書庫 ブログ版物語601~

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T:0601「情報を制するもの」
 軍服(ぐんぷく)を着た男が、女に歩(あゆ)み寄(よ)って言った。「君(きみ)は、ダンカン将軍(しょうぐん)のことで話があるとか」
 女はおずおずと、「あたし、バーで女給(じょきゅう)してて…。お店(みせ)には軍人(ぐんじん)さんも大勢(おおぜい)来るから、いろんな話を聞けるんです。だから…」
 ダンカンとこの男は、軍の中で権力争(けんりょくあらそ)いをしていた。どちらがこの国を支配(しはい)するのか、それによってこの国の運命(うんめい)まで変わってしまうのだ。女は男の耳元(みみもと)で何かをささやいた。そして、紙切(かみき)れを手渡(てわた)した。男はそれを見ると顔色(かおいろ)が変わり、部屋を飛び出して行った。
 女は部屋の中で一人になると、目つきが変わった。男の机(つくえ)の上にある端末(たんまつ)を操作(そうさ)して、ある情報(じょうほう)をペンダント型の記憶媒体(きおくばいたい)にダウンロードした。女が部屋を出ようとしたとき、さっきの男が戻(もど)って来た。女は驚(おどろ)いて立ち止まる。男は女の前に立ちふさがり、
「やっぱり、お前は敵国(てきこく)のスパイだな。何をねらって来たんだ?」
 男は女からペンダントを取り上げると、女の服(ふく)の襟(えり)をつかんで嫌(いや)らしい笑(え)みを浮(う)かべて言った。「じっくりと、その身体(からだ)に教(おし)えてもらおうか?」
 女は不敵(ふてき)な笑(え)みを浮(う)かべて、「いいわよ。でも、あなたにできるかしら?」
 男は女の首(くび)をつかんで言った。「お前が行くのはベッドじゃなく、暗い監獄(かんごく)の拷問(ごうもん)室だ」
 軍服の男たちが入って来て、女を引きずるように部屋から連れ出して行った。男はほくそ笑んでささやいた。「これで、俺(おれ)はすべてを手にすることができる。ハハハハ」
 その日のうちに、男は何者かに暗殺(あんさつ)された。そして、女は密(ひそ)かに国外退去(こくがいたいきょ)となった。
<つぶやき>いろんな人の思惑(おもわく)が交差(こうさ)して、もう何が何だか分かんなくなってきてます。
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T:0602「純情乙女」
 東京(とうきょう)の大学(だいがく)に入学(にゅうがく)した青年(せいねん)が二年振(ぶ)りに帰省(きせい)した。実家(じっか)の前まで来たとき、隣(となり)の家から出て来た若(わか)い娘(むすめ)とぶつかった。その娘は青年の顔を睨(にら)みつけたが、急に顔をそむけた。
 青年は娘の顔を覗(のぞ)き込み、「あれ、みっちゃん? みっちゃんじゃないか」
 娘は背(せ)を向けた。青年は娘の変わりように驚(おどろ)いて、
「どうしたんだ? 髪(かみ)、染(そ)めちゃって…。まだ高校生だろ。何でそんな――」
 娘はキッと青年を見て呟(つぶや)いた。「お前のせいだ。お前なんか…」
「なあ、何があった? ちゃんと学校行ってるのか。悪(わる)い仲間(なかま)と――」
「うるせえな。お前には関係(かんけい)ねえだろ。親(おや)でもないのに…」
「幼(おさな)なじみだろ。心配(しんぱい)するさ。小さいころからずっと見てきたんだ」
「もう、ほっといてよ。あたしは…、もう昔(むかし)のあたしじゃないの」
「なに言ってんだ。みっちゃんは、みっちゃんだろ。あの無邪気(むじゃき)で可愛(かわい)い――」
「じゃあ、何で答(こた)えてくれなかったの? あたし、告白(こくはく)したんだよ。それなのに…」
「えっ、告白? 誰(だれ)に?――俺(おれ)? ちょっと待ってくれ。えっ…、それっていつ?」
「大学に合格(ごうかく)したときだよ。あたし告白したよね。ちゃんと、勇気(ゆうき)だして、したんだから」
 青年はしばらく考えてみたが、「いやいやいや…。ごめん、告白されたなんて…」
「何で! あたし、ちゃんと言ったじゃない。あたしも行きたいって!」
<つぶやき>この後、もう一度告白したようです。さて、乙女(おとめ)の恋(こい)は実(みの)ったのでしょうか?
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T:0603「嵐を呼ぶ男」
 私の彼はちょっと変わってるの。彼とのデートは、いつも何かが起(お)こるんだ。
 初めてのデートの時は、台風(たいふう)が来てしまった。だから、どこへも行けずに中止(ちゅうし)になった。次の約束(やくそく)の日は、突然(とつぜん)の大雨(おおあめ)になってしまって…。ずぶ濡(ぬ)れになった私は、風邪(かぜ)をひいて三日間寝込(ねこ)んでしまった。
 一週間後のデートの日は、大風(おおかぜ)が吹(ふ)いていて大変(たいへん)だった。彼は私に風が当(あ)たらないようにと風上(かざかみ)に立ってくれて…。それでも、私の髪(かみ)はグチャグチャになってしまった。スカートをはいて行かなくて良かったわ。
 彼は私に会うたびに、ごめんねって言ってくれる。そして、
「僕(ぼく)は、嵐(あらし)を呼(よ)んでしまう男だから…。きっと、これからも僕に会うときは大変かもしれない。それでも、僕と付き合ってくれるかい?」
 私は彼に答(こた)えたわ。「そんなの平気(へいき)よ。だって、あなたと会うときは、いつもエキサイティングなんだもの。これから何が起こるか、ワクワクするわ」
 そんなことを言ってしまう私って…。私も、変わってるのかもしれないわ。今日も彼とデートの約束をしている。窓(まど)の外を見ると、大きな雲(くも)が湧(わ)き上がっていて、遠(とお)くで雷(かみなり)のゴロゴロという音がかすかに聞こえてきた。――今日は、彼がプロポーズしてくれるかもしれないわ。私は胸(むね)を躍(おど)らせて、大きなバッグの中に雨具(あまぐ)をしのばせた。
<つぶやき>雨男(あめおとこ)ならぬ嵐男ですか。彼と付き合うには相当(そうとう)の覚悟(かくご)が必要(ひつよう)かもしれません。
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T:0604「雪山」
「もう少しだ。ほら、頂上(ちょうじょう)が見えるだろ。がんばれ!」
 男は後ろを向いて、女に言った。だが、女は雪(ゆき)の斜面(しゃめん)に座(すわ)り込んでしまって身動(みうご)きできない。男を見上げると苦(くる)しそうに言った。
「もう無理(むり)よ。あなただけでも、行ってちょうだい。私、ここで待ってるから…」
「なに言ってるんだ。お前をおいて行けるわけないだろ。それに、お前と一緒(いっしょ)じゃないと意味(いみ)ないんだ。二人で頂上に立つって約束(やくそく)したじゃないか」
「ほんとに無理なの。もう一歩も歩けないわ。だから、行って!」
「分かった。じゃ、山を降(お)りよう。……無理をさせて、すまなかった」
「ダメ、そんなのダメよ。この山を征服(せいふく)するのが、あなたの夢(ゆめ)だったじゃない。今までしてきたことが、無駄(むだ)になっちゃう」
「いいんだ。またいつでも登(のぼ)れるさ。次は、必(かなら)ず二人で成功(せいこう)させよう」
 その時、下の方から坊主頭(ぼうずあたま)の白髭(しろひげ)を長く伸(の)ばした老人(ろうじん)が、ひょうひょうと登って来た。二人の姿(すがた)を見て、老人は言った。
「こんな雪の日に登らんでもいいのに。大変(たいへん)だろ? 明日になればきれいに溶(と)けちまうから、また来なさい。この山は逃(に)げやせんからな。ハッハッハッ」
 老人はそう言うと、軽々(かるがる)とした足取(あしど)りで頂上へと向かって行った。二人は老人を見送(みおく)ると、信じられないとうい顔で見つめ合った。
<つぶやき>この老人は何者(なにもの)なのでしょう。仙人(せんにん)、それとも偉(えら)い修行僧(しゅぎょうそう)なのかもしれない。
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T:0605「しずく36~盟友」
