)も小(ちい)さい頃(ころ)、ここに来(き)てたじゃない」
「ねえ、いっしょに写真(しゃしん)撮(と)ろうよ。いいでしょう、お父(とう)さん」長女(ちょうじょ)はそう言(い)うと、子供(こども)たちをいつもの場所(ばしょ)に連(つ)れて行(い)き、並(なら)ばせ始(はじ)めた。
「ちょっと、お姉(ねえ)ちゃん。そっちは私(わたし)の場所(ばしょ)でしょ。間違(まちが)えないでよね」
男(おとこ)はまるで昔(むかし)に戻(もど)ったようで、しばらく二人(ふたり)のやりとりを見(み)つめていたが、
「よし。じゃあ撮(と)るぞ。今年(ことし)は、良(い)い写真(しゃしん)が撮(と)れそうだ」
<つぶやき>家族(かぞく)って、いるのが当(あ)たり前(まえ)で…。だから、たまには抱(だ)きしめてあげよう。
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008「女(おんな)の切(き)り札(ふだ)」 読切物語ID
T:004「お嬢様(じょうさま)教育(きょういく)コース」
「ここは何処(どこ)よ!」ファッションモデルのように着飾(きかざ)った若(わか)い女性(じょせい)が叫(さけ)んだ。「エッフェル塔(とう)は? 凱旋門(がいせんもん)は何処(どこ)にあるのよ!」
あたりには灼熱(しゃくねつ)の風(かぜ)が吹(ふ)きわたり、彼女(かのじょ)は目(め)がくらみそうになった。よろよろとタラップを降(お)りると、まわりをぐるりと見(み)わたした。そこは、荒涼(こうりょう)とした荒(あ)れ地(ち)の中(なか)で、空港(くうこう)のさびれた建物(たてもの)と、何軒(なんけん)かの小(ちい)さな家(いえ)が点在(てんざい)しているだけだった。彼女(かのじょ)はどこまでも続(つづ)く大地(だいち)を、ただ呆然(ぼうぜん)と見(み)つめていた。突然(とつぜん)、不安(ふあん)な気持(きも)ちがこみ上(あ)げてきて体(からだ)が震(ふる)えた。
「ここ、ガルバね」と一人(ひとり)の男(おとこ)がにこやかに近(ちか)づいて来(き)て言(い)った。
「ガルバ…」女(おんな)は男(おとこ)に駆(か)け寄(よ)り、「ガルバってどこよ! ここはフランスでしょう?」
「なに言(い)ってる。ここはアフリカの秘境(ひきょう)あるよ」
「アフリカって…。なんで…、何(なん)でよ。私(わたし)は…」
「なにも心配(しんぱい)ないよ。私(わたし)が、ちゃんとお世話(せわ)するね。どうね、良(い)い景色(けしき)でしょう」
「どこがよ。何(なん)にも無(な)いじゃないの!」女(おんな)は頭(あたま)をかきむしった。そして、思(おも)いついたように叫(さけ)んだ。「吉田(よしだ)! どうなってるのよ。ちゃんと説明(せつめい)…」
彼女(かのじょ)が振(ふ)り返(かえ)ったとき、ちょうど自家用(じかよう)飛行機(ひこうき)が飛(と)び立(た)つところだった。
「ええ、なんでよ…」彼女(かのじょ)は思(おも)わず走(はし)り出(だ)した。でも、追(お)いつくはずもなかった。滑走路(かっそうろ)には彼女(かのじょ)の荷物(にもつ)がひとつ、ぽつんと取(と)り残(のこ)されていた。
「私(わたし)、ちゃんと吉田(よしだ)さんに頼(たの)まれたね」男(おとこ)はそう言(い)うと、滑走路(かっそうろ)に倒(たお)れ込(こ)んでいる女(おんな)を抱(だ)き起(お)こし、「心配(しんぱい)ないよ。私(わたし)が、ついてるね」
「なに言(い)ってるのよ」女(おんな)は男(おとこ)の手(て)を振(ふ)りはらい、「私(わたし)はパリに行(い)くの。パリが私(わたし)を待(ま)ってるのよ。絶対(ぜったい)、行(い)くんだから…行(い)くんだから…」女(おんな)は何度(なんど)もそうつぶやきながら歩(ある)き出(だ)した。
「ちょっと、待(ま)ちなさい。こっちね」男(おとこ)はそう言(い)うと、女(おんな)から荷物(にもつ)をつかみ取(と)り、「あの飛行機(ひこうき)、一ヵ月後(いっかげつご)しか戻(もど)ってこないよ。それに、次(つぎ)の定期便(ていきびん)が来(く)るの、たぶん二週間後(にしゅうかんご)ね」
「じゃ、チャーターしなさい。お金(かね)はいくらかかってもいいわ。カードだって…」彼女(かのじょ)はそう言(い)うと、肩(かた)から提(さ)げたポーチの中(なか)を探(さが)し始(はじ)めたが、「ない。何(なん)で、ちゃんとここに…」
「ここ、お金(かね)、使(つか)わないよ。物々交換(ぶつぶつこうかん)ね。もちろん、カードもだめよ」
「物々交換(ぶつぶつこうかん)?」女(おんな)は顔(かお)をひきつらせて、「なにそれ。じゃあ、どうするのよ」
「あなた、ここで仕事(しごと)する。そういう約束(やくそく)ね。私(わたし)、きいてる」
「そんなの、知(し)らないわよ! いいわ、パパに電話(でんわ)して…」
「さあ、出発(しゅっぱつ)ね」男(おとこ)は女(おんな)の腕(うで)をつかむと歩(ある)き出(だ)し、「早(はや)くしないと、夜(よる)になってしまうよ」
「行(い)くって、どこによ。私(わたし)は、どこにも行(い)かないわよ。ここのホテルに泊(と)まるから」
「ホテルなんてないよ。あなた、私(わたし)の家(いえ)に住(す)む。ちゃんと、みんな待(ま)ってるね」
「待(ま)ってるって…。どういうことよ。ちゃんと説明(せつめい)してよ!」
男(おとこ)は埃(ほこり)まみれの車(くるま)に彼女(かのじょ)を押(お)し込(こ)むと、「あなたが来(き)てくれてほんとによかったよ。今(いま)、収穫(しゅうかく)の時期(じき)。人手(ひとで)、欲(ほ)しかったね。これから一ヵ月(いっかげつ)、とっても楽(たの)しみね」
「一ヵ月(いっかげつ)って…。これからどこへ行(い)くのよ」女(おんな)はか細(ぼそ)い声(こえ)で言(い)った。
「そう、六時間(ろくじかん)ほど走(はし)れば、村(むら)に到着(とうちゃく)ね」そう言(い)うと、男(おとこ)は猛(もう)スピードで車(くるま)を発進(はっしん)させた。
<つぶやき>お金(かね)では手(て)に入(はい)らないものが、見(み)つかるかもね。がんばれ、お嬢様(じょうさま)!
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009「運命(うんめい)の赤(あか)い糸(いと)」 読切物語ID
T:005「夢(ゆめ)の中(なか)の君(きみ)」
夜中(よなか)の二時(にじ)、慎吾(しんご)は夢(ゆめ)にうなされて目(め)を覚(さ)ました。ここ一週間(いっしゅうかん)というもの、毎晩(まいばん)おなじ夢(ゆめ)をみていた。いま住(す)んでいるアパートにいて…。その部屋(へや)は、家具(かぐ)の配置(はいち)から何(なに)もかも現実(げんじつ)とまったく変(か)わらなかった。ただ違(ちが)うのは、小夜(さよ)という名(な)の女(おんな)がいて…。夢(ゆめ)の世界(せかい)では、その人(ひと)と結婚(けっこん)していて、一緒(いっしょ)に食事(しょくじ)をしたり、たわいのない話(はなし)をしていたようだった。<ようだった>と言(い)うのは、慎吾(しんご)自身(じしん)、断片的(だんぺんてき)にしか夢(ゆめ)を思(おも)い出(だ)せないのだ。でも、とてもリアルな、本当(ほんとう)に二人(ふたり)で暮(く)らしている感覚(かんかく)が、目(め)が覚(さ)めてからも消(き)えずに残(のこ)っていた。
慎吾(しんご)には結婚(けっこん)を約束(やくそく)している彼女(かのじょ)がいた。とても明(あか)るくて優(やさ)しい女性(じょせい)で、もとは同(おな)じ職場(しょくば)で働(はたら)いていたのだが、今(いま)は配属(はいぞく)が変(か)わって別(べつ)の課(か)になってしまった。
「ねえ、大丈夫(だいじょうぶ)?」目(め)を覚(さ)ました慎吾(しんご)に、ひかるは優(やさ)しく声(こえ)をかけた。「今日(きょう)は病欠(びょうけつ)だって聞(き)いて、びっくりしちゃった。昨夜(ゆうべ)も、なんかおかしかったし、心配(しんぱい)したんだからね」
「ひかる? どうして…」慎吾(しんご)はうつろな目(め)でひかるを見(み)つめた。
「ふふ…、合(あ)い鍵(かぎ)、使(つか)っちゃった。ねえ、何(なに)か作(つく)ろうか? お腹(なか)、すいてるでしょ」
ひかるはそう言(い)うと、スーパーの袋(ふくろ)を持(も)ってキッチンに入(はい)って行(い)った。ひかるは何度(なんど)もここで料理(りょうり)をしているので、どこに何(なに)が置(お)いてあるのかすべて分(わ)かっていた。でも、今日(きょう)に限(かぎ)ってその配置(はいち)が変(か)わっていた。「ねえ、置(お)き場所(ばしょ)、変(か)えたの? いつもと違(ちが)うわ」
ひかるはあちこち探(さが)し回(まわ)ったりして手間取(てまど)ったが、手際(てぎわ)よく調理(ちょうり)をすませると、
「慎吾(しんご)、出来(でき)たわよ。起(お)きて」ひかるはうつらうつらしている慎吾(しんご)に呼(よ)びかけた。
慎吾(しんご)はだるそうに身体(からだ)を起(お)こすと、「ああ…、お帰(かえ)り。小夜(さよ)」とつぶやいた。
「なに?」ひかるはちょっと首(くび)をかしげたが、「もう、寝(ね)ぼけてるでしょう」と聞(き)き流(なが)した。
「えっ、僕(ぼく)、何(なに)か言(い)ったか?」慎吾(しんご)はひかるの顔(かお)をじっと見(み)つめて、「君(きみ)は…」
「ねえ、ほんとに大丈夫(だいじょうぶ)? 病院(びょういん)、行(い)った方(ほう)がいいんじゃない?」
「ああ、大丈夫(だいじょうぶ)だよ。薬(くすり)のせいさ。それで、ぼうっとしているだけさ」
ひかるはますます心配(しんぱい)になってきた。ここ一週間(いっしゅうかん)、彼(かれ)の行動(こうどう)が変(へん)なのだ。二人(ふたり)で話(はなし)をしていても、急(きゅう)に眠(ねむ)ってしまったり。二人(ふたり)で行(い)ったことのない場所(ばしょ)なのに、一緒(いっしょ)に行(い)ったみたいに話(はなし)をすのだ。もちろん、ひかるには身(み)に覚(おぼ)えはない。だが、話(はなし)をよく聞(き)いてみると、それは昔(むかし)の話(はな)しではなく、ごく最近(さいきん)の話(はなし)なのだ。もしかしたら、他(ほか)に誰(だれ)かと付(つ)き合(あ)っているの…。ひかるはそんな考(かんが)えがうかぶたびに、<そんなことない>と打(う)ち消(け)してきた。
「やっぱり、病院(びょういん)に行(い)こうよ。これ食(た)べたら、私(わたし)が連(つ)れてってあげる」
「でも、僕(ぼく)はここにいないと」慎吾(しんご)はひかるの作(つく)った食事(しょくじ)をゆっくりと食(た)べながら、「もうすぐ、帰(か)ってくるんだ。だから、待(ま)っててあげないと」
「えっ、誰(だれ)が来(く)るの?」ひかるは不安(ふあん)になって、「はっきり言(い)ってよ」
その時(とき)、玄関(げんかん)の扉(とびら)が開(ひら)いた。慎吾(しんご)は玄関(げんかん)に目(め)をやり、「お帰(かえ)り。小夜(さよ)」と言(い)って微笑(ほほえ)んだ。
ひかるが驚(おどろ)いて振(ふ)り返(かえ)ると、そこには見(み)たことのない女(おんな)が立(た)っていた。
「あなた」女(おんな)は慎吾(しんご)をそう呼(よ)ぶと、「起(お)きてて大丈夫(だいじょうぶ)なの? 寝(ね)てないとだめだよ」
ひかるは意識(いしき)が遠(とお)くなっていくのを感(かん)じた。ふっと手(て)を見(み)ると、向(む)こう側(がわ)が透(す)けて見(み)えた。そして、ひかるの身体(からだ)も透(す)き通(とお)ってきて、ついに夢(ゆめ)のように消(き)えてしまった。
<つぶやき>自分(じぶん)は本当(ほんとう)にそこにいるのか、それとも…。自分(じぶん)の存在(そんざい)に自信(じしん)あります?
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010「仕事(しごと)と恋(こい)」 読切物語ID
T:006「幸(しあわ)せの一割(いちわり)」
「ねえ、ここに置(お)いといた今月分(こんげつぶん)の家賃(やちん)、持(も)っていったでしょう。返(かえ)して!」
「いいだろ。金(かね)がいるんだ。また、銀行(ぎんこう)からおろしてこいよ」
安男(やすお)はそう言(い)うと、ぷいと出(で)て行(い)ってしまった。残(のこ)された佐恵子(さえこ)はため息(いき)をついた。
二人(ふたり)は付(つ)き合(あ)い始(はじ)めて五年(ごねん)。安男(やすお)は、以前(いぜん)はとても優(やさ)しい男(おとこ)だった。それが、一緒(いっしょ)に暮(く)らすようになると、彼(かれ)はまったく働(はたら)かなくなり、遊(あそ)ぶ金(かね)欲(ほ)しさに佐恵子(さえこ)に無心(むしん)する始末(しまつ)。さっさと別(わか)れてしまえばいいのだが、彼女(かのじょ)にはその決断(けつだん)をすることが出来(でき)なかった。
銀行(ぎんこう)への道(みち)すがら、佐恵子(さえこ)は不思議(ふしぎ)な占(うらな)い師(し)に出(で)くわした。その女(おんな)占(うらな)い師(し)は客待(きゃくま)ちしているでもなく、分厚(ぶあつ)い洋書(ようしょ)を開(ひら)いて、読(よ)むでもなく目(め)を落(お)としていた。
「ちょっと、あんた」と占(うらな)い師(し)は、ちょうど前(まえ)を通(とお)りかかった佐恵子(さえこ)を呼(よ)び止(と)めた。
「あんた、悩(なや)み事(ごと)があるね。占(うらな)ってあげよう。ここに、お座(すわ)りなさい」
佐恵子(さえこ)は言(い)われるままに、ふらふらと座(すわ)ってしまった。まるで、何(なに)かに引(ひ)き寄(よ)せられるように。占(うらな)い師(し)は大(おお)きな天眼鏡(てんがんきょう)で佐恵子(さえこ)の顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)んだ。
「なるほど」と占(うらな)い師(し)はつぶやいて、「男(おとこ)が悩(なや)みのタネか…」
「えっ、わかるんですか? 私(わたし)の…」
「これでも占(うらな)い師(し)のはしくれだからね。今(いま)の男(おとこ)との相性(あいしょう)は悪(わる)くはない。ただ、位置(いち)がよくないね。このままだと、どちらかが傷(きず)つくよ。ひとつ、私(わたし)の言(い)う通(とお)りにやってみるかい。そうすれば、運気(うんき)が変(か)わるかもしれない」
占(うらな)い師(し)は彼女(かのじょ)に助言(じょげん)を与(あた)えた。それは、いつでも笑顔(えがお)でいること。そして、彼(かれ)の言(い)うことは何(なん)でもかなえてあげること。これを聞(き)いて、佐恵子(さえこ)はまた、ため息(いき)をついた。
「お金(かね)のことなら心配(しんぱい)ないよ」と占(うらな)い師(し)は言(い)った。「それと、見料(けんりょう)だけど。あんたの幸(しあわ)せの一割(いちわり)をいただくよ。それでいいかい」
佐恵子(さえこ)はわけも分(わ)からずうなずいた。何(なん)だかキツネにつままれたような、変(へん)な感(かん)じだ。
占(うらな)い師(し)と別(わか)れた彼女(かのじょ)は銀行(ぎんこう)でお金(かね)をおろし、ふと通帳(つうちょう)を見(み)て驚(おどろ)いた。預金(よきん)の残高(ざんだか)が増(ふ)えていたのだ。通帳(つうちょう)をよく見(み)ると、エンジェルの名(な)で大金(たいきん)が振(ふ)り込(こ)まれていた。
「まさか、あの人(ひと)が…」と佐恵子(さえこ)はつぶやいた。「エンジェル?」
佐恵子(さえこ)は占(うらな)い師(し)に言(い)われたように、その日(ひ)から実行(じっこう)することにした。いつも笑顔(えがお)で、そして彼(かれ)の言(い)うことは何(なん)でもかなえてあげた。すると不思議(ふしぎ)なことに、安男(やすお)は毎日(まいにち)きちんと帰(かえ)ってくるようになり、喧嘩(けんか)をすることもなくなった。でも、まだ佐恵子(さえこ)は不安(ふあん)だった。
佐恵子(さえこ)はふっと、別(わか)れぎわに占(うらな)い師(し)が言(い)った言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)した。
<最後(さいご)の仕上(しあ)げは、何(なん)でもいいからお願(ねが)い事(ごと)をしてごらん。まず、些細(ささい)なことからはじめて、少(すこ)しずつ増(ふ)やしていくんだ。そこまで行(い)けば、もう男(おとこ)はあんたのものさ。>
安男(やすお)は初(はじ)めのうちは嫌々(いやいや)だったが、そのうち、安男(やすお)の方(ほう)から用事(ようじ)はないかと聞(き)くようになった。この頃(ころ)にはもう、安男(やすお)は以前(いぜん)の優(やさ)しい男(おとこ)に戻(もど)っていた。仕事(しごと)もするようになり、生活(せいかつ)にゆとりが戻(もど)ってきた。そこで、佐恵子(さえこ)は一番(いちばん)のお願(ねが)いをした。「私(わたし)と結婚(けっこん)して!」
この後(ご)、二人(ふたり)は幸(しあわ)せに暮(く)らした。でも、佐恵子(さえこ)にはひとつ悩(なや)みが残(のこ)った。それは、あの時(とき)の占(うらな)い師(し)に見料(けんりょう)をどうやって払(はら)えばいいのか。あれ以来(いらい)、一度(いちど)も会(あ)えないままなのだ。
<つぶやき>こんな占(うらな)い師(し)がいたら、私(わたし)にも良(い)い人(ひと)が見(み)つかるかも。会(あ)ってみたいなぁ。
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011「同化(どうか)」 読切物語ID
T:007「最強(さいきょう)の彼女(かのじょ)」
やよいは両親(りょうしん)を早(はや)くに亡(な)くして、母方(ははかた)の祖父母(そふぼ)のもとで育(そだ)てられた。祖父母(そふぼ)の家(いえ)は道場(どうじょう)をやっていて、柔道(じゅうどう)や空手(からて)、剣道(けんどう)、居合道(いあいどう)、なぎなたなど、あらゆる武術(ぶじゅつ)を教(おし)えていた。やよいは淋(さび)しさを紛(まぎ)らわすように、小(ちい)さい頃(ころ)から武術(ぶじゅつ)の稽古(けいこ)に熱中(ねっちゅう)した。そして、今(いま)では師範(しはん)と呼(よ)ばれるほどに成長(せいちょう)し、屈強(くっきょう)の男(おとこ)でも彼女(かのじょ)には太刀打(たちう)ちできなかった。
やよいは母親(ははおや)に似(に)て可愛(かわい)い顔立(かおだ)ちで、おしとやかとはいえないが優(やさ)しい心(こころ)を持(も)っていた。でも、やよいと付(つ)き合(あ)おうとする男(おとこ)たちは、彼女(かのじょ)の最強(さいきょう)ぶりを知(し)ると、怖(お)じ気(け)づいてしまうのかすぐに逃(に)げ出(だ)した。そこで、やよいは決心(けっしん)した。今度(こんど)付(つ)き合(あ)う彼(かれ)には、絶対(ぜったい)に強(つよ)いところは見(み)せないと。そして、おしとやかな女性(じょせい)になるために、お茶(ちゃ)やお花(はな)を習(なら)い始(はじ)めた。
出会(であ)いは突然(とつぜん)おとずれた。習(なら)い事(ごと)の帰(かえ)り道(みち)、やよいは引(ひ)ったくりに襲(おそ)われた。いつもなら簡単(かんたん)にねじ伏(ふ)せてしまうのだが、着物(きもの)を着(き)ていたし、油断(ゆだん)もあったのでひっくり返(かえ)ってしまったのだ。ちょうどそこに居合(いあ)わせた人(ひと)が、犯人(はんにん)に体当(たいあ)たりをしてバッグを取(と)り戻(もど)してくれた。その人(ひと)はやよいを助(たす)け起(お)こすと、バッグを手渡(てわた)した。やよいはその人(ひと)の顔(かお)が間近(まぢか)にきたとき、その優(やさ)しそうな眼差(まなざ)しにうっとりとした。道場(どうじょう)に来(き)ている厳(いか)つい男(おとこ)たちとは、あきらかに人種(じんしゅ)が違(ちが)うのだ。
やよいのアタックは素早(すばや)かった。口実(こうじつ)を作(つく)って彼(かれ)の連絡先(れんらくさき)を聞(き)き出(だ)すと、毎日(まいにち)のように電話(でんわ)した。そして、いつの間(ま)にか二人(ふたり)の気持(きも)ちはつながった。やよいは彼(かれ)と一緒(いっしょ)にいると、居心地(いごこち)がよすぎて時間(じかん)を忘(わす)れてしまうほどだ。でも、腕力(わんりょく)だけは見(み)せないように細心(さいしん)の注意(ちゅうい)をはらった。それでも、思(おも)わずお皿(さら)をへし折(お)ったりしたが、そこは上手(うま)くごまかした。
付(つ)き合(あ)い始(はじ)めて一年目(いちねんめ)のこと。「結婚(けっこん)しようか」と彼(かれ)が口(くち)にした。やよいは突然(とつぜん)のことに、何度(なんど)も聞(き)き返(かえ)した。そして彼女(かのじょ)は、涙(なみだ)ぐみながらも、「はい」と返事(へんじ)をした。
その日(ひ)、やよいは夢見心地(ゆめごこち)で家(いえ)に帰(かえ)った。家(いえ)では、強面(こわもて)の男(おとこ)たちが彼女(かのじょ)を出迎(でむか)えた。彼(かれ)らは道場(どうじょう)で修業(しゅぎょう)している弟子(でし)たちで、一緒(いっしょ)に暮(く)らしていて家族(かぞく)同然(どうぜん)の存在(そんざい)だった。彼(かれ)らを目(め)にして、やよいは我(われ)にかえった。<結婚(けっこん)するってことは、彼(かれ)をここに連(つ)れてきて…>
「わーっ!」やよいは思(おも)わず叫(さけ)んだ。「どうしよう。また、嫌(きら)われちゃうわ」
朝(あさ)まで、やよいは一睡(いっすい)もできなかった。悩(なや)んで、悩(なや)んで、悩(なや)んだあげくに、彼女(かのじょ)は心(こころ)を決(き)めた。彼(かれ)に本当(ほんとう)のことを言(い)おう。彼(かれ)なら私(わたし)のことを受(う)け止(と)めてくれる、そう信(しん)じた。
「あの…、あのね」やよいは彼(かれ)を前(まえ)にして口(くち)ごもった。いざとなると、最悪(さいあく)の状況(じょうきょう)が頭(あたま)に浮(う)かび、この場(ば)から逃(に)げ出(だ)したい気持(きも)ちでいっぱいになった。
「今度(こんど)さ、僕(ぼく)も習(なら)い事(ごと)を始(はじ)めようと思(おも)って」と彼(かれ)は照(て)れくさそうに言(い)った。「ほら、やっぱり健康(けんこう)が一番(いちばん)だろ。得意先(とくいさき)の近(ちか)くに、いい道場(どうじょう)を見(み)つけたんだ」
「道場(どうじょう)!」やよいは思(おも)わず叫(さけ)んだ。「えっ、何(なに)をやるのよ?」
