書庫 ブログ版物語601~

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T:0601「情報を制するもの」
 軍服(ぐんぷく)を着た男が、女に歩(あゆ)み寄(よ)って言った。「君(きみ)は、ダンカン将軍(しょうぐん)のことで話があるとか」
 女はおずおずと、「あたし、バーで女給(じょきゅう)してて…。お店(みせ)には軍人(ぐんじん)さんも大勢(おおぜい)来るから、いろんな話を聞けるんです。だから…」
 ダンカンとこの男は、軍の中で権力争(けんりょくあらそ)いをしていた。どちらがこの国を支配(しはい)するのか、それによってこの国の運命(うんめい)まで変わってしまうのだ。女は男の耳元(みみもと)で何かをささやいた。そして、紙切(かみき)れを手渡(てわた)した。男はそれを見ると顔色(かおいろ)が変わり、部屋を飛び出して行った。
 女は部屋の中で一人になると、目つきが変わった。男の机(つくえ)の上にある端末(たんまつ)を操作(そうさ)して、ある情報(じょうほう)をペンダント型の記憶媒体(きおくばいたい)にダウンロードした。女が部屋を出ようとしたとき、さっきの男が戻(もど)って来た。女は驚(おどろ)いて立ち止まる。男は女の前に立ちふさがり、
「やっぱり、お前は敵国(てきこく)のスパイだな。何をねらって来たんだ?」
 男は女からペンダントを取り上げると、女の服(ふく)の襟(えり)をつかんで嫌(いや)らしい笑(え)みを浮(う)かべて言った。「じっくりと、その身体(からだ)に教(おし)えてもらおうか?」
 女は不敵(ふてき)な笑(え)みを浮(う)かべて、「いいわよ。でも、あなたにできるかしら?」
 男は女の首(くび)をつかんで言った。「お前が行くのはベッドじゃなく、暗い監獄(かんごく)の拷問(ごうもん)室だ」
 軍服の男たちが入って来て、女を引きずるように部屋から連れ出して行った。男はほくそ笑んでささやいた。「これで、俺(おれ)はすべてを手にすることができる。ハハハハ」
 その日のうちに、男は何者かに暗殺(あんさつ)された。そして、女は密(ひそ)かに国外退去(こくがいたいきょ)となった。
<つぶやき>いろんな人の思惑(おもわく)が交差(こうさ)して、もう何が何だか分かんなくなってきてます。
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T:0602「純情乙女」
 東京(とうきょう)の大学(だいがく)に入学(にゅうがく)した青年(せいねん)が二年振(ぶ)りに帰省(きせい)した。実家(じっか)の前まで来たとき、隣(となり)の家から出て来た若(わか)い娘(むすめ)とぶつかった。その娘は青年の顔を睨(にら)みつけたが、急に顔をそむけた。
 青年は娘の顔を覗(のぞ)き込み、「あれ、みっちゃん? みっちゃんじゃないか」
 娘は背(せ)を向けた。青年は娘の変わりように驚(おどろ)いて、
「どうしたんだ? 髪(かみ)、染(そ)めちゃって…。まだ高校生だろ。何でそんな――」
 娘はキッと青年を見て呟(つぶや)いた。「お前のせいだ。お前なんか…」
「なあ、何があった? ちゃんと学校行ってるのか。悪(わる)い仲間(なかま)と――」
「うるせえな。お前には関係(かんけい)ねえだろ。親(おや)でもないのに…」
「幼(おさな)なじみだろ。心配(しんぱい)するさ。小さいころからずっと見てきたんだ」
「もう、ほっといてよ。あたしは…、もう昔(むかし)のあたしじゃないの」
「なに言ってんだ。みっちゃんは、みっちゃんだろ。あの無邪気(むじゃき)で可愛(かわい)い――」
「じゃあ、何で答(こた)えてくれなかったの? あたし、告白(こくはく)したんだよ。それなのに…」
「えっ、告白? 誰(だれ)に?――俺(おれ)? ちょっと待ってくれ。えっ…、それっていつ?」
「大学に合格(ごうかく)したときだよ。あたし告白したよね。ちゃんと、勇気(ゆうき)だして、したんだから」
 青年はしばらく考えてみたが、「いやいやいや…。ごめん、告白されたなんて…」
「何で! あたし、ちゃんと言ったじゃない。あたしも行きたいって!」
<つぶやき>この後、もう一度告白したようです。さて、乙女(おとめ)の恋(こい)は実(みの)ったのでしょうか?
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T:0603「嵐を呼ぶ男」
 私の彼はちょっと変わってるの。彼とのデートは、いつも何かが起(お)こるんだ。
 初めてのデートの時は、台風(たいふう)が来てしまった。だから、どこへも行けずに中止(ちゅうし)になった。次の約束(やくそく)の日は、突然(とつぜん)の大雨(おおあめ)になってしまって…。ずぶ濡(ぬ)れになった私は、風邪(かぜ)をひいて三日間寝込(ねこ)んでしまった。
 一週間後のデートの日は、大風(おおかぜ)が吹(ふ)いていて大変(たいへん)だった。彼は私に風が当(あ)たらないようにと風上(かざかみ)に立ってくれて…。それでも、私の髪(かみ)はグチャグチャになってしまった。スカートをはいて行かなくて良かったわ。
 彼は私に会うたびに、ごめんねって言ってくれる。そして、
「僕(ぼく)は、嵐(あらし)を呼(よ)んでしまう男だから…。きっと、これからも僕に会うときは大変かもしれない。それでも、僕と付き合ってくれるかい?」
 私は彼に答(こた)えたわ。「そんなの平気(へいき)よ。だって、あなたと会うときは、いつもエキサイティングなんだもの。これから何が起こるか、ワクワクするわ」
 そんなことを言ってしまう私って…。私も、変わってるのかもしれないわ。今日も彼とデートの約束をしている。窓(まど)の外を見ると、大きな雲(くも)が湧(わ)き上がっていて、遠(とお)くで雷(かみなり)のゴロゴロという音がかすかに聞こえてきた。――今日は、彼がプロポーズしてくれるかもしれないわ。私は胸(むね)を躍(おど)らせて、大きなバッグの中に雨具(あまぐ)をしのばせた。
<つぶやき>雨男(あめおとこ)ならぬ嵐男ですか。彼と付き合うには相当(そうとう)の覚悟(かくご)が必要(ひつよう)かもしれません。
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T:0604「雪山」
「もう少しだ。ほら、頂上(ちょうじょう)が見えるだろ。がんばれ!」
 男は後ろを向いて、女に言った。だが、女は雪(ゆき)の斜面(しゃめん)に座(すわ)り込んでしまって身動(みうご)きできない。男を見上げると苦(くる)しそうに言った。
「もう無理(むり)よ。あなただけでも、行ってちょうだい。私、ここで待ってるから…」
「なに言ってるんだ。お前をおいて行けるわけないだろ。それに、お前と一緒(いっしょ)じゃないと意味(いみ)ないんだ。二人で頂上に立つって約束(やくそく)したじゃないか」
「ほんとに無理なの。もう一歩も歩けないわ。だから、行って!」
「分かった。じゃ、山を降(お)りよう。……無理をさせて、すまなかった」
「ダメ、そんなのダメよ。この山を征服(せいふく)するのが、あなたの夢(ゆめ)だったじゃない。今までしてきたことが、無駄(むだ)になっちゃう」
「いいんだ。またいつでも登(のぼ)れるさ。次は、必(かなら)ず二人で成功(せいこう)させよう」
 その時、下の方から坊主頭(ぼうずあたま)の白髭(しろひげ)を長く伸(の)ばした老人(ろうじん)が、ひょうひょうと登って来た。二人の姿(すがた)を見て、老人は言った。
「こんな雪の日に登らんでもいいのに。大変(たいへん)だろ? 明日になればきれいに溶(と)けちまうから、また来なさい。この山は逃(に)げやせんからな。ハッハッハッ」
 老人はそう言うと、軽々(かるがる)とした足取(あしど)りで頂上へと向かって行った。二人は老人を見送(みおく)ると、信じられないとうい顔で見つめ合った。
<つぶやき>この老人は何者(なにもの)なのでしょう。仙人(せんにん)、それとも偉(えら)い修行僧(しゅぎょうそう)なのかもしれない。
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T:0605「しずく36~盟友」
 神崎(かんざき)つくねは、柊(ひいらぎ)あずみの意外(いがい)な面(めん)を見てしまって、このことをどう理解(りかい)すればいいのか戸惑(とまど)っていた。あずみは、そんなことまったく気にしない様子(ようす)で、
「なに? 何か問題(もんだい)でもあるの?」
「いえ、そう言うわけじゃ…。でも、どうして…」
「ああ…」あずみは携帯(けいたい)をつくねに見せて、「これね。私たちと同じ能力者(のうりょくしゃ)よ。千里眼(せんりがん)の能力(ちから)があって、とっても頼(たよ)りになる人よ。…性格(せいかく)には、問題あるけどね」
 あずみの言い方に、ちょっと刺(とげ)があるように感じたつくねは、これ以上訊(き)かない方がいいのかと思った。あずみは、つくねの心中(しんちゅう)を察(さっ)したのか、
「イヤだ、そういうんじゃないのよ。この人とは腐(くさ)れ縁(えん)でね。ちょうど、あなたとしずくみたいなもんよ。出会ったときからいろんな……。もう止めましょ。今は、昔(むかし)の話をしてる時じゃないから。しずくが待ってるわ」
 つくねは肯(うなず)くと、窓(まど)の方へ向かった。そこから外へ出ようとしたのだ。でも、あずみはつくねの肩(かた)に手を置(お)いて、自分の方へ引き寄(よ)せると言った。
「時間が無いわ。飛(と)ぶわよ。いい、私にしっかりつかまってて」
 つくねがあずみの身体(からだ)に手を回すと、二人の姿(すがた)は忽然(こつぜん)と消えた。後に残(のこ)されたのは、窓の外に転(ころ)がっているつくねの靴(くつ)だけだった。
<つぶやき>どうでもいいことなんですが、この靴ってどうなっちゃうの? 気になる。
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T:0606「お嬢さま」
 私には好(す)きな人がいる。好きといっても私の片思(かたおも)いだけど。彼は同じクラスで、どちらかというと目立(めだ)たない人。格好(かっこ)良くもないし、クラスの人気者(にんきもの)でもない。でも、とっても優(やさ)しいの。こんな私にも、気づかってくれて…。
 私、思い切って告白(こくはく)しようと思った。でも、なかなか彼と二人っきりになれなくて…。それが、その機会(きかい)がやっと来た。放課後(ほうかご)、先生(せんせい)に呼(よ)ばれた私は職員室(しょくいんしつ)から戻(もど)ってみると、教室(きょうしつ)には彼が一人だけ残(のこ)っていて。私は、思わず彼に話しかけた。
「あの、矢野(やの)君。私、話したいことがあるの。聞いてくれる?」
 彼が、私を見た。私は、顔が熱(あつ)くなって、胸(むね)がドキドキしてきた。私が告白しようとしたその瞬間(しゅんかん)、私の後ろから声がした。「あら、二人で何してるの?」
 それは、金城由依(かねしろゆい)。お嬢(じょう)さまと、みんなから呼ばれていた。家はお金持ちで、学校で一番の美人(びじん)。そしてとんでもない勘違(かんちが)い女だ。クラスの男子(だんし)、いや学校中の男子に好かれていると思い込んでいた。まあ、彼女に話しかけられた男子は、舞(ま)い上がってしまうのは事実(じじつ)だけど…。そんな彼女が、何で矢野君に目をつけるのよ。彼女は私を見て言った。
「ひどい、矢野君を一人占(じ)めするなんて。三田(みた)さん、矢野君はあたしを待ってたのよ」
 矢野君は、お嬢さまに言った。「違(ちが)うよ。僕(ぼく)が待ってたのは…」
 ――彼は、私を見た。やっと理解(りかい)したのか、お嬢さまは何も言わずに教室を出て行った。
<つぶやき>これって両思(りょうおも)いなのかな? でも、お嬢さまがこのまま黙(だま)っているかしら。
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T:0607「思うまま」
 若者(わかもの)が、道端(みちばた)で占(うらな)いの看板(かんばん)を掲(かか)げている男に声をかけられた。
「あんさん、何か悩(なや)みごとでもあるんでっか? よかったら、見てあげまひょか?」
 若者はきょろきょろ辺(あた)りを見回(みまわ)して、「いや、僕(ぼく)は、そういうんじゃ…」
「遠慮(えんりょ)せんでもよろしいがな。寄(よ)って行きなはれ」