 神崎(かんざき)つくねは、柊(ひいらぎ)あずみの意外(いがい)な面(めん)を見てしまって、このことをどう理解(りかい)すればいいのか戸惑(とまど)っていた。あずみは、そんなことまったく気にしない様子(ようす)で、
「なに? 何か問題(もんだい)でもあるの?」
「いえ、そう言うわけじゃ…。でも、どうして…」
「ああ…」あずみは携帯(けいたい)をつくねに見せて、「これね。私たちと同じ能力者(のうりょくしゃ)よ。千里眼(せんりがん)の能力(ちから)があって、とっても頼(たよ)りになる人よ。…性格(せいかく)には、問題あるけどね」
 あずみの言い方に、ちょっと刺(とげ)があるように感じたつくねは、これ以上訊(き)かない方がいいのかと思った。あずみは、つくねの心中(しんちゅう)を察(さっ)したのか、
「イヤだ、そういうんじゃないのよ。この人とは腐(くさ)れ縁(えん)でね。ちょうど、あなたとしずくみたいなもんよ。出会ったときからいろんな……。もう止めましょ。今は、昔(むかし)の話をしてる時じゃないから。しずくが待ってるわ」
 つくねは肯(うなず)くと、窓(まど)の方へ向かった。そこから外へ出ようとしたのだ。でも、あずみはつくねの肩(かた)に手を置(お)いて、自分の方へ引き寄(よ)せると言った。
「時間が無いわ。飛(と)ぶわよ。いい、私にしっかりつかまってて」
 つくねがあずみの身体(からだ)に手を回すと、二人の姿(すがた)は忽然(こつぜん)と消えた。後に残(のこ)されたのは、窓の外に転(ころ)がっているつくねの靴(くつ)だけだった。
<つぶやき>どうでもいいことなんですが、この靴ってどうなっちゃうの? 気になる。
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T:0606「お嬢さま」
 私には好(す)きな人がいる。好きといっても私の片思(かたおも)いだけど。彼は同じクラスで、どちらかというと目立(めだ)たない人。格好(かっこ)良くもないし、クラスの人気者(にんきもの)でもない。でも、とっても優(やさ)しいの。こんな私にも、気づかってくれて…。
 私、思い切って告白(こくはく)しようと思った。でも、なかなか彼と二人っきりになれなくて…。それが、その機会(きかい)がやっと来た。放課後(ほうかご)、先生(せんせい)に呼(よ)ばれた私は職員室(しょくいんしつ)から戻(もど)ってみると、教室(きょうしつ)には彼が一人だけ残(のこ)っていて。私は、思わず彼に話しかけた。
「あの、矢野(やの)君。私、話したいことがあるの。聞いてくれる?」
 彼が、私を見た。私は、顔が熱(あつ)くなって、胸(むね)がドキドキしてきた。私が告白しようとしたその瞬間(しゅんかん)、私の後ろから声がした。「あら、二人で何してるの?」
 それは、金城由依(かねしろゆい)。お嬢(じょう)さまと、みんなから呼ばれていた。家はお金持ちで、学校で一番の美人(びじん)。そしてとんでもない勘違(かんちが)い女だ。クラスの男子(だんし)、いや学校中の男子に好かれていると思い込んでいた。まあ、彼女に話しかけられた男子は、舞(ま)い上がってしまうのは事実(じじつ)だけど…。そんな彼女が、何で矢野君に目をつけるのよ。彼女は私を見て言った。
「ひどい、矢野君を一人占(じ)めするなんて。三田(みた)さん、矢野君はあたしを待ってたのよ」
 矢野君は、お嬢さまに言った。「違(ちが)うよ。僕(ぼく)が待ってたのは…」
 ――彼は、私を見た。やっと理解(りかい)したのか、お嬢さまは何も言わずに教室を出て行った。
<つぶやき>これって両思(りょうおも)いなのかな? でも、お嬢さまがこのまま黙(だま)っているかしら。
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T:0607「思うまま」
 若者(わかもの)が、道端(みちばた)で占(うらな)いの看板(かんばん)を掲(かか)げている男に声をかけられた。
「あんさん、何か悩(なや)みごとでもあるんでっか? よかったら、見てあげまひょか?」
 若者はきょろきょろ辺(あた)りを見回(みまわ)して、「いや、僕(ぼく)は、そういうんじゃ…」
「遠慮(えんりょ)せんでもよろしいがな。寄(よ)って行きなはれ」
 若者は言われるままに近づくと、男は半(なか)ば強引(ごういん)に座らせて、若者の顔をまじまじと見つめて言った。「ははーん、分かった。――恋(こい)の悩(なや)みやないですか?」
 若者は首(くび)を大きく振(ふ)ったが、男は確信(かくしん)したようにささやいた。
「ここだけの話ですけど…。好きな人を思いのままに操(あやつ)れる薬(くすり)がおます。よかったら…」
「えっ!」若者は思わす声をあげた。「そ、そんな薬が…、あるんですか?」
「はい。ただし、あんさんがその手で飲ませんとあきまへん」
「そ、そんな…。どうすればいいんですか? 僕は、彼女に告白(こくはく)もしてないのに…。まともに話すらしたことないんですよ」
「あきまへんな。なら、声をかけなさい。で、これをこっそり飲ませば、思うままに…」
「それ、ほんとですか? ほんとに、僕の…、思うままに…」
「はい。――では、ここは勉強(べんきょう)させていただいて、三万円で、どうですか?」
「さ、三万! ちょっと高くないですか? これ、一粒(ひとつぶ)ですよね」
「なに言うてはりますの。これで、あんさんの人生(じんせい)がバラ色になるんでっせ。安(やす)い、安い」
<つぶやき>男の性(さが)と言いますか…、そんなことして恋人(こいびと)を作るなんて。絶対(ぜったい)ダメです。
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T:0608「あなた」
 手を伸(の)ばせば、そこにある。ほんの少し勇気(ゆうき)をだして…。そうすれば手に入るの。わたしの欲(ほ)しいもの。それは…、あなた。
 わたしは、あなたを自分(じぶん)のものにしたいって衝動(しょうどう)にかられている。これが恋(こい)というものなのか、わたしには分からない。でも、日に日にその衝動が抑(おさ)えきれなくなって…。自分でもどうすることもできない。あなたを見るたびに、わたしの胸(むね)はしめつけられた。
 何度、あなたから目をそらそうとしたか。でも、そのたびにあなたの姿(すがた)がちらついて…。あなたのことを探(さが)してしまう。もうあたし、あなたなしでは生きてゆけないかも。こんな苦(くる)しい思い、いつまで続くんでしょ…。
 でも、それももう終わりよ。わたし、決(き)めたわ。明日、あなたを手に入れる。そのために、今まで我慢(がまん)してきたんだもん。やっとその日が来たの。わたしは、あなたのもとへ走ったわ。そして、あなたの姿を見たとき――。
 だめ、だめよ。…どうして? あなたの横にいるのは――。あたしは、何てことを考えてるの。あたし、あなたのことは好きよ。でも、あなたの隣(となり)にはもっと素敵(すてき)な――。いけないわ、そんなこと…。わたしは、浮気(うわき)な女じゃないはずよ。わたしの一途(いちず)な思いは、こんなことで砕(くだ)けたりなんか…。でも、女心(おんなごころ)って……。
<つぶやき>あなたって、何なんでしょうね。いろんなもので想像(そうぞう)を膨(ふく)らませてみると…。
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T:0609「お嫁さんごっこ」
 小学生の娘(むすめ)が男の子を連(つ)れて帰って来た。こんなことは初(はじ)めてだ。私は目を丸(まる)くした。娘はソファに深々(ふかぶか)と座(すわ)ると、その男の子に言った。
「よっちゃん。あたし、おなか空(す)いちゃった。なにか作ってよ」
 私は驚(おどろ)いた。ママと同じことを言うなんて…。私は、娘に言った。
「あかね、そんなこと頼(たの)んじゃだめだよ。お客(きゃく)さんなんだから」
 娘は嬉(うれ)しそうに、「あら、あたし、よっちゃんのお嫁(よめ)さんになるのよ。いいでしょ」
 娘の口からお嫁さんなんて言葉(ことば)を聞くなんて。それも、こんなに早(はや)く。父親(ちちおや)としては、何とも複雑(ふくざつ)な心持(こころも)ちになった。だが、そんなこと言ってる場合(ばあい)じゃない。いけないことはいけないと、はっきり娘に教(おし)えてやらなくては…。そうだ、父親として。