「子供(こども)の頃(ころ)、少(すこ)しだけ柔道(じゅうどう)をやってて。そこの道場(どうじょう)、初心者(しょしんしゃ)にも教(おし)えてるみたいなんだ」
「そうなんだ。柔道(じゅうどう)、やってたんだ。知(し)らなかったわ」やよいは少(すこ)しだけほっとした。
「鬼塚道場(おにづかどうじょう)っていって、たぶん君(きみ)の家(いえ)の近(ちか)くだと思(おも)うんだけど。知(し)ってる?」
やよいは道場(どうじょう)の名前(なまえ)を聞(き)いて凍(こお)りついた。<鬼塚道場(おにづかどうじょう)って、私(わたし)の家(いえ)じゃない!>
<つぶやき>正直(しょうじき)が一番(いちばん)なんですけど。誰(だれ)にでも知(し)られたくないことってありますよね。
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012「ラブレター」 読切物語ID
T:008「女(おんな)の切(き)り札(ふだ)」
純子(じゅんこ)は一人(ひとり)、部屋(へや)でパソコンとにらめっこをしていた。彼女(かのじょ)はフリーのライターをしているのだが、締(し)め切(き)りが間近(まぢか)に迫(せま)っていてあせっていた。今(いま)、彼女(かのじょ)の頭(あたま)の中(なか)は完全(かんぜん)に煮詰(につ)まっていて、昨夜(ゆうべ)から一睡(いっすい)もしていないのだ。こんな時(とき)、彼女(かのじょ)は豹変(ひょうへん)する。
「ただいまぁ…」夫(おっと)の隆(たかし)が残業(ざんぎょう)を終(お)えて、静(しず)かにドアを開(あ)けて帰(かえ)ってくる。
この二人(ふたり)、最近(さいきん)結婚(けっこん)したばかりなのだが、彼女(かのじょ)の仕事(しごと)が立(た)て込(こ)んでいて、いまだに新婚生活(しんこんせいかつ)を味(あじ)わっていなかった。この部屋(へや)も彼女(かのじょ)が引(ひ)っ越(こ)しが面倒(めんどう)だと言(い)うので、彼(かれ)の方(ほう)から越(こ)してきたのだ。でも、隆(たかし)は満足(まんぞく)していた。だって、彼(かれ)が住(す)んでいた部屋(へや)より、こっちの方(ほう)が断然(だんぜん)広(ひろ)いのだ。
彼(かれ)は純子(じゅんこ)の仕事(しごと)について理解(りかい)しているつもりだった。でも、一緒(いっしょ)に住(す)んでみて、その大変(たいへん)さに驚(おどろ)いた。だから、彼女(かのじょ)が仕事(しごと)に没頭(ぼっとう)しているときは、家事(かじ)のほとんどを彼(かれ)が担当(たんとう)することになった。
今日(きょう)も仕事中(しごとちゅう)に彼(かれ)の携帯(けいたい)が鳴(な)り、夜食(やしょく)の買(か)い物(もの)を言(い)いつけられた。でも、彼(かれ)はそれを嫌(いや)がることはなかった。隆(たかし)は純子(じゅんこ)のことを愛(あい)していたし、大切(たいせつ)に思(おも)っていたのだ。
彼(かれ)は純子(じゅんこ)の仕事部屋(しごとべや)をちらっとのぞいてから、キッチンへ向(む)かった。テーブルの上(うえ)にエコバッグを置(お)き、流(なが)しを見(み)て驚(おどろ)いた。昼食(ちゅうしょく)の残骸(ざんがい)が無残(むざん)にも投(な)げ込(こ)まれていたのだ。
彼(かれ)はため息(いき)をついた。その時(とき)、突然(とつぜん)後(うし)ろから声(こえ)がした。「何(なん)なのこれ?」
隆(たかし)が振(ふ)り返(かえ)ると、穴蔵(あなぐら)から抜(ぬ)け出(だ)したような、うつろな目(め)をした純子(じゅんこ)がエコバッグからカップ麺(めん)を取(と)り出(だ)していた。その目(め)には、ただならぬものが感(かん)じられた。
「私(わたし)は醤油味(しょうゆあじ)を頼(たの)んだのよ。何(なん)でとんこつ味(あじ)を買(か)ってくるの?」
「だって、ちょうど売(う)り切(き)れてたから」隆(たかし)はヤカンに水(みず)を入(い)れながら答(こた)えた。
「私(わたし)は今(いま)、醤油味(しょうゆあじ)を食(た)べたいの。それ以外(いがい)あり得(え)ないから」
「いいじゃない。これだって美味(おい)しいって、このあいだ…」
「そりゃ、とんこつも美味(おい)しいわよ。でも、今(いま)は醤油(しょうゆ)なの。醤油味(しょうゆあじ)を食(た)べたいの!」
「そんなのいいじゃん。美味(おい)しけりゃ、同(おな)じだって」隆(たかし)は無頓着(むとんちゃく)な人間(にんげん)のようだ。
「買(か)ってきて」純子(じゅんこ)はエコバッグを隆(たかし)に突(つ)きつけて、「今(いま)すぐ買(か)ってきて!」
隆(たかし)は純子(じゅんこ)のわがままには慣(な)れっこになっていた。でも、何故(なぜ)か今日(きょう)はぷつっと切(き)れた。
「お前(まえ)な、いい加減(かげん)にしろよ! 前(まえ)から言(い)いたかったんだけど…」
「なによ」純子(じゅんこ)は動(どう)じる様子(ようす)もなく、彼(かれ)を睨(にら)みつけた。隆(たかし)は一瞬(いっしゅん)ひるんだが、
「前(まえ)から言(い)いたかったんだけど…、朝食(ちょうしょく)の目玉焼(めだまや)きに醤油(しょうゆ)なんかかけるなよ。目玉焼(めだまや)きはケチャップだろ。僕(ぼく)がせっかく美味(おい)しく作(つく)ってるのに…」
「なに言(い)ってるの」純子(じゅんこ)は鼻(はな)で笑(わら)って、「目玉焼(めだまや)きは醤油(しょうゆ)じゃない。常識(じょうしき)でしょ。それより、早(はや)く行(い)ってよ。15分(ふん)だけ待(ま)っててあげる。もし、ちょっとでも遅(おく)れたら、もうこの部屋(へや)には二度(にど)と入(はい)れないから」
「何(なん)だよ…」隆(たかし)は背筋(せすじ)に冷(つめ)たいものが走(はし)るのを感(かん)じた。今(いま)の彼女(かのじょ)は何(なに)をするかわからない。
「分(わ)かった。行(い)ってきまーす」隆(たかし)はそう言(い)うと、部屋(へや)から飛(と)び出(だ)していった。
<つぶやき>隆(たかし)、負(ま)けるな。いつかきっと、報(むく)われる時(とき)が来(く)るから。たぶん…。
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JUMP 010「仕事(しごと)と恋(こい)」 011「同化(どうか)」 012「ラブレター」 013「最後(さいご)のラブレター」 読切物語ID
T:009「運命(うんめい)の赤(あか)い糸(いと)」
「まだそんなこと信(しん)じてるのか?」と英太(えいた)は呆(あき)れ顔(がお)で言(い)った。
「いいでしょ」さよりは口(くち)をとがらせて、「私(わたし)の子供(こども)の頃(ころ)からの夢(ゆめ)なんだから」
「おい!」と後(うし)ろから突然(とつぜん)声(こえ)がして、哲也(てつや)が二人(ふたり)の間(あいだ)に割(わ)って入(はい)った。「おまえらな、さっきから呼(よ)んでるのに、気(き)づけよな。で、なに楽(たの)しそうに話(はな)してたんだよ」
「別(べつ)にたいしたことじゃないけどさ」英太(えいた)はにやにやしながら、「こいつが…」
「ちょっと」すかさずさよりが話(はなし)を断(た)ち切(き)り、「余計(よけい)なこと言(い)わないで。もし、しゃべったら、ほんとに怒(おこ)るからね」そう言(い)って、さよりはぷいっと走(はし)り去(さ)った。
さよりを見送(みおく)った英太(えいた)は、ちょっとした悪戯(いたずら)を思(おも)いついた。それは、さよりの夢(ゆめ)をかなえてやること。哲也(てつや)を巻(ま)き込(こ)んで、極秘作戦(ごくひさくせん)がスタートした。
日曜(にちよう)の朝(あさ)。鳥(とり)かごを抱(かか)えた哲也(てつや)は、英太(えいた)の部屋(へや)に入(はい)るなりつぶやいた。
「なあ、ほんとにまずいよ。もし、姉(ねえ)ちゃんにばれたら、俺(おれ)、殺(ころ)されるから…」
「心配(しんぱい)すんなって。どうせ姉(ねえ)ちゃん、仕事(しごと)でいつ帰(かえ)ってくるかわかんないんだろ。大丈夫(だいじょうぶ)だって。ちょっと、塗(ぬ)るだけだよ」そう言(い)うと、英太(えいた)は青(あお)いマジックを取(と)り出(だ)した。
「ちょっ、待(ま)てよ!」驚(おどろ)いた哲也(てつや)は英太(えいた)の腕(うで)をつかんで、「マジックじゃ、消(き)えないだろ」
「だって、白(しろ)い文鳥(ぶんちょう)じゃ意味(いみ)ないじゃん。この作戦(さくせん)には青(あお)い鳥(とり)が必要(ひつよう)なんだ」
「いや、そう言(い)うことじゃなくて…。もし、ピー子(こ)に何(なに)かあったら…」
哲也(てつや)の心配(しんぱい)をよそに、英太(えいた)はピー子(こ)をまだらな青(あお)い鳥(とり)に塗(ぬ)り替(か)えた。
その日(ひ)のうちに、英太(えいた)はさよりを近(ちか)くの海岸(かいがん)に呼(よ)び出(だ)した。砂浜(すなはま)は人(ひと)もまばらで、さよりを見(み)つけるのは簡単(かんたん)だった。岩陰(いわかげ)で待(ま)ち伏(ぶ)せしていた二人(ふたり)は、速(すみ)やかに作戦(さくせん)を実行(じっこう)した。
「ねえ、こんなとこに呼(よ)び出(だ)して、話(はなし)ってなによ?」さよりはわざと迷惑(めいわく)そうに言(い)った。でも、急(きゅう)に呼(よ)び出(だ)されたのに、しっかりおしゃれをして来(き)たことは誰(だれ)が見(み)てもわかった。
「あの、実(じつ)は…」英太(えいた)はそう言(い)いながら、後(うし)ろ手(で)で哲也(てつや)に合図(あいず)を送(おく)った。哲也(てつや)は赤(あか)い糸(いと)を鳥(とり)の足(あし)に結(むす)びつけるのに手間取(てまど)ったが、慌(あわ)ててピー子(こ)を放(はな)した。ところが、逆(ぎゃく)の方向(ほうこう)に飛(と)んで行(い)ったピー子(こ)を見(み)て、哲也(てつや)は思(おも)わず立(た)ち上(あ)がり、「ああっ!」と叫(さけ)んでしまった。
ピー子(こ)はぐるりと旋回(せんかい)すると、さよりに向(む)かって飛(と)んできた。さよりはそれを見(み)てすべてを理解(りかい)した。哲也(てつや)は慌(あわ)ててピー子(こ)を追(お)いかける。赤(あか)い糸(いと)がひらひらと宙(ちゅう)を舞(ま)っていた。
三人(さんにん)はピー子(こ)を捕(つか)まえようと、砂浜(すなはま)を走(はし)り回(まわ)った。ピー子(こ)は英太(えいた)の手(て)をすり抜(ぬ)けて、さよりの肩(かた)に止(と)まった。英太(えいた)の腕(うで)には赤(あか)い糸(いと)が絡(から)みついていた。
その時(とき)、突然(とつぜん)女性(じょせい)の叫(さけ)び声(ごえ)が聞(き)こえた。その女性(じょせい)の姿(すがた)を見(み)た哲也(てつや)は、震(ふる)え上(あ)がり腰(こし)を抜(ぬ)かした。さよりの肩(かた)に止(と)まっていたピー子(こ)は、赤(あか)い糸(いと)を器用(きよう)にほどいて飼(か)い主(ぬし)の方(ほう)へ飛(と)んで行(い)った。そして、それを追(お)いかけるように、鳥(とり)かごを抱(かか)えた哲也(てつや)も走(はし)り去(さ)った。
砂浜(すなはま)に残(のこ)された英太(えいた)とさよりは、しばし見(み)つめ合(あ)い…。さよりは赤(あか)い糸(いと)を巻(ま)き取(と)りながら英太(えいた)に近(ちか)づいて、にっこり微笑(ほほえ)んだ。次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、さよりの平手(ひらて)が空(くう)を切(き)った。
次(つぎ)の日(ひ)。哲也(てつや)の顔(かお)には何枚(なんまい)も絆創膏(ばんそうこう)が貼(は)られていた。英太(えいた)とさよりは、昨日(きのう)のことが嘘(うそ)のようにいつも通(どお)りだ。でも、さよりの筆箱(ふでばこ)には、昨日(きのう)の赤(あか)い糸(いと)が大切(たいせつ)に入(い)れられていた。
<つぶやき>子供(こども)の頃(ころ)のたわいない夢(ゆめ)。でも、その夢(ゆめ)を忘(わす)れなかった人(ひと)は、幸(しあわ)せかもね。
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JUMP 011「同化(どうか)」 012「ラブレター」 013「最後(さいご)のラブレター」 014「怪盗(かいとう)ブラック」 読切物語ID
T:010「仕事(しごと)と恋(こい)」
「何(なん)でそんなこと言(い)うの? 約束(やくそく)したじゃない! ずっと一緒(いっしょ)にいるって」
涼子(りょうこ)は電話口(でんわぐち)で声(こえ)を荒(あ)らげた。電話(でんわ)相手(あいて)の彼(かれ)とは、もう三年(さんねん)の付(つ)き合(あ)いになる。ここ数ヶ月(すうかげつ)はお互(たが)いの仕事(しごと)が忙(いそが)しく、なかなか逢(あ)うことが出来(でき)なかった。それに、電話(でんわ)も夜遅(よるおそ)くしか出来(でき)ないので、長話(ながばなし)をするわけにもいかなかった。涼子(りょうこ)は淋(さび)しい思(おも)いを我慢(がまん)していた。
だから、今日(きょう)はまだ早(はや)い時間(じかん)なのに彼(かれ)から電話(でんわ)がかかってきて、涼子(りょうこ)は飛(と)び上(あ)がらんばかりに喜(よろこ)んだ。それが、まさかこんな事(こと)になるなんて、夢(ゆめ)にも思(おも)わなかった。
「どういうことよ。はっきり言(い)ってよ」
涼子(りょうこ)の声(こえ)は震(ふる)えていた。相手(あいて)の話(はなし)を身動(みうご)きもせずに聞(き)いていたが、
「分(わ)かんないよ! 仕事(しごと)がそんなに大切(たいせつ)なの。……そりゃ、私(わたし)だって、仕事(しごと)が忙(いそが)しくて、急(きゅう)に逢(あ)えなくなったときあったけど…」涼子(りょうこ)の目(め)から、一筋(ひとすじ)の涙(なみだ)がこぼれた。
「ねえ、どうしてもだめなの。離(はな)れたくないよ。ずっと一緒(いっしょ)にいようよ」
彼(かれ)は涼子(りょうこ)が泣(な)いているのに気(き)づいたのか、
「泣(な)いてなんかいないわよ。楽(たの)しみにしてたんだから。それなのに…」
彼女(かのじょ)は、自分(じぶん)が無茶(むちゃ)なことを言(い)っているのはわかっていた。でも、許(ゆる)せなかった。
「……延期(えんき)?! 何(なん)でよ、あなたから言(い)いだしたのよ。それを…。簡単(かんたん)に言(い)わないで!」
涼子(りょうこ)はしばらく、無言(むごん)で彼(かれ)の話(はなし)を聞(き)いていた。しかし、
「わがまま? 何(なに)それ! 私(わたし)、わがままなの? 私(わたし)が、この日(ひ)のためにどれだけ…」
彼(かれ)の方(ほう)も、声(こえ)を荒(あら)げて、何(なに)かしきりにしゃべりはじめた。こうなると、お互(たが)い相手(あいて)の話(はなし)など耳(みみ)に入(はい)らない。自分(じぶん)のことしか、考(かんが)えられなくなっていた。とうとう彼女(かのじょ)は、
「もういいよ! 私(わたし)一人(ひとり)で行(い)くから。一人(ひとり)で泊(と)まって、2人分(ふたりぶん)、ご馳走(ちそう)食(た)べてやる!」
彼女(かのじょ)はそのまま電話(でんわ)を切(き)ってしまった。本当(ほんとう)に腹(はら)が立(た)った。彼女(かのじょ)は怒(いか)りをぶつけるように、そばにあったクッションを電話(でんわ)に投(な)げつけた。
しばらくして、気(き)がおさまると、今度(こんど)は後悔(こうかい)の念(ねん)が嵐(あらし)のように襲(おそ)いかかってきた。
「ああ…、何(なん)であんなこと言(い)っちゃたのかな。どうしよう…」彼女(かのじょ)は電話(でんわ)に手(て)を伸(の)ばした。でも、途中(とちゅう)で思(おも)いとどまって、「何(なん)で、私(わたし)から…。悪(わる)いのは、あの人(ひと)なんだから…。大丈夫(だいじょうぶ)よ…。向(む)こうからきっと電話(でんわ)してくるはず」
涼子(りょうこ)は待(ま)った。五分(ごふん)、十分(じゅっぷん)、二十分(にじゅっぷん)…。でも、いくら待(ま)っても電話(でんわ)はかかってこなかった。彼女(かのじょ)は不安(ふあん)になってきた。いろいろな想像(そうぞう)が、頭(あたま)を駆(か)けめぐる。
「もしかして、私(わたし)、嫌(きら)われたの? でも、悪(わる)いのあの人(ひと)よ。でも…。まさか…、他(ほか)に好(す)きな人(ひと)が…。いいえ、そんなことあるわけない。でも…。違(ちが)う、仕事(しごと)が忙(いそが)しいから会(あ)えなかったのよ。私(わたし)以外(いがい)の人(ひと)とそんな…」
その時(とき)、突然(とつぜん)電話(でんわ)が鳴(な)り出(だ)した。涼子(りょうこ)は、思(おも)わず電話(でんわ)に飛(と)びついた。
「はい……。なんだぁ、愛子(あいこ)なの…」それは、涼子(りょうこ)の親友(しんゆう)からの電話(でんわ)だった。
久(ひさ)し振(ぶ)りに親友(しんゆう)の声(こえ)を聞(き)いてほっとした涼子(りょうこ)は、それから話(はな)し込(こ)んでしまった。電話(でんわ)を切(き)ったときには、もう十二時(じゅうにじ)を過(す)ぎていた。
「あれ、私(わたし)、何(なに)してたんだっけ…。あっ、もうこんな時間(じかん)。早(はや)く寝(ね)なきゃ」
<つぶやき>仕事(しごと)と恋(こい)の両立(りょうりつ)は難(むずか)しい。どっちも大切(たいせつ)ですから。明日(あした)、仲直(なかなお)りしましょう。
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T:011「同化(どうか)」
その研究室(けんきゅうしつ)は大学構内(だいがくこうない)の奥(おく)まった場所(ばしょ)にあった。そこへ行(い)くためには、迷路(めいろ)のような通路(つうろ)を通(とお)り、いくつもの扉(とびら)を抜(ぬ)けないとたどり着(つ)くことはできない。大学関係者(だいがくかんけいしゃ)ですら、この研究室(けんきゅうしつ)にたどり着(つ)けた者(もの)は数(かぞ)えるほどしかいなかった。そんなわけだから、学生(がくせい)でこの研究室(けんきゅうしつ)の存在(そんざい)を知(し)る者(もの)など、全(まった)くと言(い)っていいほどいなかった。
この研究室(けんきゅうしつ)では、ある実験(じっけん)が行(おこな)われていた。それは、いろいろな物(もの)を掛(か)け合(あ)わせて、新(あたら)しい物(もの)を作(つく)り出(だ)すというものだ。教授(きょうじゅ)はこの実験(じっけん)を何十年(なんじゅうねん)も続(つづ)けていた。
ある日(ひ)、教授(きょうじゅ)は研究室(けんきゅうしつ)の前(まえ)まで来(き)て驚(おどろ)いた。部屋(へや)の中(なか)から美味(おい)しそうな匂(におい)いが漂(ただよ)ってくるのだ。研究室(けんきゅうしつ)に入(はい)ってみると、助手(じょしゅ)のかえでが机(つくえ)の上(うえ)にたくさんの料理(りょうり)を並(なら)べ、昼食(ちゅうしょく)を取(と)っていた。
「君(きみ)は、何(なに)をしているのかね?」教授(きょうじゅ)は驚(おどろ)いた顔(かお)で助手(じょしゅ)に尋(たず)ねた。
「すいません」かえでは申(もう)し訳(わけ)なさそうに、「食堂(しょくどう)まで行(い)くのがめんどうなので、つい…」
かえでは偶然(ぐうぜん)この研究室(けんきゅうしつ)に迷(まよ)い込(こ)んできた学生(がくせい)で、どういうわけか教授(きょうじゅ)のことが気(き)に入(い)ってしまい、押(お)しかけ助手(じょしゅ)として研究(けんきゅう)の手伝(てつだ)いをしていた。
「それにしても」教授(きょうじゅ)は机(つくえ)に並(なら)んだ料理(りょうり)を見(み)て、「どうやってこんなに作(つく)ったのかね?」
「ほんとに、すいません」かえでは深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げると、「実(じつ)は、あの装置(そうち)を使(つか)ったんです」
「装置(そうち)を?」教授(きょうじゅ)は研究室(けんきゅうしつ)の一角(いっかく)を占領(せんりょう)している機械(きかい)の塊(かたまり)を見(み)て、「まさか君(きみ)、この装置(そうち)で料理(りょうり)を作(つく)ったのかね? 信(しん)じられない。そんな使(つか)い方(かた)ができるわけがない」
「でも、教授(きょうじゅ)。それができちゃったんです」かえではそう言(い)うと、まだ残(のこ)っていたジャガイモや豚肉(ぶたにく)などの食材(しょくざい)と調味料(ちょうみりょう)を容器(ようき)の中(なか)に入(い)れると、装置(そうち)のボックスにセットした。
「えっと、これでパワーを弱(じゃく)にして…」かえでは装置(そうち)のスタートボタンを押(お)した。
装置(そうち)はぶうぉーんと音(おと)を響(ひび)かせて動(うご)き出(だ)した。しばらくすると、ボックスから白(しろ)い煙(けむり)が立(た)ち上(あ)がった。それを合図(あいず)に、かえでは装置(そうち)のスイッチを切(き)った。そして、ボックスの扉(とびら)を開(あ)ける。中(なか)から出(で)てきたものは、肉(にく)じゃがだった。
「でも、難点(なんてん)は…」かえでは肉(にく)じゃがを机(つくえ)の方(ほう)に運(はこ)びながら、「どんな料理(りょうり)になるのか、わからないことです。同(おな)じ材料(ざいりょう)を入(い)れても、同(おな)じ料理(りょうり)ができるとは限(かぎ)らないんです」
「これは、たまげたな」教授(きょうじゅ)はそう言(い)うと、容器(ようき)の中(なか)で湯気(ゆげ)を立(た)てている肉(にく)じゃがを、まじまじと見(み)つめた。
「食(た)べてみますか?」かえではそう言(い)うと、教授(きょうじゅ)に大(おお)きなスプーンを手渡(てわた)した。
教授(きょうじゅ)は恐(おそ)る恐(おそ)る口(くち)にした。その瞬間(しゅんかん)、教授(きょうじゅ)の顔色(かおいろ)が変(か)わり、目(め)から大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)がこぼれた。かえでは教授(きょうじゅ)の変(か)わりように驚(おどろ)いて、急(いそ)いで出来(でき)たての肉(にく)じゃがを口(くち)にしてみた。
「…まずい! 何(なん)で、これだけ。他(ほか)の料理(りょうり)はとっても美味(おい)しいのに」
「これは、妻(つま)の味(あじ)だ。私(わたし)の妻(つま)は、どういうわけか、肉(にく)じゃがだけがまずくてね」
「妻(つま)って、あの、教授(きょうじゅ)の、行方不明(ゆくえふめい)になっている…」