 若者は言われるままに近づくと、男は半(なか)ば強引(ごういん)に座らせて、若者の顔をまじまじと見つめて言った。「ははーん、分かった。――恋(こい)の悩(なや)みやないですか?」
 若者は首(くび)を大きく振(ふ)ったが、男は確信(かくしん)したようにささやいた。
「ここだけの話ですけど…。好きな人を思いのままに操(あやつ)れる薬(くすり)がおます。よかったら…」
「えっ!」若者は思わす声をあげた。「そ、そんな薬が…、あるんですか?」
「はい。ただし、あんさんがその手で飲ませんとあきまへん」
「そ、そんな…。どうすればいいんですか? 僕は、彼女に告白(こくはく)もしてないのに…。まともに話すらしたことないんですよ」
「あきまへんな。なら、声をかけなさい。で、これをこっそり飲ませば、思うままに…」
「それ、ほんとですか? ほんとに、僕の…、思うままに…」
「はい。――では、ここは勉強(べんきょう)させていただいて、三万円で、どうですか?」
「さ、三万! ちょっと高くないですか? これ、一粒(ひとつぶ)ですよね」
「なに言うてはりますの。これで、あんさんの人生(じんせい)がバラ色になるんでっせ。安(やす)い、安い」
<つぶやき>男の性(さが)と言いますか…、そんなことして恋人(こいびと)を作るなんて。絶対(ぜったい)ダメです。
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T:0608「あなた」
 手を伸(の)ばせば、そこにある。ほんの少し勇気(ゆうき)をだして…。そうすれば手に入るの。わたしの欲(ほ)しいもの。それは…、あなた。
 わたしは、あなたを自分(じぶん)のものにしたいって衝動(しょうどう)にかられている。これが恋(こい)というものなのか、わたしには分からない。でも、日に日にその衝動が抑(おさ)えきれなくなって…。自分でもどうすることもできない。あなたを見るたびに、わたしの胸(むね)はしめつけられた。
 何度、あなたから目をそらそうとしたか。でも、そのたびにあなたの姿(すがた)がちらついて…。あなたのことを探(さが)してしまう。もうあたし、あなたなしでは生きてゆけないかも。こんな苦(くる)しい思い、いつまで続くんでしょ…。
 でも、それももう終わりよ。わたし、決(き)めたわ。明日、あなたを手に入れる。そのために、今まで我慢(がまん)してきたんだもん。やっとその日が来たの。わたしは、あなたのもとへ走ったわ。そして、あなたの姿を見たとき――。
 だめ、だめよ。…どうして? あなたの横にいるのは――。あたしは、何てことを考えてるの。あたし、あなたのことは好きよ。でも、あなたの隣(となり)にはもっと素敵(すてき)な――。いけないわ、そんなこと…。わたしは、浮気(うわき)な女じゃないはずよ。わたしの一途(いちず)な思いは、こんなことで砕(くだ)けたりなんか…。でも、女心(おんなごころ)って……。
<つぶやき>あなたって、何なんでしょうね。いろんなもので想像(そうぞう)を膨(ふく)らませてみると…。
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T:0609「お嫁さんごっこ」
 小学生の娘(むすめ)が男の子を連(つ)れて帰って来た。こんなことは初(はじ)めてだ。私は目を丸(まる)くした。娘はソファに深々(ふかぶか)と座(すわ)ると、その男の子に言った。
「よっちゃん。あたし、おなか空(す)いちゃった。なにか作ってよ」
 私は驚(おどろ)いた。ママと同じことを言うなんて…。私は、娘に言った。
「あかね、そんなこと頼(たの)んじゃだめだよ。お客(きゃく)さんなんだから」
 娘は嬉(うれ)しそうに、「あら、あたし、よっちゃんのお嫁(よめ)さんになるのよ。いいでしょ」
 娘の口からお嫁さんなんて言葉(ことば)を聞くなんて。それも、こんなに早(はや)く。父親(ちちおや)としては、何とも複雑(ふくざつ)な心持(こころも)ちになった。だが、そんなこと言ってる場合(ばあい)じゃない。いけないことはいけないと、はっきり娘に教(おし)えてやらなくては…。そうだ、父親として。
 私が娘に向(む)き直(なお)ったとき、後ろから男の子が言った。
「いいよ。僕(ぼく)、たまにママのお手伝(てつだ)いしてるから。なにが食べたいの?」
「そうねえ…。じゃあ、ホットケーキがいいわ」
 その時だ。ママが帰って来た。娘はママに駆(か)け寄(よ)ると、自慢(じまん)するようによっちゃんのことを話した。ママは娘を抱(だ)きしめると、
「よかったわねぇ。ママも、パパと結婚(けっこん)したからこんなに幸(しあわ)せになれたのよ。あかねも、絶対(ぜったい)に逃(に)がしちゃだめだからね。分からないことがあったら、何でもママに訊(き)きなさい」
<つぶやき>子供は親に似(に)るといいますが、たくましい娘に育(そだ)つんじゃないかと思います。
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T:0610「しずく37~間一髪」
 月島(つきしま)しずくは、水木涼(みずきりょう)に操(あやつ)られるまま、大木(たいぼく)に下がっているロープの前まで来てしまった。しずくの手がロープをつかんで、頭を輪(わ)の中へくぐらせる。しずくには、それを止めることができなかった。涼は楽しげに言った。
「さあ、最後(さいご)の時よ。何か言い残(のこ)すことがあれば、聞いてあげるけど?」
 しずくは震(ふる)える声で言った。「私が、何をしたっていうの? あの時、約束(やくそく)したじゃない。忘(わす)れちゃったの? 私たちが、初めて会ったとき…」
「なに言ってるの。そんなの知らないわよ。さあ、始めましょうか」
 涼が手を上げると、ロープが動き出した。ずるずると、まるで蛇(へび)のように上がって行く。ロープがしずくの首(くび)をゆっくりと絞(し)め始めた。少しずつ身体(からだ)が浮(う)き上がり、かかとが地面(じめん)から離(はな)れていく。涼は、苦(くる)しんでいるしずくを笑(わら)いながら見つめていた。だが、その涼の顔に苦痛(くつう)の表情(ひょうじょう)が現れた。頭痛(ずつう)のために涼が自分の頭に手をやると、ロープの動きが止まった。しずくは涼に向かって声を上げた。「やめて! お願(ねが)いよ…」
 その時だ。二人の前に、柊(ひいらぎ)あずみと神崎(かんざき)つくねが現れた。次の瞬間(しゅんかん)には、しずくの身体はあずみに抱(だ)きかかえられていた。あずみはロープを首から外(はず)して、二人はその場に倒(たお)れ込む。つくねはパチンコを構(かま)え、涼に狙(ねら)いを定(さだ)めて打ち込もうとしていた。
 しずくはそれを見て叫(さけ)んだ。「だめ! やめてぇ!!」
<つぶやき>ほんと間に合ってよかったです。でも、何で涼はこんなことしたんでしょう。
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T:0611「非常事態」
 外(そと)は大雨で強い風が吹(ふ)き荒(あ)れている。男は必死(ひっし)に玄関(げんかん)の戸(と)を押(お)さえていた。手を放(はな)したら最後(さいご)、この家は倒壊(とうかい)してしまうだろう。それほど古(ふる)い家だった。男は大声で叫(さけ)んだ。
「アイちゃん! ちょっと手を貸(か)してくれないか! このままじゃ…」
 部屋の中には女がいた。女は爪(つめ)にネイルを塗(ぬ)りながら、イヤホンで音楽(おんがく)を聴(き)いていた。どうやら男の声は届(とど)かないみたいだ。男は、さらに声を張(は)り上げた。女はやっと気づいたようで、「なに? いま、手がはなせないの。無理(むり)いわないで…」
 女は両手の指(ゆび)を立てながら、玄関の方へ歩いて行った。男は女が来たのを見ると、
「何してるんだよ。ちょっと手を貸してくれ。俺(おれ)だけじゃもう…」
「いやよ。あなたが何とかしてよ」女は自分の手を男に見せて、
「今のあたしは何もできないの。見ればわかるでしょ。それに、あなた言ったじゃない。これからは、俺が全部面倒(めんどう)見てやるからって」
「そりゃ、言ったけど…。今は、非常事態(ひじょうじたい)なんだ。頼(たの)むよ」
「あたし、こんなぼろい家だなんて知らなかったわ」
「悪(わる)かったよ。でも、始めに言っただろ。最初(さいしょ)から贅沢(ぜいたく)はできないって」
「それにしたって、これはひどすぎよ。あたし、帰ろかなぁ…。今ならまだ…」
 その時、突風(とっぷう)が襲(おそ)ってきた。男は、必死に踏(ふ)ん張(ば)りながら、
「その話、後(あと)にしないか? 今はこの状況(じょうきょう)を二人で乗(の)り切ろうよ。そうじゃないと――」
<つぶやき>嵐(あらし)は外(そと)だけじゃなく、家の中にも静(しず)かに吹き荒れていたのかもしれません。
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T:0612「無限空間」
「くそっ。やっぱりだめだ。暗証(あんしょう)番号を入れないとこの扉(とびら)は開(ひら)かない」
 男は扉の前で焦(あせ)る気持ちを抑(おさ)えて言った。さっきから警報(けいほう)が鳴(な)り響(ひび)き、どこからか人の叫(さけ)ぶ声が聞こえてきた。そばにいた女が、男を押(お)し退(の)けて言った。
「代(か)わって。わたしがやってみるわ。見張(みは)っててよ」
 女は頭に浮(う)かんが番号(ばんごう)を打ち込んでいく。すると、ロックが外(はず)れる音がした。
「お前、どうやったんだ? 何で、番号を知ってるんだよ」
「そんなこと…、わたしは適当(てきとう)にやっただけよ」
 扉が開くと、二人は手を取り合って駆(か)け出した。
 次の瞬間(しゅんかん)――。気がつくと、二人は扉の前に戻(もど)っていた。男が扉を開けようと必死(ひっし)になっている。でも、どうやっても扉は開(あ)きそうもない。
「くそっ。やっぱりだめだ。暗証番号を入れないとこの扉は開(ひら)かない」
 女は呆然(ぼうぜん)としていたが、男を押し退けると言った。「わたしが、やってみるわ」
 女は暗証番号を打ち込んだ。すると、ロックが外れて扉が開いた。
「お前、どうやったんだ? 何で、番号を知ってるんだよ」
「きっと、何度もやってるからよ。さあ、行って。わたしはここに残(のこ)るわ。何かを変えないと、たぶん永遠(えいえん)に同じことの繰り返しなのよ。あなただけでも、ここから逃(に)げて!」
<つぶやき>男なら、彼女を置(お)いていくなんてできないですよ。何があっても離(はな)れないで。
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T:0613「甘え上手」
 あいつは女子(じょし)に取り入るのが上手(うま)かった。いつの間にか仲良(なかよ)くなって、女子の輪(わ)の中に入って行く。俺(おれ)は、別に羨(うらや)ましいなんて思ってないけど…。でも、あいつがときどき俺の方を見て、どや顔(がお)をするのが気に食(く)わない。
 最近(さいきん)は保健室(ほけんしつ)に入り浸(びた)っているようだ。女子だけじゃなく、保健の先生(せんせい)にちょっかいだすなんて、絶対許(ゆる)せねえ。あの先生は、俺たちの憧(あこが)れの――。
 この間、保健室を覗(のぞ)いたとき、あいつがいて…。よりによって、あいつが先生に頭を撫(な)でられているとこを目撃(もくげき)してしまった。俺は、俺は、別に羨ましいなんて…。
 俺は心を決(き)めた。俺も、あいつのように――。どうすれば良いのかちゃんと分かってる。今まで、あいつのしていたことは全部(ぜんぶ)頭の中に入ってるんだ。後(あと)は行動(こうどう)に移(うつ)すだけだ。
 放課後(ほうかご)、俺は保健室を覗いてみた。生徒(せいと)は誰(だれ)もいなくて、先生だけが机(つくえ)に向かって仕事(しごと)をしていた。俺は保健室に入ると、あいつのしてたように声をかけた。多少、声がうわずってしまったが、これでつかみはOKだ。――そのはずだった。
 でも、先生は大笑(おおわら)いして、「何やってるの? あなたには似合(にあ)わないわよ、そんなこと。ねえぇ、人には向(む)き不向(ふむ)きがあるのよ。人の真似(まね)なんてしてないで、あなたらしいアプローチをしなさい。そうじゃないと、恋人(こいびと)なんてできないぞ」
<つぶやき>これが一番むずかしい。たくさん失敗(しっぱい)して、自分らしさを見つけましょう。