 私が娘に向(む)き直(なお)ったとき、後ろから男の子が言った。
「いいよ。僕(ぼく)、たまにママのお手伝(てつだ)いしてるから。なにが食べたいの?」
「そうねえ…。じゃあ、ホットケーキがいいわ」
 その時だ。ママが帰って来た。娘はママに駆(か)け寄(よ)ると、自慢(じまん)するようによっちゃんのことを話した。ママは娘を抱(だ)きしめると、
「よかったわねぇ。ママも、パパと結婚(けっこん)したからこんなに幸(しあわ)せになれたのよ。あかねも、絶対(ぜったい)に逃(に)がしちゃだめだからね。分からないことがあったら、何でもママに訊(き)きなさい」
<つぶやき>子供は親に似(に)るといいますが、たくましい娘に育(そだ)つんじゃないかと思います。
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T:0610「しずく37~間一髪」
 月島(つきしま)しずくは、水木涼(みずきりょう)に操(あやつ)られるまま、大木(たいぼく)に下がっているロープの前まで来てしまった。しずくの手がロープをつかんで、頭を輪(わ)の中へくぐらせる。しずくには、それを止めることができなかった。涼は楽しげに言った。
「さあ、最後(さいご)の時よ。何か言い残(のこ)すことがあれば、聞いてあげるけど?」
 しずくは震(ふる)える声で言った。「私が、何をしたっていうの? あの時、約束(やくそく)したじゃない。忘(わす)れちゃったの? 私たちが、初めて会ったとき…」
「なに言ってるの。そんなの知らないわよ。さあ、始めましょうか」
 涼が手を上げると、ロープが動き出した。ずるずると、まるで蛇(へび)のように上がって行く。ロープがしずくの首(くび)をゆっくりと絞(し)め始めた。少しずつ身体(からだ)が浮(う)き上がり、かかとが地面(じめん)から離(はな)れていく。涼は、苦(くる)しんでいるしずくを笑(わら)いながら見つめていた。だが、その涼の顔に苦痛(くつう)の表情(ひょうじょう)が現れた。頭痛(ずつう)のために涼が自分の頭に手をやると、ロープの動きが止まった。しずくは涼に向かって声を上げた。「やめて! お願(ねが)いよ…」
 その時だ。二人の前に、柊(ひいらぎ)あずみと神崎(かんざき)つくねが現れた。次の瞬間(しゅんかん)には、しずくの身体はあずみに抱(だ)きかかえられていた。あずみはロープを首から外(はず)して、二人はその場に倒(たお)れ込む。つくねはパチンコを構(かま)え、涼に狙(ねら)いを定(さだ)めて打ち込もうとしていた。
 しずくはそれを見て叫(さけ)んだ。「だめ! やめてぇ!!」
<つぶやき>ほんと間に合ってよかったです。でも、何で涼はこんなことしたんでしょう。
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T:0611「非常事態」
 外(そと)は大雨で強い風が吹(ふ)き荒(あ)れている。男は必死(ひっし)に玄関(げんかん)の戸(と)を押(お)さえていた。手を放(はな)したら最後(さいご)、この家は倒壊(とうかい)してしまうだろう。それほど古(ふる)い家だった。男は大声で叫(さけ)んだ。
「アイちゃん! ちょっと手を貸(か)してくれないか! このままじゃ…」
 部屋の中には女がいた。女は爪(つめ)にネイルを塗(ぬ)りながら、イヤホンで音楽(おんがく)を聴(き)いていた。どうやら男の声は届(とど)かないみたいだ。男は、さらに声を張(は)り上げた。女はやっと気づいたようで、「なに? いま、手がはなせないの。無理(むり)いわないで…」
 女は両手の指(ゆび)を立てながら、玄関の方へ歩いて行った。男は女が来たのを見ると、
「何してるんだよ。ちょっと手を貸してくれ。俺(おれ)だけじゃもう…」
「いやよ。あなたが何とかしてよ」女は自分の手を男に見せて、
「今のあたしは何もできないの。見ればわかるでしょ。それに、あなた言ったじゃない。これからは、俺が全部面倒(めんどう)見てやるからって」
「そりゃ、言ったけど…。今は、非常事態(ひじょうじたい)なんだ。頼(たの)むよ」
「あたし、こんなぼろい家だなんて知らなかったわ」
「悪(わる)かったよ。でも、始めに言っただろ。最初(さいしょ)から贅沢(ぜいたく)はできないって」
「それにしたって、これはひどすぎよ。あたし、帰ろかなぁ…。今ならまだ…」
 その時、突風(とっぷう)が襲(おそ)ってきた。男は、必死に踏(ふ)ん張(ば)りながら、
「その話、後(あと)にしないか? 今はこの状況(じょうきょう)を二人で乗(の)り切ろうよ。そうじゃないと――」
<つぶやき>嵐(あらし)は外(そと)だけじゃなく、家の中にも静(しず)かに吹き荒れていたのかもしれません。
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T:0612「無限空間」
「くそっ。やっぱりだめだ。暗証(あんしょう)番号を入れないとこの扉(とびら)は開(ひら)かない」
 男は扉の前で焦(あせ)る気持ちを抑(おさ)えて言った。さっきから警報(けいほう)が鳴(な)り響(ひび)き、どこからか人の叫(さけ)ぶ声が聞こえてきた。そばにいた女が、男を押(お)し退(の)けて言った。
「代(か)わって。わたしがやってみるわ。見張(みは)っててよ」
 女は頭に浮(う)かんが番号(ばんごう)を打ち込んでいく。すると、ロックが外(はず)れる音がした。
「お前、どうやったんだ? 何で、番号を知ってるんだよ」
「そんなこと…、わたしは適当(てきとう)にやっただけよ」
 扉が開くと、二人は手を取り合って駆(か)け出した。
 次の瞬間(しゅんかん)――。気がつくと、二人は扉の前に戻(もど)っていた。男が扉を開けようと必死(ひっし)になっている。でも、どうやっても扉は開(あ)きそうもない。
「くそっ。やっぱりだめだ。暗証番号を入れないとこの扉は開(ひら)かない」
 女は呆然(ぼうぜん)としていたが、男を押し退けると言った。「わたしが、やってみるわ」
 女は暗証番号を打ち込んだ。すると、ロックが外れて扉が開いた。
「お前、どうやったんだ? 何で、番号を知ってるんだよ」
「きっと、何度もやってるからよ。さあ、行って。わたしはここに残(のこ)るわ。何かを変えないと、たぶん永遠(えいえん)に同じことの繰り返しなのよ。あなただけでも、ここから逃(に)げて!」
<つぶやき>男なら、彼女を置(お)いていくなんてできないですよ。何があっても離(はな)れないで。
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T:0613「甘え上手」
 あいつは女子(じょし)に取り入るのが上手(うま)かった。いつの間にか仲良(なかよ)くなって、女子の輪(わ)の中に入って行く。俺(おれ)は、別に羨(うらや)ましいなんて思ってないけど…。でも、あいつがときどき俺の方を見て、どや顔(がお)をするのが気に食(く)わない。
 最近(さいきん)は保健室(ほけんしつ)に入り浸(びた)っているようだ。女子だけじゃなく、保健の先生(せんせい)にちょっかいだすなんて、絶対許(ゆる)せねえ。あの先生は、俺たちの憧(あこが)れの――。
 この間、保健室を覗(のぞ)いたとき、あいつがいて…。よりによって、あいつが先生に頭を撫(な)でられているとこを目撃(もくげき)してしまった。俺は、俺は、別に羨ましいなんて…。
 俺は心を決(き)めた。俺も、あいつのように――。どうすれば良いのかちゃんと分かってる。今まで、あいつのしていたことは全部(ぜんぶ)頭の中に入ってるんだ。後(あと)は行動(こうどう)に移(うつ)すだけだ。
 放課後(ほうかご)、俺は保健室を覗いてみた。生徒(せいと)は誰(だれ)もいなくて、先生だけが机(つくえ)に向かって仕事(しごと)をしていた。俺は保健室に入ると、あいつのしてたように声をかけた。多少、声がうわずってしまったが、これでつかみはOKだ。――そのはずだった。
 でも、先生は大笑(おおわら)いして、「何やってるの? あなたには似合(にあ)わないわよ、そんなこと。ねえぇ、人には向(む)き不向(ふむ)きがあるのよ。人の真似(まね)なんてしてないで、あなたらしいアプローチをしなさい。そうじゃないと、恋人(こいびと)なんてできないぞ」