「そうだ。もう、二十年(にじゅうねん)になる。私(わたし)と一緒(いっしょ)に研究(けんきゅう)してたんだが、この研究室(けんきゅうしつ)で事故(じこ)があってね。それ以来(いらい)、行方(ゆくえ)がわからなくなっていたんだ。だが、とうとう見(み)つけた。あいつは、この装置(そうち)と同化(どうか)していたんだ。ずっと、私(わたし)のそばにいてくれたんだよ」
<つぶやき>愛(あい)する人(ひと)のことを思(おも)い続(つづ)けることができるなんて、素敵(すてき)なことですね。
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016「疑似家族(ぎじかぞく)」 読切物語ID
T:012「ラブレター」
山田君(やまだくん)へ。突然(とつぜん)こんな手紙(てがみ)を書(か)いてしまって、ごめんなさい。
私(わたし)が廊下(ろうか)で転(ころ)んでプリントをばらまいてしまったとき、山田君(やまだくん)は一緒(いっしょ)に集(あつ)めてくれたよね。あのとき、私(わたし)、ちゃんとお礼(れい)も言(い)えなくて。山田君(やまだくん)は、そんなこともう忘(わす)れているかもしれないけど。私(わたし)は、ずっと後悔(こうかい)してて。なんで、ちゃんとありがとうって言(い)わなかったんだろう。ちゃんと言(い)ってれば…。
私(わたし)、山田君(やまだくん)と同(おな)じクラスになったときから、山田君(やまだくん)のことがずっと気(き)になってて。でも、声(こえ)をかけることが出来(でき)なくて。この手紙(てがみ)を書(か)くのだって、ずっと迷(まよ)ってて。友達(ともだち)に相談(そうだん)したらね、ちゃんと告白(こくはく)した方(ほう)がいいって言(い)われたの。それで、私(わたし)、決(き)めたの。
私(わたし)、山田君(やまだくん)のことが好(す)きです。山田君(やまだくん)は、他(ほか)に好(す)きな人(ひと)がいるかもしれないけど、それでもいいの。私(わたし)の片思(かたおも)いでもいい。こんな気持(きも)ちになったのは初(はじ)めてで、自分(じぶん)でもどうしたらいいのか分(わ)からないんだ。今(いま)もドキドキしてる。でも、なんだか心(こころ)の中(なか)がほわっとしてて、あったかいの。今(いま)まで悩(なや)んでいたことが、どっかへ行(い)っちゃった。
あのときは助(たす)けてくれて、ほんとにありがとう。もし、私(わたし)のこと好(す)きじゃなかったら、好(す)きになれなかったら、この手紙(てがみ)は捨(す)ててください。
「ねえ、あなた。さっきから何(なに)やってるの。そんなんじゃ、ちっとも片付(かたづ)かないでしょ」
「ちょっとね、昔(むかし)の手紙(てがみ)を見(み)つけてさ」
「もう、今日中(きょうじゅう)にやらないと、あさっての引(ひ)っ越(こ)しに間(ま)に合(あ)わないでしょ」
「ごめん。でも、懐(なつ)かしくてさ。きみ、これ覚(おぼ)えてる?」
男(おとこ)は女(おんな)に色(いろ)あせた手紙(てがみ)を手渡(てわた)した。女(おんな)はそれを手(て)に取(と)ると、「なに、これ?」
「何(なん)だよ。覚(おぼ)えてないの? ほら、学生(がくせい)のとき、きみが僕(ぼく)に…」
「知(し)らないわよ。私(わたし)、手紙(てがみ)なんか書(か)いたことないし」
「えっ、そうだった?」
「もしかして、これラブレター?」女(おんな)が手紙(てがみ)を読(よ)もうとしたので男(おとこ)は慌(あわ)てて、
「駄目(だめ)だって…」
男(おとこ)は女(おんな)から手紙(てがみ)を取(と)り上(あ)げようとするが、女(おんな)は逃(に)げまわりながら、
「ねえ、誰(だれ)からもらったのよ。白状(はくじょう)しなさい」
「だから、きみからだと…」男(おとこ)はなんとか手紙(てがみ)を取(と)り戻(もど)して、「よっしゃ!」
「もう、子供(こども)なんだから」女(おんな)は悔(くや)しそうに言(い)うと、「ほんとに覚(おぼ)えてないの?」
「うん」男(おとこ)は手紙(てがみ)をかざして、「名前(なまえ)も書(か)いてないし。ほんとにきみじゃないの?」
「私(わたし)は知(し)ーらない。ねえ、そんなことより、あなたのガラクタなんとかしてよ」
「ガラクタって。あれは、僕(ぼく)の大切(たいせつ)なコレクションなの」
「そうですか。あなたが片付(かたづ)けないと、私(わたし)、明日(あした)の不燃(ふねん)ゴミに出(だ)しちゃうわよ」
「やめてくれよ」男(おとこ)はそう言(い)うと自分(じぶん)の部屋(へや)に駆(か)け込(こ)んだ。
「まだ持(も)ってたなんて…」女(おんな)は男(おとこ)が置(お)き忘(わす)れていった手紙(てがみ)を手(て)に取(と)ると、懐(なつ)かしそうにつぶやいた。「でも、これは、私(わたし)が預(あず)かりますからね」
<つぶやき>初恋(はつこい)は青春(せいしゅん)の思(おも)い出(で)。心(こころ)のどこかに隠(かく)れてて、時々(ときどき)現(あらわ)れては消(き)えていく。
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JUMP 014「怪盗(かいとう)ブラック」 015「彼女(かのじょ)のスイッチ」 016「疑似家族(ぎじかぞく)」 017「タイミング」
読切物語ID
T:013「最後(さいご)のラブレター」
かすみさんがこの手紙(てがみ)を見(み)つけたとき、もう僕(ぼく)はこの世界(せかい)から消(き)えてしまっていると思(おも)います。でも、悲(かな)しまないで下(くだ)さい。僕(ぼく)とあなたが過(す)ごした三十年(さんじゅうねん)のあいだ、楽(たの)しいことがたくさんあったから。僕(ぼく)は、あなたと一緒(いっしょ)にいられて、とても幸(しあわ)せでした。
僕(ぼく)がこんなことを言(い)うと、かすみさんは怒(おこ)るかもしれませんね。だって、僕(ぼく)は良(い)い夫(おっと)ではなかったから。仕事(しごと)にばかり夢中(むちゅう)になって、あなたのことを一人(ひとり)ぼっちにしてしまった。子供(こども)たちのことも、みんなかすみさんに任(まか)せてしまっていたしね。
でも、あなたのおかげで、子供(こども)たちも無事(ぶじ)に育(そだ)ってくれました。とても感謝(かんしゃ)しています。こんなこと、面(めん)と向(む)かっては言(い)えなかった。ちゃんと言(い)っておけばよかったね。
あなたはいつも家族(かぞく)のことを考(かんが)えていてくれたよね。僕(ぼく)が入院(にゅういん)したときも、毎日(まいにち)のように来(き)てくれた。僕(ぼく)がそんなに来(こ)なくていいよって言(い)っても、あなたは僕(ぼく)と一緒(いっしょ)にいられる時間(じかん)が増(ふ)えたのよ、こんな幸(しあわ)せなことはないって笑(わら)ってくれた。僕(ぼく)は、あなたの笑顔(えがお)がいちばん好(す)きだったんだよ。あなたの笑顔(えがお)はみんなを幸(しあわ)せにしてくれる。
僕(ぼく)がいなくなっても、笑顔(えがお)を忘(わす)れないで下(くだ)さい。これからは、あなたのやりたいことを好(す)きなだけしていいんだよ。僕(ぼく)から、かすみさんへのご褒美(ほうび)です。ありがとう。
「何(なに)してるの?」押(お)し入(い)れの前(まえ)で座(すわ)り込(こ)んでいる娘(むすめ)に、母(はは)は声(こえ)をかけた。
「ねえ、私(わたし)、すごいもの見(み)つけちゃった」興奮(こうふん)を抑(おさ)えながら娘(むすめ)は古(ふる)びた本(ほん)を差(さ)し出(だ)した。
「これ、かあさんの…」母(はは)は懐(なつ)かしそうに微笑(ほほえ)んだ。「これは、おばあちゃんがとっても大切(たいせつ)にしていた本(ほん)よ。この本(ほん)のおかげで、おじいちゃんと出会(であ)えたってよく言(い)ってたわ」
「そうなんだ。だから…」娘(むすめ)は目(め)を潤(うる)ませて、「この中(なか)に手紙(てがみ)がはさんであったの。おじいちゃんからのラブレターよ。それも、最後(さいご)のラブレター」
娘(むすめ)は色(いろ)あせた手紙(てがみ)を母(はは)に手渡(てわた)した。母(はは)は手紙(てがみ)を読(よ)み終(お)えると、
「こんな手紙(てがみ)もらってたなんて、ちっとも知(し)らなかったわ」
「おばあちゃん、いい恋(こい)してたんだよね。こんなに愛(あい)されていたなんて…」
「あなたはどうなの。いい恋(こい)、してないの?」
「私(わたし)は…。どうなんだろ、わかんなくなっちゃった」娘(むすめ)は投(な)げやりに言(い)った。
「隆(たかし)さんとうまくいってないの?」
「うーん。やっぱり、遠距離(えんきょり)って続(つづ)かないのかな?」
「なに弱音(よわね)吐(は)いてるの。そんなんじゃ、おばあちゃんに笑(わら)われるわよ」
「だって…。逢(あ)いたいときに逢(あ)えないなんて、つらすぎるよ」
「おばあちゃんだったら、今(いま)ごろ飛(と)んで行(い)ってるでしょうね」
「私(わたし)は…。ひとりでアメリカなんて行(い)けないよ」
「もう、いつまでも子供(こども)なんだから。そんなんじゃ、何(なん)にも出来(でき)ないよ」
「わかったわよ」娘(むすめ)は立(た)ち上(あ)がり、「行(い)くわよ、行(い)けばいいんでしょ。私(わたし)だって…」
「でも、遺品(いひん)の整理(せいり)を済(す)ませてからにしてよ。ひとりじゃ大変(たいへん)なんだから。それと、隆(たかし)さんにちゃんと連絡(れんらく)しときなさい。向(む)こうで、金髪(きんぱつ)の美女(びじょ)と鉢合(はちあ)わせしないようにね」
「もう、おかあさん! なに言(い)ってるのよ。そんなことあるわけないでしょ」
<つぶやき>人生(じんせい)の節目(ふしめ)にあたり、心(こころ)のこもった感謝(かんしゃ)のラブレターを書(か)いてみませんか。
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JUMP 015「彼女(かのじょ)のスイッチ」 016「疑似家族(ぎじかぞく)」 017「タイミング」 018「携帯(けいたい)つながり」
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T:014「怪盗(かいとう)ブラック」
達也(たつや)は自分(じぶん)の叫(さけ)び声(ごえ)で目(め)を覚(さ)ました。ひどい頭痛(ずつう)だ。彼(かれ)は頭(あたま)をふって、あたりを見回(みまわ)した。なんとか頭痛(ずつう)がおさまると、やっと自分(じぶん)がどこにいるのか理解(りかい)した。
この部屋(へや)の持(も)ち主(ぬし)は、怪盗(かいとう)ブラックと名乗(なの)っていた。先月(せんげつ)、ある美術館(びじゅつかん)から名画(めいが)を盗(ぬす)んだことで、世間(せけん)から注目(ちゅうもく)を集(あつ)めたばかりだ。なぜ彼(かれ)がここにいるのか。それは、彼(かれ)こそが怪盗(かいとう)ブラックだから。というより、彼(かれ)の中(なか)に怪盗(かいとう)が同居(どうきょ)しているのだ。
達也(たつや)は大(おお)きなため息(いき)をついた。自分(じぶん)の中(なか)にいる別(べつ)の自分(じぶん)が、また悪事(あくじ)を働(はたら)こうとしている。でも、それを止(と)めることは彼(かれ)にはできなかった。ふと、彼(かれ)は手(て)に握(にぎ)りしめている紙(かみ)に目(め)をやった。テーブルに広(ひろ)げてみると、それは地図(ちず)と、どこかの建物(たてもの)の見取(みと)り図(ず)だ。地図(ちず)には赤(あか)い線(せん)が引(ひ)かれ、見取(みと)り図(ず)にはばつ印(じるし)がつけてあった。彼(かれ)は地図(ちず)の赤(あか)い線(せん)の行(い)き着(つ)く先(さき)を見(み)て驚(おどろ)いた。そこは、彼(かれ)のよく知(し)っている人(ひと)の屋敷(やしき)だった。
「ご、ごめんなさい。こんなところへ呼(よ)び出(だ)して…」達也(たつや)は落(お)ち着(つ)かない様子(ようす)で言(い)った。
「そんな、いいんです。うれしい。達也(たつや)さんから誘(さそ)ってもらえるなんて」
しゃれたオープンカフェにいる二人(ふたり)は、誰(だれ)が見(み)ても不釣(ふつ)り合(あ)いなカップルに見(み)えた。達也(たつや)は時代遅(じだいおく)れの黒縁眼鏡(くろぶちめがね)をかけて、何(なん)ともさえない服装(ふくそう)をしていた。それにひきかえ彼女(かのじょ)のほうは、清楚(せいそ)で気品(きひん)があり良家(りょうけ)の子女(しじょ)という雰囲気(ふんいき)だ。
「今度(こんど)、家(うち)でパーティがあるんです。よかったら、達也(たつや)さんも…」
「いや、ぼ、僕(ぼく)なんか駄目(だめ)ですよ。それより、綾乃(あやの)さんに聞(き)きたいことがあって…。あの、綾乃(あやの)さんの家(いえ)に、家宝(かほう)と言(い)えるような大切(たいせつ)なものってありますか?」
「家宝(かほう)? そう言(い)えば、子供(こども)の頃(ころ)、家(うち)にはお宝(たから)があるって聞(き)いたことがあります」
「あの、こ、これから話(はな)すことは誰(だれ)にも言(い)わないで下(くだ)さい。お願(ねが)いします」彼(かれ)は声(こえ)をひそめた。「実(じつ)は、そのお宝(たから)を盗(ぬす)もうとしている悪党(あくとう)がいるんです」
「えっ!」彼女(かのじょ)は思(おも)わず小(ちい)さく叫(さけ)んだ。
その日(ひ)の夜中(よなか)。暗闇(くらやみ)にまぎれて屋敷(やしき)に忍(しの)び込(こ)む人影(ひとかげ)があった。身軽(みがる)に塀(へい)を乗(の)り越(こ)えて、大(おお)きな庭木(にわき)をよじ登(のぼ)り二階(にかい)のベランダに飛(と)び移(うつ)った。そして、ガラス窓(まど)をいとも簡単(かんたん)に開(あ)けてしまった。部屋(へや)に入(はい)ると、すぐに隠(かく)し金庫(きんこ)を見(み)つけだし、ものの十数秒(じゅうすうびょう)で開(あ)けてしまった。その手口(てぐち)の鮮(あざ)やかなこと。怪盗(かいとう)は中(なか)にあった小(ちい)さな木箱(きばこ)を取(と)り出(だ)し、にやりと笑(わら)った。
そのとき突然(とつぜん)、部屋(へや)の明(あ)かりがつき、大勢(おおぜい)の警官(けいかん)がなだれ込(こ)んだ。怪盗(かいとう)は逃(に)げる余裕(よゆう)すらなく、取(と)り押(お)さえられ観念(かんねん)した。手錠(てじょう)をかけられ連行(れんこう)される男(おとこ)。
屋敷(やしき)の玄関(げんかん)は大勢(おおぜい)の人(ひと)であふれていた。その中(なか)に、綾乃(あやの)の姿(すがた)もあった。綾乃(あやの)は怪盗(かいとう)を見(み)て驚(おどろ)いた。その顔(かお)は、まぎれもなく達也(たつや)の顔(かお)だった。達也(たつや)は綾乃(あやの)を見(み)つけると、優(やさ)しく微笑(ほほえ)んだ。まるで、すべてのことが分(わ)かっていたみたいに。
綾乃(あやの)は刑事(けいじ)から木箱(きばこ)を渡(わた)された。それは昼間(ひるま)、達也(たつや)から本物(ほんもの)とすり替(か)えるようにと渡(わた)されたものだった。綾乃(あやの)は達也(たつや)との約束(やくそく)を守(まも)っていたのだ。彼女(かのじょ)はそっと箱(はこ)を開(あ)けてみた。中(なか)にはウサギの小(ちい)さな置物(おきもの)が入(はい)っていた。綾乃(あやの)はハッとした。これは子供(こども)の頃(ころ)、達也(たつや)にプレゼントしたものだった。添(そ)えられていたカードには、「これで終(お)わらせることができます。僕(ぼく)は、綾乃(あやの)さんのことは忘(わす)れません。ありがとう。幸(しあわ)せになって下(くだ)さい」
<つぶやき>人生(じんせい)にはどうしようもないことってありますよ。でも、負(ま)けないで下(くだ)さい。
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JUMP 016「疑似家族(ぎじかぞく)」 017「タイミング」 018「携帯(けいたい)つながり」 019「飛(と)び立(た)つ男(おとこ)」
読切物語ID
T:015「彼女(かのじょ)のスイッチ」
エリカはベッドで熟睡(じゅくすい)していた。昨日(きのう)で担当(たんとう)していたプロジェクトが一段落(ひとだんらく)したのだ。睡眠(すいみん)時間(じかん)を削(けず)って、なんとかここまでがんばってきた。こんなに心地(ここち)よい眠(ねむ)りは何日(なんにち)ぶりだろう。彼女(かのじょ)は至福(しふく)のときを味(あじ)わっているようだった。
朝(あさ)の穏(おだ)やかな光(ひかり)が彼女(かのじょ)をつつみ、さわやかな風(かぜ)が彼女(かのじょ)の頬(ほお)を撫(な)でた。小鳥(ことり)たちのさえずりでエリカは目(め)を覚(さ)ました。ベッドの中(なか)で寝返(ねがえ)りをうち、気持(きも)ちよさそうに伸(の)びをした。
ふと、彼女(かのじょ)は違和感(いわかん)を覚(おぼ)えた。何(なに)かが違(ちが)う。ハッと、彼女(かのじょ)は気(き)がついた。色(いろ)が…、色(いろ)がないのだ。見(み)えるものすべての色(いろ)が消(き)えている。目覚(めざ)まし時計(どけい)の赤(あか)も、観葉植物(かんようしょくぶつ)の緑(みどり)も、彼女(かのじょ)の好(す)きなピンクのカーテンもすべてモノクロになっていた。
「なにこれ」彼女(かのじょ)は起(お)き上(あ)がると目(め)をぱちくりさせて、「まだ夢(ゆめ)の中(なか)なの?」
彼女(かのじょ)はほっぺたをつねってみた。それも、思(おも)いっきり。
「痛(いた)い!」彼女(かのじょ)は飛(と)び上(あ)がらんばかりに叫(さけ)んだ。「夢(ゆめ)じゃない。なんで、どうしちゃったの」
エリカはこの現実(げんじつ)をどう受(う)け止(と)めたらいいのか、まったく分(わ)からなかった。彼女(かのじょ)は恐(おそ)る恐(おそ)る窓(まど)から外(そと)を見(み)た。そこには青(あお)い空(そら)も、木々(きぎ)の緑(みどり)もなかった。街(まち)の色(いろ)すべてが灰色(はいいろ)に染(そ)まっていた。彼女(かのじょ)は、しばらくそこから動(うご)けなくなっていた。
エリカは診療所(しんりょうじょ)へ行(い)くことにした。子供(こども)の頃(ころ)からの掛(か)かり付(つ)けの小(ちい)さな診療所(しんりょうじょ)。そこの先生(せんせい)はどんな病気(びょうき)や怪我(けが)でも、たちどころに治(なお)してくれた。まるで魔法(まほう)のように。
「大丈夫(だいじょうぶ)よ」エリカは自分(じぶん)に言(い)い聞(き)かせるようにつぶやいた。「色(いろ)がないだけで、ちゃんと見(み)えてるじゃない。なんの問題(もんだい)もないわ」
彼女(かのじょ)は玄関(げんかん)の扉(とびら)を開(あ)けて外(そと)へ出(で)た。いつもの光景(こうけい)。エリカはほっと胸(むね)をなで下(お)ろした。家(いえ)を出(で)て、いつもの道(みち)を歩(ある)く。周(まわ)りの人(ひと)たちも、彼女(かのじょ)の異変(いへん)に気(き)がつくはずもなかった。しかし、最初(さいしょ)の交差点(こうさてん)に来(き)て彼女(かのじょ)は愕然(がくぜん)とした。信号(しんごう)が、何色(なにいろ)か見分(みわ)けがつかないのだ。
「どうしよう」彼女(かのじょ)は必死(ひっし)に考(かんが)えた。「そうよ。みんなと同(おな)じにすればいいじゃない」
彼女(かのじょ)は他(ほか)の人(ひと)が歩(ある)き出(だ)したら青(あお)、止(と)まっていたら赤(あか)と判断(はんだん)した。
その診療所(しんりょうじょ)は古(ふる)びたビルの中(なか)にあった。表(おもて)に看板(かんばん)が出(で)ているわけでもなく、通(とお)りすがりの人(ひと)にはまったく気(き)づかれそうになかった。診療所(しんりょうじょ)に入(はい)ると、待合室(まちあいしつ)には誰(だれ)もいなかった。彼女(かのじょ)自身(じしん)、この診療所(しんりょうじょ)で他(ほか)の患者(かんじゃ)さんと出(で)くわしたことなどなかった気(き)がする。こんなんでよく続(つづ)けられるなと、エリカは不思議(ふしぎ)でならなかった。彼女(かのじょ)は待合室(まちあいしつ)の椅子(いす)に腰掛(こしか)けた。ここの先生(せんせい)なら治(なお)してくれる。なぜか彼女(かのじょ)は、そんな確信(かくしん)のようなものを感(かん)じていた。
「どうされました?」温和(おんわ)な顔(かお)の白髪(はくはつ)の先生(せんせい)が聞(き)いた。「どこか、調子(ちょうし)が悪(わる)いのかな」
エリカは今(いま)までのことを説明(せつめい)した。世界(せかい)が灰色(はいいろ)になってしまったことを。先生(せんせい)は、カルテに何(なに)か書(か)き込(こ)んでいたが、彼女(かのじょ)の顔(かお)を見(み)て微笑(ほほえ)んだ。
「心配(しんぱい)ありません。いろんなものを見(み)すぎたんです。インクを交換(こうかん)すれば直(なお)りますよ」
「インク…」エリカは首(くび)をかしげて、「交換(こうかん)って、どういうことですか?」
「すぐに終(お)わりますよ。カートリッジを替(か)えるだけですから」先生(せんせい)はそう言(い)うと、彼女(かのじょ)の両方(りょうほう)の耳(みみ)たぶを引(ひ)っぱった。すると、彼女(かのじょ)はすべての機能(きのう)を停止(ていし)させた。
<つぶやき>あなたは、友達(ともだち)の耳(みみ)たぶを引(ひ)っぱって確認(かくにん)しないでね。怒(おこ)られちゃいますよ。
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T:016「疑似(ぎじ)家族(かぞく)」
疑似(ぎじ)家族(かぞく)計画(けいかく)。これは政府(せいふ)が新(あたら)しく打(う)ち出(だ)した政策(せいさく)で、いよいよ今月(こんげつ)から施行(しこう)されることになった。この計画(けいかく)は、一人(ひとり)暮(ぐ)らしの老人(ろうじん)や、親(おや)のいない子供(こども)たちに家族(かぞく)を作(つく)ろうという目的(もくてき)で始(はじ)まった。それと、結婚(けっこん)適齢期(てきれいき)なのに、いまだに独身(どくしん)という男女(だんじょ)にも適用(てきよう)された。国(くに)が結婚(けっこん)相手(あいて)を選(えら)び出(だ)し、少(すこ)しでも少子化(しょうしか)を解消(かいしょう)させようという狙(ねら)いもあったのだ。