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T:0614「問題あり」
 私の職場(しょくば)には、口癖(くちぐせ)のように「問題(もんだい)ないですよ」を繰(く)り返す後輩(こうはい)がいる。でも、それで問題が無(な)かったことは一度もない。いつしか、その後始末(あとしまつ)をするのが私の仕事(しごと)になっていた。上司(じょうし)から押(お)しつけられた感じはあったけど、他(ほか)にやれる人がいないのは確(たし)かである。
 私は、彼に仕事を覚(おぼ)えてもらおうと、何度(なんど)も何度も教(おし)えているのに…。私がいくら頑張(がんば)っても、何度注意(ちゅうい)しても、彼のやることはどこか抜(ぬ)けていて、やる気があるんだか無いんだか、まったく分からない。そして、今日もまた、彼は「問題ないですよ」を連発(れんぱつ)する。
 日頃(ひごろ)から温厚(おんこう)な私も、さすがに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れかかっていた。そんな時だ。取引先(とりひきさき)から電話(でんわ)がかかってきた。納品(のうひん)した数量(すうりょう)が違(ちが)っていると――。注文書(ちゅうもんしょ)を確認(かくにん)すると、注文を受(う)けたのは、あの後輩だった。私は、彼を呼(よ)びつけて言った。
「あのね、この注文、数(かず)が一ケタ違(ちが)うじゃない。私、言ったよね。注文を受けたら、ちゃんと確認(かくにん)しなさいって。何で、こういう間違(まちが)いがおこるわけ」
 彼は、私の顔を見ようともしないで、「ああ、これですか…。問題ないですよ。先輩(せんぱい)がいるじゃないですか。あと、お願(ねが)いします。俺(おれ)、他に仕事があるんで」
 私の中で何かが切(き)れた。私は声を荒(あら)げて叫(さけ)んでいた。
「あんたね、私を何だと思ってるの! 私は、あんたのママじゃないんだから! これも、あんたの仕事でしょ。自分のケツぐらい、自分でふきなさいよ!」
<つぶやき>この気持(きも)ち、わかる。でも言い方には注意(ちゅうい)しましょう。落ち着いて対応(たいおう)を…。
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T:0615「しずく38~クグツ師」
 月島(つきしま)しずくの声で、神崎(かんざき)つくねの狙(ねら)いがそれた。――パチンコ玉は水木涼(みずきりょう)の頬(ほお)をかすめて、後ろの木の小枝(こえだ)を打ち落とした。涼は力が抜(ぬ)けたように、その場に倒(たお)れ込んだ。
 つくねは叫(さけ)んだ。「何で止(と)めたの! こいつは、あなたを殺(ころ)そうとしたのよ」
「よかった。これで…」しずくはホッとしたように呟(つぶや)いて、意識(いしき)を失(うしな)った。
 つくねは慌(あわ)てて駆(か)け寄って、心配(しんぱい)そうにしずくを見つめる。そばにいた柊(ひいらぎ)あずみが、
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。気を失(うしな)っただけだから。さあ、ここから離(はな)れましょう」
 つくねは涼を睨(にら)みつけて、「こいつはどうするの?」
「この娘(こ)は、普通(ふつう)の人間みたいね。パワーを全(まった)く感じないわ。あなたはどう?」
「ええ、今はそうだけど…。でも、こいつはしずくを――」
「私ね、前に聞いたことがあるの。人を操(あやつ)る能力者(のうりょくしゃ)が存在(そんざい)するって。もし今回の相手(あいて)がそうだとすると、これは厄介(やっかい)なことになるわよ。本当(ほんとう)の敵(てき)を見分(みわ)けるのが、とっても難(むずか)しくなる」
 学校の保健室(ほけんしつ)のベッドに二人は寝(ね)かされていた。しずくのそばには、つくねが不機嫌(ふきげん)な顔で座(すわ)っていた。しずくが意識(いしき)を取り戻(もど)すと、つくねは顔を近づけて言った。
「バカ! 何やってるのよ。どれだけ心配したと思ってるの」
 しずくはきょとんとして、「な、何なの? そんなに怒(おこ)らなくても…」
 しずくは、横にあるベッドに涼が寝かさせているのを見て、かすかに微笑(ほほえ)んだ。
<つぶやき>彼女たちの敵って、誰(だれ)なんでしょう。これは、その戦(たたか)いの序章(じょしょう)にすぎない。
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T:0616「立ち直り」
 閉店(へいてん)まぎわの居酒屋(いざかや)。客もまばらになった店内(てんない)で、女がジョッキのビールをガブ飲(の)みしていた。隣(となり)では、男が心配(しんぱい)そうに見つめている。女はビールを飲み干(ほ)すと男に言った。
「ねえ、あいつ、私のこと何て言ったと思う? 重(おも)たいって…。君(きみ)といると、僕(ぼく)は押(お)しつぶされそうだって…。何なのよ。私、ちっとも重たくなんかないでしょ」
 男は黙(だま)って女の話を聞いていた。女はまるで独(ひと)り言のように、早口(はやくち)で呟(つぶや)いた。
「私、知ってるのよ。あいつが、経理(けいり)の何とかって女と付き合ってるの。でも、私は…。私のこと、ちゃんと考えてくれてるって…。だって、結婚(けっこん)しようねって言ってくれたから」
 男は黙っていられなくなって、「沙代(さよ)ちゃんは、何も…。悪(わる)いのは、高木(たかぎ)だ! 沙代ちゃんがこんなに好きなのに…。もう、あんな奴(やつ)のことなんか忘(わす)れろよ! 俺(おれ)が…、俺が…」
 女は、男の顔をじっと見つめる。女の顔がゆがんでいき、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)が溢(あふ)れてきた。
「何で…、寛治(かんじ)のこと悪く言うのよ。バカ…、バカ、バカ!」
 女は、男の身体(からだ)を何度も叩(たた)いた。男にはちっとも痛(いた)くはなかった。でも男の心には、女の哀(かな)しみが刺(とげ)のように突き刺(さ)さった。男は、彼女を抱(だ)きしめようと手を伸(の)ばしかけた…。だが、女は急に立ち上がると涙を拭(ふ)き、男に笑(え)みをみせて言った。
「私、帰るね。今日は、ありがとう。おかげて、すっきりしたわ」
<つぶやき>こんな時、男は無力(むりょく)なのです。ひとこと好きだって、言っちゃえばいいのに。
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T:0617「婚姻部」
 20××年。結婚(けっこん)できない人工(じんこう)が増(ふ)え続けるのを抑(おさ)えようと、政府(せいふ)は財界(ざいかい)を巻(ま)き込んで思い切った政策(せいさく)を打ち出した。それは、会社婚(かいしゃこん)である。全国の様々(さまざま)な企業(きぎょう)に新たに婚姻部(こんいんぶ)を設(もう)けて、いろいろな企業同士(どうし)でお見合(みあ)いを薦(すす)めるのだ。とある企業でも…。
「部長(ぶちょう)、わたしに結婚しろとおっしゃるんですか?」
 婚姻部長を前にして中堅(ちゅうけん)の女子社員(しゃいん)が言った。部長はにこやかな顔で、
「わしもね、君(きみ)みたいな優秀(ゆうしゅう)な社員を失(うしな)うのは辛(つら)いところなんだ。でもね、君もそろそろ大台(おおだい)だろ? どうかね、ここらで、考えてみないかね」
 彼女は、ちょっと困(こま)ったような顔をした。すかさず部長は先を続ける。
「もし、君に好きな人がいるんなら、この話はなかったことにしてもいいんだ。でもね、そうじゃなかったら…。どうだろ、君にとっても、けして悪(わる)い話じゃないと思うんだ」
 彼女はまだ迷(まよ)っているようだ。今から別の会社へ行くなんて…。部長は、
「転職(てんしょく)するのは、不安(ふあん)もあるだろう。しかしね、向こうの会社へ行けば、君のスキルをもっと磨(みが)くことができるはずだ。――ああ、わしとしたことが…」
 部長は突然(とつぜん)声を上げて立ち上がると、デスクの上の見合(みあ)い写真(しゃしん)を持って来て、彼女にそれを見せ、「なかなかの人物(じんぶつ)と思うんだが…。今は課長(かちょう)をしててね。仕事一筋(ひとすじ)で、女性とは全く縁(えん)が無(な)かったみたいだ。もちろん夫婦(めおと)社員として、君には課長待遇(たいぐう)で――」
<つぶやき>夫婦社員とは、お互(たが)いに補(おぎな)い合って仕事(しごと)と家庭(かてい)を両立(りょうりつ)させる特別制度(とくべつせいど)です。
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T:0618「告白の友」
 ネットを見ていて、面白(おもしろ)そうなサイトを見つけた。〈告白(こくはく)の友(とも)〉というサイトで、いろんな人が告白の仕方(しかた)を投稿(とうこう)していた。どんなシチュエーションで、どんな気の利(き)いたフレーズを使ったのかが、事細(ことこま)かに書かれている。でも、それが本当に成功(せいこう)したのか…、までは触(ふ)れていなかった。
 読んでいくうちに、「これいいなぁ」って思うものを見つけた。――僕(ぼく)はこれを使って告白しようと心に決めた。ちょっと気になる娘(こ)がいて…。今は、友達(ともだち)みたいな感じなんだけど、向(む)こうも、まんざらでもないみたいなんだよね。僕はそこに書かれていたフレーズを何とか暗記(あんき)して、彼女を呼(よ)び出した。
 僕が待っていると、彼女は時間ぴったりにやって来た。僕は普段(ふだん)通りに振(ふ)る舞(ま)おうと思ってたんだけど、やっぱり緊張(きんちょう)して何だか落ち着かない。僕が話しかけようとしたとき、彼女がそれを制(せい)して口を開いた。
「はっきり言っとくけど、あなたと付き合うつもりなんてないからね」
 僕は豆鉄砲(まめでっぽう)を食(く)らったハトのように、口をポカンと開けたまま彼女を見つめた。
 彼女は〈うんざり〉という顔をして、「ほんとに、何なのよ。わたし、5回目よ。ここに呼び出されるの。どうせあなたも、わたしに告白しようなんて思ってるんでしょ。そんなね、人のマネばっかする人、好きになるわけないでしょ」
 彼女はきっぱりと言い切ると去(さ)って行った。僕は…、もう、笑(わら)うしかないでしょ…。
<つぶやき>告白は、ちゃんと自分の言葉(ことば)でしましょうね。これはとても大切(たいせつ)なことです。
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T:0619「最高傑作」
 一人の年老(としお)いた画家(がか)が、アトリエに籠(こ)もり一心不乱(いっしんふらん)にキャンバスに向き合っていた。彼は命(いのち)が尽(つ)きる前に、自身(じしん)の最高傑作(けっさく)を描(か)こうとしているのだ。何度も何度も筆(ふで)を入れ、キャンバスを引き裂(さ)いては悲壮(ひそう)な叫(さけ)び声をあげた。
 彼の身体(からだ)は、もう限界(げんかい)に来ていた。筆を持つこともままならなくなり、それでも彼は、震える指(ゆび)に絵の具をつけてキャンバスに置いていく。そこまでしても、納得(なっとく)のいく絵にはならなかった。彼は、とうとう力尽(ちからつ)き、キャンバスの前に倒(たお)れ込んだ。
 心配(しんぱい)してアトリエを覗(のぞ)きに来た孫娘(まごむすめ)が、それを発見(はっけん)した。孫娘は画家に駆(か)け寄り抱(だ)き起こすと、彼の名を呼び続けた。すると画家は目を開けて、かすかな声で孫娘に訊(き)いた。
「どうだ、わしの絵は…。最高傑作になっているか?」
 孫娘は画家の絵を見た。それは、今までに見たこともない絵だった。その画家が描いた絵の中に、こんな激(はげ)しい、躍動(やくどう)するような絵はなかった。孫娘は言った。
「おじいちゃん、すごいよ。こんな凄(すご)い絵、見たことないわ…」
 孫娘は、画家に目をうつす。だが、彼女の声が届(とど)いたのか…。画家は、彼女の腕(うで)の中で、穏(おだ)やかな顔で眠(ねむ)りについていた。孫娘は涙(なみだ)をこらえて、画家に優(やさ)しく語(かた)りかけた。
「もちろん、最高傑作だよ。最後に、ちゃんと描けたね。おめでとう…」
<つぶやき>画家が残(のこ)した絵は、間違(まちが)いなく彼の生きた証(あか)し。あなたの証しは何ですか?