<つぶやき>これが一番むずかしい。たくさん失敗(しっぱい)して、自分らしさを見つけましょう。
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T:0614「問題あり」
 私の職場(しょくば)には、口癖(くちぐせ)のように「問題(もんだい)ないですよ」を繰(く)り返す後輩(こうはい)がいる。でも、それで問題が無(な)かったことは一度もない。いつしか、その後始末(あとしまつ)をするのが私の仕事(しごと)になっていた。上司(じょうし)から押(お)しつけられた感じはあったけど、他(ほか)にやれる人がいないのは確(たし)かである。
 私は、彼に仕事を覚(おぼ)えてもらおうと、何度(なんど)も何度も教(おし)えているのに…。私がいくら頑張(がんば)っても、何度注意(ちゅうい)しても、彼のやることはどこか抜(ぬ)けていて、やる気があるんだか無いんだか、まったく分からない。そして、今日もまた、彼は「問題ないですよ」を連発(れんぱつ)する。
 日頃(ひごろ)から温厚(おんこう)な私も、さすがに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れかかっていた。そんな時だ。取引先(とりひきさき)から電話(でんわ)がかかってきた。納品(のうひん)した数量(すうりょう)が違(ちが)っていると――。注文書(ちゅうもんしょ)を確認(かくにん)すると、注文を受(う)けたのは、あの後輩だった。私は、彼を呼(よ)びつけて言った。
「あのね、この注文、数(かず)が一ケタ違(ちが)うじゃない。私、言ったよね。注文を受けたら、ちゃんと確認(かくにん)しなさいって。何で、こういう間違(まちが)いがおこるわけ」
 彼は、私の顔を見ようともしないで、「ああ、これですか…。問題ないですよ。先輩(せんぱい)がいるじゃないですか。あと、お願(ねが)いします。俺(おれ)、他に仕事があるんで」
 私の中で何かが切(き)れた。私は声を荒(あら)げて叫(さけ)んでいた。
「あんたね、私を何だと思ってるの! 私は、あんたのママじゃないんだから! これも、あんたの仕事でしょ。自分のケツぐらい、自分でふきなさいよ!」
<つぶやき>この気持(きも)ち、わかる。でも言い方には注意(ちゅうい)しましょう。落ち着いて対応(たいおう)を…。
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T:0615「しずく38~クグツ師」
 月島(つきしま)しずくの声で、神崎(かんざき)つくねの狙(ねら)いがそれた。――パチンコ玉は水木涼(みずきりょう)の頬(ほお)をかすめて、後ろの木の小枝(こえだ)を打ち落とした。涼は力が抜(ぬ)けたように、その場に倒(たお)れ込んだ。
 つくねは叫(さけ)んだ。「何で止(と)めたの! こいつは、あなたを殺(ころ)そうとしたのよ」
「よかった。これで…」しずくはホッとしたように呟(つぶや)いて、意識(いしき)を失(うしな)った。
 つくねは慌(あわ)てて駆(か)け寄って、心配(しんぱい)そうにしずくを見つめる。そばにいた柊(ひいらぎ)あずみが、
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。気を失(うしな)っただけだから。さあ、ここから離(はな)れましょう」
 つくねは涼を睨(にら)みつけて、「こいつはどうするの?」
「この娘(こ)は、普通(ふつう)の人間みたいね。パワーを全(まった)く感じないわ。あなたはどう?」
「ええ、今はそうだけど…。でも、こいつはしずくを――」
「私ね、前に聞いたことがあるの。人を操(あやつ)る能力者(のうりょくしゃ)が存在(そんざい)するって。もし今回の相手(あいて)がそうだとすると、これは厄介(やっかい)なことになるわよ。本当(ほんとう)の敵(てき)を見分(みわ)けるのが、とっても難(むずか)しくなる」
 学校の保健室(ほけんしつ)のベッドに二人は寝(ね)かされていた。しずくのそばには、つくねが不機嫌(ふきげん)な顔で座(すわ)っていた。しずくが意識(いしき)を取り戻(もど)すと、つくねは顔を近づけて言った。
「バカ! 何やってるのよ。どれだけ心配したと思ってるの」
 しずくはきょとんとして、「な、何なの? そんなに怒(おこ)らなくても…」
 しずくは、横にあるベッドに涼が寝かさせているのを見て、かすかに微笑(ほほえ)んだ。
<つぶやき>彼女たちの敵って、誰(だれ)なんでしょう。これは、その戦(たたか)いの序章(じょしょう)にすぎない。
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T:0616「立ち直り」
 閉店(へいてん)まぎわの居酒屋(いざかや)。客もまばらになった店内(てんない)で、女がジョッキのビールをガブ飲(の)みしていた。隣(となり)では、男が心配(しんぱい)そうに見つめている。女はビールを飲み干(ほ)すと男に言った。
「ねえ、あいつ、私のこと何て言ったと思う? 重(おも)たいって…。君(きみ)といると、僕(ぼく)は押(お)しつぶされそうだって…。何なのよ。私、ちっとも重たくなんかないでしょ」
 男は黙(だま)って女の話を聞いていた。女はまるで独(ひと)り言のように、早口(はやくち)で呟(つぶや)いた。
「私、知ってるのよ。あいつが、経理(けいり)の何とかって女と付き合ってるの。でも、私は…。私のこと、ちゃんと考えてくれてるって…。だって、結婚(けっこん)しようねって言ってくれたから」
 男は黙っていられなくなって、「沙代(さよ)ちゃんは、何も…。悪(わる)いのは、高木(たかぎ)だ! 沙代ちゃんがこんなに好きなのに…。もう、あんな奴(やつ)のことなんか忘(わす)れろよ! 俺(おれ)が…、俺が…」
 女は、男の顔をじっと見つめる。女の顔がゆがんでいき、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)が溢(あふ)れてきた。
「何で…、寛治(かんじ)のこと悪く言うのよ。バカ…、バカ、バカ!」
 女は、男の身体(からだ)を何度も叩(たた)いた。男にはちっとも痛(いた)くはなかった。でも男の心には、女の哀(かな)しみが刺(とげ)のように突き刺(さ)さった。男は、彼女を抱(だ)きしめようと手を伸(の)ばしかけた…。だが、女は急に立ち上がると涙を拭(ふ)き、男に笑(え)みをみせて言った。
「私、帰るね。今日は、ありがとう。おかげて、すっきりしたわ」
<つぶやき>こんな時、男は無力(むりょく)なのです。ひとこと好きだって、言っちゃえばいいのに。
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T:0617「婚姻部」
 20××年。結婚(けっこん)できない人工(じんこう)が増(ふ)え続けるのを抑(おさ)えようと、政府(せいふ)は財界(ざいかい)を巻(ま)き込んで思い切った政策(せいさく)を打ち出した。それは、会社婚(かいしゃこん)である。全国の様々(さまざま)な企業(きぎょう)に新たに婚姻部(こんいんぶ)を設(もう)けて、いろいろな企業同士(どうし)でお見合(みあ)いを薦(すす)めるのだ。とある企業でも…。
「部長(ぶちょう)、わたしに結婚しろとおっしゃるんですか?」
 婚姻部長を前にして中堅(ちゅうけん)の女子社員(しゃいん)が言った。部長はにこやかな顔で、
「わしもね、君(きみ)みたいな優秀(ゆうしゅう)な社員を失(うしな)うのは辛(つら)いところなんだ。でもね、君もそろそろ大台(おおだい)だろ? どうかね、ここらで、考えてみないかね」
 彼女は、ちょっと困(こま)ったような顔をした。すかさず部長は先を続ける。
「もし、君に好きな人がいるんなら、この話はなかったことにしてもいいんだ。でもね、そうじゃなかったら…。どうだろ、君にとっても、けして悪(わる)い話じゃないと思うんだ」
 彼女はまだ迷(まよ)っているようだ。今から別の会社へ行くなんて…。部長は、
「転職(てんしょく)するのは、不安(ふあん)もあるだろう。しかしね、向こうの会社へ行けば、君のスキルをもっと磨(みが)くことができるはずだ。――ああ、わしとしたことが…」