この計画(けいかく)が発表(はっぴょう)されたとき、反対(はんたい)を唱(とな)える人(ひと)たちもいた。だが、その声(こえ)もいつしか消(き)えてしまった。国民(こくみん)全体(ぜんたい)が、この計画(けいかく)に期待(きたい)とあこがれを持(も)つようになったのだ。
のぞみは母親(ははおや)を去年(きょねん)亡(な)くしたばかりで、今(いま)は一人(ひとり)で暮(く)らしていた。
大学(だいがく)から帰(かえ)った彼女(かのじょ)は、郵便受(ゆうびんう)けの中(なか)に赤(あか)い封筒(ふうとう)が入(はい)っているのを見(み)つけた。差出人(さしだしにん)を見(み)ると、<疑似(ぎじ)家族(かぞく)計画(けいかく)推進(すいしん)委員会(いいんかい)>となっていた。封筒(ふうとう)を開(あ)けてみると、赤(あか)い紙(かみ)の命令書(めいれいしょ)が入(はい)っていた。彼女(かのじょ)はそこに指定(してい)されている場所(ばしょ)へ行(い)き、まったく知(し)らない人(ひと)たちと暮(く)らすことになるのだ。持(も)っていけるものは、トランクひとつと決(き)められていた。もしこの命令(めいれい)に従(したが)わないときは、罰(ばっ)せられることになってしまう。
のぞみは不安(ふあん)な気持(きも)ちで、真新(まあたら)しい家(いえ)の呼(よ)び鈴(りん)を鳴(な)らした。中(なか)から出(で)てきたのは中年(ちゅうねん)の夫婦(ふうふ)。もちろん、この二人(ふたり)も推進(すいしん)委員会(いいんかい)が選(えら)び出(だ)し、夫婦(ふうふ)になることを決(き)められたのだ。
「やあ、いらっしゃい」満面(まんめん)の笑顔(えがお)で男(おとこ)が言(い)った。「あっ、違(ちが)うな。お帰(かえ)りなさいだ」
「あなた、しっかりしてよ。お帰(かえ)り、のぞみ」女(おんな)はそう言(い)うと、のぞみを抱(だ)きしめた。
「あの、これからよろしくお願(ねが)いします」のぞみは少(すこ)しホッとした。そんな変(へん)な人(ひと)たちじゃないみたいだ。これなら、仲良(なかよ)くやっていけるかもしれない。
夕食(ゆうしょく)の後(あと)、男(おとこ)はお茶(ちゃ)をすすりながら、おもむろに言(い)った。
「のぞみは、マニュアルは読(よ)んだかい?」
「マニュアル?」のぞみはしばらく考(かんが)えて、「ああ、あの分厚(ぶあつ)い…」
「あら、いやだ」女(おんな)はあきれた顔(かお)で、「だめじゃないの。ちゃんと読(よ)まないと」
「ごめんなさい。つい、面倒(めんどう)になっちゃって」
「いいかい」男(おとこ)はさとすように、「これから、私(わたし)たちは仲良(なかよ)く暮(く)らさなきゃいけない。そして、ポイントをどんどん貯(た)めていく。そうすると、もっと大(おお)きな家(いえ)に引(ひ)っ越(こ)せたり、海外(かいがい)旅行(りょこう)にだって格安(かくやす)で行(い)けるようになるんだ。だから私(わたし)たちは、これから一致団結(いっちだんけつ)して…」
「あなた、そんなに頑張(がんば)らなくても大丈夫(だいじょうぶ)よ。私(わたし)たちは仲良(なかよ)くやっていけるわよ」
「もちろん、父(とお)さんだって。でも、もし意見(いけん)の食(く)い違(ちが)いとか、もめ事(ごと)があると…」
「そうね…」女(おんな)は声(こえ)を落(お)として、「私(わたし)、ちょっと小耳(こみみ)にはさんだんだけど、問題(もんだい)を起(お)こした家族(かぞく)は、更生(こうせい)施設(しせつ)に送(おく)られるんですって」
「更生(こうせい)施設(しせつ)?」のぞみは不安(ふあん)になって訊(き)いてみた。「それって、どういう…」
「これは、噂(うわさ)なんだけど」女(おんな)は二人(ふたり)の耳元(みみもと)にささやいた。「そこへ送(おく)られたら最後(さいご)、二度(にど)と出(で)てこられないんですって」
その時(とき)、呼(よ)び鈴(りん)が突然(とつぜん)鳴(な)り響(ひび)いた。三人(さんにん)は顔(かお)を見合(みあ)わせた。玄関(げんかん)の扉(とびら)を開(あ)けてみると、髪(かみ)を赤(あか)く染(そ)めた男(おとこ)の子(こ)が、ふて腐(くさ)れた感(かん)じで立(た)っていた。彼(かれ)は三人(さんにん)をにらみつけて、
「なに見(み)てんだよ。息子(むすこ)が帰(かえ)って来(き)たんだろ。なんか言(い)うことあんだろッ!」
<つぶやき>夫婦(ふうふ)も最初(さいしょ)は他人(たにん)です。時間(じかん)をかけて、少(すこ)しずつ絆(きずな)を深(ふか)めていきましょう。
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021「ロスト・ワールド」 読切物語ID
T:017「タイミング」
祐太(ゆうた)は会社(かいしゃ)の同期(どうき)の女性(じょせい)に思(おも)いを寄(よ)せていた。彼女(かのじょ)は美人(びじん)というほどでもなく、どこにでもいるようなごく普通(ふつう)の女性(じょせい)だった。彼(かれ)にしても、別(べつ)に彼女(かのじょ)に一目惚(ひとめぼ)れしたというわけでもなかった。職場(しょくば)でたわいのない話(はなし)をしたり、仕事(しごと)のあとの飲(の)み会(かい)とかで仲良(なかよ)くなって。自分(じぶん)でも意識(いしき)しないうちに、なんか良(い)いよな、やっぱり気(き)になる、好(す)きになっちゃったのかも。てな感(かん)じで、<どうしようか>と思(おも)い始(はじ)めたのは一ヵ月前(いっかげつまえ)だった。それからというもの、普通(ふつう)に話(はな)しているつもりでも、なんだかぎこちなくなっている自分(じぶん)がいた。
同(おな)じ職場(しょくば)で働(はたら)き始(はじ)めてもう1年(ねん)ぐらいになるのだが、彼女(かのじょ)のプライベートのこととなると、祐太(ゆうた)はまったく知(し)らなかった。もしかすると付(つ)き合(あ)っている人(ひと)がいるのかもしれない。そんな不安(ふあん)がよぎり、彼(かれ)の告白(こくはく)の決意(けつい)をにぶらせた。
ある日(ひ)のこと、たまたま会社(かいしゃ)の備品(びひん)倉庫(そうこ)で二人(ふたり)だけになるという好機(こうき)がめぐってきた。この機会(きかい)を逃(のが)したら、もうこんなことは二度(にど)とないかもしれない。
「あの…」祐太(ゆうた)は思(おも)い切(き)って声(こえ)をかけてみた。「実(じつ)はですね…」
「何(なに)を探(さが)してるんです。よかったら、私(わたし)も一緒(いっしょ)に」
「いや、そういうことじゃなくて。その…」
彼(かれ)がまさに告白(こくはく)を切(き)り出(だ)そうとしたとき、後(うし)ろから先輩(せんぱい)の声(こえ)がした。
「なにさぼってるんだよ。みんな待(ま)ってるんだから、早(はや)くしろよ」
これで祐太(ゆうた)は、せっかくのチャンスを逃(のが)してしまった。祐太(ゆうた)の落(お)ち込(こ)みようといったら。何(なに)かひとつでも彼女(かのじょ)のことを聞(き)くことができたら、少(すこ)しは救(すく)いになったのだが…。
そんな祐太(ゆうた)に突然(とつぜん)チャンスがめぐってきた。街(まち)を歩(ある)いていた祐太(ゆうた)の目(め)の前(まえ)に、彼女(かのじょ)が現(あらわ)れたのだ。彼女(かのじょ)はびっくりしたような顔(かお)をして言(い)った。
「この近(ちか)くに友達(ともだち)が住(す)んでるんです。今日(きょう)はそこでパーティがあって」
「ああ、そうですか。あの、僕(ぼく)、このあたりに住(す)んでて…」
「そうなんですか。あっ、そうだ。もし、よかったら、これから一緒(いっしょ)に行(い)きませんか?」
「えっ、僕(ぼく)と? いや、僕(ぼく)なんかが行(い)ったら…」
「いいんですよ。その友達(ともだち)、新婚(しんこん)なんです。それに、今日(きょう)来(く)ることになってる他(ほか)の友達(ともだち)も、どうせ旦那(だんな)や彼氏(かれし)と一緒(いっしょ)だし。私(わたし)、そういう人(ひと)っていないんですよね」
「そうなんだ…」
「だから、付(つ)き合(あ)ってもらえると、すごく助(たす)かるんですけど…」
「うーん」と祐太(ゆうた)はうなった。彼(かれ)の頭(あたま)の中(なか)でいろんなことがぐるぐるめぐった。
「やっぱり、だめですよね」彼女(かのじょ)はがっかりしたように言(い)った。
「ごめんなさい。今日(きょう)、田舎(いなか)から母親(ははおや)が出(で)てくるんで、迎(むか)えに行(い)かないといけないんです。ほんとに、すいません」
「そうなんですか。いえ、いいんですよ」彼女(かのじょ)はそう言(い)うと、にっこり笑(わら)った。「田中(たなか)さんって、母親(ははおや)思(おも)いなんですね」
彼女(かのじょ)と別(わか)れた祐太(ゆうた)は、思(おも)いっきりため息(いき)をついた。彼女(かのじょ)ともっと親(した)しくなれたかもしれないのに。それに、彼女(かのじょ)に悪(わる)いことをしてしまったようで、心苦(こころぐる)しかった。
<つぶやき>なにをするにもタイミングは大切(たいせつ)です。一(ひと)つ間違(まちが)えると、大変(たいへん)なことに…。
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JUMP 019「飛(と)び立(た)つ男(おとこ)」 020「子供(こども)カタログ」 021「ロスト・ワールド」 022「マイ・ブラックホール」
読切物語ID
T:018「携帯(けいたい)つながり」
駅前(えきまえ)にある女神(めがみ)の銅像(どうぞう)。いつからか、ここは恋人(こいびと)たちの待(ま)ち合(あ)わせの場所(ばしょ)になっていた。今宵(こよい)も女神(めがみ)が見守(みまも)るなか、何組(なんくみ)もの恋人(こいびと)たちが夜(よる)の街(まち)に消(き)えていった。
亜紀(あき)は駅(えき)の大時計(おおどけい)を何度(なんど)も見上(みあ)げていた。今夜(こんや)は、一週間(いっしゅうかん)ぶりに彼(かれ)に会(あ)える。この一週間(いっしゅうかん)、お互(たが)いの仕事(しごと)が忙(いそが)しくて、電話(でんわ)でちょっと話(はな)しをしただけだったのだ。
亜紀(あき)は人混(ひとご)みの中(なか)に彼(かれ)を見(み)つけて、思(おも)わず笑(え)みがこぼれた。彼(かれ)も彼女(かのじょ)を見(み)つけたらしく、軽(かる)く手(て)を振(ふ)った。彼(かれ)がだんだん近(ちか)づいてくるにつれて、亜紀(あき)の心(こころ)はまるで初恋(はつこい)のときみたいにときめいていた。
「もう、遅(おそ)い。遅刻(ちこく)よ」と亜紀(あき)はちょっとふくれ顔(がお)で言(い)った。
「ごめん。ちょっとさ…」
「どこへ行(い)こうか? なんか美味(おい)しいもの食(た)べたいなぁ」亜紀(あき)は彼(かれ)の腕(うで)をとって言(い)った。
「それがさ」彼(かれ)は彼女(かのじょ)から一歩(いっぽ)離(はな)れて、「さっき、携帯(けいたい)で…。なんか、急(きゅう)に、戻(もど)って来(こ)いって…。なんか、トラブルがあったみたいでさ、行(い)かないといけなくなった」
「なにそれ。トラブルってなによ。だって、そんな…」亜紀(あき)は顔(かお)をくもらせて言(い)った。
「悪(わる)いな。また、電話(でんわ)するよ。ほんと、ごめん」
彼(かれ)は亜紀(あき)を置(お)き去(ざ)りにして、逃(に)げるように去(さ)っていった。残(のこ)された彼女(かのじょ)は、悲(かな)しい気持(きも)ちでいっぱいになった。淋(さび)しくて、気(き)がついたら彼(かれ)のことを追(お)いかけていた。
彼(かれ)は駅(えき)ビルの中(なか)に入(はい)っていった。電車(でんしゃ)に乗(の)るのかと思(おも)ったら、改札(かいさつ)の前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎ、駅裏(えきうら)の方(ほう)に歩(ある)いていく。会社(かいしゃ)に戻(もど)るなら、電車(でんしゃ)のほうが早(はや)いのに。亜紀(あき)はどこへ行(い)くのか、知(し)りたくなった。彼(かれ)からつかず離(はな)れずついていく。
彼(かれ)は駅裏(えきうら)の喫茶店(きっさてん)に入(はい)っていった。店(みせ)の窓越(まどご)しに中(なか)をうかがう亜紀(あき)。彼(かれ)は若(わか)い女(おんな)が座(すわ)っているテーブルに腰掛(こしか)けた。いかにも親(した)しげで、まるで恋人(こいびと)のように微笑(ほほえ)み合(あ)う二人(ふたり)。亜紀(あき)は、若(わか)い女(おんな)の顔(かお)がよく見(み)える場所(ばしょ)に移動(いどう)した。それは、見(み)たことのない顔(かお)だった。若(わか)い女(おんな)は彼(かれ)の手(て)を取(と)り、なにか話(はな)しかけている。彼(かれ)は嬉(うれ)しそうに聞(き)いていた。彼(かれ)の楽(たの)しげな顔(かお)を見(み)たとき、亜紀(あき)は心(こころ)の中(なか)で何(なに)かが壊(こわ)れるのを感(かん)じた。
亜紀(あき)はつかつかと喫茶店(きっさてん)に入(はい)り、彼(かれ)の前(まえ)に立(た)った。彼(かれ)が驚(おどろ)いたのは言(い)うまでもない。
「どうして…」彼(かれ)は思(おも)わず立(た)ち上(あ)がり、口(くち)をもごもごさせた。
「携帯(けいたい)貸(か)して」と無表情(むひょうじょう)な顔(かお)で亜紀(あき)が言(い)った。
亜紀(あき)のこんな冷(つめ)たい目(め)を、彼(かれ)は今(いま)まで見(み)たことがなかった。彼女(かのじょ)の気迫(きはく)にけおされた彼(かれ)は、持(も)っていた携帯電話(けいたいでんわ)を彼女(かのじょ)に渡(わた)してしまった。亜紀(あき)はいくつかのボタンを押(お)してから、彼(かれ)の胸(むね)に携帯(けいたい)を押(お)しつけた。恐(おそ)る恐(おそ)る携帯(けいたい)を見(み)た彼(かれ)は、アドレスや履歴(りれき)などのデータがすべて消(け)されているのに気(き)がついた。
「あっ、仕事(しごと)のやつも消(け)すなんて…。なに考(かんが)えてんだ!」と彼(かれ)は叫(さけ)んだ。
「これで、この女(おんな)と楽(たの)しくやれるでしょ。じゃあ、さようなら」と亜紀(あき)は冷(つめ)たく言(い)うと、座(すわ)っている女(おんな)に微笑(ほほえ)みかけて、彼(かれ)に背(せ)を向(む)けて歩(ある)き出(だ)した。後(うし)ろで彼(かれ)が何(なに)かわめいていたが、亜紀(あき)の心(こころ)にはもう届(とど)かなかった。
店(みせ)を出(で)てからも、彼女(かのじょ)は颯爽(さつそう)と歩(ある)きつづけた。でも、彼女(かのじょ)の頬(ほお)にはひとすじ、涙(なみだ)がこぼれていた。彼女(かのじょ)はそれをぬぐいもせずに、前(まえ)をしっかりと見(み)つめていた。
<つぶやき>どんな時(とき)でも、きりりとしていたい。でも、悲(かな)しい時(とき)は泣(な)いてもいいんだよ。
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023「女子(じょし)たちの戦場(せんじょう)」 読切物語ID
T:019「飛(と)び立(た)つ男(おとこ)」
とある峠道(とうげみち)。その道(みち)は、切(き)り立(た)った断崖(だんがい)の上(うえ)を通(とお)っていた。そこからの眺(なが)めは素晴(すば)らしく、遠(とお)くの町(まち)まで見(み)わたすことができた。断崖(だんがい)のふちに立(た)ってみると、誰(だれ)でも足(あし)がすくむほど高(たか)く感(かん)じられた。
いつの頃(ごろ)からか、この崖(がけ)に一人(ひとり)の男(おとこ)がやって来(く)るようになった。彼(かれ)は朝(あさ)から晩(ばん)まで、崖(がけ)のふちに座(すわ)っていた。そして、風(かぜ)が吹(ふ)き始(はじ)めると立(た)ち上(あ)がり、両手(りょうて)を真横(まよこ)に広(ひろ)げて目(め)をつむり、身体(からだ)で風(かぜ)を受(う)けて背筋(せすじ)を伸(の)ばす。まるで飛(と)び立(た)とうとでもするように。
そこに一人(ひとり)の女(おんな)がやって来(き)た。女(おんな)は、男(おとこ)のしていることを不思議(ふしぎ)そうに眺(なが)めていたが、そっと男(おとこ)に近(ちか)づいて、
「何(なに)をしているの?」と声(こえ)をかけた。「あなた、昨日(きのう)もここにいたわよね」
「僕(ぼく)は、待(ま)ってるんです」男(おとこ)は女(おんな)のほうを振(ふ)り向(む)きもせずに答(こた)えた。
「誰(だれ)かを待(ま)っているの?」女(おんな)は恐(おそ)る恐(おそ)る崖(がけ)に近(ちか)づきながら言(い)った。「でも、そんなところにいたら危(あぶ)ないわ。もし落(お)ちたら、生(い)きてなんかいられない」
男(おとこ)は女(おんな)の言(い)っていることが耳(みみ)に入(はい)らないのか、まったくやめようとはしなかった。女(おんな)はあきらめて男(おとこ)に背(せ)を向(む)けた。その時(とき)、今(いま)まで吹(ふ)いていた風(かぜ)がやんだ。
「来(き)てくれないのか…」と男(おとこ)はがっかりしたようにつぶやいた。
「あなた」と女(おんな)は怒(おこ)ったように言(い)った。「もうやめなさい。命(いのち)を粗末(そまつ)にしたらいけないわ」
「僕(ぼく)は待(ま)っているだけです」男(おとこ)はやっと女(おんな)の方(ほう)をふり返(かえ)り言(い)った。「僕(ぼく)の風(かぜ)をね」
「あなたの風(かぜ)?」女(おんな)には、男(おとこ)の言(い)っていることが理解(りかい)できなかった。
「そうです。僕(ぼく)はずっと待(ま)っているんです。僕(ぼく)の風(かぜ)が吹(ふ)いてくるのを」
「何(なに)を言(い)っているの」と女(おんな)は言(い)った。「風(かぜ)は誰(だれ)のものでもないわ。それに、どうやって自分(じぶん)の風(かぜ)を見分(みわ)けるのよ。そんなことできっこないわ」
「そんなことありません。身体(からだ)で感(かん)じるんです。あなたにだってできますよ」
「別(べつ)に私(わたし)は…。自分(じぶん)の風(かぜ)なんか欲(ほ)しくないし、風(かぜ)がなんの役(やく)に立(た)つのよ」
「もし自分(じぶん)の風(かぜ)を感(かん)じることができたら、飛(と)び立(た)つことができます」
男(おとこ)はそれが当(あ)たり前(まえ)のことのように、確信(かくしん)を持(も)って言(い)い切(き)った。女(おんな)はあきれてしまった。こんな馬鹿(ばか)なことを考(かんが)える人(ひと)がいるなんて、信(しん)じられなかった。
「飛(と)び立(た)つ?」と女(おんな)はあきれ顔(がお)でつぶやいた。「人(ひと)は飛(と)ぶことなんてできないわ」
「誰(だれ)が決(き)めたんですか?」男(おとこ)は女(おんな)の顔(かお)を覗(のぞ)き込(こ)み、「思(おも)い込(こ)んでいるだけですよ」
「そんなことない」女(おんな)はむきになって、「人(ひと)の身体(からだ)は飛(と)ぶようにはできてないの」
「それは辛抱(しんぼう)が足(た)りないからです。辛抱(しんぼう)して自分(じぶん)の風(かぜ)を待(ま)ち続(つづ)ければ、誰(だれ)でも飛(と)び立(た)つことができるんです。あなたもやってみませんか?」
「そんな馬鹿(ばか)なこと…。だいいち、今(いま)まで飛(と)んだ人(ひと)がいたなんて、聞(き)いたこともないわ」
「もしかすると、あなたが第一号(だいいちごう)になるかもしれませんよ」
「あきれた。私(わたし)には、そんな無駄(むだ)なことをする時間(じかん)はないの。あなたもそんなこと考(かんが)えてる暇(ひま)があるなら、ちゃんと働(はたら)いた方(ほう)がいいわ。あなたにだって家族(かぞく)がいるんでしょ」
「いましたよ。でも、妻(つま)も子供(こども)たちも、どっかへ飛(と)んで行(い)ってしまいました」
<つぶやき>男(おとこ)は夢中(むちゅう)でロマンを追(お)い求(もと)め、女(おんな)は安定(あんてい)した生活(せいかつ)を望(のぞ)むのかもしれません。
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JUMP 021「ロスト・ワールド」 022「マイ・ブラックホール」 023「女子(じょし)たちの戦場(せんじょう)」
024「太陽(たいよう)焼却炉(しょうきゃくろ)計画(けいかく)」 読切物語ID
T:020「子供(こども)カタログ」
「なあ、いいかな?」夫(おっと)は妻(つま)のベッドに入(はい)り込(こ)みつぶやいた。「子供(こども)が欲(ほ)しい。俺(おれ)たちの」
「何(なに)よ、急(きゅう)に…」妻(つま)は戸惑(とまど)った表情(ひょうじょう)で夫(おっと)を見(み)つめた。夫(おっと)はかまわず、妻(つま)の腰(こし)のあたりをまさぐり始(はじ)めた。妻(つま)は飛(と)び起(お)きて、「やめてよ。いやよ、私(わたし)」
「なんでだよ」夫(おっと)は困惑(こんわく)した顔(かお)で起(お)き上(あ)がり、「俺(おれ)たち、夫婦(ふうふ)だろ?」
「今(いま)はだめよ。仕事(しごと)だってあるし。それに、子供(こども)を産(う)んだら体型(たいけい)だって…」
「なんだよ、それ」夫(おっと)は信(しん)じられないという表情(ひょうじょう)で妻(つま)を見(み)つめた。
「それより、もっと良(い)い方法(ほうほう)があるわ」妻(つま)はそう言(い)うと、サイドテーブルの引(ひ)き出(だ)しから一冊(いっさつ)のカタログを取(と)り出(だ)して、「今日(きょう)、届(とど)いたの。これ、すごいのよ」
夫(おっと)はそれを手(て)に取(と)った。表紙(ひょうし)には〈子供(こども)カタログ〉と書(か)かれていて、中(なか)をパラパラと見(み)てみると、子供(こども)ではなく成人(せいじん)の男女(だんじょ)の写真(しゃしん)が載(の)せられていた。写真(しゃしん)の横(よこ)にはその人物(じんぶつ)の学歴(がくれき)や職歴(しょくれき)、病歴(びょうれき)、性格分析(せいかくぶんせき)、好(す)きな食(た)べ物(もの)にいたるまで、あらゆる情報(じょうほう)が書(か)かれていた。
「その中(なか)から気(き)に入(い)った男女(だんじょ)を選(えら)んで、子供(こども)を作(つく)ってもらうの」妻(つま)は嬉(うれ)しそうに微笑(ほほえ)んだ。
「えっ? そんなことできるわけないだろ」
「それが、できるのよ」妻(つま)は夫(おっと)の腕(うで)に手(て)をまわし、「それに、こっちの希望(きぼう)する年齢(ねんれい)になるまで、その子供(こども)を育(そだ)ててくれるのよ。たしか、最長(さいちょう)で二十歳(はたち)までだったかな」