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T:0620「しずく39~平穏」
 しばらくすると、水木涼(みずきりょう)の意識(いしき)が戻(もど)った。やはり朝からの出来事(できごと)はまったく覚(おぼ)えていなかった。本当(ほんとう)のことを話すわけにもいかないし、登校(とうこう)の途中(とちゅう)で倒(たお)れたってことにしておいた。
 でも、涼が鏡(かがみ)を見たとき、頬(ほお)の傷(きず)に気がついて大騒(おおさわ)ぎになった。保健室(ほけんしつ)の先生(せんせい)に、傷跡(きずあと)は残(のこ)らないから大丈夫(だいじょうぶ)よって言われて、やっと落ち着いてくれた。下校(げこう)の時には、もうすっかりいつも通りの元気(げんき)な涼に戻っていた。
 涼は、月島(つきしま)しずくと川相初音(かわいはつね)を呼(よ)んで、「なあ、一緒(いっしょ)に帰ろうよ」って誘(さそ)った。
「ごめんなさい」初音はすまなそうに、「あたし塾(じゅく)があるから、またね」
「お前さ、アタマ良いくせに、それ以上賢(かしこ)くなってどうすんだよ」
 涼は不満(ふまん)そうに言ったが、初音は笑(わら)いながら、「あなたも、一緒に行かない?」
「冗談(じょうだん)! 私、そんなとこ行ったら、速攻(そっこう)で寝(ね)ちゃうから…。ねえ、しずくは?」
「私は、いいわよ」しずくはそう言いながら神崎(かんざき)つくねの方を見て、「あなたも――」
「いえ、あたしは」つくねは即答(そくとう)すると、「それより、先生に呼ばれてるんじゃないの?」
 しずくは急に思い出して、「ああ…、そうだったわ。行かなきゃ」
「何だよ。つまんねえの」涼は口を突(つ)き出して言うと、「じゃ、部活(ぶかつ)に顔(かお)だして来ようかなぁ」
 涼は剣道部(けんどうぶ)なのだが、強すぎて練習(れんしゅう)にならないって言って、部活には気が向(む)いたときにしか行かないのだ。みんなは、それぞれ教室を後(あと)にした。
<つぶやき>いつもの学校なんですが、次の魔(ま)の手がいつ襲(おそ)ってくるのか分かりません。
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T:0621「ハードボイルドな…」
 薄暗(うすぐら)いバーのカウンター。一番奥(おく)まった隅(すみ)が、彼の指定席(していせき)だった。彼は何時(いつ)も決(き)まった時間にここに来て、この席に座る。そして注文(ちゅうもん)するのは、いつも決まってバーボンのストレート。
 そこへ、見知(みし)らぬ女が近寄(ちかよ)って来た。その女は男に甘(あま)い声でささやいた。
「ねえ、あたしにも一杯(いっぱい)くださらない?」
 男は、女の方を横目(よこめ)で見ると静(しず)かに言った。「ああ、同じものでいいのかい?」
 女は男に微笑(ほほえ)みかける。男はバーテンに目配(めくば)せした。
 女はさらに男に近づいて言った。「ここ、いいかしら?」
 男が静かに肯(うなず)くと、女は隣(となり)の席へ身体(からだ)を滑(すべ)らせた。――女の前にグラスが置かれると、真っ白な華奢(きゃしゃ)な指(ゆび)でグラスを取り、男にグラスを差(さ)し出して酒(さけ)を口へ運(はこ)ぶ。その仕種(しぐさ)は優美(ゆうび)で、娼婦(しょうふ)には似(に)つかわしくなかった。彼女にはまだ気品(きひん)というものが残(のこ)っていて、それが彼女をいっそう艶(なま)めかしい女に見せるのだ。きっと世(よ)の男たちは、誰(だれ)もがこぞって自分のものにしようと願(ねが)うだろう。それだけの価値(かち)のある女だ。
 男は、女を見るでもなく、ひとりグラスを傾(かたむ)けた。女はじれったそうに、
「ねえ、今夜は、あたしと付き合ってくれない?」
 男は女に視線(しせん)を向けると、「ああ、それはいいねぇ。でも、このあと先約(せんやく)があってね」
<つぶやき>美しい女性には刺(とげ)がある。でも、それは表向(おもてむ)きの仮(かり)の姿(すがた)なのかもしれません。
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T:0622「…生き方」
 女はちょっと怒(おこ)ったような表情(ひょうじょう)を見せたが、すぐに元(もと)の微笑(ほほえ)みに戻(もど)って、
「隅(すみ)に置けない人ね。でも、それも悪(わる)くないわ。あなたって正直(しょうじき)な方(かた)…」
 女は男にしなだれかかり、男を虜(とりこ)にするような目で見つめると、
「そんな約束(やくそく)、あたしが忘(わす)れさせてあげる。だから…」
「それは無理(むり)だ。俺(おれ)は男だからね。約束は果(は)たさないといけないんだ」
「あたし、ますます帰したくなくなっちゃった。今夜は、あたしと…」
 女は男の胸(むね)に手を回し、ぎゅっと抱(だ)きしめた。だが、男の胸に何か固(かた)い物が有るのに気づいて、女はビクリと男から離(はな)れる。男の上着(うわぎ)の間から、拳銃(けんじゅう)のようなものが目に入った。男はさり気なく上着を直(なお)すと、何事(なにごと)もなかったように、またグラスを傾(かたむ)けた。
 女は男にささやいた。「あなた、何をしようっていうの?」
 男は前を見つめたまま答(こた)えた。「どうしても決着(けっちゃく)をつけなきゃいけないことがあってね」
「まさか、決闘(けっとう)をしようって…、こと?」
 男は何も言わずにグラスの酒(さけ)を飲(の)み干(ほ)すと、「わるいが、これで失礼(しつれい)するよ」
 男はカウンターに二人分の酒代を置くと立ち上がり、女に軽(かる)く会釈(えしゃく)をして歩き出した。女は素早(すばや)く立ち上がると男の腕(うで)をつかんで、静かに懇願(こんがん)するような声で言った。
「このまま別れたくないわ。明日も来てね。あたし、ここで待ってるから。必(かなら)ず来て」
 男は、振(ふ)り向くことなくバーを後(あと)にした。女は男の後ろ姿(すがた)を見つめるしかなかった。
<つぶやき>最初の出会いで恋に落ちたのでしょうか? それとも、他に何かあるのか…。
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T:0623「閉鎖」
 等々力(とどろき)教授の研究室(けんきゅうしつ)。いつもなら雑然(ざつぜん)としているのだが、部屋の中は奇麗(きれい)に片(かた)づけられている。そこへ助手(じょしゅ)をしていた涼子(りょうこ)が入って来て、教授(きょうじゅ)に駆(か)け寄り、
「教授! あたし、もうあそこはイヤです。またここで手伝わせて下さい」
「何を言ってるんだ。君は、山根(やまね)教授のところで勉強(べんきょう)した方が――」
「あの教授、はっきり言ってバカです。あの人から教わることなんて何もありません」
「しかしね、山根君は私よりも優秀(ゆうしゅう)で、立派(りっぱ)な研究をしてるじゃないか。それなのに…」
 こんな会話をもう一年近く続けていた。等々力教授は彼女の才能(さいのう)を認(みと)めていて、他の研究室で勉強することを何度も勧(すす)めているのだ。それなのに、何が気に入らないのか、彼女は一週間もたたないうちに戻(もど)って来てしまう。
「あたしは、教授の研究をお手伝いしたいんです。教授は今まで素晴(すば)らしい研究を――」
「私の研究はどれも中途半端(ちゅうとはんぱ)だ。成果(せいか)を上げたものなど何もない。私のところにいても、君のためにはならん。いいから、戻りなさい。山根君には、私の方から――」
「イヤです! あたしは、絶対に戻りませんから」 涼子はそう言い切ると、研究室を見回してワクワクした目で訊(き)いた。「あの、また新しい研究を始めるんですか?」
 教授は片づけを続けながら言った。「いや、この研究室はお終(しま)いだ。だから、君が戻ってくる場所はもうない。ここは、閉鎖(へいさ)されて元(もと)の倉庫(そうこ)に戻るんだ」
<つぶやき>久しぶりに登場(とうじょう)、等々力教授です。研究室がなくなってこれからどうするの?
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T:0624「ゆれる」
 等々力(とどろき)教授の退職(たいしょく)の日が近づいていた。研究室(けんきゅうしつ)の始末(しまつ)もついて、助手(じょしゅ)の涼子(りょうこ)は足取りも重く自宅(じたく)へ帰って来た。アパートの前まで来ると、街灯(がいとう)の下に黒塗(くろぬ)りの車が停(と)まっていた。涼子は不審(ふしん)に思い、車をよけるように道の反対側(はんたいがわ)へ渡った。車の横を通りすぎようとしたとき、車のウインドが開いて中から声がした。「涼子君、ずいぶん遅(おそ)いじゃないか」
 その声にビクッとして立ち止まる涼子。彼女を呼(よ)び止めたのは、彼女が働(はたら)いていた研究機関(きかん)の所長(しょちょう)だった。彼女は所長の命令(めいれい)で、等々力教授のことを探(さぐ)っていたのだ。――涼子は、言われるままに車に乗り込んだ。所長は穏(おだ)やかな口調(くちょう)で言った。
「等々力が大学を辞(や)めるそうだな。君は、どうして報告(ほうこく)に来なかったんだ?」
 涼子は一瞬(いっしゅん)言葉につまったが、「すいません。いろいろ忙(いそが)しくて…」
「ほう、そうかね。君はもっと頭の良い娘(こ)だと思っていたが、残念(ざんねん)だよ」
「あたし…、この一年間、教授の研究について手を尽(つ)くして調べようとしたんですが、なかなか手伝わせてもらえなくて…。ですが、まだ――」
「もういい。大学から金が出ないとなると、もう奴(やつ)には何もできん。奴に金策(きんさく)の才能(さいのう)はないからな。君の仕事はもう終わりだ。うちへ戻って来なさい」
「しかし、まだ…。等々力教授は、きっと何か考えがあって大学を――」
「いつまでも学生気分(きぶん)でいられちゃ困(こま)るんだよ! 君はどこまでわしの期待(きたい)を裏切(うらぎ)るつもりだ。それとも、等々力と一緒(いっしょ)にいて、惨(みじ)めな研究者で終わりたいのか?」
<つぶやき>等々力のことを知るにつれ、涼子は教授の人柄(ひとがら)や才能(さいのう)に惹(ひ)かれたのかもね。
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T:0625「しずく40~戸惑い」
 学校の屋上(おくじょう)に月島(つきしま)しずくと柊(ひいらぎ)あずみの姿(すがた)があった。屋上は一応(いちおう)立入禁止になっていて、生徒(せいと)はもちろん、先生(せんせい)さえ滅多(めった)に上がって来ることはなかった。ここなら誰(だれ)にも邪魔(じゃま)されることはないはずだ。あずみはしずくに強い口調(くちょう)で言った。
「これで分かったでしょ。これはあなた一人の問題(もんだい)じゃないの。あなたの周(まわ)りの人たちを巻(ま)き込まないためにも、あなたにはやらなきゃならないことがある」
 しずくは目をそらして、「私…、私にどうしろって言うの。私には…」
「そうね、今のあなたじゃ何の役(やく)にもたたないわ。そんな中途半端(ちゅうとはんぱ)な気持ちじゃ、能力(ちから)をコントロールすることなんか…。あなただって、自分に能力(ちから)があることぐらい――」
「分かってるわよ! でも私には…、そんなのいらない。もう、人から変(へん)な目で見られたくないの。私は、普通(ふつう)の女の子でいたいだけ!」
「いつまで甘(あま)ったれてるの? もう時間はないのよ。敵(てき)はすぐそこまで来てるのに――」
「敵…、敵って何ですか? 私、そんなの知らないわ! 私には…」
「関係(かんけい)ないって言いたいの? あなたも、楓(かえで)おばさんから聞いてるはずよ」
「何で…、お母さんのこと知ってるんですか? 先生は…、いったい何なのよ」
「もういいわ。今日は真っ直(す)ぐ帰りなさい。あなたのお母さんが待ってるわ。――私ね、楓おばさんに助けられたことがあるのよ。もしそれがなかったら、私は死(し)んでたわ」
<つぶやき>先生にも凄絶(せいぜつ)な過去(かこ)があるようです。敵の正体(しょうたい)とは、何者なのでしょうか?