 部長は突然(とつぜん)声を上げて立ち上がると、デスクの上の見合(みあ)い写真(しゃしん)を持って来て、彼女にそれを見せ、「なかなかの人物(じんぶつ)と思うんだが…。今は課長(かちょう)をしててね。仕事一筋(ひとすじ)で、女性とは全く縁(えん)が無(な)かったみたいだ。もちろん夫婦(めおと)社員として、君には課長待遇(たいぐう)で――」
<つぶやき>夫婦社員とは、お互(たが)いに補(おぎな)い合って仕事(しごと)と家庭(かてい)を両立(りょうりつ)させる特別制度(とくべつせいど)です。
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T:0618「告白の友」
 ネットを見ていて、面白(おもしろ)そうなサイトを見つけた。〈告白(こくはく)の友(とも)〉というサイトで、いろんな人が告白の仕方(しかた)を投稿(とうこう)していた。どんなシチュエーションで、どんな気の利(き)いたフレーズを使ったのかが、事細(ことこま)かに書かれている。でも、それが本当に成功(せいこう)したのか…、までは触(ふ)れていなかった。
 読んでいくうちに、「これいいなぁ」って思うものを見つけた。――僕(ぼく)はこれを使って告白しようと心に決めた。ちょっと気になる娘(こ)がいて…。今は、友達(ともだち)みたいな感じなんだけど、向(む)こうも、まんざらでもないみたいなんだよね。僕はそこに書かれていたフレーズを何とか暗記(あんき)して、彼女を呼(よ)び出した。
 僕が待っていると、彼女は時間ぴったりにやって来た。僕は普段(ふだん)通りに振(ふ)る舞(ま)おうと思ってたんだけど、やっぱり緊張(きんちょう)して何だか落ち着かない。僕が話しかけようとしたとき、彼女がそれを制(せい)して口を開いた。
「はっきり言っとくけど、あなたと付き合うつもりなんてないからね」
 僕は豆鉄砲(まめでっぽう)を食(く)らったハトのように、口をポカンと開けたまま彼女を見つめた。
 彼女は〈うんざり〉という顔をして、「ほんとに、何なのよ。わたし、5回目よ。ここに呼び出されるの。どうせあなたも、わたしに告白しようなんて思ってるんでしょ。そんなね、人のマネばっかする人、好きになるわけないでしょ」
 彼女はきっぱりと言い切ると去(さ)って行った。僕は…、もう、笑(わら)うしかないでしょ…。
<つぶやき>告白は、ちゃんと自分の言葉(ことば)でしましょうね。これはとても大切(たいせつ)なことです。
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T:0619「最高傑作」
 一人の年老(としお)いた画家(がか)が、アトリエに籠(こ)もり一心不乱(いっしんふらん)にキャンバスに向き合っていた。彼は命(いのち)が尽(つ)きる前に、自身(じしん)の最高傑作(けっさく)を描(か)こうとしているのだ。何度も何度も筆(ふで)を入れ、キャンバスを引き裂(さ)いては悲壮(ひそう)な叫(さけ)び声をあげた。
 彼の身体(からだ)は、もう限界(げんかい)に来ていた。筆を持つこともままならなくなり、それでも彼は、震える指(ゆび)に絵の具をつけてキャンバスに置いていく。そこまでしても、納得(なっとく)のいく絵にはならなかった。彼は、とうとう力尽(ちからつ)き、キャンバスの前に倒(たお)れ込んだ。
 心配(しんぱい)してアトリエを覗(のぞ)きに来た孫娘(まごむすめ)が、それを発見(はっけん)した。孫娘は画家に駆(か)け寄り抱(だ)き起こすと、彼の名を呼び続けた。すると画家は目を開けて、かすかな声で孫娘に訊(き)いた。
「どうだ、わしの絵は…。最高傑作になっているか?」
 孫娘は画家の絵を見た。それは、今までに見たこともない絵だった。その画家が描いた絵の中に、こんな激(はげ)しい、躍動(やくどう)するような絵はなかった。孫娘は言った。
「おじいちゃん、すごいよ。こんな凄(すご)い絵、見たことないわ…」
 孫娘は、画家に目をうつす。だが、彼女の声が届(とど)いたのか…。画家は、彼女の腕(うで)の中で、穏(おだ)やかな顔で眠(ねむ)りについていた。孫娘は涙(なみだ)をこらえて、画家に優(やさ)しく語(かた)りかけた。
「もちろん、最高傑作だよ。最後に、ちゃんと描けたね。おめでとう…」
<つぶやき>画家が残(のこ)した絵は、間違(まちが)いなく彼の生きた証(あか)し。あなたの証しは何ですか?
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T:0620「しずく39~平穏」
 しばらくすると、水木涼(みずきりょう)の意識(いしき)が戻(もど)った。やはり朝からの出来事(できごと)はまったく覚(おぼ)えていなかった。本当(ほんとう)のことを話すわけにもいかないし、登校(とうこう)の途中(とちゅう)で倒(たお)れたってことにしておいた。
 でも、涼が鏡(かがみ)を見たとき、頬(ほお)の傷(きず)に気がついて大騒(おおさわ)ぎになった。保健室(ほけんしつ)の先生(せんせい)に、傷跡(きずあと)は残(のこ)らないから大丈夫(だいじょうぶ)よって言われて、やっと落ち着いてくれた。下校(げこう)の時には、もうすっかりいつも通りの元気(げんき)な涼に戻っていた。
 涼は、月島(つきしま)しずくと川相初音(かわいはつね)を呼(よ)んで、「なあ、一緒(いっしょ)に帰ろうよ」って誘(さそ)った。
「ごめんなさい」初音はすまなそうに、「あたし塾(じゅく)があるから、またね」
「お前さ、アタマ良いくせに、それ以上賢(かしこ)くなってどうすんだよ」
 涼は不満(ふまん)そうに言ったが、初音は笑(わら)いながら、「あなたも、一緒に行かない?」
「冗談(じょうだん)! 私、そんなとこ行ったら、速攻(そっこう)で寝(ね)ちゃうから…。ねえ、しずくは?」
「私は、いいわよ」しずくはそう言いながら神崎(かんざき)つくねの方を見て、「あなたも――」
「いえ、あたしは」つくねは即答(そくとう)すると、「それより、先生に呼ばれてるんじゃないの?」
 しずくは急に思い出して、「ああ…、そうだったわ。行かなきゃ」
「何だよ。つまんねえの」涼は口を突(つ)き出して言うと、「じゃ、部活(ぶかつ)に顔(かお)だして来ようかなぁ」
 涼は剣道部(けんどうぶ)なのだが、強すぎて練習(れんしゅう)にならないって言って、部活には気が向(む)いたときにしか行かないのだ。みんなは、それぞれ教室を後(あと)にした。
<つぶやき>いつもの学校なんですが、次の魔(ま)の手がいつ襲(おそ)ってくるのか分かりません。
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T:0621「ハードボイルドな…」
 薄暗(うすぐら)いバーのカウンター。一番奥(おく)まった隅(すみ)が、彼の指定席(していせき)だった。彼は何時(いつ)も決(き)まった時間にここに来て、この席に座る。そして注文(ちゅうもん)するのは、いつも決まってバーボンのストレート。
 そこへ、見知(みし)らぬ女が近寄(ちかよ)って来た。その女は男に甘(あま)い声でささやいた。
「ねえ、あたしにも一杯(いっぱい)くださらない?」
 男は、女の方を横目(よこめ)で見ると静(しず)かに言った。「ああ、同じものでいいのかい?」
 女は男に微笑(ほほえ)みかける。男はバーテンに目配(めくば)せした。
 女はさらに男に近づいて言った。「ここ、いいかしら?」
 男が静かに肯(うなず)くと、女は隣(となり)の席へ身体(からだ)を滑(すべ)らせた。――女の前にグラスが置かれると、真っ白な華奢(きゃしゃ)な指(ゆび)でグラスを取り、男にグラスを差(さ)し出して酒(さけ)を口へ運(はこ)ぶ。その仕種(しぐさ)は優美(ゆうび)で、娼婦(しょうふ)には似(に)つかわしくなかった。彼女にはまだ気品(きひん)というものが残(のこ)っていて、それが彼女をいっそう艶(なま)めかしい女に見せるのだ。きっと世(よ)の男たちは、誰(だれ)もがこぞって自分のものにしようと願(ねが)うだろう。それだけの価値(かち)のある女だ。
 男は、女を見るでもなく、ひとりグラスを傾(かたむ)けた。女はじれったそうに、
「ねえ、今夜は、あたしと付き合ってくれない?」
 男は女に視線(しせん)を向けると、「ああ、それはいいねぇ。でも、このあと先約(せんやく)があってね」