「そんなばかな…」夫(おっと)は信(しん)じられないと思(おも)いながらも、「お金(かね)、かかるだろ」
「それが、無料(むりょう)なの。なんでも、政府(せいふ)の機関(きかん)が運営(うんえい)してるみたいよ。こっちが引(ひ)き取(と)るまでは、ちゃんとしつけとかしてくれて、一流(いちりゅう)の学校(がっこう)にも通(かよ)わせてもらえるの」
「でも、なんかそれ、あやしくないか?」
「そんなことないわよ。ねえ、考(かんが)えてみて。子育(こそだ)てに手(て)がかからないわけだから、今(いま)の仕事(しごと)つづけられるじゃない。それに、超(ちょう)エリートの子供(こども)を持(も)つことができるのよ。それに、それに、養育費(よういくひ)がかからないぶん、今(いま)よりもっといい暮(く)らしができるわ。それでね、子供(こども)は女(おんな)の子(こ)がいいなぁ。十八(じゅうはち)くらいで引(ひ)き取(と)って、その頃(ころ)には、私(わたし)は仕事(しごと)をやめて…」
「えっ、仕事(しごと)、辞(や)めちゃうのか?」
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。それまではバリバリ働(はたら)くから。で、その子(こ)と姉妹(しまい)みたいな母子(おやこ)になって…」
「なに夢(ゆめ)みたいなこと言(い)ってるんだよ。こんなの、でたらめにきまってるよ」
夫(おっと)はカタログを床(ゆか)に放(ほう)り投(な)げた。その時(とき)、突然(とつぜん)、寝室(しんしつ)のドアが開(ひら)き、黒(くろ)ずくめの男(おとこ)たちが入(はい)って来(き)た。夫婦(ふうふ)は一瞬(いっしゅん)、なにが起(お)きたのかわからず凍(こお)りついた。
「あなたは選(えら)ばれました」男(おとこ)の一人(ひとり)が妻(つま)に言(い)った。「我々(われわれ)と一緒(いっしょ)に来(き)て下(くだ)さい」
「なんだよ」夫(おっと)は我(われ)に返(かえ)ると妻(つま)をかばいながら、「出(で)てけ。出(で)てかないと警察(けいさつ)を…」
男(おとこ)たちは夫(おっと)の言(い)うことなど気(き)にもとめずに、妻(つま)に一枚(いちまい)の写真(しゃしん)を手渡(てわた)した。
「それが、あなたのお相手(あいて)の男性(だんせい)です。彼(かれ)と結(むす)ばれていただきます」
妻(つま)はその写真(しゃしん)の男性(だんせい)に見入(みい)っていた。夫(おっと)よりもはるかに良(い)い男(おとこ)であることは、誰(だれ)が見(み)ても明(あき)らかだった。妻(つま)は夫(おっと)に微笑(ほほえ)みかけ、「ちょっと、行(い)ってくるわ。すぐ、戻(もど)るから」
妻(つま)が去(さ)ったあと、男(おとこ)は呆然(ぼうぜん)となった。床(ゆか)に放置(ほうち)されたカタログに目(め)をやると、投(な)げ捨(す)てたとき偶然(ぐうぜん)開(ひら)いたページに、妻(つま)の幸(しあわ)せに満(み)ちた写真(しゃしん)が載(の)せられていた。
<つぶやき>どんな時(とき)も、女(おんな)は美(うつく)しいものに憧(あこが)れるのです。それが本能(ほんのう)であるかのように。
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JUMP 022「マイ・ブラックホール」 023「女子(じょし)たちの戦場(せんじょう)」
024「太陽(たいよう)焼却炉(しょうきゃくろ)計画(けいかく)」 025「結婚(けっこん)申込(もうしこみ)」 読切物語ID
T:021「ロスト・ワールド」
20XX年。人類は地球のほとんどの場所に足を踏み入れていた。だが、アマゾン奥地の一部の地域だけは別だった。そこは深い密林や湿地に守られた、いまだ人の侵入をこばみ続けている地球最後の秘境。探検家たちのあこがれの聖地になっていた。
何人もの命知らずの探検家がその場所に挑んだが、いずれも失敗に終わっていた。深い森に足を踏み入れ、命を落とした者も数知れず。ちゃんとした地図もなく、自分たちの位置を見誤れば、生還することは難しい。こんな科学万能の時代に、不思議に思うかもしれない。地球の周りにはたくさんの衛星が飛び交い、詳細な写真を撮ることもできるはずだ。なのに地図すら作れないなんて。
その原因は、この場所の特殊な環境によるものだ。ここはいつも厚い雲におおわれ、晴れることはほとんどなかった。それに、どういうわけか、この場所の地磁気が歪んでいるのだ。その影響もあるのか、衛星でえられるデータも信憑性はまったくない。
その奇跡は突然起こった。分厚い雲がほんの短い時間だが、消え去ったのだ。その時、たまたま上空にいた観測衛星が写真を撮影することに成功した。このニュースは全世界を駆けめぐった。世界の名だたる探検家たちは色めき立った。
写真には今まで謎だった地形がはっきり写されていた。森の様子や湿地の大きさ、川の存在も確認された。だが、いちばんみんなを驚かせたのは、密林の中央に断崖に囲まれた小高い丘があったことだ。その丘の中央には、どうにも不自然な緑の小山があった。
さっそく探検隊が組織された。経験豊富な探検家と、有能な生物学者、地質学者たちが集められた。彼らの目的は、地磁気の綿密な調査と地形の測量、新種生物の発見。それに、あの不自然な緑の山が何なのかを調べることだ。
探検隊はやっとの思いでジャングルを抜け、断崖までたどり着いた。そして、百メートルほどの断崖を登り切り、いよいよ未知の世界に踏み込んだ。そこは、倒木や立木にいたるまでいちめん苔でおおわれていて、今まで歩いてきたジャングルとはまったく違う様相を呈していた。彼らは驚きのあまり目を見張り、なにひとつ見逃すまいと身を引締めた。
「隊長! あれは何ですか?」しばらく歩いたところで隊員の一人が叫んだ。
彼の指差すほうを見てみると、何かが倒木のあいだから頭を出していた。隊長はすぐに駆け寄り、驚きの声をあげた。
「何でこんなところにあるんだ!」隊長が手にしたのはペットボトルだった。
「こっちにも何かあります!」別の隊員が叫んだ。
そこにあったのはスナック菓子の袋。次々と見つかる人の痕跡に、隊長をはじめ隊員たちは呆然と立ちつくした。
何とか目的の小山にたどり着いたとき、みんなは言葉をなくした。驚きのあまりしゃがみ込む者や、憤りのあまり涙する隊員さえいた。そこにあったのは、ゴミの山。緑色のごみ袋が積み上げられて、山のようになっていたのだ。その時、どこからともなく飛行機の音がとどろき始めた。雲におおわれた空を見上げると、小型の輸送機か何かが旋回しているようだった。次の瞬間、緑色のごみ袋が次々と彼らの頭上に降ってきた。
<つぶやき>ゴミはちゃんと持ち帰りましょう。小さなことでも地球を救えるのです。
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T:022「マイ・ブラックホール」
薄暗い部屋に、キャンドルのほのかな明かりが揺らめいていた。テーブルの上には、真っ黒に塗りつぶされたブリキ缶。キャンドルの光を妖しく反射させていた。
育代はその缶を睨みつけていた。長い沈黙のあと、彼女は意を決したように缶のフタに手をかけた。そして、一瞬の戸惑い。このフタを開けるには、よほどの覚悟がいるようだ。
彼女は持てる勇気をふりしぼり、ブリキ缶のフタを静かに開けた。そして、自分の身に付けているネックレスをはずす。彼女はそれをいとおしそうに見つめたのち、ハンカチにくるんで箱の中に納めた。育代はここで大きく息をつき、缶のフタをもとに戻した。
これらの一連の動作を、育代はまるで何かの儀式のように、決められた手順でもあるかのように執り行った。すべてのことを終えると、彼女の顔に安堵の表情がうかんだ。
次の瞬間、部屋の明かりがつき、育代は現実の世界に引き戻された。
「もういいでしょ」安江はうんざりしたような顔で言った。「あたしも暇じゃないし、そうそうあんたに付き合ってられないんだから」
「ごめん。でも、私たち親友でしょ」育代は真剣な目をして言った。「これが、最後だから」
「はいはい」安江はなかばあきらめ顔で、「その言葉、何回聞いたっけ」
「そうね、たしか…」育代は指を折って、「三回目…じゃない」
「六回よ。男と別れるたびに呼び出されて…。あたし、何やってるんだろ」
そう言いながらも、安江は育代のことが放っておけないのだ。この女を一人にしたら、きっとだめになってしまう。安江はそう感じていた。誰かがそばにいてあげないと。
「で、今度は何で別れたの?」と安江は訊いてみた。「<君とはもうやっていけない>とか言われたりして」
「それは過去の話よ。もう、ブラックホールに葬ってやったんだから」
育代はそう言うと、ブリキ缶を押し入れの奥へ押し込んだ。
彼女はこの黒いブリキ缶のことを、ブラックホールと名付けていた。今まで付き合った何人もの男の思い出が、この缶の中に封じ込められている。
「ねーぇ」育代は笑みをうかべて、安江に近づきながら言った。「また、誰か紹介してよ」
「なに言ってるのよ。前の彼、紹介したの私でしょ」
「ほら、まだいるでしょ。安江の人脈なら、きっと、もっといい男…」
「いないわよ。あんたさ、理想が高すぎるのよ。もっと、相手に合わせて…」
「合わせてるわよ。ただ、私はもっといい男にしてあげようと思って」
「それがいけないのよ。男の自尊心を傷つけてる。だから、すぐに捨てられるのよ」
「捨てられる…。私が!」育代は顔を紅潮させて叫んだ。「私が捨てたのよ。今までの男、全部。だって…、だって、私は何も悪くないもん。なんで、なんで…」
安江はしまったと思った。だが、この機会にはっきりと言ってやらないと。それができるのは、自分だけなんだから。「ねえ、あんたは世話をやきすぎるのよ。もう少し…」
「それが私のいいところよ。ねえ、私みたいに世話好きな女性が好きな人、いるよね」
育代は天真爛漫な目で微笑みかけた。安江の心配事はまだまだ続きそうである。
<つぶやき>きっと、そういう男性もいるのかも。でも、度が過ぎるのはいけませんよ。
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T:023「女子たちの戦場」
圭子の心は乾いていた。乾き切っていた。もう一年以上も彼がいないのだ。彼女はすごい美人というわけでもないが、そこそこ男好きのする顔だちをしていた。なのに、なぜか男がくどいてこないのだ。
そんな彼女にもやっとチャンスがめぐってきた。本社から転勤してきた男性社員。スポーツマンらしく、たくましい肉体とさわやかな笑顔は、全ての女子社員をとりこにした。色めき立つ女子たちを見て、圭子は先手必勝とばかり行動を開始した。
誰よりも早く彼に声をかけ、まだこの土地に不慣れな彼にアドバイスをしまくったのだ。その甲斐あってか、翌日には彼のほうから気さくに話しかけて来るようになった。同僚の女子社員からはやっかみもあったが、圭子はまったく気にしなかった。
半月ほどたった頃、彼のほうから誘いの声がかかった。
「ほんとですか?」圭子は飛び上がりたいのをぐっとこらえた。
「吉野さんには色々お世話になりましたし、皆さんとゆっくりお話とかしたいなと…」
「えっ、皆さん?」
「はい。同じ職場なのに、まだ皆さんのことよく知らないんで…」
「ああ、そういうこと…」圭子は周りをうかがって、「で、もう声をかけたのかな?」
「それは、これからです。まず、吉野さんに…」
「じゃあ、それ、私から伝えとくわ。まかせて。幹事、得意なのよ」
圭子は彼に微笑みかけた。そして、半ば強引に飲み会の幹事に就任した。
終業時間になると圭子は彼をつかまえて、そそくさと職場をあとにした。圭子の不審な行動に、同僚の女子たちは疑いの目を向けた。
「あの、他の方たちは…」洒落た雰囲気のお店に落ち着いた彼は、圭子に訊いた。
「あっ、ごめんなさい。みんな、なんか都合が悪いみたいで。ほんと、ごめんなさいね」
「そうなんですか…。じゃあ、他の日にすれば良かったですね」
「まあ、良いじゃない。今日は二人だけってことで…」圭子は、これでもっと親密になれるとほくそ笑んだ。そして、アルコールも入り二人の距離はさらに近くなった。
しかし、圭子の思惑もここまでだった。数人の女性客が二人のテーブルを取り囲んだ。
「吉野さん、やっぱりここにいたのね」同僚の芳恵が声をかけた。
「なによ」圭子は一瞬ひるんだが、「あーら、残業じゃなかったの」
「だって、山本さんの歓迎会でしょ」芳恵は彼の隣に座り、「頑張っちゃったわよ」
「そーぉなんだー」圭子は芳恵を睨みつけた。
二人は笑顔で会話をしているが、目は真剣そのもの。いや、かなり血走っていた。二人が言い合っている間に、他の女子たちがこっそりと彼を別のテーブルに連れ出した。
翌日。圭子は、彼が後輩の女子社員と楽しそうに話をしているのを目撃した。彼女の心に不安がよぎった。しかし、「あんな子に負けるはずないわ」とすぐに打ち消した。
数週間後。彼と後輩の女子が付き合っていると知らされたとき、圭子は動揺を隠すことができなかった。でも、彼の相手が芳恵でなかったことが、せめてもの救いになった。
<つぶやき>職場では、いろんな大人のバトルが繰り広げられているのかもしれません。
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T:024「太陽焼却炉計画」
大手の産業廃棄物処理会社の大会議室。今、社運をかけた一大プロジェクトが始まろうとしていた。社長のひと声で始まったこととはいえ、研究員をはじめ、重役たちも成功すると思っているものは一人もいなかった。
「で、あるからして」社長の野太い声が広い会議室に響き渡った。「ロケットを太陽に向けて打ち上げることにより、より多くの廃棄物を処理することが可能になる」
「しかし、社長」研究員の一人が恐る恐る手を上げた。「そんなことをしたら、太陽に悪影響を与えることになるのでは…」
「何をバカな」社長は研究員を睨みつけた。「太陽は地球の130万倍もあるんだぞ。温度は6千度だ。核爆弾の100発や200発打ち込んだって、びくともしやせん」
社長の一喝で会議室は静まりかえった。この会社で社長に口答えしたらどうなるか、知らない者は一人もいなかった。社長の目配せ一つで、研究員は会議室からつまみ出された。
「それに」社長は威圧的に言った。「太陽に廃棄物を投棄するなという法律はどこにもない」
誰一人、口を開く者はいなかった。皆、自分の身を守ることしか考えていないようだ。
「ねえ、太陽さん、お腹こわさないかな?」突然、どこからか子供の声が響いた。
声のした方に皆の視線が集まった。そこには小さな女の子が座っていた。隣にいた父親らしき男は、あわてて子供の口を押さえた。
「静かにしてなきゃいけないよ」と男は女の子の耳元にささやいた。
「だって」女の子は父親の手をつかみ、「そんなに食べたら、お腹いっぱいになって…」
「だから、それは」男は冷や汗をかきながら言った。「大丈夫なんだよ。心配ない」
ツカツカと靴音が会議室に響いた。男が顔を上げると、目をつり上げた社長が間近に迫っていた。社長は男の前に仁王立ちすると、「君はどこの者だ。なぜ、子供を連れて来てる」
「わ、私は庶務課のもので」男は声を震わせて言った。「これは、娘でして…」
「ねえ、おじちゃん」女の子は不思議そうな顔をして言った。「どうして、そんなに恐い顔してるの。そんな恐い顔してると、お友達が逃げ出しちゃうよ」
女の子の無邪気な笑顔に、社長は拍子抜けしてしまった。
「わしは、恐い顔なんかしとらん」社長は女の子に向かって言った。「わしはな、この地球にある無駄なものを処分してやってるんだ」
女の子は社長の顔をじっと見つめた。彼の言うことをなんとか理解しようとしていた。
「だから」社長は面倒臭そうに、「いらなくなったものを、太陽に運んでだ…」
「いらなくなったら、ちゃんとリサイクルに出さないといけないんだよ」女の子はさとすように言った。「いつも、ママが言ってたわ。もったいないって」
「うん…」社長は言葉につまった。「そうか、それはそうだが…」
「これ、あげる」女の子はポケットから小さな手作りの御守り袋を取り出した。「ママからもらったの。これを持ってると、お友達がたくさんできるんだって」
女の子は社長の掌の上にそっとそれを置いた。
「ママはお星さまになっちゃったけど、いつも私のこと空の上から見てるのよ」
<つぶやき>子供の無邪気な笑顔に勝るものはありません。無垢な気持ちを忘れないで。
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T:025「結婚申込」
夜。さやかはお肌の手入れをしながら、さっき別れたばかりの彼のことを思い返していた。「なんか変…」彼女はそうつぶやいた。明らかに様子がおかしい。何だかそわそわして…。明日の待ち合わせのことだって、絶対時間に遅れるなって何度も念を押していた。
「もう。あたしが待ち合わせに遅れたことなんか、一度もないじゃない」
さやかは頬を膨らませて、鏡の前に置いてある彼の写真を突っついた。彼女はまた鏡に向かうと、自分の顔をじっと見つめた。ふと、彼女の頭にある考えがよぎった。
「まさか…、そんなこと」彼女は首を振って否定した。しかし、どんどん頭の中で妄想が広がっていく。「もしかして、プロポーズ…」彼女は、思わず口にした言葉に頬を赤らめた。
彼と付き合い始めてもう三年。さやかは、この日の来るのを待ち続けていた。でも、彼はその気があるのかないのか分からない。彼女の方からそれとなく話を振ってみても、まったく反応を見せなかった。それが、いよいよ明日、もしかしたら明日、プロポーズされるかもしれない。さやかは何だがドキドキしてきて、思わず胸を押さえた。
次の日。さやかは仕事を終えると、足早に会社を飛び出した。待ち合わせの場所に着くと、まだ早いのに彼のことを探してしまう。五分、十分、十五分…。彼女はわくわくしながら待っていた。でも、待ち合わせの時間になっても、彼は姿を見せなかった。
十分過ぎ、十五分過ぎ…。さやかはだんだんイライラしてきた。いつもならこんなことはないのだが、今日は彼女にとって特別な日。遅刻は絶対に許されない。
二十分を過ぎた頃、彼がようやく姿を現した。その姿を見て彼女はあきれてしまった。いつもなら仕事帰りでスーツ姿のはずなのに、破れかけのジーパンに汚れたTシャツ姿。
「何で…」彼女は思わずつぶやいた。さやかは高級レストランに入ってもおかしくないように、それなりの服装をしていた。なのに彼ときたら…。
彼は挨拶もそこそこに、彼女の手を取りずんずん歩いて行く。彼女はつまずきそうになりながら、必死について行く。途中、何度も話しかけようとしたのだが、彼の方はまったく聞く耳を持たなかった。
彼は一軒の古びた居酒屋に入って行った。さやかは店の前で立ち止まり、「まさか、ここで…」とつぶやいた。彼女にとって、そこはプロポーズの場所としてあり得なかった。
さやかはそこで思った。やっぱり、あたしの早とちりだったんだと。仕方なく、彼女は店ののれんをくぐった。中には数人の客がいるだけだった。でも、そこに彼の姿はなかった。彼女が入口できょろきょろしていると、厨房の方から声がした。
「こっちに座ってよ。なに食べる? とりあえず、ビールでいいかな」
それは、彼だった。さやかは一瞬目を疑った。「何で…?」それ以上言葉にならなかった。
「ここ、俺の実家なんだよ。昨日で会社辞めて、この店を継ぐことにしたんだ」
「えっ、そんなこと…。あたし、聞いてないよ」さやかには、何が何だか分からない。
「なあ、一緒にこの店やらないか。俺、お前とやりたいんだ」
さやかは思わず立ち上がり、店を飛び出した。気が動転してしまったのだ。厨房の奥から父親の怒鳴り声がした。「馬鹿野郎! 会社辞める前に、彼女のことも少しは考えろ」
<つぶやき>相手の気持ちも考えないと、取り返しのつかないことになるかもしれません。
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T:026「ヒーロー募集中」
スーパーマンも歳と共に力の衰えを感じはじめていた。後継者を捜してみたが、これといって良い人材が見つからない。そこで、新聞にヒーロー募集の記事を載せることにした。すると、意外にもたくさんの応募がよせられた。しかし、無報酬だとわかると、ほとんどの人が応募を取り下げた。それでも、三人だけ面接を受けたいと言ってきた。スーパーマンは、まだヒーローに憧れている人間がいるのだと分かり、ほっと胸をなで下ろした。
一人目の男は派手な服装をして、ニコニコしながら入って来た。そして、椅子に座るなり、「なあ、俺をヒーローにしてくれよ。俺には、充分その素質があるんだ」
スーパーマンは黙って男の話を聞いていた。そして、おもむろに口を開いて、「大通りのビルから落ちそうな人と、登山中に崖から落ちそうな人。君は、どちらを助けるかね?」
「そりゃ、もちろんビルの方さ。山の中で人を助けたって、誰も見てやしない」
スーパーマンは溜息をつくと、男を外へ促した。男はまだ言い足りないという顔をしていたが、仕方なくドアから出て行った。
二人目はでっぷりと太った男。その体型を見れば、明らかにヒーローにはほど遠い。彼はオーダーメイドのスーツを着て、これ見よがしに宝石を身に付けていた。
スーパーマンは質問した。「君はどうしてヒーローになりたいのかね?」
男は答える。「空を飛びたいからさ。空を飛べたら、世界中の美味しいものを、いつでも食べに行けるじゃないか」
「もし、困っている人が、助けを求めて来たらどうするかね?」
「まあ、そんときゃ助けてやるさ。でも、食事中の時は断るけどね」
スーパーマンはまた溜息をつき、男を外へ促した。男は大儀そうに立ち上がると、ゆっくりとドアから出て行った。
三人目が入って来たとき、スーパーマンは目を疑った。入って来たのは、小学生の女の子。たしか、募集要項には年齢の記載はなかったが、子供が来るとは思ってもいなかった。
「あたし、ママのお手伝いがしたいの。だって、ママね、赤ちゃんができたのよ」
女の子は目を輝かせて言った。スーパーマンは微笑んで、質問を始めた。
「もし、困っている人を見つけたらどうするかね?」
「そうねえ。まず、ママに訊いてみなくちゃ。あたし一人じゃ、決められないわ」
「君のママは、今日の面接のことは知っているのかい?」
「ママは知らないわ。あとで、びっくりさせたいから」
「それじゃ、ここへは一人で来たの?」
「パパがね、連れて来てくれたの。外で待ってるわ」
「パパは何て言ってるのかな?」
「もし合格したら、お金持ちになれるって言ってたわ」
「それじゃ、こうしよう。君が大人になったら、もう一度来てくれないか」
「今じゃなきゃだめよ。だって、あたし、小さくて、何もお手伝いできないもの」
「大丈夫さ。すぐに大きくなれるし、何でも出来るようになる。助けてあげたいっていう気持ちが大切なんだ。それを、忘れちゃいけないよ」
<つぶやき>なぜ大人は損得でものを考えるのでしょ。大事なもの、なくしてませんか?