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T:0626「未来の話」
 彼は思いつめた顔で彼女に言った。「君(きみ)といても、僕(ぼく)たちの未来(みらい)が見えてこないんだ」
 彼女は信じられないという顔で、「どうして? あたしにはちゃんと見えてるわよ」
「君が見てる未来って、どんな感じなのかな?」彼は恐(おそ)る恐る訊(き)いた。
「そうね…。あたしは、やりがいのある仕事(しごと)をもっとやって、会社(かいしゃ)に認(みと)められるでしょ。で、もっと重要(じゅうよう)な仕事を任(まか)されるの。それで――」
「その君の未来に、僕はいるのかな?」
「もちろんいるわよ。あなたがいなくちゃ、あたし困(こま)るわ。だって、家のことは誰(だれ)がやるの? あなたの方が、家事(かじ)とか得意(とくい)じゃない。だからあたし、あなたと…」
 彼は悲(かな)しげな目をして言った。「そこには、愛(あい)はあるのかな?」
「あい? それは…、あるわよ。決(き)まってるじゃない。あたし、あなたのこと、こんなに愛してるのよ。そうでしょ? だからあたし、あなたのプロポーズを受けたのよ」
 彼は立ち上がると、自分の感情(かんじょう)を押(お)し殺(ころ)すように言った。
「それは、違(ちが)うよね。君は、僕のことなんか愛してなんかいない。君が愛してるのは…」
 彼女は彼をなだめるように言った。「なに言ってるの? もう、あたしが愛してるのはあなただけよ。そうでしょ? あたしがいっぱい稼(かせ)いでくれば、あなただって嬉(うれ)しいはずよ。今よりも、良い暮(く)らしができるの。二人で幸(しあわ)せになりましょ」
<つぶやき>愛とは何なんでしょうね? 二人が、同じ未来を描(えが)けるといいのですが…。
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T:0627「客寄せ」
 まったく流行(はや)っていない喫茶店(きっさてん)。猫(ねこ)をかかえた妻(つま)が帰ってきた。夫(おっと)がそれに気づいて、「おい、ちょっと待(ま)てよ。どういうつもりだ」
 妻は平然(へいぜん)と、「お客が来ないから、この猫(こ)に客寄(きゃくよ)せしてもらうのよ」
「そんなことできるわけないだろ。それにうちは食べ物を扱(あつか)ってんだ。ノラ猫なんか――」
「あなたがちゃんと仕事(しごと)しないからでしょ。義父(おとう)さんがやってた時は、あんなにお客が入ってたのに。あなたに代わってから…。もう、この猫(こ)に頼(たよ)るしかないでしょ」
「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。俺(おれ)、新しいメニュー考えたんだ。これで、どんどん客が入るぞ」
 妻はカウンターの上にあるトレーの中に並(なら)んでいるものを見て、「なに、これ?」
「見れば分かるだろ。ホットケーキだよ。でも、そんじょそこらのホットケーキじゃないぞ。中身(なかみ)が違(ちが)うんだ。こいつは絶対(ぜったい)に当(あ)たるぞ。まあ、見てなって」
「こんなのダメでしょ。大きさはバラバラだし。これなんか、真っ黒に焦(こ)げてるじゃない」
「いいんだよ。これくらい焼けてる方が美味(うま)いんだ。なあ、お前もそう思うだろ?」
 夫はノラ猫に声をかけた。ノラ猫は「ニャー」と一声鳴(な)いてカウンターに飛び乗(の)ると、ホットケーキらしきものをくわえて店から飛び出して行った。夫は慌(あわ)てて叫(さけ)んだ。
「こら! 金(かね)払えよ。食い逃(に)げすんな!」
 翌日(よくじつ)の朝。夫が店を開けようと表(おもて)に出ると、店の前には無数の猫が並(なら)んでいた。夫が唖然(あぜん)としている間(あいだ)に、猫たちは一匹、また一匹と店内(てんない)へ吸(す)い込まれていった。
<つぶやき>いったいどんな材料(ざいりょう)を使ったんだろうね。猫たちには効果(こうか)はあったみたい。
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T:0628「気づかなかった」
「あのさ、君(きみ)って、森田(もりた)のこと好きなんじゃないのか?」
 付き合い始めたばかりの彼から言われた。森田君は家が近くで、小さい頃(ころ)から一緒(いっしょ)に遊(あそ)んでいた同級生(どうきゅうせい)。別に好きだとか、そういうのは…。彼は言った。
「だって森田のこと話してる君は、とっても楽しそうだからさ。君、気づいてるかな…。僕(ぼく)と話をするとき、まず森田のことから始まるんだよなぁ」
「そ、そんなことないよ。別にわたし、そんなつもり…。ごめんなさい」
 それ以来(いらい)、彼とは何となく気まずくなって…。何ではっきり違(ちが)うって言えなかったんだろう。彼の言葉が妙(みょう)にわたしの心に引っかかっていた。〈森田のこと好きなんじゃ…〉
 こんなんじゃダメよ、何もできないわ。わたしははっきりさせようと、森田君の家へ向(む)かった。森田君は家にいて、階段(かいだん)を上がって彼の部屋(へや)へ…。この部屋に入るのって、何年振(ぶ)りだろう。そう言えば、最近(さいきん)はあまり話しもしなくなっていた。森田君はわたしの顔を見て驚(おどろ)いて言った。「えっ、どうしたの? 何か…」
 わたしは単刀直入(たんとうちょくにゅう)に訊(き)いた。「森田君は、わたしのこと好き?」
 一瞬(いっしゅん)、空気(くうき)が止まった感じ…。森田君はじっと私の顔を見ていた。なに、この間(ま)は――。わたしは、とんでもないことを訊いてしまったと、気がついた。森田君は座(すわ)り直(なお)して、
「うん、好きだよ。ずっと前から好きだったさ。やっと気づいたのかよ」
<つぶやき>森田君、そういうのは自分(じぶん)から言わないと…。ずっと気づかれないままだよ。
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T:0629「リセット言葉」
「僕(ぼく)たち、もうダメだよ。別れよう。もう君(きみ)とは付き合えない」
 彼女は、彼から唐突(とうとつ)に別れを切り出された。彼女にとっては青天(せいてん)の霹靂(へきれき)、雷(かみなり)に打たれた以上(いじょう)の衝撃(しょうげき)だった。彼女は絞(しぼ)り出すように言った。「ちょっと待ってよ」
 彼女の意識(いしき)が突然(とつぜん)飛んだ。時間が巻戻(まきもど)り、気づけば彼が別れ話を切り出す前に戻(もど)っていた。――最初(さいしょ)、彼女は戸惑(とまど)った。しかし何度も同じことを繰(く)り返すうち、彼女は冷静(れいせい)さを取り戻した。そして気づいたのだ。〈ちょっと待ってよ〉って言えば、時間が戻ってしまうことに。彼女は考えた。どうすれば、彼を思いとどまらせることができるのか…。
「わたし、絶対(ぜったい)別れないからね!」彼女は先制攻撃(せんせいこうげき)を仕掛(しか)けたが、これは逆効果(ぎゃくこうか)だった。
 次はしおらしく、「わたしに悪(わる)いところがあったら言って。わたし、なおすから…」
 彼は、彼女の悪いところを羅列(られつ)して…、結局(けっきょく)、別れ話に突入(とつにゅう)してしまった。
 彼女は、もう何も思いつかなかった。彼と別れたくない。彼のことこんなに大好きなのに、何で別れなきゃいけないのよ。彼女はやけくそのように言った。「結婚(けっこん)して! わたしには、あなたしかいないの!」
 これには、彼もひるんだようだ。別れようと思っていた相手(あいて)から、こんな言葉(ことば)が出るなんて…。彼は戸惑いながら言った。「僕で…、僕なんかでいいのか?」
「もちろんよ。こんなわがままで、何にもできないわたしだけど、お願(ねが)いします!」
<つぶやき>これで元通(もとどお)りになったのか…。結局、別れ話の原因(げんいん)って何だったんでしょう?
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T:0630「しずく41~切迫」
 月島(つきしま)しずくが家へ帰ったのは、もう辺(あた)りが薄暗(うすぐら)くなりはじめた頃(ころ)だった。何時(いつ)もなら家の中には明かりが点(つ)いているはずなのだが、まだ誰(だれ)も帰っていないのか――。そんなはずはない。だって、つくねが先(さき)に帰っているはずだし、それにお母さんはこんな時間に出かけたことなんか一度もない。しずくは玄関(げんかん)の扉(とびら)に手をかけた。すると、扉が開いた。
「何だ、いるんじゃない」と、しずくは呟(つぶや)いて家の中へ入った。
 しずくは、「ただいま」と声をかけたが、家の中からは何の反応(はんのう)もなかった。しずくは玄関を上がるとリビングへ向(む)かった。暗がりのなか、目をこらしてみるが人の気配(けはい)はしなかった。しずくは部屋の明かりを点(つ)けようと、スイッチに手を伸(の)ばした。
 スイッチに触(ふ)れようとした瞬間(しゅんかん)、誰かに手をつかまれて、しずくは思わず声を上げそうになった。耳元(みみもと)で楓(かえで)の声がした。「明かりは点けないで。こっちへいらっしゃい」
 しずくは母親に手を引かれてダイニングへ――。楓は、しずくを食卓(しょくたく)の椅子(いす)に座(すわ)らせると、しずくを抱(だ)きしめて言った。「無事(ぶじ)でよかったわ。心配(しんぱい)してたのよ」
「お母さん…。ねえ、どうしたの? 何か…」
 楓は、しずくを黙(だま)らせると言った。「いい、これから言うことを、よく聞くのよ。前に、お母さんが言ったこと憶(おぼ)えてる? もし身(み)の回りで異変(いへん)が起こったら…」
 しずくは小学生の時に聞かされたことを思い出した。あの時は、あんまり怖(こわ)い話だったので本気(ほんき)にはしなかった。そんなこと、あるわけないって…。
<つぶやき>差(さ)し迫(せま)った危険(きけん)に、母親が動き出します。家族(かぞく)を守(まも)ることができるのか…。
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T:0631「暗闇の怪」
 仕事(しごと)で帰りが遅(おそ)くなった彼女は、駅(えき)を出て家路(いえじ)を急(いそ)いだ。――歩きなれた道(みち)なのだが、今日は何だかいつもと違(ちが)う。やけに暗(くら)いのだ。夜空(よぞら)を見上げると星(ほし)ひとつ見えない。そこで彼女は気がついた。街灯(がいとう)が消(き)えているのだ。それに家からもれてくる明かりも…。
 停電(ていでん)かしら? 彼女はふとそう思った。だが、それにしても暗すぎる。足元(あしもと)も見えないし、それに自分(じぶん)の手まで見えなくなった。こうなると一歩も前へ進めない。彼女は手探(てさぐ)りで辺(あた)りをさぐった。するとザラザラと固(かた)い物(もの)が手に触(ふ)れた。これは、どこかの家の塀(へい)だわ。彼女はその塀づたいに歩き出した。
 何歩(ぽ)か歩くと、突然塀が途切(とぎ)れた。次に触れたのは、とげとげした弾力(だんりょく)のあるもの。これは生(い)け垣(がき)だわ。そうか、この生け垣は川村(かわむら)さん家(ち)の…。彼女の家の隣(となり)が川村家だ。彼女はホッとした。もう少しで家にたどり着けるはず。生け垣をたどって先(さき)を急ぐ。
 生け垣は途中(とちゅう)で切れて犬(いぬ)が吠(ほ)えるはずよ。でも、いつもなら吠え立てる犬が、今日は静(しず)かだ。彼女は不安(ふあん)になった。その時、後ろから声がした。「お姉(ねえ)ちゃん、何やってんの?」
 彼女は振(ふ)り返る。暗闇(くらやみ)の中からぼーっと人の顔が浮(う)かんできた。よく見るとそれは…。
「ああ、よかった。来てくれて…。真っ暗で、何も見えないのよ」
 彼女は半(はん)べそをかいて、弟(おとうと)に抱(だ)きついた。弟は彼女を振り払い、
「なに言ってんだよ。ああ、ひょっとして寝(ね)ぼけてんじゃないのか?」
「バカ! そんなんじゃないわよ。ほんとに、何にも見えなかったのよ」
<つぶやき>狐(きつね)か狸(たぬき)、はたまた妖怪(ようかい)の仕業(しわざ)かもしれない。夜道を歩くときは気をつけて。
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T:0632「受付嬢」
 彼女は会社で受付業務(ぎょうむ)をしていた。彼女が受付(うけつけ)で座っていると、取引先(とりひきさき)の社員(しゃいん)が帰りがけに彼女の前に現(あらわ)れてこう言った。「君(きみ)と合併(がっぺい)したいんですが」
 いきなり真顔(まがお)で変なことを言われて、彼女は何のことだか分からなかった。その男性はたまに会社にやって来ているので、顔ぐらいは憶(おぼ)えているのだが…。彼は続けて言った。
「一応(いちおう)、月給(げっきゅう)の三か月分を考えています。それと、合併後は辞(や)めてもらうことになりますので。しかし、君に満足(まんぞく)していただけるだけの報酬(ほうしゅう)は必(かなら)ず――」
 彼女は手を上げて彼の話を止めると、「あの、失礼(しつれい)ですが…。もしかして、わたしにプロポーズされているのでしょうか?」
「もちろんです。他に何があるんですか? 僕(ぼく)はあなたと――」
「あの、それっておかしいでしょ。わたし、あなたとは付き合ってもいないのに…」
「なるほど。あなたは、僕と付き合いたいんですね」彼はポケットから手帳(てちょう)を取り出すとパラパラめくりながら、「金曜日の夜ならあいていますが、お食事(しょくじ)でもいかがですか?」
「そういうことじゃなくて…。わたし、あなたと付き合いたいなんて思ってませんから」
「それは、僕の出した提案(ていあん)が気に入らないということですね。でしたら、後日改(あらた)めて、詳細(しょうさい)を検討(けんとう)して、新(あら)たな提案をさせていただきたいと思います。では、失礼(しつれい)いたします」
 彼は一礼(いちれい)すると、そのまま玄関(げんかん)を出て行った。彼女は背筋(せすじ)に悪寒(おかん)が走った。
<つぶやき>話の咬(か)みあわない人っていますね。諦(あきら)めさせることができるといいんですが。
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T:0633「秋刀魚」
 どこからか魚の焼(や)ける香(こう)ばしい匂(にお)いが漂(ただよ)ってきた。「これは秋刀魚(さんま)だな」彼はそう呟(つぶや)くと、鼻(はな)を上へ向(む)けてひくひくさせた。どうやら、安治(やすじ)の家の方から来ているようだ。
「よし、今晩(こんばん)は秋刀魚を食(しょく)そうじゃないか」
 彼は塀(へい)の上から飛(と)び下りると、足早(あしばや)に安治の家へ向かった。
 台所(だいどころ)へ通(つう)じる戸(と)は、煙(けむり)だしのために開けられている。広くもない庭(にわ)の片隅(かたすみ)で、彼は中の様子(ようす)を窺(うかが)っていた。どうやらちょうど焼けたようで、細君(さいくん)は網(あみ)から獲物(えもの)を皿(さら)へ移(うつ)すところだ。その皿は、飯台(はんだい)の隅(すみ)へ置かれた。その時、玄関(げんかん)の方から声がした。来客(らいきゃく)のようである。細君はいそいそと台所を後にした。
 彼はここぞとばかり、台所へ侵入(しんにゅう)をはかった。勝手(かって)知ったる何とかである。彼は飯台を見上げて、前肢(まえあし)を飯台の上にのせて立ち上がる。目の前には、食べ頃(ごろ)の秋刀魚が二匹、二つの皿に仲良(なかよ)く並(なら)んでいる。彼は一瞬(いっしゅん)躊躇(ちゅうちょ)した。以前(いぜん)、焼き魚を咥(くわ)えたとき、あまりの熱(あつ)さに飛び上がったことがある。彼は鼻を近づけてみる。どうやら、大丈夫(だいじょうぶ)のようだ。
 細君の足音(あしおと)が、彼の耳(みみ)に入ってきた。彼は秋刀魚の腹(はら)の辺りに口を持っていき、軽(かる)く歯(は)を当(あ)てる。口の中に秋刀魚の旨(うま)みが充満(じゅうまん)する。もう、たまらない。――だが、こんなところでのんびりなどしていられない。足音はどんどん近づいていた。彼はガブリと秋刀魚を咥えると、一目散(いちもくさん)に表(おもて)へ飛び出した。後ろから、細君の悲鳴(ひめい)が聞こえて来た。
<つぶやき>猫(ねこ)たちは、獲物を得(え)るために日々努力(どりょく)しているのです。秋刀魚、食べたい!