<つぶやき>美しい女性には刺(とげ)がある。でも、それは表向(おもてむ)きの仮(かり)の姿(すがた)なのかもしれません。
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T:0622「…生き方」
 女はちょっと怒(おこ)ったような表情(ひょうじょう)を見せたが、すぐに元(もと)の微笑(ほほえ)みに戻(もど)って、
「隅(すみ)に置けない人ね。でも、それも悪(わる)くないわ。あなたって正直(しょうじき)な方(かた)…」
 女は男にしなだれかかり、男を虜(とりこ)にするような目で見つめると、
「そんな約束(やくそく)、あたしが忘(わす)れさせてあげる。だから…」
「それは無理(むり)だ。俺(おれ)は男だからね。約束は果(は)たさないといけないんだ」
「あたし、ますます帰したくなくなっちゃった。今夜は、あたしと…」
 女は男の胸(むね)に手を回し、ぎゅっと抱(だ)きしめた。だが、男の胸に何か固(かた)い物が有るのに気づいて、女はビクリと男から離(はな)れる。男の上着(うわぎ)の間から、拳銃(けんじゅう)のようなものが目に入った。男はさり気なく上着を直(なお)すと、何事(なにごと)もなかったように、またグラスを傾(かたむ)けた。
 女は男にささやいた。「あなた、何をしようっていうの?」
 男は前を見つめたまま答(こた)えた。「どうしても決着(けっちゃく)をつけなきゃいけないことがあってね」
「まさか、決闘(けっとう)をしようって…、こと?」
 男は何も言わずにグラスの酒(さけ)を飲(の)み干(ほ)すと、「わるいが、これで失礼(しつれい)するよ」
 男はカウンターに二人分の酒代を置くと立ち上がり、女に軽(かる)く会釈(えしゃく)をして歩き出した。女は素早(すばや)く立ち上がると男の腕(うで)をつかんで、静かに懇願(こんがん)するような声で言った。
「このまま別れたくないわ。明日も来てね。あたし、ここで待ってるから。必(かなら)ず来て」
 男は、振(ふ)り向くことなくバーを後(あと)にした。女は男の後ろ姿(すがた)を見つめるしかなかった。
<つぶやき>最初の出会いで恋に落ちたのでしょうか? それとも、他に何かあるのか…。
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T:0623「閉鎖」
 等々力(とどろき)教授の研究室(けんきゅうしつ)。いつもなら雑然(ざつぜん)としているのだが、部屋の中は奇麗(きれい)に片(かた)づけられている。そこへ助手(じょしゅ)をしていた涼子(りょうこ)が入って来て、教授(きょうじゅ)に駆(か)け寄り、
「教授! あたし、もうあそこはイヤです。またここで手伝わせて下さい」
「何を言ってるんだ。君は、山根(やまね)教授のところで勉強(べんきょう)した方が――」
「あの教授、はっきり言ってバカです。あの人から教わることなんて何もありません」
「しかしね、山根君は私よりも優秀(ゆうしゅう)で、立派(りっぱ)な研究をしてるじゃないか。それなのに…」
 こんな会話をもう一年近く続けていた。等々力教授は彼女の才能(さいのう)を認(みと)めていて、他の研究室で勉強することを何度も勧(すす)めているのだ。それなのに、何が気に入らないのか、彼女は一週間もたたないうちに戻(もど)って来てしまう。
「あたしは、教授の研究をお手伝いしたいんです。教授は今まで素晴(すば)らしい研究を――」
「私の研究はどれも中途半端(ちゅうとはんぱ)だ。成果(せいか)を上げたものなど何もない。私のところにいても、君のためにはならん。いいから、戻りなさい。山根君には、私の方から――」
「イヤです! あたしは、絶対に戻りませんから」 涼子はそう言い切ると、研究室を見回してワクワクした目で訊(き)いた。「あの、また新しい研究を始めるんですか?」
 教授は片づけを続けながら言った。「いや、この研究室はお終(しま)いだ。だから、君が戻ってくる場所はもうない。ここは、閉鎖(へいさ)されて元(もと)の倉庫(そうこ)に戻るんだ」
<つぶやき>久しぶりに登場(とうじょう)、等々力教授です。研究室がなくなってこれからどうするの?
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T:0624「ゆれる」
 等々力(とどろき)教授の退職(たいしょく)の日が近づいていた。研究室(けんきゅうしつ)の始末(しまつ)もついて、助手(じょしゅ)の涼子(りょうこ)は足取りも重く自宅(じたく)へ帰って来た。アパートの前まで来ると、街灯(がいとう)の下に黒塗(くろぬ)りの車が停(と)まっていた。涼子は不審(ふしん)に思い、車をよけるように道の反対側(はんたいがわ)へ渡った。車の横を通りすぎようとしたとき、車のウインドが開いて中から声がした。「涼子君、ずいぶん遅(おそ)いじゃないか」
 その声にビクッとして立ち止まる涼子。彼女を呼(よ)び止めたのは、彼女が働(はたら)いていた研究機関(きかん)の所長(しょちょう)だった。彼女は所長の命令(めいれい)で、等々力教授のことを探(さぐ)っていたのだ。――涼子は、言われるままに車に乗り込んだ。所長は穏(おだ)やかな口調(くちょう)で言った。
「等々力が大学を辞(や)めるそうだな。君は、どうして報告(ほうこく)に来なかったんだ?」
 涼子は一瞬(いっしゅん)言葉につまったが、「すいません。いろいろ忙(いそが)しくて…」
「ほう、そうかね。君はもっと頭の良い娘(こ)だと思っていたが、残念(ざんねん)だよ」
「あたし…、この一年間、教授の研究について手を尽(つ)くして調べようとしたんですが、なかなか手伝わせてもらえなくて…。ですが、まだ――」
「もういい。大学から金が出ないとなると、もう奴(やつ)には何もできん。奴に金策(きんさく)の才能(さいのう)はないからな。君の仕事はもう終わりだ。うちへ戻って来なさい」
「しかし、まだ…。等々力教授は、きっと何か考えがあって大学を――」
「いつまでも学生気分(きぶん)でいられちゃ困(こま)るんだよ! 君はどこまでわしの期待(きたい)を裏切(うらぎ)るつもりだ。それとも、等々力と一緒(いっしょ)にいて、惨(みじ)めな研究者で終わりたいのか?」
<つぶやき>等々力のことを知るにつれ、涼子は教授の人柄(ひとがら)や才能(さいのう)に惹(ひ)かれたのかもね。
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T:0625「しずく40~戸惑い」
 学校の屋上(おくじょう)に月島(つきしま)しずくと柊(ひいらぎ)あずみの姿(すがた)があった。屋上は一応(いちおう)立入禁止になっていて、生徒(せいと)はもちろん、先生(せんせい)さえ滅多(めった)に上がって来ることはなかった。ここなら誰(だれ)にも邪魔(じゃま)されることはないはずだ。あずみはしずくに強い口調(くちょう)で言った。
「これで分かったでしょ。これはあなた一人の問題(もんだい)じゃないの。あなたの周(まわ)りの人たちを巻(ま)き込まないためにも、あなたにはやらなきゃならないことがある」
 しずくは目をそらして、「私…、私にどうしろって言うの。私には…」
「そうね、今のあなたじゃ何の役(やく)にもたたないわ。そんな中途半端(ちゅうとはんぱ)な気持ちじゃ、能力(ちから)をコントロールすることなんか…。あなただって、自分に能力(ちから)があることぐらい――」
「分かってるわよ! でも私には…、そんなのいらない。もう、人から変(へん)な目で見られたくないの。私は、普通(ふつう)の女の子でいたいだけ!」
「いつまで甘(あま)ったれてるの? もう時間はないのよ。敵(てき)はすぐそこまで来てるのに――」
「敵…、敵って何ですか? 私、そんなの知らないわ! 私には…」
「関係(かんけい)ないって言いたいの? あなたも、楓(かえで)おばさんから聞いてるはずよ」
「何で…、お母さんのこと知ってるんですか? 先生は…、いったい何なのよ」
「もういいわ。今日は真っ直(す)ぐ帰りなさい。あなたのお母さんが待ってるわ。――私ね、楓おばさんに助けられたことがあるのよ。もしそれがなかったら、私は死(し)んでたわ」
<つぶやき>先生にも凄絶(せいぜつ)な過去(かこ)があるようです。敵の正体(しょうたい)とは、何者なのでしょうか?