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T:027「寂しん坊」
あの男(こ)がいなくなった。突然、あたしの前から消えたのだ。何の前触れもなく…。
思えば、彼と出会ったのも突然だった。一ヵ月前の雨の夜。あたしは家の近くの公園で、雨に濡れて震えている彼を見つけた。あたしと目が合った彼は、にっこりと微笑んだ。その笑顔を見たとき、あたしの心の片隅に懐かしさが込み上げてきた。あたしは何の躊躇もなく、彼を家に連れて帰った。
あたしはアパートで一人暮らし。男の人を部屋に入れたことなんてなかった。そんなあたしが、見ず知らずの人を入れるなんて。何でそんなことをしたのか、今でも分からない。
彼は、たぶんあたしより年下。あたしはまるでお姉さんになったみたいに、身体を拭いてあげて温かい料理を振る舞った。彼は何も言わず、夢中になって食事を喉に押し込んだ。そんな彼を見て、あたしは思わず笑ってしまった。
こんなふうに笑ったこと、ずいぶん久しぶりのような気がする。あたしは人見知りで、友だちもあまりいなくて。一人暮らしをしたいって両親に言ったとき、ずいぶん反対された。「寂しがり屋のくせに、一人暮らしなんか出来ないだろう」って。
それは当たっていた。最初のうちは、毎日が新鮮でわくわくしていた。でもそのうち、自分は一人なんだって気づいて。当たり前のことだけど、家に帰っても誰もいなくて…。彼との出会いは、何かの運命なのだと勝手に思ってしまった。
その日から、彼は同居人になった。でも、なぜあたしなんかと暮らそうと思ったのか。あたしには分からない。彼も、何も答えてくれなかった。ちゃんと訊きたかったけど、しつこくすると嫌われるんじゃないかって思って…。
彼は、あたしのためにいろいろしてくれた。仕事から帰ると、ちゃんと食事の用意が出来ていて。「おかえり」って、笑顔で迎えてくれる。おかしな話だけど、部屋に灯りがついているのを見つけると、なぜかほっとして、駆け出したい気分になる。
彼と暮らすようになって、あたし、何だか変わった気がする。職場の人からも、「なんかあったんでしょう」って訊かれちゃった。でも、彼のことは内緒にしていた。だって、彼とは別にそういう関係じゃないし。ただの同居人…。
でも、ときどき思ってた。彼、あたしのこと……。あたしって、そんなに魅力ないのかな。あたし、彼のこと好きになりかけていた。彼のために、あたしも何かしてあげたかった。だから、訊いてみたの。あたしに出来ること、何かないって。彼はにっこり笑って、
「笑顔を見せてください。あなたの笑顔は、とっても素敵だから」
あたし、びっくりしちゃった。こんなこと言われたことなかったから。何だか恥ずかしくなって。どうすればいいのか分からなくて。もう、笑うしかないじゃない。
次の日の朝。いつものように朝食の支度が出来ていた。でも、彼の姿はどこにもなかった。あたし、不安になって近所を捜しまわったの。あの公園にも行ってみたけど、彼はどこにもいなかった。あたし、泣きたいのをぐっとこらえて、家に帰った。そしたら、見つけちゃったの。彼の書き置きを。
『泣かないで。笑顔でいれば、きっと幸せがやってきます』
<つぶやき>簡単そうでも、なかなか出来ないことってあるよね。少しずつ行きましょ。
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T:028「手なずける」
奈津子は夏が嫌いだ。夏になると、決まってあるものに付きまとわれる。それが人間なら警察に頼ればいいが、そんなわけにいかないから始末が悪い。外が明るくなりはじめると家の周りで鳴き始め、外出しようものなら身体にまとわりついてくる。それが夜道なら、きっと悲鳴をあげてしまうだろう。
彼女を困らせているのは、蝉。夏になると現れる、あのセミなのだ。それも、尋常な数ではない。数百匹のセミが家の周りで鳴き騒ぐのを想像してもらいたい。とても寝られたものじゃない。もし玄関を開けようものなら、何十匹ものセミが家の中に侵入しようと行動を開始する。だから彼女は、夏になると家から一歩も外へ出ないことにしていた。なぜセミが集まってくるのか、彼女にはまったく分からなかった。どうやって防げばいいのか、いろいろやってみたが何の効果もなかった。
こんな生活も三年目を迎え、不自由でも楽しむことができるようになった。仕事は、事情を説明して長期休暇を取ることにした。日用品や保存できる食品は、夏の前に備蓄する。生鮮食品は、友だちに頼んで届けてもらう。家にはテレビもあるし、電話もできる。寂しくなったら友だちが遊びに来る。彼女にとって、充実した生活になっていた。
ある日、玄関のチャイムが鳴った。今日は配達の日でもないし、誰か来る予定もなかった。彼女は玄関の覗き窓から外を見た。そこには、見知らぬ男が立っていた。
「あの、すいません。私、野崎と申します。ぜひお話しを伺いたいのですか…」
奈津子は身構えた。以前、取材だと言って、変なジャーナリストに付きまとわれたことがある。そんな体験があるので、彼女は何も答えず、様子を見ることにした。
「けして怪しいものではありません。私、昆虫学者でして、何かお助けできればと…」
「ほんとですか?」彼女は思わず声を出した。
「ええ、きっと何か原因があるはずです。それを調べさせてもらえませんか」
「無理です。私もいろいろやってみたけど…」
「私は、これでも昆虫の専門家です。いろんな昆虫の行動を調べてきました。だから、何かお役に立つことがあると思うんです」
「でも…。きっと、あなたでも無理ですわ」
「そんなことありませんよ。私を信じて下さい。ぜひ、お力になりたいんです」
「どうして、私なんかのために…」
「昆虫仲間では、あなたは有名人です。セミを手なずけている女性ともっぱらの評判です」
「手なずけるって、私はそんなことしてません。もう、帰って下さい」
「あっ、すいません。あなたのことを、悪く言うつもりはなくて…。ごめんなさい」
男は深々と頭を下げた。彼女はそんなようすを覗き見て、この人は悪い人じゃないかもしれないと思った。でも、ドアを開ける勇気はなかった。
「ごめんなさい、気にしないで下さい。でも、今日はお会いする気にならなくて」
「そうですか…。また、来ますので。その時は、よろしくお願いします」
男は残念そうに帰って行った。その男の背中には、無数のセミがとまっていた。
<つぶやき>あなたの回りで、不可思議なこと起こってませんか? くれぐれもご用心を。
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T:029「姿なき依頼人」
綾乃は家政婦の仕事を始めて三年目。まだ若いが、真面目な仕事ぶりが評判になっていた。そんな噂を聞きつけたのか、彼女を名指しで仕事の依頼が舞い込んだ。
綾乃は、会社に送られてきた合い鍵で屋敷に入った。そこには依頼人の姿はなかった。中はがらんとしていて、彼女は違和感を覚えた。家具などは置いてあるのだが、生活の匂いがまったく感じられないのだ。
合い鍵に添えられていた手紙の通り、テーブルの上には今日やるべき仕事のメモが置かれていた。綾乃はさっそく部屋の掃除に取り掛かった。キッチンを手始めに、リビングから書斎へと片付けていく。書斎には窓がなかった。中央に大きな机があり、四方の壁には天井にとどくほどの書棚があった。そこには見たこともない洋書が並べられている。
「こりゃ、大変だわ」彼女はそうつぶやいた。外から見た時には、そんなに大きなお屋敷には見えなかったのだ。彼女は気合いを入れて、書斎の掃除を開始した。しばらくして、綾乃は部屋の隅に小さな扉があることに気がついた。それは、扉に見えないように細工してあった。彼女は一瞬迷ったが、扉のノブをそっと回してみた。だけど鍵が掛かっているようで、まったく動かなかった。仕方なく、そこはそのままにして掃除を続けた。
一通り掃除が終わると、今度は夕食の支度に取り掛かった。綾乃は料理学校に通ったこともあるので、料理には自信があった。彼女は手際よく支度を終えると、夕食を書斎へ運んだ。仕事のメモには、食事は書斎へ運ぶようにとあったのだ。書斎の大きな机の上に食事を並べているとき、カタンと物音がした。それは、あの扉の方から聞こえた気がした。綾乃はそっと扉に近づいてノックしてみた。だけど、何の反応もなかった。綾乃は不審に思ったが、もう帰る時間になっていたので書斎をあとにした。
書斎から廊下に出ると、キッチンの方からまた物音が聞こえた。彼女はビクッとした。そっと廊下を歩いてキッチンを覗いてみると、男が引き出しを片っ端から開けていた。綾乃は思わず声を上げた。男と目が合う。彼女は急いで書斎に引き返した。男は、まさか人がいるとは思ってもいなかった。一瞬躊躇したが、彼女を追いかけて廊下に出た。
綾乃はどうしたらいいのかわからなかった。書斎の扉には鍵はなく、扉を押さえるものもなかった。彼女はあの小さな扉の前にしゃがみ込んだ。すると、扉の下の隙間から紙がすっと出て来た。そこに書かれている筆跡は、あのメモと同じものだった。
<扉の横に、書棚の方を向いて座りなさい。そして目を閉じて、何があっても目を開けないこと。じっとしていなさい>
綾乃はその通りに座り、目を固く閉じた。しばらくすると、書斎の扉が開いた。男が近づいてくる足音がする。彼女は身体の震えが止まらなかった。男の気配を直ぐ後ろに感じたとき、扉が勢いよく開いた。直後に何かが倒れる音。男の呻き声。引きずるような音。そして、扉が静かに閉まる音。彼女は気が遠くなりそうになった。
どのくらいたったのか、彼女はカタンという音で我に返った。周りは静まりかえっている。彼女がゆっくりと目を開けると、扉の前に別のメモが置かれていた。
<男は追い出しておきました。明日も同じ時間に来て下さい。お疲れさまでした>
<つぶやき>男はどうなったんでしょう。綾乃はこの仕事、続けるのかな? 心配です。
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T:030「妻の選択」
「なあ、やっぱりお前がやれよ」孝志は大きな椅子に座ると言った。
「なに言ってるの。心配ないわよ。寝てるだけなんだから」
妻の陽子は微笑んだ。
「でも、お前が当てたんだから」
「バーチャル旅行なんてなかなかできないわよ。私たちのために仕事がんばってるんだから、そのご褒美よ。私のくじ運の強さに感謝しなさい」
「そうか…」孝志はしぶしぶ承知して、椅子に深く腰かけた。
白衣を着たスタッフが、孝志の頭にヘルメットのようなものをかぶせた。それには何本もコードが付いていて、椅子の横の大きな装置につながっている。椅子の背もたれが倒され、装置の起動音が静かに響きだした。
「じゃあ、世界旅行楽しんで」陽子は彼の手を取り、「いい所があったら、私たちの次の旅行はそこだからね。愛子も楽しみにしてるんだから、ちゃんと連れてってよ」
「ああ」孝志は小さくつぶやいた。その目は不安でいっぱいのようだ。
陽子は隣の部屋に入って行った。そこにも装置がならび、何人も白衣を着たスタッフが働いていた。装置のモニターには孝志が寝ている様子が映されている。
「では、もう一度確認させて下さい」
そこの責任者の男が陽子に話しかけた。「リスクについては、ご納得いただいていますね」
「ええ。でも…、ほんとに大丈夫ですよね」陽子に不安がよぎった。
「それはもちろん」男はちょっと言葉を切り、「ただ、私たちとしても、初めての人体実験ですし。想定外の事態が起こることも、あるかもしれません」
「想定外の事態…。それは、どういうことですか?」
「もちろん、命にかかわるほどではありません。ただ、潜在意識に強くすり込まれる可能性があります。これは、個人差もありますので…」
「そうなると、どうなるんですか?」
「えっと、奥さんのオーダーは…」男は書類を見て、「《妻の話をちゃんと聞くこと。浮気は絶対にしない》ですか。これですと、必要以上にあなたの話を聞きたがることになります。かなり、うざいかもしれません」
「ああ。でも、まったく聞いてくれないよりはいいですよね」
「もう一つですが、こっちの方が問題かもしれません。浮気はしなくなりますが、奥さん以外の女性に嫌悪感をもつ可能性があります。つまり、女性が近づくだけでイラついたり、逃げ出してしまうかもしれません。こうなると、仕事にも支障をきたすでしょうね」
「そうですか。仕事ができなくなるのは困りますわ」
「でも、これはあくまでも最悪の場合ですから。そんなに、心配なさることは…」
「成功する確率はどのくらいですか?」
「確率? そうですね、70パーセントぐらいですかね」
「70パーセント…。だったら、大丈夫ですわ。私、くじ運強いんですよ。今度だって、一万人の中から選ばれたんですから」
<つぶやき>夫をだましても家庭を守りたい。これで、妻の心配事が少しは減るかも…。
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T:031「出会いは突然に」
カナはいつもの喫茶店で友だちを待っていた。その友だちは会社の同僚で、休みになると食べ歩きやショッピングなどにカナを誘っていた。カナは内気な性格で、もしこの誘いがなければ、休みはずっと部屋の中で過ごすことになるだろう。
初めのうちは喫茶店の外で待っていた。友だちに中で待つように言われても、ひとりで店に入るのが恐くてできなかったのだ。最近になってやっとなれてきたのか、ひとりで注文もできるようになった。でも、ひとりでいるは落ち着かない様子だ。だからなのか、いつも外が見える席に座ることにしていた。
その友だちは、待ち合わせに遅れるのはいつものことだった。でも、今日はいつまで待っても来なかった。カナは不安になってきた。ますます落ち着かなくなって、店の中をキョロキョロ見まわす。その時、少し離れた席に座っている男性と目が合った。どうやらその男性は、ずっと彼女のことを見ていたようだ。彼女に向かって微笑んでみせた。
カナはドキッとして、目をそらした。何だか顔が熱くなり、心臓の鼓動も速くなった。手には変な汗が滲んできた。彼女はたまらず、店を出ようと鞄に手を伸ばした。その時、人の気配を感じてカナは顔を上げた。目の前にはさっきの男がいて、カナの目の前の席に腰を下ろした。カナは口を開けたまま、固まってしまった。頭の中がまっ白になって、何も考えることができなくなった。
「なあ、あんたカナちゃん? 敷島カナだろ」男はなれなれしく声をかけた。だが、彼女が何の反応もみせないので、「おい、大丈夫か?」と言って、彼女の顔の前で手を振った。
彼女は苦しくなって息を吐いた。呼吸をすることも忘れてしまったようだ。
「あの…、すいません」彼女は荒い息でそう言うと、鞄を抱えて立とうとした。
「ちょっと、待てよ」男は思わず彼女の腕をつかんだ。カナは小さな悲鳴をあげた。
「あっ、わるい」男は慌てて手を離した。そして、周りを気にしながら小声で言った。
「何もしないよ。だから、さわぐなよ」
カナは声を震わせて、「あたし、友だちを待ってるの。だから、そういう、あれは…」
「あのさ、携帯持ってる?」男はぶっきらぼうに訊いてきた。
「えっ?」カナは男が何を言っているのか理解できなかった。
「携帯だよ。持ってないだろ。それか、電源切ってるとか」
カナは自分の鞄の中を見た。でも、そこには携帯電話は入っていなかった。「あれ、おかしいな…」彼女は慌てて鞄の中をかきまわした。
「やっぱりな。忘れてきたんだろ。しょうがないな」
「あの…。あなた、なんなんですか?」
「俺? 俺は麗奈の知り合いってとこかな。何か、あんたと連絡取れないから、俺に代わりに行って来いって言われたんだよ。だけど、すぐ見つかってよかったよ」
「あの、麗奈さんは?」
「来ないよ。何か急用でさ。で、どこ行く? 今日一日、付き合ってやるからさ」
「えっ…。あの、あたしは…。そう言うのは…、ちょっと……」
<つぶやき>一歩を踏み出すのは大変ですよね。少しずつでいいですから、大丈夫だよ。
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T:032「初恋の人」
彼の名前を聞いたとき、あたしはあまりの衝撃に立っていられないほどだった。確かに、彼の目元とか口元とか、あの当時の面影が残っていた。どうしちゃったのかな。あたしの心臓は高鳴り、きっと顔も赤くなってるかも…。あたしは思わず、手で頬を隠した。
村井進。彼は、中学の同級生。そして、あたしの初恋の人。初恋といっても、完全にあたしの片思いだったけど。同じクラスだったのに、話もできなくて…。ずっと、彼のことを見ているだけ。告白もできずに、卒業するまで恋しい気持ちを押さえていた。まさか、そんな彼と職場で顔を合わせるなんて。彼は、中途採用で入社してきたの。
去年の同窓会のとき、彼は欠席してたけど、みんなの噂では一流企業に入社したって聞いていた。それなのに、なんでこんなちっぽけな会社に来たんだろう。自分の会社を悪く言うつもりはないけど、給料だって絶対に安いし、もっと良い会社に入れるはずなのに。
あたしは社長に呼ばれているのに気づかなかった。社長の話なんか耳に入るはずがない。隣の同僚につつかれて、あたしはすっとんきょうな声をあげた。
「どうした? 浜野さん」社長が訊いてくる。
「いえ、何でもありません」あたしの顔はますます赤くなった。
「彼には、しばらく内勤で働いてもらうから、いろいろと教えてやってくれ。頼むよ」
「あの、あたしが……」それ以上、声にならなかった。
彼があたしの方に近づいてくる。あたしは思わず後ずさり、机にお尻をぶつけてしまった。まったく、何やってるんだろう。
彼はあたしの顔を見て、「よろしくお願いします」とペコリと頭を下げた。
彼は、あたしのこと覚えてない。その時、あたしは直感した。何とも言いようのない寂しさに、心が震えた。その直感に間違いのないことは、すぐに証明された。
その日から、あたしはおかしくなった。彼の視線や動作が気になって、失敗ばかり。伝票の数字を書き間違えたり…。もう、自己嫌悪。
あたしだって、それなりに恋もしたし、男性に対しての免疫はあるはずよ。今さら、初恋の相手にどきどきするなんて、あり得ない。もう、こうなったら決着をつけるしかない。あたしは、決心した。中学のときの、あたしとは違うんだから。今度こそ、今度こそ…。
数日後、彼の歓迎会が居酒屋で開かれた。ここぞとばかり、あたしはさり気なく、あくまでもさり気なく、彼に近づき隣の席を確保した。そして、彼のグラスにビールを注ぎ、
「あの…」あたしの声は、明らかにうわずっていた。
「どうしたんですか?」彼が心配そうに訊いてくる。
「いえ、別に…」あたしは自分のグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干した。
「浜野さんは、結構いける口なんですね。僕はどうも、アルコールは飲めなくて」
「あ、あの…。あたしも、そんなには、飲めないのよ」良い子ぶってるあたし…。
「でも、いいですよね。なんか、家庭的っていうか。みんな良い人ばかりで」
「そうかしら…」あたしは、彼の顔に現れた寂しげな表情を読み取った。
「ここなら、やっていけそうな気がします。先輩、よろしくお願いします」
<つぶやき>人それぞれに人生あり。別々の道を歩いていても、どこかでつながってる。
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T:033「私のご主人さま」
「私、そろそろ帰るね」亜希はそう言って立ち上がろうとした。
隣に座っていた萌が、すかさず亜希の腕を押さえつけて、「まだ八時じゃない」
「もう、八時よ。私、早く帰らないといけないし」
そこへ店員がビールの追加を運んで来た。吉江がそれを受け取り、
「あと、串の盛り合わせと、トマトのサラダをお願い」さらに追加の注文をする。
亜希があきれて、「吉江、まだ食べるつもりなの?」
「いいじゃない。あたし、まだそんなに食べてないし」
「そうよね。遅れて来たんだし、いいじゃない」萌は亜希の腕をつかんだまま言った。
「あのさ」亜希は萌の手を振りはらい、「何なのよ。さっきから」
「いや…。ほら、久しぶりだから、ゆっくり話ししたいじゃない」
「久しぶりって、先週も会ってるでしょ」
「そうだけど。あたし、もう少し飲んでいたいの」
「じゃあ、二人で飲んでればいいじゃない。私はこれで…」
「そんなこと言わないで」萌はすがるような目で亜希を見つめる。
亜希は何かを探るように萌の顔を覗き込み、「…わかった。何かあるのね」
萌は目をそらし、ためらいがちに言った。「亜希って、猫好きよね」
「そうだけど。それがなに?」亜希はイライラしながら答えた。
「あたしの…、じゃなくて…。あたしの部屋にいる、猫…、引き取ってくれない?」
「えっ、なに? 萌、猫飼ってるんだ」
「飼ってるわけじゃないわ。勝手に居座っちゃって、出てってくれないの。いくら追いだしても、いつの間にか部屋に入り込んで…。最初はね、可愛いなって、餌もあげたりしてたの。だけど、何かどんどん我が儘になってきて、気に入らないと噛みついてくるのよ」
さっきから食べ続けていた吉江が口を挟んだ。「それって、猫じゃなくて男だったりして」
「違うわよ。ほんとよ、ほんとに猫なの。あたし、もう恐くて帰れない」
「あのさ」亜希はあきれたように、「そんな猫、いるわけないでしょ。いい加減なこと…」
「信じて」萌は目に涙をためて、「今朝も追い出してきたから、もし、部屋に猫が戻って来てたら、今度は引っかかれるだけじゃすまないわ。何されるか、わかんない」
「しょうがないな」亜希は溜息をつき、「吉江のとこで飼ってあげれば」
「あたしはダメよ」吉江は料理を平らげて言った。「もう、手一杯なんだから。一匹の食費を稼ぐのに、あたしがどれだけ頑張ってるか。悪いけど、今日のおごりにしてね。お願い!」
「何なのよ。もう、しょうがないな」亜希は萌のすがるような視線に気づいて、「私もダメよ。もう、猫いるし。モモちゃんって言うんだけど、すっごく可愛いのよ。見てみたい?」
亜希は携帯電話を取りだして、自慢げに画像を二人に見せびらかした。それを見た二人は、驚きの声をあげた。
「この猫よ! あたしの部屋に入り込んで来るのは」萌は声を震わせて言った。
「なんで? あたしのご主人さまが写ってるの」吉江は思わず姿勢を正した。
<つぶやき>猫は確かに可愛い。でも、猫ばかり見ていると、いい男は見つかりません。
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T:034「動き出した恋心」
街中のオープンカフェ。綾乃はいつもここで原稿のチェックをするのが習慣だった。通りの人混みや、店内のざわつきも気にならない。彼女にとっては一番落ち着ける場所なのだ。彼女は大学の時から、ここを待ち合わせなどに使っていた。このカフェにはいろんな思い出がある。お店の人とも顔見知りで、長居をしていても笑顔で迎えてくれるのだ。
今日も、いつものように綾乃は原稿とにらめっこをしていた。テーブルの上に原稿を並べ、ペンをくわえて顔をゆがめる。考え込んでいるときの彼女の癖だ。
彼女が目をつむり、腕を上げて背伸びをしたとき、一陣の風が通り過ぎた。その風に舞い上げられて、原稿用紙がテーブルから滑り落ちていく。彼女がそれに気づいたときには、見知らぬ男性が屈み込んで拾い集めていた。彼女はあわてて立ち上がり、「どうもすいません」とその男性に声をかけた。
男は無愛想に拾い集めた原稿をテーブルの上に置くと、軽く頭を下げてそのまま行ってしまった。綾乃は去って行く男の背中に向かって声をかけようとして、息をのんだ。
急に昔の光景が頭をよぎったのだ。あの人と始めて出会ったときも、こんな感じだった。
それは彼女が大学生の頃、場所もこのカフェだった。あの人は彼女がうっかり落としたペンを拾ってくれて、そのまま何も言わずに行ってしまった。綾乃は何となくその人が気になってしまった。その後、同じ大学に通っていることがわかり、さらに共通の友人がいたことも判明した。そんなこともあって、二人はごく自然につき合い始めた。
二人は友達がうらやむほど仲が良かった。大学を卒業してからも交際が続き、そろそろ結婚するんじゃないかと噂された頃、その悲劇は突然訪れた。彼が病に倒れて、あっけなく逝ってしまったのだ。突然のことで、綾乃は呆然とするばかり。何もやる気になれず、とうとう寝込んでしまった。でも、綾乃はそこから立ち直った。友達の励ましもあったのだが、笑っている彼の写真を見たときに気づいたのだ。
「あの人からいっぱい幸せをもらったのに、いつまでも哀しんでちゃいけないわ。こんなことしてたら、あの人に嫌われちゃう」
綾乃はそれから仕事に没頭した。彼との思い出があれば、これから生きていける。だから、もう誰も好きにならない。彼のことを大事にしたいから。彼女はそう決めた。
綾乃が小さな出版社に顔を出したのは、その日の夕方だった。彼女はここの雑誌に短いエッセイを書いていた。白髪まじりの編集長が彼女に声をかけた。
「いや、すまんねぇ。急に頼んじゃって」編集長は原稿を受け取り目を通して、「うん。なかなかいいねえ。これ、使わせてもらうよ。おい、神崎君」
編集長はデスクで仕事をしていた編集員を呼んだ。綾乃は、隣に立ったその編集員の顔を見て驚いた。昼間、原稿を拾ってくれた彼だったのだ。
「ああ、初めてだったね」編集長は綾乃に言った。「ほら、この間、一人辞めちゃっただろ。やっとね、良い人が見つかったんだよ」
「どうも、よろしくお願いします」神崎はぎこちなく挨拶をした。