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T:0634「家主」
 田舎(いなか)の古(ふる)い空(あ)き家へ引っ越してきた家族(かぞく)。子供(こども)たちは初めての家に目をパチクリさせていた。玄関(げんかん)から中を覗(のぞ)くと、それなりにきれいになってる。多分(たぶん)、役場(やくば)の人達が掃除(そうじ)をしてくれたのだろう。子供たちは探検(たんけん)気分で家の中へ――。庭(にわ)を見ていた妻(つま)が言った。
「こんなに広いと大変(たいへん)だわ。まず雑草(ざっそう)を取って、花の種(たね)を蒔(ま)きましょ」
 その時、家の中から子供たちの悲鳴(ひめい)が聞こえた。夫婦(ふうふ)は慌(あわ)てて家へ駆(か)け込んだ。――まだ雨戸(あまど)を閉めたままなので家の中は薄暗(うすぐら)かった。奥(おく)の座敷(ざしき)へ入ってみると、子供たちが駆(か)け寄ってきて、床(とこ)の間(ま)を指(ゆび)さして叫(さけ)んだ。「あそこに、誰(だれ)かいる! こわいよ!」
 奥の床の間の上にぼんやりと人の姿(すがた)が…。夫(おっと)は慌てて電気(でんき)のスイッチを入れるが――。
 床の間の方から声がした。「点(つ)かんぞ。電球(でんきゅう)が切れとるんじゃ。取り替(か)えてくれ」
 夫は恐(おそ)る恐る訊(き)いてみた。「あなたは、どなたですか? 何でここに…」
「わしか? わしは、家主(やぬし)じゃ。あんたたちか? 新しい住人(じゅうにん)は」
「家主って…。私たち、この空き家を土地付(つ)きで買い取ったんですが…」
「誰が大家(おおや)だと言った。わしは家主じゃ。この土地(とち)に三百年住(す)んでおる」
 夫婦は気味(きみ)が悪(わる)くなり、子供たちをかばうように抱(だ)き寄せた。家主は続けて、「掃除はしといたぞ。ひとつ頼(たの)みがあるんじゃが、トイレはぜひ水洗(すいせん)にしてくれ。それと風呂(ふろ)も最新(さいしん)のものに取り替(か)えるんじゃ。あと、庭じゃが、野菜(やさい)を作るといい。わしもがじれるようにな。あとは…、おいおいとな…」家主はそこまで言うと、忽然(こつぜん)と姿を消(け)してしまった。
<つぶやき>こいつは幽霊(ゆうれい)か妖怪(ようかい)か? でも、そんなに悪い奴(やつ)ではないのかもしれません。
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T:0635「しずく42~能力者狩り」
 月島(つきしま)しずくが子供(こども)の頃(ころ)に楓(かえで)から聞いた話をかいつまむとこうであった。
 昔(むかし)、政府(せいふ)は特殊(とくしゅ)な能力(ちから)を持った者(もの)達を密(ひそ)かに集めて、国のために働(はたら)かせようとしていた。だが言葉巧(たく)みにとある施設(しせつ)へ連れて行かれた彼らを待っていたのは、協力(きょうりょく)とは名ばかりの人体実験(じんたいじっけん)。彼らの能力を遺伝子(いでんし)レベルから調(しら)べようというのだ。彼らの名前(なまえ)は消(け)され、人間(にんげん)としての尊厳(そんげん)も否定(ひてい)された。まるで実験動物(どうぶつ)のように扱(あつか)われたのだ。
 その施設から逃(に)げ出そうとした者も何人かいたが、連れ戻(もど)されたり、殺(ころ)された者さえいたようだ。だが、彼らの思念(しねん)を止めることはできなかった。彼らの叫(さけ)びは他(ほか)の能力者に届(とど)いていた。メッセージを受け取った者達は、自分たちの能力を隠(かく)して暮(く)らすようになった。
 ――それから何十年もたっている。その施設は閉鎖(へいさ)されたようだが、まだ能力者の捜索(そうさく)は今も続いている。つくねの家族(かぞく)も狙(ねら)われて、両親(りょうしん)を失(うしな)うことになったのだ。その魔(ま)の手が、しずくにかかろうとしている。楓は、ある決意(けつい)を持ってしずくに語(かた)りかけた。
「これからは、自分の身(み)は自分で守(まも)りなさい。母さんには、もうあなたを守ってあげられるだけの能力(ちから)はないの。だから、あなたの足手(あしで)まといにならないように、これからは別々に暮らすのよ。お父さんと貴志(たかし)はもう行ったわ」
 しずくは戸惑(とまど)い懇願(こんがん)するように言った。「そんなのイヤよ。私、どうすれば…」
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。後はあずみ先生に頼(たの)んでおいたわ。――まさか、こんな日が来るなんて…」
<つぶやき>しずくの家族はどうなっちゃうの? これからのしずくの運命(うんめい)はいかに…。
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T:0636「何で私?」
 あかねは悩(なや)んでいた。突然(とつぜん)、職場(しょくば)の人に告白(こくはく)されて…。思わず、「はい」と言ってしまったのだ。そして、明日、初めてのデート…。あかねはベッドの上へ服(ふく)を並(なら)べたまではよかったが、どれを着ていけばいいのか…。そもそも、何で私なんかに告白したんだろう?
 あかねが溜息(ためいき)をついたとき、妹(いもうと)が部屋(へや)に入って来た。あかねは妹に彼のことを話した。
「お姉(ねえ)ちゃん、やったじゃない。じゃあ、あたしの服、貸(か)してあげるよ。お姉ちゃんって、地味(じみ)な服しか持ってないでしょ。そんなんじゃ嫌(きら)われちゃうよ」
 妹は自由奔放(じゆうほんぽう)な性格(せいかく)で、誰(だれ)からも好(す)かれて、いつも輪(わ)の中心(ちゅうしん)にいるような娘(むすめ)だった。それに比(くら)べてあかねは、周(まわ)りに気をつかって何事(なにごと)も無難(ぶなん)に生きてきた。あかねは、
「ダメよ。あなたのは派手(はで)すぎるわ。それに、あの人が私のこと何で好きになったのか…」
「もっと自信(じしん)を持ちなよ。お姉ちゃんは、あたしと顔立(かおだ)ちも似(に)てるし、スタイルだってあたしより良いじゃない。――じゃあ、あたしがその人のこと見てあげる。紹介(しょうかい)してよ」
「それは…、イヤよ。そんなことしたら、彼、あなたのこと好きになっちゃうかも…」
「でしょ! やっぱりあたしの服を着ていった方がいいよ。お姉ちゃんも、その人のこと気になってるんでしょ。あたしに任(まか)せて。お姉ちゃんにぴったりの服、持ってくるから」
 妹は部屋を出るとき振(ふ)り返って言った。「女は本能(ほんのう)よ。自分の直感(ちょっかん)を信じなきゃ」
<つぶやき>好きの基準(きじゅん)は性格重視(せいかくじゅうし)って男は言うけど、綺麗(きれい)な娘(こ)に目が行くのも事実(じじつ)です。
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T:0637「幻の魔球」
 高校野球(こうこうやきゅう)の地方大会(ちほうたいかい)。彼のチームは決勝戦(けっしょうせん)まで勝(か)ち進(すす)んだ。決勝の相手(あいて)は強豪校(きょうごうこう)。8回までは何とかしのいで、1対1の同点(どうてん)のまま…。そして迎(むか)えた9回。だが彼のチームは無得点(むとくてん)のまま。そして9回裏(うら)になり、一打(いちだ)サヨナラ負(ま)けの場面(ばめん)に直面(ちょくめん)した。
 ピッチャーの彼は緊張(きんちょう)のためか、力(りき)みすぎて思いもよらない球(たま)を投(な)げてしまった。その球はバッターの手元(てもと)で大きく変化(へんか)して、打者(だしゃ)にバットを振(ふ)らせた。しかし…、ボールはキャッチャーミットをそれてワイルドピッチに――。三塁走者(さんるいそうしゃ)が走り込み、彼のチームはあっけなく敗退(はいたい)した。試合(しあい)後、球場(きゅうじょう)に来ていたスカウトマンが彼に声をかけた。
「君(きみ)、プロになる気はないかい? あんな球を投げられるなら――」
 だが、彼はその誘(さそ)いを断(ことわ)った。あの球をどう投げたのか、彼は全く覚(おぼ)えていなかったのだ。同じ球を投げることなんかとてもできない。それに、彼には特別(とくべつ)な才能(さいのう)があるわけではない。ごく普通(ふつう)の高校球児(きゅうじ)だ。
 その後、彼は進学(しんがく)を選(えら)び、野球からは離(はな)れてしまった。大学を卒業(そつぎょう)すると、彼は地元(じもと)の企業(きぎょう)に就職(しゅうしょく)した。そして、現在(げんざい)にいたっている。――あの時の彼の決断(けつだん)は正しかったのか…、それは分からない。けど、彼は今、昔(むかし)の野球仲間(なかま)たちと草野球(くさやきゅう)を楽しんでいる。そして試合の後の飲み会で話題(わだい)になるのが、あの時の魔球(まきゅう)の話だ。仲間たちの間では、幻(まぼろし)の魔球として語り継(つ)がれている。
<つぶやき>誰(だれ)しもテンパると、思いもよらない才能を発揮(はっき)するものなのかもしれません。
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T:0638「再出発」
 等々力(とどろき)は大学を辞(や)めてから、とある田舎(いなか)の小さな村(むら)で暮(く)らすことにした。もともと家族(かぞく)というものがあるわけでもないので、どこへでも自由(じゆう)に行けたからだ。
 彼は小高(こだか)い丘(おか)の上に小さな家を建(た)てた。家といっても生活(せいかつ)のスペースはほんのわずかで、ほとんどが研究室(けんきゅうしつ)として使われていた。退職金(たいしょくきん)を使い果(は)たしてしまったので、暮らしは楽ではなかったが、誰(だれ)にも邪魔(じゃま)されずに研究が続けられるので彼は満足(まんぞく)していた。
 村の人達は彼を快(こころよ)く迎(むか)え入れた。先生、先生と呼んで、何かにつけて世話(せわ)をやいてくれた。人付き合いが苦手(にがて)だった等々力も、いつの間にか村の一員(いちいん)になってしまった。
 ある日のこと、等々力が研究室の屋上(おくじょう)で夜空(よぞら)を観察(かんさつ)していた時だ。下の方から彼を呼ぶ声がした。誰かと思って下を覗(のぞ)いてみると、そこには若(わか)い女性が立っていた。
「等々力教授(きょうじゅ)! やっと見つけましたよ。どうして急にいなくなったんですか?」
 それは、大学の研究室で押(お)し掛けの助手(じょしゅ)をしていた涼子(りょうこ)だ。等々力は驚(おどろ)いて言った。
「君(きみ)、どうしたんだ? 何でここに…」
「何でじゃありませんよ。教授を捜(さが)すのに、どれだけ大変(たいへん)だったか――」
 涼子は元の職場(しょくば)へ戻(もど)れと言われたが、その気になれずに辞(や)めてしまった。あの所長(しょちょう)の強引(ごういん)なやり方が気に入らない、ってこともあった。でもここへ来るまでに、彼女なりにいろいろ悩(なや)んで、結論(けつろん)を出したようだ。この教授となら、何か新しいことが出来るかもって…。
<つぶやき>さてさて、涼子さんの思いが教授に届(とど)くんでしょうか? 追(お)い返されるかも?