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T:0626「未来の話」
 彼は思いつめた顔で彼女に言った。「君(きみ)といても、僕(ぼく)たちの未来(みらい)が見えてこないんだ」
 彼女は信じられないという顔で、「どうして? あたしにはちゃんと見えてるわよ」
「君が見てる未来って、どんな感じなのかな?」彼は恐(おそ)る恐る訊(き)いた。
「そうね…。あたしは、やりがいのある仕事(しごと)をもっとやって、会社(かいしゃ)に認(みと)められるでしょ。で、もっと重要(じゅうよう)な仕事を任(まか)されるの。それで――」
「その君の未来に、僕はいるのかな?」
「もちろんいるわよ。あなたがいなくちゃ、あたし困(こま)るわ。だって、家のことは誰(だれ)がやるの? あなたの方が、家事(かじ)とか得意(とくい)じゃない。だからあたし、あなたと…」
 彼は悲(かな)しげな目をして言った。「そこには、愛(あい)はあるのかな?」
「あい? それは…、あるわよ。決(き)まってるじゃない。あたし、あなたのこと、こんなに愛してるのよ。そうでしょ? だからあたし、あなたのプロポーズを受けたのよ」
 彼は立ち上がると、自分の感情(かんじょう)を押(お)し殺(ころ)すように言った。
「それは、違(ちが)うよね。君は、僕のことなんか愛してなんかいない。君が愛してるのは…」
 彼女は彼をなだめるように言った。「なに言ってるの? もう、あたしが愛してるのはあなただけよ。そうでしょ? あたしがいっぱい稼(かせ)いでくれば、あなただって嬉(うれ)しいはずよ。今よりも、良い暮(く)らしができるの。二人で幸(しあわ)せになりましょ」
<つぶやき>愛とは何なんでしょうね? 二人が、同じ未来を描(えが)けるといいのですが…。
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T:0627「客寄せ」
 まったく流行(はや)っていない喫茶店(きっさてん)。猫(ねこ)をかかえた妻(つま)が帰ってきた。夫(おっと)がそれに気づいて、「おい、ちょっと待(ま)てよ。どういうつもりだ」
 妻は平然(へいぜん)と、「お客が来ないから、この猫(こ)に客寄(きゃくよ)せしてもらうのよ」
「そんなことできるわけないだろ。それにうちは食べ物を扱(あつか)ってんだ。ノラ猫なんか――」
「あなたがちゃんと仕事(しごと)しないからでしょ。義父(おとう)さんがやってた時は、あんなにお客が入ってたのに。あなたに代わってから…。もう、この猫(こ)に頼(たよ)るしかないでしょ」
「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。俺(おれ)、新しいメニュー考えたんだ。これで、どんどん客が入るぞ」
 妻はカウンターの上にあるトレーの中に並(なら)んでいるものを見て、「なに、これ?」
「見れば分かるだろ。ホットケーキだよ。でも、そんじょそこらのホットケーキじゃないぞ。中身(なかみ)が違(ちが)うんだ。こいつは絶対(ぜったい)に当(あ)たるぞ。まあ、見てなって」
「こんなのダメでしょ。大きさはバラバラだし。これなんか、真っ黒に焦(こ)げてるじゃない」
「いいんだよ。これくらい焼けてる方が美味(うま)いんだ。なあ、お前もそう思うだろ?」
 夫はノラ猫に声をかけた。ノラ猫は「ニャー」と一声鳴(な)いてカウンターに飛び乗(の)ると、ホットケーキらしきものをくわえて店から飛び出して行った。夫は慌(あわ)てて叫(さけ)んだ。
「こら! 金(かね)払えよ。食い逃(に)げすんな!」
 翌日(よくじつ)の朝。夫が店を開けようと表(おもて)に出ると、店の前には無数の猫が並(なら)んでいた。夫が唖然(あぜん)としている間(あいだ)に、猫たちは一匹、また一匹と店内(てんない)へ吸(す)い込まれていった。
<つぶやき>いったいどんな材料(ざいりょう)を使ったんだろうね。猫たちには効果(こうか)はあったみたい。
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T:0628「気づかなかった」
「あのさ、君(きみ)って、森田(もりた)のこと好きなんじゃないのか?」
 付き合い始めたばかりの彼から言われた。森田君は家が近くで、小さい頃(ころ)から一緒(いっしょ)に遊(あそ)んでいた同級生(どうきゅうせい)。別に好きだとか、そういうのは…。彼は言った。
「だって森田のこと話してる君は、とっても楽しそうだからさ。君、気づいてるかな…。僕(ぼく)と話をするとき、まず森田のことから始まるんだよなぁ」
「そ、そんなことないよ。別にわたし、そんなつもり…。ごめんなさい」
 それ以来(いらい)、彼とは何となく気まずくなって…。何ではっきり違(ちが)うって言えなかったんだろう。彼の言葉が妙(みょう)にわたしの心に引っかかっていた。〈森田のこと好きなんじゃ…〉
 こんなんじゃダメよ、何もできないわ。わたしははっきりさせようと、森田君の家へ向(む)かった。森田君は家にいて、階段(かいだん)を上がって彼の部屋(へや)へ…。この部屋に入るのって、何年振(ぶ)りだろう。そう言えば、最近(さいきん)はあまり話しもしなくなっていた。森田君はわたしの顔を見て驚(おどろ)いて言った。「えっ、どうしたの? 何か…」
 わたしは単刀直入(たんとうちょくにゅう)に訊(き)いた。「森田君は、わたしのこと好き?」
 一瞬(いっしゅん)、空気(くうき)が止まった感じ…。森田君はじっと私の顔を見ていた。なに、この間(ま)は――。わたしは、とんでもないことを訊いてしまったと、気がついた。森田君は座(すわ)り直(なお)して、
「うん、好きだよ。ずっと前から好きだったさ。やっと気づいたのかよ」
<つぶやき>森田君、そういうのは自分(じぶん)から言わないと…。ずっと気づかれないままだよ。
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T:0629「リセット言葉」
「僕(ぼく)たち、もうダメだよ。別れよう。もう君(きみ)とは付き合えない」
 彼女は、彼から唐突(とうとつ)に別れを切り出された。彼女にとっては青天(せいてん)の霹靂(へきれき)、雷(かみなり)に打たれた以上(いじょう)の衝撃(しょうげき)だった。彼女は絞(しぼ)り出すように言った。「ちょっと待ってよ」
 彼女の意識(いしき)が突然(とつぜん)飛んだ。時間が巻戻(まきもど)り、気づけば彼が別れ話を切り出す前に戻(もど)っていた。――最初(さいしょ)、彼女は戸惑(とまど)った。しかし何度も同じことを繰(く)り返すうち、彼女は冷静(れいせい)さを取り戻した。そして気づいたのだ。〈ちょっと待ってよ〉って言えば、時間が戻ってしまうことに。彼女は考えた。どうすれば、彼を思いとどまらせることができるのか…。
「わたし、絶対(ぜったい)別れないからね!」彼女は先制攻撃(せんせいこうげき)を仕掛(しか)けたが、これは逆効果(ぎゃくこうか)だった。
 次はしおらしく、「わたしに悪(わる)いところがあったら言って。わたし、なおすから…」
 彼は、彼女の悪いところを羅列(られつ)して…、結局(けっきょく)、別れ話に突入(とつにゅう)してしまった。
 彼女は、もう何も思いつかなかった。彼と別れたくない。彼のことこんなに大好きなのに、何で別れなきゃいけないのよ。彼女はやけくそのように言った。「結婚(けっこん)して! わたしには、あなたしかいないの!」
 これには、彼もひるんだようだ。別れようと思っていた相手(あいて)から、こんな言葉(ことば)が出るなんて…。彼は戸惑いながら言った。「僕で…、僕なんかでいいのか?」
「もちろんよ。こんなわがままで、何にもできないわたしだけど、お願(ねが)いします!」
<つぶやき>これで元通(もとどお)りになったのか…。結局、別れ話の原因(げんいん)って何だったんでしょう?