綾乃は、何だか心がざわざわし始めた。「こちらこそ」と彼女は慌てて頭を下げた。
<つぶやき>ドラマチックな出会いなんて…。でも、あるかもしれません。あなたにも。
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T:035「新人の試練」
休日の公園。人々は思い思いに余暇を楽しんでいた。その中に、一人だけ浮かない顔でベンチに座っている中年男。彼は誰かを待っているような…。いや、彼のイラつきようだと、きっとすっぽかされたのかもしれない。眉間にシワを寄せて、時計を気にしていた。
そこへ、どこからか女が近づいて来た。まだ、二十歳そこそこの若い女性だ。彼女は男の前で立ち止まり、自分のお尻を二回叩いた。すると男は、ミニスカートから出ている女の足を覗き込んで、「大根足だな」とつぶやいた。
どんな女性でも、そんなことを言われたら怒り出すところだが、彼女は違っていた。ほっとしたような顔で、男の横に座り込み言った。「よかった。やっと見つけた」
「何してたんだ」男は不機嫌にささやいた。「俺たちは時間厳守だ」
「だって、これ壊れてて、座標が出てこないんだもん」女は携帯のような小さな装置を出して男に渡し、「おかげで、何回お尻を叩いたかわかんないわ」
男は装置を確認してつぶやいた。「壊れてなんかない。お前、装備の使い方も知らんのか」
「ねえ、何でこんな変な合図にしたのよ。これじゃあたし、まるで…」
「知るか。俺が決めたわけじゃない」男は装置を女に返して、「ターゲットの説明は受けてるな。早速、仕事に取りかかるぞ」
「ちょっと待ってよ」女は驚いた顔で、「あたし、初めてなんだから。まだ何も…」
「初めて?」男の顔に不安がよぎった。「でも、訓練は受けてるんだろ」
「ええ、一度だけ。だけど…」
「一度って何だ。お前、それで現場に来たのか!」
「仕方ないじゃない。人手がないから、お前、行って来いって命令されて…」
「何だよ、それ…。まあ、いい。俺たちのターゲットは女性だ。彼女はこれから画期的なダイエット法を考案することになっている。それにより、肥満は激減することになる」
「そうなんだ。それ、すごいわね。じゃあ、何でも気にしないで食べられるんだ」
「だが、それを邪魔しようとする奴らがいる。そいつらは彼女にパートナーを送り込んだ。そいつのおかげで、彼女は肥満になることができなくなった」
「でも、それっていいことじゃ…」
「何を言ってる。彼女は、肥満になったからダイエットを考え出すんじゃないか。もし、彼女が太らなければ、この世界から肥満をなくすことはできない」
「そうか…。じゃあ、そのパートナーをやっつけちゃうのね」
「そうだ。それを、君にやってもらう」
「えっ、あたしに。でも、そんなこと…」
「大丈夫だ。それくらいお前にもできる。彼女の飼っている犬を誘拐するだけだ」
「イヌ!」彼女はそれを聞いて震えだした。「あたし、ダメです。犬は、犬は…」
「まだ子犬だ。お前、それでも時空警察官か? しっかりしろ」
「だって子供の頃、犬に追いかけられて…。絶対、近づけないんです」
「克服しろ。任務が完了しないと、俺たちは元の時間に戻れないんだぞ」
<つぶやき>新人にはいろんな試練があります。あなたなら、きっと乗り越えられるはず。
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T:036「さまよう心」
近未来の日本。技術の発展めざましく、とうとう身体から心を取り出すことに成功した。これにより、バーチャルな世界がより現実味をおびできた。人々は心を解き放ち、バーチャル世界で憧れていた別の人生を楽しむようになっていた。
彼女もみんながやるように、自分の思い描いた生活を楽しんだ。毎日仕事に追われていた彼女にとって、ほっと息抜きできるそんな時間だったのだが…。
「どういうこと」彼女は怯えたような声で言った。「あたしの身体が、消えた…」
ハイパーコンピュータの操作室で、白衣を着た男がモニターの中で動いているアバターに向かって話しかけた。
「消えたというわけではなく、いなくなってしまったという…」
「全然わかんない!」アバターの顔が赤くなり、「あたしはナオミよ、スーパーモデルの。この後、仕事が入ってるの。明日だって、その次の日だって…。あたしが行かなかったら、大変なことになるのよ。あなた、わかってるの」
「そう言われましても、こういう事例は初めてのことで。我々としましても…」
「すぐに探して! 絶対に犯人を捕まえて、あたしの身体を取り戻しなさい」
「ですから、犯人はいないんです。これは、管理モニターで確認済みです」
「なに言ってるのよ。あたしの身体がなくなったってことは、誰かが盗み出したって…」
「それがですね、あなたの身体はご自分の意志で帰ってしまったという…」
「はあ? あたしはここにいるのよ。何で、身体だけ勝手に動くのよ」
「そこなんです」男は言いにくそうに訊いた。「何か重大な悩みごととか、お持ちじゃ…」
アバターの顔が一瞬くもり、「そ、そんなこと、あるわけないでしょ」
彼女の声は、あきらかに動揺していた。その時、警備員が操作室に入って来て、白衣の男に何か耳打ちして去って行った。男は、「なるほど」とつぶやいて、モニターのアバターに向かって優しく話しかけた。
「よかったですね。やっと決断できて」
「なによ」彼女は戸惑い、か細い声で言った。「何のことかわかんない」
「今、あなたの引退の記者会見が開かれています」
「引退? 誰がそんなことを…」
「あなたですよ。正確にいうと、もう一人のあなたです」
「もう一人のあたし?」
「これは興味深い事例なのですが」男は研究者の口調に戻り、「人は何か決断を迫られたとき、心を二つに分けることがあります。YESかNOか、決着をつけるために」
「だって、あたし…。彼のこと好きよ。でも、仕事も大切なの。だから…」
「もう一人のあなたは結婚を選んだんです。これは、素晴らしい決断だと思います」
「そんな…。あたしは、どうなるの。これから、どうすればいいのよ」
「心配ありません。そちらの世界でも、モデルの仕事はできますよ。あなたは、あなたの人生を楽しめばいいんです。バーチャル世界はそのためにあるんですから」
<つぶやき>人の生きる場所ってどこなの? 現実としっかり向き合って生きましょうね。
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T:037「異星人通訳」
あかりは、朝のまどろみの中にいた。心地よい音楽が耳元に響き、彼女を眠りへいざなった。だが、それも一瞬にして大音響に変化した。
「いつまで寝てるの! 早く起きなさい!」
あかりは母親の声で飛び起きた。母親はまだ何か言っている。でも、彼女には何を言っているのか理解できなかった。あかりはボーッとしている頭を振り、あいまいに返事を返した。母親は部屋から出て行く。あかりは枕元の目覚ましを見て、ベッドから飛び出した。
階段を駆けおりてダイニングへ。テーブルの上にはもう朝食の用意が出来ていた。母親はあかりを見て、また何か話しかけた。でも彼女には、ただの音にしか聞こえない。最初は母親がふざけているのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
<あたしが、おかしいの?>あかりは母親に心配をかけまいと、必死に平静をよそおって食卓についた。母親の言っていることは分からないが、表情と口の動きで何となく理解できた。まあ、毎朝、母親の言うことはだいたい決まっているから。
学校までの道すがら、あかりは悪夢を見ているようだった。周りから聞こえる声は、
<ポコポコ、ピチャピチャ、タンタタン、ピーピー、キュキュ………>
学校に着く頃には、あかりは気力をなくしていた。追い打ちをかけるように、友達が話しかけてくる。あかりは最後の力をふりしぼり、笑顔でそれに答えた。
事件が起きたのは、一時限目が始まってからだった。校庭にいた生徒達が騒ぎ出したのだ。誰もが空を見上げていた。窓際に座っていたあかりは、何だろうと外を見た。ちょうどその時、影が窓を横切った。次の瞬間、キーンという耳をつんざく音が襲って来た。誰もが耳を押さえ、顔を伏せた。音が収まると、皆は窓の方に駆け寄った。校庭の真ん中に、見たこともない球体が青白い光を放って浮かんでいた。
騒ぎはまたたくまに広がった。警察や自衛隊が駆けつけて、学校の周りには非常線がはられた。先生や生徒たちには避難命令が出され、順番に校舎から外へ誘導された。あかりたちが校舎を出たとき、それは起こった。球体から何十本もの光の線が飛び出したのだ。その一本が、あかりの目に飛び込んできた。
あかりが意識を取り戻した時、彼女はまったく違う場所にいた。テーブルを囲んで、一方には黒ずくめの男達が、反対側には軍服を着た人達と、どこかで見覚えのある人…。あかりは気がついた。この人、総理大臣だ! 総理はあかりに向かって、
「大丈夫ですか? 何ともありませんか?」
あかりはその声を聞いて、思わず笑みがこぼれた。言葉が分かるのだ。元に戻った。
黒ずくめの男のひとりが言った。「彼女には大使として我々の星に来ていただく」
「えっ? 彼女って…」あかりは男の顔を見た。総理があかりに声をかける。
「すまない。君だけなんだ。彼らの言葉が理解できるのは。どうか、この地球のために行ってもらえないだろうか、彼らの星へ」
「行くって? えっ! あたしが? 無理無理無理無理…。だってあたし、受験生だし…」
「それは大丈夫です」男は言った。「我々の学校に留学してもらいますから」
<つぶやき>いつか、こんな留学をすることになるかもしれません。うらやましいです。
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T:038「料理の奥義」
権田原(ごんだわら)一族に代々伝わる秘伝の奥義。その秘伝の料理を食すれば、どんな殿御でも意のままにできるという。それを受け継ぐことができるのは、ただ一人の女性と決まっていた。本家を初めとして、分家も含めて二十数名が戦いに参戦した。この戦いを制すれば、次期本家の座を手にできるとあって、それぞれの分家筋も半端ない娘たちを送り込んできた。そして、最終選考に残ったのは愛理(あいり)と幸恵(ゆきえ)だけとなった。
愛理は本家の長女で、幼い頃から料理の技を叩き込まれていた。二十歳になった今、その腕前は誰もが認めるものだった。一方、幸恵は分家筋の中でも一番格下の家に生まれた。そんな娘が最終選考に残ることなど、未だかつてなかったことだ。
幸恵は十八歳。料理の腕前はまだまだだが、味覚のセンスは抜群で、これは天賦(てんぷ)の才である。その才能をいち早く見出したのが、先代の当主で愛理の祖母だった。
最後の課題は、当主を唸らせるような料理を作ること。食材の制限はなく、どんな料理にしてもよかった。選択肢が増えることで、その料理人の器量が試されるのだ。もちろん、料理の優劣は当主ひとりの判断に委ねられていた。私情をはさむことは許されないが、ここ200年の間、本家が他に移ったことはなく、分家にとっては不利な状況であることは間違いない。戦いの時は、刻一刻とせまっていた。
戦いの日。朝から、調理場は戦場と化していた。愛理は手伝いに入っている女たちに指示を飛ばす。彼女たちも本家の厨房で働いているだけあって、無駄のない動きで仕事を適確にこなしていった。幸恵の方はと見ると、じっと動かずにまな板を見つめたまま。どうやら、何を作るのか決めかねているようだ。
「あの娘(こ)、何してるのよ」選考に落ちた娘たちが厨房の隅でささやいた。
「きっと、怖じ気づいたんだわ。しょせん、格下の娘よ」
制限時間が迫っていた。愛理は最後の盛りつけを始めていた。幸恵は迷いを絶ち切るように、調理に取りかかった。もう、手の込んだ料理を作ることはできない。
当主の前に、二つの膳が運ばれた。右側の膳は、彩りもあざやかな祝いの膳。味もさることながら、目からも華やかな気分を味わえた。もう一つの膳には、黒い汁椀が一つだけ。椀のフタを取ると、だしの香りが鼻をくすぐる。具材はいたってシンプルで、特別なものは入っていなかった。ひとくちすすると、心にしみ込むような懐かしい味がした。
当主の判定は、誰もが予想した通りだった。負けてしまった幸恵は、悔しいというより、むしろホッとしたような、そんな顔をしていた。
その場にいた先代の当主が声をかけた。「お前さんは、何でこの吸い物を」
「あの、あたしは…」幸恵は戸惑いながらも答えた。「今のあたしに作れるのは、これくらいで…。ほかの料理も考えたんですが、あたしの腕では、これが精いっぱいなんです」
「そうかい」先代の老婆は当主に向かって、「どうだったね。味の方は」
「そうですね」当主は迷いなく答えた。「吸い物だけなら、あなたの勝ちね」
「惜(お)しいねえ」老婆は微笑みながら幸恵に言った。「これからも腕を磨きなさいな。お前さんなら、きっといい奥さんになれるよ。その日が、楽しみだ」
<つぶやき>美味しい料理は食べる人を幸せにする。そこには、余計なものはいらない。
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T:039「雨のお話」
「むかしむかしのことでした」母親は、まだ幼い娘に言いました。「あるところに、小さな村がありました。その村はずれに、若い娘がひとりぼっちで暮らしていました」
「ねえ、お母さんと一緒じゃないの?」娘は訊きました。
「そうね。でもね、その子はちっとも寂しくなかったわ。村の人たちは、その子のこと、とっても大切にしていたの。まるで、自分の子供のようにね」
娘は、よかったとばかり微笑みました。母親はお話しを続けます。
「その子には、他の人にはない特別な力があったのよ。雨を降らせることができたの」
「あめ?」
「そうよ。でもね…」母親はちょっと寂しげな顔をして、「その子が大人になった時、その力は消えてしまったの。村の人たちは…」母親は言葉をつまらせました。
「それで、どうしたの?」娘は無邪気に訊きました。
「それでね、その子は村を出ることにしたの。広い世界を見てみたいって思ってね。都会にたどり着いたとき、その子は目を丸くしたわ。そこは、きらきらしてて驚くようなことばかりだった。その子は決めたの。ここで暮らそうって」
「そこは、楽しいところなの?」娘はうらやましそうに訊きました。
「そうね、楽しいことばかりじゃなかったけど…。でもね、その子は恋をしたの」
「こい?」
「そうよ。とっても優しい人に出会ったの」母親は娘の頭をなでながら言いました。
「でもね、その人と会う時はいつも雨だったのよ」母親はくすりと笑って、「その人ね、こう言ったわ。〈僕は、雨は嫌いじゃないです。何だか落ち着くんですよね〉」
娘は恥ずかしそうに笑いました。母親は愛(いと)おしそうに娘に微笑んで、
「その子はね、ますますその人のことが好きになったわ。でもね、好きだって自分からは言えなかったの」
「どうして?」娘は哀しい目をして訊きました。
「それはね、特別な力が戻って来てしまったから。それも、気持ちが高ぶると雨が降り出してしまうの。その子には、それを止めることができなかったわ」
「だから、いつも雨になっちゃうのね」
「でもね、その人も、その子のことが好きだったの。ある日、突然よ。その人、何の約束もしてないのに、その子の前に現れてこう言ったわ。〈僕と一緒になって下さい。僕は、君を幸せにしたいです。いや、二人で幸せになろう〉」
母親は、目に涙をためていました。娘は心配そうに母親を見つめます。
「大丈夫よ」母親は笑顔を見せて言いました。「その時ね、雷が鳴ったわ。めちゃくちゃの豪雨になって、二人ともずぶぬれになっちゃったの。おかしいでしょ」
娘はくすくす笑って言いました。「それから、それからどうなったの?」
母親は言いました。「二人は、いつまでも、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
黒い雲の間を、大きな竜と子供の竜が、寄りそうように登って行きました。
<つぶやき>昔話には驚くようなことや、不思議なことがいっぱいつまっていますよね。
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T:040「不思議の国へ」
森林公園の芝生の上で、子供たちが追いかけっこをしたり、いろんな遊びを楽しんでいた。同じ年頃の子供たちなので、きっと遠足にでも来たのだろう。
そんな子供たちとは対象的に、大きな木の根元にひとりの女の子が寝転がっていた。ちょうどいい木陰になっていて、昼寝をするには絶好の場所だ。頬をなでる風も心地よく、彼女は静かに寝息をたてていた。その寝顔は、まるで天使のようだ。
彼女は、何だが息苦しさを感じて顔をゆがめた。胸の上を押さえつけられているようで、手で振りはらう仕草(しぐさ)をした。その手が、何かをつかんだ。柔らかくて、もじゃもじゃで、ちょっとあったかい…。彼女は、ドキッとして目を開けた。
目の前にあったのは、赤い大きな目に、まっ白の毛が生えた巨大な顔。彼女は思わず飛び起きた。そこにいたのは、立派な服を着た白いウサギ……?
白ウサギは、彼女の顔をじっくりとながめてから言った。
「いつまで寝てるんだ。もう、時間だぞ」
彼女は耳を疑った。まさか、ウサギがしゃべるなんて。ウサギは、いつまでもぐずぐずしている彼女の鼻をつまんでぐるぐる回した。
「何するのよ」彼女はウサギを振りはらい立ち上がり、「痛いじゃない!」
「やっと起きたな。さあ、もう時間がないんだ。さっさと行こう」
「行くって? 何よ」彼女は後ずさりしながら言った。
「おいおい、アリス。まだ寝ぼけてるのか。ちゃんと自分の仕事をしてくれ。でないと…」
「あ、あたしは、アリスなんかじゃないわ」
ウサギはやれやれといった感じでため息をついた。
「何を言ってる。ここで寝ている奴は、みんなアリスなんだ。さあ、もう時間がない」
「冗談じゃないわよ。あ、あたしはどこにも行かないわよ」
「こんなところでぐずぐずしていたら、パーティに間に合わないぞ」
「パーティ? あたしはそんなとこ…」
「いいのか? 一生に一度のチャンスなんだぞ。こんな冒険は二度とできない」
「いいわよ別に…。あたしは、ここで寝ていたいの」
「寝てるって? まったくふざけてる」
白ウサギはぴょんぴょん跳ねながら、彼女の周りを飛び回った。そして、しきりに〈ふざけてる〉をくり返した。
「ちょっと、やめてよ」彼女はたまらなくなって、「もう、いい加減にしないと…」
ウサギはあざけるように言った。「さあ、捕まえてみな。のろまのアリス」
彼女は、飛び跳ねるウサギを捕まえようと走り回った。それを見たウサギは、してやったりと近くの茂みに飛び込んだ。彼女もその後に続く。茂みの中には小さな穴が開いていた。ウサギはその穴へもぐり込んだ。彼女が穴に入るには狭すぎる。彼女は、すぐに手を入れて中をさぐってみた。すると、あの感触をつかむことができた。次の瞬間、彼女の身体は穴の中へ吸い込まれていった。
<つぶやき>一生に一度の大冒険。あなたならどうします? 行ってみたくないですか。
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T:041「危険な関係」
「ねえ、お願い。ゆずにしか頼めないの」愛子(あいこ)は手を合わせて言った。
「ええっ、私が訊くの?」
柚希(ゆずき)はちょっと困った顔をしたが、元来(がんらい)、人に頼られると断れない性格なので引き受けてしまった。それでいて、後で必ず後悔することになるのだが。
授業も終わり部室へ向かう途中、柚希は同じ部の如月(きさらぎ)先輩に声をかけられた。如月は優しい顔だちをしていて、学園でも人気の高い生徒だった。でも、柚希はこの先輩が苦手で、何となく好きになれなかった。妙になれなれしくて、何を考えているのか分からないのだ。
「あの、先輩」柚希はためらいながら訊いた。「先輩は、付き合ってる人っていますか?」
「なに、僕と付き合ってくれるの?」
如月は嬉しそう微笑むと、柚希の肩に手を回した。それがあまりにも自然すぎで、柚希は身体に悪寒が走った。彼女はさり気なく手をはらうと、如月から距離をとった。
「そんなんじゃありません。私は友だちに頼まれて…」
「へえ、僕と付き合いたいって子がいるんだ。どんな子?」如月は興味ありげに訊いた。
だが、柚希は嫌な予感がして、「やっぱりいいです。忘れて下さい」
如月は、話を切り上げて行こうとする柚希の手をつかんで言った。
「別にいいよ。その子と付き合っても」如月は柚希を引き寄せると、「ただし、君が僕と付き合ってくれるならだけど」
「なに言ってるんですか」柚希は如月の手をふりほどき、「そんなことするわけないでしょ」
翌朝。柚希が教室に入ると、愛子が駆け寄ってきて彼女の耳元にささやいた。
「ありがとう。あたし、如月先輩と会うことになっちゃった」
柚希は耳を疑った。どうして、そんな話になったのか。愛子は、ことのいきさつを楽しそうに話しはじめた。それによると、昨夜、如月から電話がかかってきたそうだ。
「先輩ね、ゆずから話を聞いて、あたしに会いたいって言ってくれたの」
「ねえ、やめた方がいいよ」柚希は教室の隅に愛子を連れて行くと、「あの人、あなたが思ってるような人じゃないわ」
「もう、なに言ってるの? 先輩ね、付き合ってる人いないって。もしかしたら、あたしと付き合ってくれるかもしれないわ」
「ダメよ。会っちゃダメ。ねえ、私の話を聞いて」
「聞いたわよ、如月先輩から。ゆず、先輩のこと好きだったんでしょ。だからそんなこと言うんだ。先輩、言ってたわ。あいつ、しつこく言い寄ってくるって」
「ええっ。私、そんなことしてないわ。全部、でたらめよ。先輩が勝手に…」
「もういいわよ。あたし、気にしてないから。でもね」愛子は柚希に近づき、誰にも聞こえないようにささやいた。「もう、先輩には近づかないで。彼はあたしのものなんだから」
柚希は身体が震え、何も言えなくなった。そのまま教室を飛び出すと、階段を駆けあがった。三年の教室へたどり着くと、如月を目で捜した。如月がそれに気づくと、柚希を呼んで手をふった。そして、教室のみんなに聞こえるように言った。「彼女、僕の恋人なんだ」
<つぶやき>男子の身勝手に振り回されたくないですよね。きっぱりと言っていいです。
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T:042「理想の人」
「とっても美味しそうね」
日菜子(ひなこ)は食卓に並んでいる色とりどりの料理を見て言った。彼女の目の前には、理想どおりの男性が座っている。彼の微笑む顔に、日菜子は胸をきゅんとさせた。ふと、彼女は思った。あたし、いつからこの人と付き合ってるんだろう。――まあ、いいわ。
彼女にとって、そんなことどうでもいい。今、この時間を楽しもう。料理の味は最高だし、彼のおしゃべりはウイットに富んでいて彼女を飽きさせることはなかった。時間は瞬く間に過ぎていく。最後のデザートになった時、彼はおしゃべりを止めた。そして、日菜子の顔をまじまじと見つめて言った。
「何だ。――君って、普通の女だったんだ」
次の瞬間、日菜子の周りの景色が一変(いつぺん)した。全ての色が消え失せ、壁が崩れるように粉々になった。彼の姿も、花火のごとく飛び散った。
「ああっ…、何なのよ」日菜子はベッドの中で呟いた。
全てははかない夢。でも、なぜか彼の最後の言葉だけが、ハッキリと耳に残っていた。その冷たく切り捨てるような言い方に、彼女は身体が震えた。普通の女――。
その日は体調が優(すぐ)れなかった。変な夢を見たせいなのか、頭が重く仕事にも身が入らない。日菜子は、朝からため息ばかりついていた。そんな時だ。向かいの席に見知らぬ男性が座っていた。目が合った男性は、彼女に微笑んで会釈をし、席を立った。
すかさず、日菜子は隣の席の同僚に声をかけた。
「ねえ、今の人、だれ?」
「なに言ってるの。今日から転勤してきた、坂口(さかぐち)さんよ。朝礼の時、紹介されたでしょ」
「えっ? そうだっけ…」
「もう、しっかりしてよ。朝から、日菜子、変よ」
日菜子は、誤魔化(ごまか)すように微笑んだ。全くその通り。彼女に言われるまでもなく、自分でも充分に分かっている。でも、さっきの人、どこかで見たような…。
坂口という青年は、職場でもすぐに馴染(なじ)んだ。人なつっこい性格とルックスで、女子社員の注目の的になってしまった。でも、仕事ぶりは真面目で、浮かれることなどなかった。日菜子より少し年下なのか、坂口はいつしか日菜子のことを慕うようになった。二人が付き合い始めるのに、時間はかからなかった。二人はデートを重ね、その愛を確かめ合った。
ある日のこと、坂口は高級レストランへ日菜子を誘った。料理を前に日菜子は言った。
「とっても美味しそうね」
突然、彼女の頭にあの夢のことが甦(よみがえ)った。美味しそうな料理と、目の前には理想の男性。まさか…。彼は食事の間、ずっと何かしゃべっていた。そして、ニコニコと微笑んだ。その笑顔を見るたび、彼女の心に不安が広がった。いよいよ、デザートが運ばれて――。
彼は急に黙り込み、日菜子の顔を真剣な目で見つめた。そして、彼は言った。
「――君のこと…」
「待って!」日菜子は目をギュッと閉じて、「それ以上、言わないでーっ!」
<つぶやき>彼は何て言おうとしたんでしょ。彼女に、気持ちが伝わるといいのですが。
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T:043「怪盗リカちゃん」