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T:0639「夢の生活」
 私には夢見(ゆめみ)ていた生活(せいかつ)があった。理想(りそう)の彼氏(かれし)と結婚(けっこん)して、甘(あま)い甘い新婚(しんこん)生活。休日(きゅうじつ)の朝は、彼の愛(あい)のささやきで起こされて、食卓(しょくたく)には彼が作った朝食が並(なら)んでいる。そして…。
 分かってるわよ、そんな生活なんてあり得(え)ないことぐらい。私も、もう大人(おとな)なんだから、現実(げんじつ)を受け入れる準備(じゅんび)は出来(でき)てるわ。出来てるけど――。
 私はけたたましい目覚(めざ)ましで眠(ねむ)りから引き戻(もど)される。それでも起きない時は最終兵器(さいしゅうへいき)の攻撃(こうげき)だ。母親(ははおや)が足音(あしおと)を立てて突入(とつにゅう)し、私を優(やさ)しく包(つつ)み込んでいた布団(ふとん)を容赦(ようしゃ)なくはねのける。そして言うのだ。「いつまで寝(ね)てるの! 休みの日ぐらい家の仕事(しごと)を手伝(てつだ)いなさい!」
 朝食はいつものご飯(はん)にお味噌汁(みそしる)…。たまには優雅(ゆうが)に食事(しょくじ)をしたいのだけど、そんな要望(ようぼう)がかなうはずもなく。「食べたかったら自分(じぶん)で作りなさい」とバッサリ切られてしまう。
 私にだって、好きな人ぐらいいたわよ。結婚まで行かなかっただけで…。けど、あきらめたわけじゃないわ。――今のところ、私にまとわりついてくるのは…。
 さっきから私の足元(あしもと)に、うちのバカ犬(いぬ)が座(すわ)り込んでいる。こいつは、私のことを見下(みくだ)している。それは目を見れば分かるわ。母親が私に言った。「今日は、あなたの番(ばん)よ。メグちゃんを散歩(さんぽ)に連(つ)れて行きなさい。さっきからずっと待ってるんだから」
「はい、はい」私は生返事(なまへんじ)で答(こた)えると、ご飯を口いっぱいに頬張(ほおば)った。
 私の夢の生活はいつ実現(じつげん)するのか? それは、いまだに未定(みてい)である。
<つぶやき>諦(あきら)めなければ実現するかもしれません。まずはメグちゃんと仲良(なかよ)くしましょ。
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T:0640「しずく43~炎上」
 楓(かえで)はもう一度しずくを抱(だ)きしめると、いとおしそうにしずくの顔を見つめて言った。
「さあ、もう行きなさい。あなたは、ここにいちゃいけないわ」
「行くって、どこへ? 離(はな)れたくないよ。私も一緒(いっしょ)に連れてって」
「あなたには、あなたのやるべき事(こと)があるの! それを成(な)し遂(と)げなさい」
 楓はいつも身(み)につけている赤い石のついたペンダントを外(はず)して、それをしずくの首(くび)へかけてやった。そして、何かを念(ねん)ずるように赤い石を握(にぎ)りしめた。
「これって、おばあちゃんの形見(かたみ)の…、お母さんが大事(だいじ)にしてた…」
「そうよ、あなたが持ってなさい。いい、忘(わす)れないで。あなたは一人じゃないわ。離れていても、いつも家族(かぞく)は一緒よ。それに、あなたには親友(しんゆう)がいるでしょ」
「あ、つくねは…。つくねは、どこにいるの? 先(さき)に帰ったはずよ」
「あの娘(こ)は、大丈夫(だいじょうぶ)…。きっと外(そと)で待ってわ。――さあ、行きなさい」
 しずくは、何度も後ろを振(ふ)り返りながら部屋を出た。楓は、しずくを見送ることはしなかった。しずくは玄関(げんかん)で母親を呼(よ)んでみた。しかし、返事(へんじ)が返(かえ)ってくることはなかった。静(しず)まり返った家――。しずくは玄関を出ると、後ろ手に扉(とびら)を閉めた。涙(なみだ)があふれてきた。しずくは手でそれをぬぐい、駆(か)け出した。
 路地(ろじ)の角(かど)へ来たとき、後ろの方から激(はげ)しい爆発音(ばくはつおん)がして、しずくは思わず立ち止まった。後ろを振り返ると、さっきまでいた家が炎(ほのお)に包(つつ)まれていた。
<つぶやき>どうして爆発したんでしょう。楓は無事(ぶじ)なのかな? これからしずくは…。
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T:0641「お見合い1」
 とある料亭(りょうてい)でのお見合(みあ)いの席(せき)。着物(きもの)姿(すがた)の女性が案内(あんない)されてやって来た。彼女は廊下(ろうか)で居住(いず)まいを正して座(すわ)ると、声をかけて障子(しょうじ)を開けた。次の瞬間(しゅんかん)、彼女は言葉(ことば)を失(うしな)った。
 座卓(ざたく)の前に座っていた男性が声をかけた。「柳沢(やなぎさわ)さんですか? どうぞお入り下さい」
 彼女はためらった。だって、男たちは黄色(きいろ)いヘルメットをかぶり、黒(くろ)いサングラスをかけている。それに、お見合(みあ)いのはずなのに、おそろいのつなぎの作業服(さぎょうふく)姿である。
 男はいぶかっている彼女を見て言った。「すいません。これが、私たちの正装(せいそう)でして…」
 彼女は恐(おそ)る恐る部屋へ入り、座卓の前に座ると訊(き)いてみた。「あの、仲人(なこうど)の方は?」
「それが、別のお見合いの方で何かあったとかで…、遅(おく)れるということでした」
「そ、そうですか…」彼女は男たちを見回して、「あの…、穴掘(あなほり)さんは…」
 目の前に座っていた男が答(こた)えた。「あ、私です。申(もう)し遅れました。穴掘五郎(ごろう)と言います」
 彼女は、後ろに座っている男たちが気になった。それに気づいたのか、五郎は、
「あっ、こいつら…。いや、これは私の兄弟(きょうだい)でして、もしもの時のための、交代要員(こうたいよういん)といいますか…。初めてお会いするので、私があなたの好(この)みではない場合(ばあい)ですね、代(か)わりに…」
 彼女は目を丸(まる)くした。お見合いに交代要員って? この人たち、何を考えてるの!
 彼女はさっと立ち上がると部屋を出て行こうとした。五郎はそれを呼(よ)び止めて、
「あの、結婚(けっこん)したいんでしょ! 私もそうです。もう少し、お話ししませんか?」
<つぶやき>お見合いの席なのに常識外(じょうしきはず)れの男たち。こいつらは一体(いったい)何者なのでしょう?
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T:0642「お見合い2」
 確(たし)かに、彼女はそれを望(のぞ)んでいた。今まで何度もお見合(みあ)いをして、それがことごとく失敗(しっぱい)に終(お)わっていた。今度こそはと…、そういう気持ちでここに来ていた。だが、目の前の男を見て、張(は)り詰(つ)めていた糸(いと)がぷつりと切れてしまった。彼女は席(せき)に戻(もど)ると、
「分かりました。じゃ、仲人(なこうど)の方がお見えになるまで、ということで…」
「ありがとうございます。柳沢(やなぎさわ)さんは、お優(やさ)しい方なんですね。気に入りました」
「あの、そんなんじゃありません。仲人の方にご挨拶(あいさつ)をしたら、すぐに帰りますから」
「じゃあ…、とりあえず、自己紹介(じこしょうかい)をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
 彼女がしぶしぶ同意(どうい)すると、五郎(ごろう)は居住(いず)まいを正(ただ)して話し始めた。
「実(じつ)は、私たち、地底人(ちていじん)なんです。地底人といっても、地底に住(す)んでいるってことで…」
 彼女は大きな溜息(ためいき)をついた。私って、まともな男性とは付き合えないのかな…。どうして、こんな変な男ばかり寄(よ)ってくるのよ。
 五郎は彼女の顔を覗(のぞ)きこむようにして、「あの…、どうかされましたか?」
 彼女は不機嫌(ふきげん)に答(こた)えた。「いいえ、何でもありませんから…」
「では、続けますね。私たちの曾祖父(そうそふ)は炭鉱(たんこう)マンだったんです。その当時(とうじ)は、苛酷(かこく)な仕事(しごと)で、事故(じこ)なんかも多かったようです。ある時、落盤(らくばん)事故がありまして…」
<つぶやき>地底人って何なんだ? ますます変な男じゃないですか。どうする彼女…。
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T:0643「お見合い3」
 彼女にとって、結婚対象(たいしょう)から消(き)えた男の話など何の意味(いみ)もなかった。彼女の頭の中では、別の思いが駆(か)けめぐっていた。あ~ぁ、着物(きもの)のレンタル料、無駄(むだ)になっちゃったじゃない。次のお見合(みあ)いは、ちゃんと相手(あいて)のプロフィールを確(たし)かめてからにしなくちゃ…。
「――そんなことで、私たち家族(かぞく)は地下(ちか)へ移住(いじゅう)することになったんです。でも女性の数が圧倒的(あっとうてき)に少なくて、それで地上で婚活(こんかつ)をしようということで…」
 その時、障子(しょうじ)が開いて、同じ恰好(かっこう)をした男が息(いき)を切らして入って来た。五郎(ごろう)はその男に小声で言った。「遅(おそ)かったじゃないか。何してたんだよ? もう来ちゃっただろ」
「ごめん。道(みち)に迷(まよ)っちゃって…。何とかたどり着(つ)けてよかったよ」
 ここで初めて、彼女は変な男が一人増(ふ)えているのに気がついた。五郎は彼女に言った。
「あっ、こいつは…。あの、交代要員(こうたいよういん)じゃないんです。一番下の弟(おとうと)で…」
 彼女は呆(あき)れた顔をして、「ああ、そうですか。いったい何人兄弟(きょうだい)がいるのよ」
「私たち、七人兄弟で、みんな男なんですけど…。一番上の兄(あに)は仕事(しごと)の都合(つごう)で今日は…」
「もういいです。遅いですね、仲人(なこうど)の人…。早く来てくれないかしら」
 後ろの方で控(ひか)えていた男たちが、弟(おとうと)を手招(てまね)きして小声で話し始めた。
「何で道に迷うんだよ。しるべ石(いし)を置いとかなかったのか?」
「置いといたさ。けど、なくなってたんだよ。それで、歩いている人に訊(き)こうと思ったんだけど、みんな逃(に)げて行くし…。警官(けいかん)も来ちゃって大変(たいへん)だったんだから」
<つぶやき>それは当然(とうぜん)かも。完全(かんぜん)に変な人だよ。で、何で地下に移住することにしたの?
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T:0644「お見合い4」
 弟(おとうと)は五郎(ごろう)の背中(せなか)をつついて、買って来たものを手渡(てわた)した。
 五郎は彼女にそれを差し出して、「これ、受け取っていただけませんか?」
 それは小さな花束(はなたば)だった。五郎は彼女が喜(よろこ)んでくれると思ったのだが、受け取った彼女の反応(はんのう)はまったく無(な)かった。五郎はどうしたらいいのか焦(あせ)ってしまった。
「すいません。私たちの村(むら)では、花はとても高価(こうか)な物で…、これだけしか買えなくて」
 五郎は汗(あせ)を拭(ふ)こうとポケットからタオルを取り出した。その時、タオルにくるまれていた小さな小石(こいし)のようなものが座卓(ざたく)の上に散(ち)らばった。五郎は慌(あわ)てて小石をかき集(あつ)めた。
 小石の一つが彼女の前まで転(ころ)がって来た。彼女は何気(なにげ)なくそれを指(ゆび)でつまみあげる。それは透明(とうめい)な石で、光に当てるとキラキラと輝(かがや)いた。彼女は首(くび)をかしげて呟(つぶや)いた。
「これって、ダイヤ? まさか、そんな…」
 五郎は彼女に言った。「これは、くず石なんです。これの大きいやつは、しるべ石として…。ほら、ライトを当てると光るんで、坑道(こうどう)の中の道(みち)しるべに使っているんです」
 五郎は別のポケットからこぶし大の光る石を取り出して彼女に手渡した。
「坑道の奥(おく)まで行くと、いくらでも転(ころ)がっているんです」
 彼女は目を輝(かがや)かせて立ち上がると、「私をそこへ連(つ)れて行って下さい。今すぐに!」
<つぶやき>彼女いわく。ダイヤに目が眩(くら)んだんじゃなく、この人にちょっと興味(きょうみ)が…。
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T:0645「しずく44~異変」
 しずくは目を見開(みひら)いて、思わず駆(か)け出した。火の勢(いきお)いは激(はげ)しく、すでに家全体(ぜんたい)へ回っていた。それでもしずくは母親(ははおや)の名を呼(よ)び続け、家の中へ飛(と)び込もうとした。いてもたってもいられなかったのだ。しずくが玄関(げんかん)の前まで来たとき、彼女を後ろから引き止めるものがあった。彼女の身体(からだ)を両腕(りょううで)で押(お)さえ、後ろへグイグイと引き戻(もど)していく。
 しずくはその腕を振(ふ)りはらおうともがきながら叫(さけ)んだ。「離(はな)して! お母さんが…」
「行っちゃだめ! だめだよ! 絶対(ぜったい)離さないから!」しずくの後ろからつくねが叫(さけ)んだ。
 その時、爆発(ばくはつ)が起こって玄関の扉(とびら)が吹(ふ)き飛んだ。そして熱風(ねっぷう)が二人に襲(おそ)いかかり、彼女たちはその場に倒(たお)れ込んだ。それでも、つくねはしずくを離さなかった。しずくは崩(くず)れかかっている家を目(ま)の当(あ)たりにして、顔をゆがめて叫び声を上げた。
 つくねは、しずくの身体を引きずるようにして炎(ほのお)から遠(とお)ざけようとした。その間にも、しずくは狂(くる)ったように叫び声を上げ続ける。異変(いへん)が起こったのはその時だ。しずくの身体が熱(ねつ)を持ち、光を放(はな)ち始めたのだ。その光は赤味(あかみ)をおびていて、どんどん強くなっていく。
 つくねの腕にもその熱が伝わって来た。あまりの熱さに、彼女は叫び声を上げそうになった。それでもつくねは、しずくを引きずるのを止めなかった。しずくに触(ふ)れているつくねの服(ふく)から煙(けむり)が立ち始めた。つくねは心の中で叫んだ。「誰(だれ)か…、助(たす)けて!」
<つぶやき>人体発火現象(じんたいはっかげんしょう)なのでしょうか? これから二人はどうなっちゃうのでしょう。
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T:0646「へそくり」
 眠(ねむ)たい目をこすりながら僕(ぼく)は食卓(しょくたく)についた。昨夜(ゆうべ)は一睡(いっすい)もできなかった。
 それというのも、少ない小遣(こづか)いを何とかやりくりして貯(た)めた〈へそくり〉が消(き)えてしまったのだ。それを知ったとき、僕は頭の中が真っ白になり何も考えられなくなった。だが、そんなことはしていられない。僕は、何とか気持ちを奮(ふる)い立たせた。夜中に妻(つま)を起こさないように、静(しず)かに家の中を探(さが)してみる。でも見つからない! 僕は最悪(さいあく)のことを考えた。もしかしたら、僕のいない間に妻が見つけて…。
 僕は朝食(ちょうしょく)の支度(したく)をしている妻を見つめた。いつもと変わった様子(ようす)はみえない。僕は妻を問(と)い詰(つ)めようと思ったが、思いとどまった。――隠(かく)し場所は、妻に見つからないように何度も変えている。ひょっとしたら他の場所(ばしょ)へ移(うつ)したのを勘違(かんちが)いしているのかもしれない。もしそうだとしたら、これは藪蛇(やぶへび)になる。
 わが家の家計(かけい)は完全(かんぜん)に妻が握(にぎ)っている。僕に貯(たくわ)えがあると知ったら、家のローンを口実(こうじつ)に必(かなら)ず小遣い削減(さくげん)に取りかかるだろう。そればかりか、せっかく貯めた〈へそくり〉も根(ね)こそぎ取り上げられてしまう。わが家のパワーバランスからいっても、それをくい止めることなどできない。わが家は女ばかり。娘(むすめ)たちも、妻の味方(みかた)をすることは間違(まちが)いない。
 妻が唐突(とうとつ)に僕に言った。「ねえ、お願(ねが)いがあるんだけど…」
 お願い? 何だそれは…! 妻は、嬉(うれ)しそうに微笑(ほほえ)みながら僕に近づいて来た。
<つぶやき>さて何が飛び出すのか。これはもうホラーですよ。彼のへそくりの行方(ゆくえ)は?