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T:0630「しずく41~切迫」
 月島(つきしま)しずくが家へ帰ったのは、もう辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなりはじめた頃(ころ)だった。何時(いつ)もなら家の中には明かりが点(つ)いているはずなのだが、まだ誰(だれ)も帰っていないのか――。そんなはずはない。だって、つくねが先(さき)に帰っているはずだし、それにお母さんはこんな時間に出かけたことなんか一度もない。しずくは玄関(げんかん)の扉(とびら)に手をかけた。すると、扉が開いた。
「何だ、いるんじゃない」と、しずくは呟(つぶや)いて家の中へ入った。
 しずくは、「ただいま」と声をかけたが、家の中からは何の反応(はんのう)もなかった。しずくは玄関を上がるとリビングへ向(む)かった。暗がりのなか、目をこらしてみるが人の気配(けはい)はしなかった。しずくは部屋の明かりを点(つ)けようと、スイッチに手を伸(の)ばした。
 スイッチに触(ふ)れようとした瞬間(しゅんかん)、誰かに手をつかまれて、しずくは思わず声を上げそうになった。耳元(みみもと)で楓(かえで)の声がした。「明かりは点けないで。こっちへいらっしゃい」
 しずくは母親に手を引かれてダイニングへ――。楓は、しずくを食卓(しょくたく)の椅子(いす)に座(すわ)らせると、しずくを抱(だ)きしめて言った。「無事(ぶじ)でよかったわ。心配(しんぱい)してたのよ」
「お母さん…。ねえ、どうしたの? 何か…」
 楓は、しずくを黙(だま)らせると言った。「いい、これから言うことを、よく聞くのよ。前に、お母さんが言ったこと憶(おぼ)えてる? もし身(み)の回りで異変(いへん)が起こったら…」
 しずくは小学生の時に聞かされたことを思い出した。あの時は、あんまり怖(こわ)い話だったので本気(ほんき)にはしなかった。そんなこと、あるわけないって…。
<つぶやき>差(さ)し迫(せま)った危険(きけん)に、母親が動き出します。家族(かぞく)を守(まも)ることができるのか…。
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T:0631「暗闇の怪」
 仕事(しごと)で帰りが遅(おそ)くなった彼女は、駅(えき)を出て家路(いえじ)を急(いそ)いだ。――歩きなれた道(みち)なのだが、今日は何だかいつもと違(ちが)う。やけに暗(くら)いのだ。夜空(よぞら)を見上げると星(ほし)ひとつ見えない。そこで彼女は気がついた。街灯(がいとう)が消(き)えているのだ。それに家からもれてくる明かりも…。
 停電(ていでん)かしら? 彼女はふとそう思った。だが、それにしても暗すぎる。足元(あしもと)も見えないし、それに自分(じぶん)の手まで見えなくなった。こうなると一歩も前へ進めない。彼女は手探(てさぐ)りで辺(あた)りをさぐった。するとザラザラと固(かた)い物(もの)が手に触(ふ)れた。これは、どこかの家の塀(へい)だわ。彼女はその塀づたいに歩き出した。
 何歩(ぽ)か歩くと、突然塀が途切(とぎ)れた。次に触れたのは、とげとげした弾力(だんりょく)のあるもの。これは生(い)け垣(がき)だわ。そうか、この生け垣は川村(かわむら)さん家(ち)の…。彼女の家の隣(となり)が川村家だ。彼女はホッとした。もう少しで家にたどり着けるはず。生け垣をたどって先(さき)を急ぐ。
 生け垣は途中(とちゅう)で切れて犬(いぬ)が吠(ほ)えるはずよ。でも、いつもなら吠え立てる犬が、今日は静(しず)かだ。彼女は不安(ふあん)になった。その時、後ろから声がした。「お姉(ねえ)ちゃん、何やってんの?」
 彼女は振(ふ)り返る。暗闇(くらやみ)の中からぼーっと人の顔が浮(う)かんできた。よく見るとそれは…。
「ああ、よかった。来てくれて…。真っ暗で、何も見えないのよ」
 彼女は半(はん)べそをかいて、弟(おとうと)に抱(だ)きついた。弟は彼女を振り払い、
「なに言ってんだよ。ああ、ひょっとして寝(ね)ぼけてんじゃないのか?」
「バカ! そんなんじゃないわよ。ほんとに、何にも見えなかったのよ」
<つぶやき>狐(きつね)か狸(たぬき)、はたまた妖怪(ようかい)の仕業(しわざ)かもしれない。夜道を歩くときは気をつけて。
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T:0632「受付嬢」
 彼女は会社で受付業務(ぎょうむ)をしていた。彼女が受付(うけつけ)で座っていると、取引先(とりひきさき)の社員(しゃいん)が帰りがけに彼女の前に現(あらわ)れてこう言った。「君(きみ)と合併(がっぺい)したいんですが」
 いきなり真顔(まがお)で変なことを言われて、彼女は何のことだか分からなかった。その男性はたまに会社にやって来ているので、顔ぐらいは憶(おぼ)えているのだが…。彼は続けて言った。
「一応(いちおう)、月給(げっきゅう)の三か月分を考えています。それと、合併後は辞(や)めてもらうことになりますので。しかし、君に満足(まんぞく)していただけるだけの報酬(ほうしゅう)は必(かなら)ず――」
 彼女は手を上げて彼の話を止めると、「あの、失礼(しつれい)ですが…。もしかして、わたしにプロポーズされているのでしょうか?」
「もちろんです。他に何があるんですか? 僕(ぼく)はあなたと――」
「あの、それっておかしいでしょ。わたし、あなたとは付き合ってもいないのに…」
「なるほど。あなたは、僕と付き合いたいんですね」彼はポケットから手帳(てちょう)を取り出すとパラパラめくりながら、「金曜日の夜ならあいていますが、お食事(しょくじ)でもいかがですか?」
「そういうことじゃなくて…。わたし、あなたと付き合いたいなんて思ってませんから」
「それは、僕の出した提案(ていあん)が気に入らないということですね。でしたら、後日改(あらた)めて、詳細(しょうさい)を検討(けんとう)して、新(あら)たな提案をさせていただきたいと思います。では、失礼(しつれい)いたします」
 彼は一礼(いちれい)すると、そのまま玄関(げんかん)を出て行った。彼女は背筋(せすじ)に悪寒(おかん)が走った。
<つぶやき>話の咬(か)みあわない人っていますね。諦(あきら)めさせることができるといいんですが。
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T:0633「秋刀魚」
 どこからか魚の焼(や)ける香(こう)ばしい匂(にお)いが漂(ただよ)ってきた。「これは秋刀魚(さんま)だな」彼はそう呟(つぶや)くと、鼻(はな)を上へ向(む)けてひくひくさせた。どうやら、安治(やすじ)の家の方から来ているようだ。
「よし、今晩(こんばん)は秋刀魚を食(しょく)そうじゃないか」
 彼は塀(へい)の上から飛(と)び下りると、足早(あしばや)に安治の家へ向かった。
 台所(だいどころ)へ通(つう)じる戸(と)は、煙(けむり)だしのために開けられている。広くもない庭(にわ)の片隅(かたすみ)で、彼は中の様子(ようす)を窺(うかが)っていた。どうやらちょうど焼けたようで、細君(さいくん)は網(あみ)から獲物(えもの)を皿(さら)へ移(うつ)すところだ。その皿は、飯台(はんだい)の隅(すみ)へ置かれた。その時、玄関(げんかん)の方から声がした。来客(らいきゃく)のようである。細君はいそいそと台所を後にした。
 彼はここぞとばかり、台所へ侵入(しんにゅう)をはかった。勝手(かって)知ったる何とかである。彼は飯台を見上げて、前肢(まえあし)を飯台の上にのせて立ち上がる。目の前には、食べ頃(ごろ)の秋刀魚が二匹、二つの皿に仲良(なかよ)く並(なら)んでいる。彼は一瞬(いっしゅん)躊躇(ちゅうちょ)した。以前(いぜん)、焼き魚を咥(くわ)えたとき、あまりの熱(あつ)さに飛び上がったことがある。彼は鼻を近づけてみる。どうやら、大丈夫(だいじょうぶ)のようだ。
 細君の足音(あしおと)が、彼の耳(みみ)に入ってきた。彼は秋刀魚の腹(はら)の辺りに口を持っていき、軽(かる)く歯(は)を当(あ)てる。口の中に秋刀魚の旨(うま)みが充満(じゅうまん)する。もう、たまらない。――だが、こんなところでのんびりなどしていられない。足音はどんどん近づいていた。彼はガブリと秋刀魚を咥えると、一目散(いちもくさん)に表(おもて)へ飛び出した。後ろから、細君の悲鳴(ひめい)が聞こえて来た。
<つぶやき>猫(ねこ)たちは、獲物を得(え)るために日々努力(どりょく)しているのです。秋刀魚、食べたい!
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