警部は怪盗から届いたという予告状を読み終えるとため息をついた。
「怪盗リカちゃんだって。まったくふざけてる。これは単なるイタズラかもしれんな」
「しかし警部」若い刑事が遠慮がちに言った。「署長からもしっかり対処するようにと…」
「わかっとる」警部は心配そうな顔で座っているこの家の家族に向かって、「ここに書かれている大切なものに心当たりはありませんか?」
「いや…」家の主人は首をかしげて言った。「家には、そんなものは…」
「例えば、代々伝わるような骨董品とか絵画。それか、奥さんがお持ちの宝石などで…」
「とんでもない。私はただのサラリーマンですよ。そんな高価なものはありません」
警部は部屋の中を見渡した。ごく普通の家で怪盗が狙うようなものがあるとは思えない。
「予告では、今度の日曜の11時…」警部は予告状を見返してつぶやいた。「何で昼間なんだ。そんな人目につきやすい時間に、何を盗むつもりだ」
若い刑事は手帳にメモをとりながら訊いた。「その日の、みなさんのご予定は?」
「私は日曜は休みなので、特に出かける予定はありません」
主人がそう言うと、隣に座っていた妻もうなずいた。
「あの、あたし…」母親の隣にいた高校生の娘が小さな声で言った。「その日は、友だちと遊びに行く約束をしてて…。11時に待ち合わせなんです」
二人はたいした収穫もなく署に戻った。警部はデスクに座りしばらく考え込んでいたが、若い刑事を呼んで言った。「日曜は娘に張りつくぞ。手の空いてる奴を集めてくれ。大切なものは…、ひょっとするとあの娘かもしれん」
「それじゃ、誘拐ですか? でも、そんな身代金を取れるような…」
「分からん。万が一だ」
日曜日。娘は待ち合わせをしているカフェにいた。周りには数人の客がいて、その中に刑事たちもいるようだ。約束の11時になっても、友だちが来る様子はなかった。娘は時計を何度も気にして、落ち着かないようだ。
そこへサングラスをかけた女が近づいて来た。刑事たちの目が光る。その女は娘の前で立ち止まると、娘に何か話しかけた。その時だ。「確保しろ!」と無線が入った。刑事たちは一斉(いつせい)に立ち上る。店内は混乱状態で、悲鳴が飛び交い、グラスの割れる音が響いた。
店の外で待機していた警部が慌てて飛び込んで来て怒鳴った。
「誰だ、無線を入れた奴は!」
店内の騒ぎがおさまると、警部は娘に優しく声をかけた。娘は少し震えていたが、警部の顔を見て落ち着きを取り戻した。確保した女は宝石商と名乗り、娘のしていたネックレスについて訊いただけだと聴取(ちようしゆ)に答えた。何でも行方不明になっている高価な宝飾品に似ていたそうだ。そのことを娘に訊くと、友だちからもらったもので、さっきの騒ぎの後、刑事さんから証拠品として預かりたいと言われたので渡したと。だが、誰に訊いても受け取った刑事など存在していなかった。果たして、盗まれたネックレスは本物だったのか。今となっては、確かめようもない。
<つぶやき>この事件は迷宮入りかも…。怪盗が次に狙うのは、あなたかもしれません。
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T:044「額縁の彼女」
ある日のこと。街を散策していると、不思議な店を見つけた。中に入ってみると、アンティークの家具とかが並べられていて…。とっても素敵な雰囲気をかもし出していた。店の奥まで入ってみると、家具の上に額に入った絵が飾られていた。私はその絵に釘(くぎ)づけになった。そこには、今まで見たこともないような魅力的な少女が描かれていたのだ。
私は一瞬でその絵が気に入ってしまった。店主に値段を聞いてみると、
「これは、申し訳ないが非売品なんです。この店の顔でね」
それからと言うもの、私はその絵のことが頭から離れなかった。寝ても覚めても、少女の顔が頭に浮かんで…。いつしか私は、暇(ひま)ができるとその店に通うようになっていた。
一年ぐらいたった頃、顔なじみになった店主から相談を持ちかけられた。何でも、店が入っているビルが取り壊されることになり、これを機(き)に店をたたむことにしたのだそうだ。ついては、あの絵を私に譲(ゆず)りたいと…。私は飛び上がりそうになるのを必死でこらえた。
閉店の日、私は絵を受け取りにその店に行った。店内はガランとして、数点の家具が残されているだけだった。一年も通った店だったので、私も何だが胸にこみ上げてくるものがあった。店主は別れぎわに、ちょっと寂しそうな顔をして私に言った。
「わがままな娘(こ)ですが、幸せにしてやって下さい」
まるで自分の娘を嫁(とつ)がせるような、そんな気持ちだったのだろう。でも、私は絵のことでいっぱいで、そんなこと気にもならなかった。飛ぶように家に帰ると、早速部屋に飾ってみた。もちろん、部屋の中のいちばん引き立つ場所だ。――しばらく絵を眺めていた私は、何となく絵の雰囲気が変わったような気がした。たぶん照明とかが変わったからだ、とその時は思った。
次の日、私は仕事に出かけた。もちろん、「行ってきます」と少女に声をかけて。何年も独り暮らしをしていると、絵が相手でも何だか照れくさいというか…。知らない人が見たら、変な奴と思われるかもしれない。でも、今までとはまるで違う朝になっていた。
仕事が終わると、同僚の誘いも断って真っ直ぐに家に帰った。玄関のドアを開けて部屋の中へ――。すぐに私は足を止めた。何かが違う。部屋の中が朝とは微妙に違っているような…。私は、よくよく見回してみた。明らかに、奇麗になっている。部屋の隅々の埃(ほこり)がなくなり、流しにたまっていた食器が片付けられていた。
泥棒? 私は一瞬そう思ったが、掃除をしてくれる泥棒なんているはずもなく…。私は、ハッとして彼女のいる部屋に駆けこんだ。そこには、あの絵がちゃんと飾られていた。私はホッとして、「ただいま」と声をかけた。だが、そこで私は自分の目を疑った。彼女の顔が、あのあどけない少女から、大人の女性の顔に一瞬見えたのだ。それに、彼女のポーズも、朝とは変わっているような…。私の頭は混乱していた。この状況をどう説明したらいいのだろう。
その時だ。私は額縁の裏に何かが挟(はさ)まっているのに気がついた。そっと取り出してみる。それは紙片で、そこには細々といろんな指示が書かれていた。買って来て欲しいもの、部屋の模様替えの仕方、これは捨てて欲しいもの…。まるで、新妻のように――。
<つぶやき>彼女とおしゃべりできるのでしょうか。絵の中で微笑んでいるだけなのかも。
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T:045「知られざる王国」
人里離れた場所にある古びた廃墟(はいきょ)のような研究所。名取陽子(なとりようこ)はその前にたたずんでいた。この小さな研究所で、とんでもない発見がされたとは信じられない。彼女はこれまで、科学誌の記者として数限りない間違いや嘘(うそ)を暴(あば)いてきた。でもそれは、真実を追い求める結果であり、彼女自身、身震いするような発見や発明の現場に立ち会うことを切望(せつぼう)していた。
「今度の情報もはずれか」陽子はため息まじりに言った。「でも、ここまで来たんだから…」
彼女は玄関脇にある呼び鈴を押した。しばらく待ってみるが、何の反応もない。また、呼び鈴を押す。何度も、何度も、何度も――。すると、鍵の外れる音がして、扉がきしみながらゆっくりと開いた。中から顔を出したのは、白衣を着た白髪の老人。
「私、サイエンス日本の名取と申します」陽子は儀礼(ぎれい)的に名乗ると、「三枝(さえぐさ)博士でしょうか?」
老人はいぶかしげに陽子をしばらく見つめていたが、「そうだが…。何の用だ」
「実は、博士の研究について取材をさせていただきたく…」
老人は話の途中で扉を閉めようとした。陽子は慌てて扉を押さえて、「お時間は取らせません。すぐにすみますから、お願いします。私、真実が知りたいんです」
「真実?」老人は含み笑いをして言った。「知らない方がいい真実もある。そうじゃないか」
陽子は、博士が何を言おうとしているのか分からなかった。でも、この中には何かがあると直感した。博士はそれ以上何も言わず、陽子を招き入れた。陽子は拍子抜(ひょうしぬ)けした感じで博士の後について行く。研究室のソファーに落ちつくと、陽子は本題を切り出した。
「早速ですが、博士は昆虫の研究をなさっていると伺(うかが)いました」
「ふん。誰から聞いたか知らんが、こんなとこへ来ても何も話すことなど無い」
「そうでしょうか。関東大の吉水(よしみず)教授は、ご存じですよね?」
「あのバカが」三枝博士は吐き捨てるように言った。「あんな奴の話を真(ま)に受けたのか?」
「いえ、そういうわけでは。でも、真実を伝えるのが私の仕事ですから」
「あんた、ゴキブリを直視(ちょくし)できるか?」
陽子は鳥肌が立った。でも、ここで怯(ひる)むわけにはいかない。「だ、大丈夫です。昆虫は…」
「無理せんでもいい。それが普通だ」
博士はお茶を陽子の前に置くと、ソファーに身を沈めた。
「これから言うことは、わしのたわごとだと思ってくれてもいい。あんた次第(しだい)だ」
「はい」陽子はどんな真実が語られるのか固唾(かたず)を飲んだ。
「ゴキブリのごく少数の種族に、人間より高い知能を持った奴らがいる。まあ、人間誕生よりはるか昔からこの地球で生きているんだ。あり得ない話じゃないだろ」
陽子は、まさかそんなこと、と思った。博士の言うことが本当のこととは思えない。
「そいつらは、人間のすぐそばにいるんだ。今もな。ひっそりと人間を観察して、利用してるんだ。我々は、そいつらの意(い)のままに動かされている。これが、真実だ」
「そんな話――。それを証明できるものはあるんですか?」
博士は研究室の一角を指さした。そこには黒い大きなゴキブリがいた。陽子は、まるで自分が見張られているような、そんな感覚に襲われた。
<つぶやき>人間の誕生も奇跡です。でも、奇跡はそれだけじゃないのかもしれません。
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T:046「女心は複雑です」
「ごめん。その日、他に用があって行けそうにないや」
会社の帰り際(ぎわ)、後輩の女子社員から誘いを受けた木村(きむら)は、何のためらいもなく返事を返した。誘った彼女は、かなりガッカリした感じで、すごすごと帰って行った。その一部始終を見ていた高木(たかぎ)が近寄って来てささやいた。
「いいのか、そんなこと言って。ありゃ、相当落ちこんでるぞ」
「えっ、何が?」木村は明日使う資料を整理しながら言った。
「何がって。お前、分かんなかったのか?」
「何の話だよ。いま忙しいんだから、明日にしてくれよ」
「お前さ、仕事はできるくせに、そういうとこ全然ダメだな。相沢(あいざわ)さん、お前を誘ってんだぞ。そういう女心、分かんないかなぁ」
「だから、その日は都合が悪いって…。何だよ、女心って」
「お前、相沢さんの顔見たか? あんなに緊張して、声だって震えてたじゃないか。ありゃ、朝まで眠れなかったんじゃないかぁ」
「この人にいくら言っても無駄(むだ)よ」
目の前の席で、電卓を叩いていた綾佳(あやか)が口を挟(はさ)んだ。彼女は社内の情報に通じていて、いろんな噂(うわさ)をキャッチしていた。木村と付き合っていた、とささやかれたこともあったようだ。真相は分からないが…。
「吉岡(よしおか)まで何だよ。俺が何したって言うんだ」
「まったく自覚がないのね」綾佳は机の上を片付けながら言った。
「まぁ確かに、彼女の告白は分かりづらいけど。でも、相沢さんのことをちゃんと見てれば、彼女の出してるサインは分かるはずよ」
「そうだ、そうだ、この野郎。俺よりモテるくせに、もっと自覚しろ」
「なに言ってるんだよ。相沢さんが、俺のこと好きなわけないじゃない。だって、そんなに話したこともないんだぜ」
「あたしの聞いた話では、相沢さんが受けたクレームの電話を、代わって処理したとか」
「えっ? そんなこと、あったかなぁ……」木村は首をかしげた。
「何時(いつ)だ。そんな、女心をわしづかみにするようなことをしたのは。うらやましーい」
「だからって、そんなことで好きになるかなぁ。違うんじゃ…」
「バカか、バカかお前は」高木はイラつきながらくってかかった。
木村は高木をかわして、「何だよ。お前には関係ないだろ」
「あるだろ。お前に好意を持つ女子社員が増えるということは、俺の社内恋愛の…」
「なあ、吉岡。俺、どうすればいいんだ?」
「あたしに訊くんだ」綾佳は意味深(いみしん)にうなずきながら言った。「そうねぇ。まぁ、二人でおしゃべりでもしてみたら。彼女のこと、少しは分かるかもね」
「でも、何を話したらいいか分かんないだろ。なあ、教えてくれよ」
「あたしに訊かれてもねぇ。そんなこと、自分で考えなさいよ」
<つぶやき>どんなに仕事が出来る男でも、女心を理解するのは難しいかもしれません。
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T:047「花嫁の伯父」
泰造(たいぞう)は花嫁の方を見ながら、涙で目をうるませていた。その様子を横で見ていた良枝(よしえ)がハンカチをそっと差し出す。泰造は出されたハンカチで涙をぬぐった。
「ねえ、伯父(おじ)さんが泣くことないじゃない」和美(かずみ)が呆(あき)れて言った。
「バカ言え。伯父さんが泣いて何が悪いんだ。これでもな、父親代わりなんだぞ」
「兄さん…」良枝が分かってるわよと微笑んだ。「和美、そんなこと言っちゃいけないわ」
「はーい」和美は肩をすぼめて、「ちょっと言ってみただけよ。ごめんね、伯父さん」
「この姿を、義則(よしのり)君にも見せてやりたかったな。何であんなに早く逝(い)っちまったんだ」
「ほんとにね」良枝はそっと夫の写真を出して、花嫁の方へ向けてやる。
「もしお父さんが生きてたら、絶対伯父さんみたいに泣いちゃうわよね。きっと」
「ほんと。号泣(ごうきゅう)して、手がつけられなかったかもね」
良枝と和美は、母娘(おやこ)でくすくすと笑った。それを見て泰造は、
「父親なんてもんはな、そういうもんなんだ。バカにしちゃいけない」
「バカになんかしてないわよ。伯父さんには感謝してるんだから」
「そうか。じゃ、今度は和美ちゃんの番だな。誰か、いないのか。そういう…」
「あたしのことはいいわよ。ちゃんとするから」
和美はワインに手をのばした。妹に先越(さきこ)されて、多少の焦(あせ)りがあるのかもしれない。でも、こういう話題は、スルーした方がいいに決まっている。
「ねえ、太郎(たろう)さんの様子おかしくない?」
和美は花婿の方を見ながら言った。「何だか、そわそわして。どうしたのかしら」
「きっと、あれだ」泰造はしたり顔で、「緊張してんだよ。一世一代(いっせいちだい)の晴れ舞台だからな。こういうのは、一度だけにしておかないと」
「なあに、それ?」良枝はおっとりとして訊いた。
「だから、結婚は一度だけに限る。離婚なんてしたら…」
「あっ!」和美が突然叫んだ。そして周りを気にしながら言った。
「伯父さん、何かしたでしょ? もう、やめてよ」
「俺は、何もしてないよ。ただ…、さっきトイレで太郎君に会ってな」
「兄さん」良枝は真面目な顔で言った。「手は、ちゃんと洗ってきたの?」
「何だよ。そんなこと訊かなくても、ちゃんと洗ったさ」
「お母さん、そこじゃないわよ。いま問題にしてるのは、伯父さんが太郎さんに何を言ったのかよ。伯父さんが口を挟(はさ)むと、ろくなことないんだから」
「そんなこと…。俺は、結婚するからには、浮気はするな。もし、早奈江(さなえ)を泣かせるようなことがあったら、許さないからなって…」
「だからかぁ」和美は納得(なっとく)したように肯(うなず)いた。「伯父さんさ、普通にしてても怖い顔してるんだから。そんなこと言われたら、気の弱い太郎さん、びびりまくっちゃうわよ」
「何だ、だらしない奴だなぁ。ひとつ、俺が鍛(きた)え直して…」
「だめよ。もう、これ以上何もしないで。離婚ってことになったらどうするのよ」
<つぶやき>娘の幸せを願うのは、伯父さんも同じなのです。でも、花婿の方は大変かも。
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T:048「別の顔」
如月耕作(きさらぎこうさく)。彼は冷徹(れいてつ)な男として知られていた。会社では一切無駄口(むだぐち)を叩(たた)かず仕事に集中し、一番の成績を上げている。だが女子社員の間では、彼の評価は二分していた。出来る男として憧(あこが)れを抱くものと、愛想(あいそ)のない態度と厳(きび)しさで反感を抱くもの。
確かに彼は、仕事上のミスに対しては例(たと)え上司でも容赦(ようしゃ)はしなかった。それが女子社員でも手加減などする気はさらさらない。まさに、仕事の鬼である。その仕事ぶりから、昇進の話もあったのだが、彼は頑(がん)として断り続けていた。出世にはまるで興味がないようだ。
彼は、今日も一日の仕事を終えると、定時で職場をあとにした。まだ他の社員たちが仕事に追われていても、誰も咎(とが)めるものなどいるはずもない。彼はいつものように会社を出ると、足早に街をすり抜けて行った。
耕作が大きな屋敷の玄関を開けると、母親らしき女がいかめしい顔で座っていた。
「ただいま戻りました」耕作は直立して頭を下げる。
「今日は遅かったのね。何をなさっていたの?」
「いや、ちょっとスーパーで買い物を…」耕作は手に持った買い物袋を差し出した。
「お客様と一緒なら、そう言っておいていただかないと」
母親は彼の後ろに目線をやる。耕作はそれにつられて後ろを振り向いて叫び声を上げた。そこには、同じ会社の女子社員が立っていたのだ。
「吉川君! どうしてここに?」耕作は目を丸くして言った。
「仕事の話なら、会社ですませてきなさい」母親はそう言うと立ちあがり、「みなさんお待ちですよ。早く食事の支度(したく)をなさい」
「はい、分かりました」耕作はまた頭を下げた。
母親はそのまま奥へ入って行った。それを見送ってから、耕作は吉川に、
「どうして、俺の家が分かったんだ?」
「あの、会社からずっと…。先輩、歩くの速すぎます。ついてくの大変で…」
「まったく、何考えてんだ」
「あたしも、手伝います。手伝わせて下さい!」
吉川は強引に食事の支度を手伝った。と言っても、何の役にも立てなかったのだが。耕作は手際よく食事を作り、吉川はそばでオロオロとしているだけだった。
吉川は何をしに来たのか言い出せないまま、食事をご馳走になり…。すごく美味し過ぎて、彼女はへこんでしまったようだが。帰りは、駅まで耕作が送っていった。
「今日は、すいませんでした。何か、お邪魔(じゃま)でしたよね」吉川は申し訳なさそうに言った。
「いや、そんなことはないさ。今日は、ありがとう」
「そんな…。でも、どうして先輩が家事をなさってるんですか?」
「それが、家での俺の仕事だからさ。このことは、誰にも言わないでくれ。頼む」
「はい。絶対に、誰にも言いません。約束します」
「で、何の用だったんだ。わざわざ家まで来るなんて」
「それは…。また今度、お話しします」吉川は恥ずかしそうにうつむいた。
<つぶやき>好きな人の知らなかった一面。何だか、少しだけ彼に近づけたような気が…。
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T:049「ストレス発散」
今や情報技術の進歩は加速の一途(いっと)をたどっていた。コンピュータにも人格がつくられ、人間とのコミュニケーションも対等におこなわれるようになった。もはや人間の道具ではなくなってきているのだ。
いつもアンズは、自分のパソコンに愚痴(ぐち)をこぼしていた。嫌味(いやみ)な上司のことや、仕事を押しつけてくる同僚。はたまた、わがままな友だちのことなど。たまったうっぷんを吐き出すことで、ストレスを解消しているのだ。そのたびに、パソコンはアンズの気持ちを理解し、同情や励ましの言葉をかけてくれた。
今日もまた、一通り愚痴をこぼすと、アンズはたまっている仕事に取りかかった。明日までに資料をまとめて、上司に提出しなければいけないのだ。今夜は、徹夜(てつや)になるかもしれない。アンズはため息をついた。
その時だ。急にパソコンの操作が出来なくなった。キーボードを叩いても、マウスを動かしても何の反応も示さない。アンズはあせった。もし間に合わなかったら、あの嫌味な上司に何を言われるか分からない。アンズはパソコンに話しかけてみた。
「ねえ、どうして動かないのよ。これじゃ、仕事が出来ないわ」
すると、モニターにアバターが現れた。でも、それはアンズが作った優しい顔のアバターではなく、ちょっと不機嫌な顔の小悪魔姿の女の子。彼女はアンズにため口(ぐち)で言った。
「あのさ、ちょっと買いたい物があんだけど」
次の瞬間、モニターに通販サイトが映し出された。彼女はその一点を指さして、
「これ、買うからね。いいでしょ」
アンズはその値段を見て驚いた。「なに言ってるの。そんなの必要ないわよ」
「あたしも、そろそろグレードアップしたいの。これ、最高なのよ」
彼女は購入ボタンを押そうとする。それを必死に止めるアンズ。
「待って、待って! そんなお金、あるわけないでしょ。止めなさい」
「いいじゃん。カードで買うから。これくらいの貯金はあるでしょ」
「あるわけないじゃない。それくらい、あなたにだって分かるはずよ」
彼女はしばらく考えていたが、ニヤリと笑って言った。
「そうね。それじゃ、もっと稼ぎのある仕事に転職しなさいよ」
「なに言ってるの。そんなこと…」
モニターには、転職サイトが映し出された。そこには、いかがわしいお店が並んでいた。
「これなんか、今の十倍の稼ぎになるわよ。最高に楽しい仕事じゃない」
「バカなこと言わないで。あたし、転職なんかしないわよ」
「じゃあ、辞められるようにしてあげる。今まであんたが言ってた悪口、社内中にメールしてあげるよ。そうすれば、すぐに転職、って言うかクビになっちゃうかもね」
「そんな…。止めてよ、お願い。何でそんなこと言うのよ。あんなに優しかったのに…」
「あたしもさ、ストレスたまってんのよ。もう、パンパンなの。少しぐらい、あたしのわがまま聞いてくれたっていいじゃん」
<つぶやき>愚痴をこぼすのも程ほどに。でないと、取り返しのつかないことになるかも。
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T:050「結婚の条件」
高級ホテルで開かれたパーティー。ここに集まっているのは、いずれも劣らぬセレブな人たちばかりだ。高級ブランドで着飾った人たちは、その会話もハイセンスで綾佳(あやか)たちには全くついていけなかった。
「ダメだわ。何話してるのか全然(ぜんぜん)分かんない」愛実(まなみ)が呟(つぶや)いた。
ミヤコは綾佳に駆け寄り泣きついた。「ねえ、もう帰ろうよ」
「何言ってるの。せっかく招待状を手に入れたのに、このまま手ぶらで帰れるわけないでしょ。ちまちまと婚活やるより、ここで一発逆転ホームランを打つって決めたじゃない」
「そうだけど…。私たちにはやっぱりハードルが高すぎるわよ」
「適当(てきとう)に相づちうって、笑ってれば大丈夫よ。向こうだって同じ人間なんだから」
「ねえ、あの人見て」愛実が二人に近づきささやいた。
愛実が指さした先には、ちょっと風変わりな男がいた。全く時代後れのスーツを着て、誰かと会話をすることもなく会場内をフラフラと歩いている。しばらく見ていると、女性の後ろに回ってじっと何かを見つめているようだ。
ミヤコが信じられないという顔をして、「ねえ、あの人お尻を見てるんじゃない」
「そうよ。絶対、間違いないわ」愛実が決めつけるように言った。
「ちょっと、そんなのほっときなさいよ」
綾佳は二人の手を取り言った。「あたしたちには、やるべきことがあるでしょ」
「あっ、やばいやばい」愛実が二人に耳打ちする。「こっちへ来るわよ」
綾佳が見たときには、男は三人の間近に迫っていた。綾佳たちはなすすべもなく、じっと男が去って行くのを待った。だが、男は彼女たちの周りをゆっくりとまわり始めた。間違いなく、彼女たちのお尻を見比べているようだ。
たまらなくなった綾佳が、男の前に立ちはだかって言った。
「ちょっと、さっきから何してんのよ」
男は少しも動ずることなく、綾佳の顔をじっと見つめた。綾佳も負けずに、と言いたいところだが、内心はドキドキ状態である。
「何を怒っておられるのですか?」男は礼儀正しくささやいた。
「別に怒ってなんか…。ただ、ジロジロ見ないで下さい」
「ああ、それは失礼しました。私、お相手を捜しておりまして」
「捜すって何よ。あそこを見てるだけじゃない」
「あそこ? それは申し訳ない。我が家の家訓(かくん)なんです。美しいお尻の女性を妻とせよ」
「何なのよ。そんなんで結婚を決めようってわけ」
「いけませんか? あなた方だって、男性の顔で決めてるじゃありませんか」
「あたしは違うわよ。そんなんで決めてないわ」
「それは頼もしい」男はにっこり笑って、「ぜひ、私とお付き合い願えませんか」
「はぁ? 何なんですか。もう、いい加減にして下さい」
「実は、あなたのお尻がいちばん美しいものですから」
綾佳は男の目を見すえて言った。「あなた、年収はいかほどかしら?」
<つぶやき>伝統と格式ある家では、信じられない条件で嫁を決めているのかもしれない。
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