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T:0647「コンタクト」
 それは何の前触(まえぶ)れもなく始まった。とても単純(たんじゅん)な信号(しんごう)が宇宙(うちゅう)から届(とど)いたのだ。規則(きそく)正しく同じ信号を繰(く)り返していた。これは宇宙人からのコンタクトなのか。科学者(かがくしゃ)たちは色めき立った。
 観測(かんそく)を続けると、その発信源(はっしんげん)は火星(かせい)だと分かった。それもだんだん地球(ちきゅう)に近づいて来ている。世界中の望遠鏡(ぼうえんきょう)が火星の方角(ほうがく)に向けられた。だが、誰(だれ)も何も発見(はっけん)できなかった。時間だけが虚(むな)しく過(す)ぎていく。そうこうするうちに、発信源は月の付近(ふきん)まで到達(とうたつ)してぷつりと途切(とぎ)れてしまった。それと同時に、通信機器(つうしんきき)に障害(しょうがい)が起き、すべての制御装置(せいぎょそうち)が停止(ていし)した。これは火星人の悪戯(いたずら)か、それとも何かの警告(けいこく)なのか。世界中の目が月に向けられた。そして、みな一様(いちよう)に驚愕(きょうがく)の声を上げた。――月の表面(ひょうめん)にバッテンがつけられていたのだ。
 同じころ、とある田舎(いなか)の村(むら)に一人の男が現れた。その男は、民家(みんか)の軒先(のきさき)の縁側(えんがわ)で日向(ひなた)ぼっこをしていたお婆(ばあ)さんに近づいて、空(そら)を指(ゆび)さして言った。「あのホシはきっともらい受ける」
 お婆さんは、耳(みみ)が少し遠(とお)かった。だが、男の言ったことが分かったのかニコニコしながら上を指さしてこう答(こた)えた。「ああ、干(ほ)し柿(がき)ね。どうぞ、持って行きなさい」
 軒先にはちょうど食べ頃(ごろ)の干し柿が吊(つる)してあった。男はそれを手に取ると、不思議(ふしぎ)そうに首(くび)をかしげて何やら呟(つぶや)いた。それから男は、お婆さんにぎごちなく微笑(ほほえ)むと、そのままどこへともなく去(さ)って行った。その後、月のバッテンはいつの間にか消(き)えてしまった。
<つぶやき>男はどんなツッコミをしたのでしょうか? 想像(そうぞう)してみると楽しいかもね。
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T:0648「出会い」
 僕(ぼく)が彼女と出会(であ)ったのは一ヵ月前くらい。彼女の落(お)とし物(もの)を拾(ひろ)ったのがきっかけだった。何でか分からないけど、それから彼女の方から食事(しょくじ)に誘(さそ)ってきたりして…。僕たちは付き合うようになった。けど、僕は彼女のことは何も知らなかった。彼女がときおり見せる寂(さび)しげな表情(ひょうじょう)に、僕は…、僕は魅(ひ)かれてしまったのかもしれない。
「あなたいい人だから…。私のことなんか早く忘(わす)れなさい」
 彼女から、突然(とつぜん)告(つ)げられた。「私、あなたのこと好きになったわけじゃないのよ。ただ、あなた優(やさ)しかったから…。気をつけなさい。変(へん)な女に引っかからないようにね」
 彼女は僕に背(せ)を向(む)けて行ってしまった。少し離(はな)れた所に柄(がら)の悪(わる)そうな男が現れた。そして、僕の方を睨(にら)みつけてきた。彼女は男に言った。
「あの人は客(きゃく)なんかじゃないわよ。さあ、行きましょ」
 あの男が彼女を縛(しば)りつけているのか? 僕は胸(むね)の鼓動(こどう)が早(はや)まった。ここで飛(と)び出して行って彼女を救(すく)い出すんだ。――でも、足がすくんでしまって…。僕はヒーローじゃない。そんな勇気(ゆうき)なんか僕にはないんだ。僕は彼女を見送(みおく)ることしかできなかった。
 彼女は男の腕(うで)に抱(だ)きついて、楽(たの)しげに何かを話している。彼女の本心(ほんしん)はどこにあるのか…、僕には分からない。でも僕と過(す)ごした時間には、偽(いつわ)りはないと信じたい。
<つぶやき>人の人生は出会いで変わるものなのかもね。いい出会いがありますように。
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T:0649「発掘」
 私の母はずぼらな性格(せいかく)だ。私が几帳面(きちょうめん)なのはそんな母を見てきたからかもしれない。私が一人暮(ぐ)らしを始めるようになってからというもの、実家(じっか)へ帰るたびに家の片付(かたづ)けをするのが私のお決(き)まりになってしまった。母もしめしめと思ったのか、私が帰ってくると、「今日はここをやってくれない?」と、お願(ねが)いされるようになってしまった。
 そんなわけで、今、私はうちの冷蔵庫(れいぞうこ)の前にいる。前から気になっていたのだが、ここに手をつける勇気(ゆうき)が出なかったのだ。私が子供(こども)の頃(ころ)に買った冷蔵庫で、三人兄妹(きょうだい)だったこともあり大型(おおがた)の冷蔵庫だ。今は両親(りょうしん)の二人暮らしなのでいっぱい詰(つ)まっているはずはないのだが…。私は母に言った。「ねえ、どうしてこんなに入ってるの?」
 私はまず冷凍室(れいとうしつ)から手をつけた。中にあるものを一つずつ取り出していく。何だか発掘(はっくつ)でもしているようだ。いつ入れたのか分からないラップにくるまれた…、これはハンバーグの塊(かたまり)? それに使い残(のこ)しの冷凍食品(れいとうしょくひん)の数々(かずかず)。袋(ふくろ)の日付(ひづけ)を見ると、十年前になっている。もしかして、これは冷蔵庫を買った頃に入れられたものかもしれない。
 私は底(そこ)の方に小さな丸(まる)いものを見つけた。取り出してみると、それは指輪(ゆびわ)…?
 母が突然(とつぜん)声を上げた。「あっ! こんなとこに有(あ)ったの。いつ入ったのかしら?」
 それは結婚(けっこん)指輪だった。ずいぶん前になくして、もう諦(あきら)めていたそうだ。母は大喜(おおよろこ)びで、父に報告(ほうこく)に行く。まさかこんな所にお宝(たから)が隠(かく)れていたなんて、私は呆(あき)れてしまった。
<つぶやき>冷蔵庫はタイムカプセルなのかもね。何が飛び出て来るか分かりませんよ。
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T:0650「しずく45~傷み」
 つくねは我慢(がまん)しきれず手を緩(ゆる)めた。次の瞬間(しゅんかん)、しずくは前のめりになって倒(たお)れ込んだ。目の前にはあずみがいて、しずくを一撃(いちげき)で気絶(きぜつ)させたのだ。つくねはほっと息(いき)を吐(は)いた。両腕(りょううで)に激痛(げきつう)が走った。つくねの服(ふく)が焦(こ)げついて、真っ赤になった皮膚(ひふ)がのぞいていた。
 消防車(しょうぼうしゃ)のサイレンの音が近づいて来た。だが不思議(ふしぎ)なことに、これだけ爆発音(ばくはつおん)がしているのに、近所(きんじょ)の人たちは誰(だれ)一人出て来なかった。家の明かりが見えているのに、まるで無人(むじん)の町のようだ。あずみはしずくを抱(だ)きあげると言った。
「大丈夫(だいじょうぶ)? さあ、行きましょ。いつまでもここにいちゃいけないわ」
 つくねは痛(いた)みをこらえて肯(うなず)いた。あずみは彼女の肩(かた)に手を触(ふ)れると、
「すぐに手当(てあ)てをしてあげるわ。さあ、飛(と)ぶわよ」
 ――三人は車の中にいた。後部座席(こうぶざせき)にはしずくが寝(ね)かされている。つくねが心配(しんぱい)そうに後ろを振(ふ)り返った。あずみは運転(うんてん)しながら言った。
「まだ起(お)きないと思うわよ。あれだけ能力(ちから)を使ったから…。でも暴走(ぼうそう)する前に止められてよかった。あなたのおかげね、ありがとう」
「あたしは何もできなかった。火事(かじ)になることだって、あたしには分からなかったの…」
 つくねは、自分を責(せ)めるように言った。目から涙(なみだ)があふれてきた。
<つぶやき>三人はどこへ行くのでしょう? これから先(さき)、何が待ち受(う)けているのか…。
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T:0651「今どきの…」
「結婚(けっこん)は良いわよ。一度はしといた方がいいんじゃない」
「いやいや、そういうの向(む)いてないんです。わたしは一人でいた方が気楽(きらく)っていうか…」
「なに言ってるのよ。何事(なにごと)も経験(けいけん)よ。それに人妻(ひとづま)って、とっても響(ひび)きが良いじゃない」
「あの、バツイチの人にそんなこと言われても、ちっとも羨(うらや)ましくないんですけど」
「バツイチをなめたらあかんで。失敗(しっぱい)は成功(せいこう)の友(とも)って言うじゃない」
「成功のもとね。わたしのことはいいですから、ほっといて下さい」
「あんたさ、もうおばさんの領域(りょういき)に足を突(つ)っ込みかけてるんだよ。キミちゃんみたいに、若(わか)くて、綺麗(きれい)で、何をしてもチヤホヤされる歳(とし)じゃないの。分かってる?」
 隣(となり)で二人の話を黙(だま)って聞いていた後輩(こうはい)のキミちゃんが、何を思ったのか口を挟(はさ)んだ。
「あっ、あたし、いますから。来週、結婚するんですよ」
 突然(とつぜん)の爆弾(ばくだん)発言(はつげん)に二人は唖然(あぜん)とした。キミちゃんは平然(へいぜん)とさらに続けて、
「あっ、そういうのって話したほうがよかったですか?」
「そりゃ、そうでしょ。私たちだって、お祝(いわ)いとか、したいじゃない…」
「でも、あたし、プライベートは職場(しょくば)には持ち込みたくないんですよね。それに結婚式といっても、内輪(うちわ)で簡単(かんたん)に済(す)ませるつもりなんで。式にお金をかけるより、新婚旅行(しんこんりょこう)を楽しむ方がいいじゃないですか。だから、来週から有給休暇(ゆうきゅうきゅうか)をとりますね」
<つぶやき>何ともすがすがしく言ってのけるキミちゃん。彼女の未来(みらい)に幸(さち)多かれと…。
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