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書庫 ブログ版物語1~
T:0001「お嬢様教育コース」
「ここは何処(どこ)よ!」ファッションモデルのように着飾(きかざ)った若い女性が叫(さけ)んだ。「エッフェル塔(とう)は? 凱旋門(がいせんもん)は何処にあるのよ」
「ここ、ガルバね」と添乗員(てんじょういん)が説明(せつめい)し、「アフリカの秘境(ひきょう)あるよ。どうね、良い景色(けしき)ね」
「どこがよ。何にも無(な)いじゃない」女は頭をかきむしり、「吉田(よしだ)!どうなってるの? 私はパリに行きたかったのよ。パリが私を待ってるの。あなた、なんとかなさい。いいわね」
「お嬢(じょう)様、そう言われましても。次の飛行機が来るのは、一週間後ですから」
「何で? それじゃ、チャーターしなさい。お金はいくらかかってもいいわ」
女はそう言うと、バックから札束(さつたば)を取り出して吉田に突(つ)き出した。
「おお、これダメね」添乗員は札束を見て、「ここ、お金、使わないよ。物々交換(ぶつぶつこうかん)ね」
「物々交換?」女は顔をひきつらせて、「なにそれ? じゃあ、どうするのよ。吉田!」
「お嬢様、仕方(しかた)ありません。とりあえず、ホテルを探(さが)しましょう」
「ホテル、ないよ。私の家、来るといい。今、収穫(しゅうかく)の時期(じき)。人手(ひとで)、欲(ほ)しかったね」
女はその場にへたり込んだ。吉田はそんな彼女に優しく微笑(ほほえ)んで、
「お嬢様、ここで働くのも悪くないかもしれません。きっと、良い経験(けいけん)になりますよ」
<つぶやき>お金では手に入らないものが、きっと見つかるかもね。がんばれ、お嬢様!
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T:0002「女の切り札」
「何なのこれ?」
エコバッグからカップ麺(めん)を取り出して純子(じゅんこ)が呟(つぶや)いた。
「私は醤油味(しょうゆあじ)を頼んだのに、何でとんこつ味を買ってくるのよ」
「だって、ちょうど売り切れてたから」
隆(たかし)はヤカンに水を入れながら答えた。
「私はいま、醤油味を食べたいの。それ以外はあり得(え)ないから」
「いいじゃない。これだって美味(おい)しいって」ヤカンをコンロにのせて火をつける隆。
「そりゃ、とんこつも美味しいわよ。でも、今は醤油なの。醤油を食べたいの!」
「そんなのいいじゃん。美味しけりゃ、同じだって」隆は無頓着(むとんちゃく)な人間のようだ。
「買ってきて」純子はエコバッグを隆に突(つ)きつけて、「今すぐ買ってきて!」
隆は純子のわがままには慣(な)れっこになっていたが、今日は我慢(がまん)の限界(げんかい)に達していた。
「お前な、いい加減(かげん)にしろよ! 前から言いたかったんだけど、朝食の目玉焼きに醤油なんかかけるなよ。目玉焼きはソースだろ。俺がせっかく美味しく作ってるのに…」
「なに言ってるの?」
純子は鼻(はな)で笑って、「目玉焼きは醤油じゃない。常識(じょうしき)でしょ。それより、早く行ってよ。15分だけ待っててあげる。遅れたら、もうこの部屋には入れないから」
「何だよ、それ」隆は背筋(せすじ)に冷たいものが走るのを感じた。「分かった。行ってきまーす」
<つぶやき>隆、負けるな。いつかきっと、報われる時が来るから。たぶん…、きっと…。
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T:0003「仕事と恋」
「何でそんなこと言うの? 約束(やくそく)したじゃない! ずっと一緒(いっしょ)にいるって」
涼子(りょうこ)は電話口で声を荒(あ)らげた。電話相手の彼とは、もう三年の付き合いになる。ここ数ヶ月はお互(たが)いの仕事が忙(いそが)しく、なかなか逢(あ)うことが出来なかった。それに、電話も夜遅くしか出来ないので、長話(ながばなし)をするわけにもいかなかった。涼子は淋(さび)しい思いを我慢(がまん)していた。
だから、今日はまだ早い時間なのに彼から電話がかかってきて、涼子は飛び上がらんばかりに喜(よろこ)んだ。それが、まさかこんな事になるなんて、夢にも思わなかった。
「どういうことよ。はっきり言ってよ」
涼子の声は震(ふる)えていた。相手の話を身動(みうご)きもせずに聞いていたが、
「分かんないよ! 仕事がそんなに大切(たいせつ)なの。……そりゃ、私だって、仕事が忙しくて、急に逢えなくなったときあったけど…」
涼子の目から、一筋(ひとすじ)の涙(なみだ)がこぼれた。
「ねえ、どうしてもだめなの。離(はな)れたくないよ。ずっと一緒にいようよ」
彼は、涼子が泣いているのに気づいたようだ。
「泣いてなんかいないわよ。二人で出かける旅行、楽しみにしてたんだから。それなのに、私を残して、一人だけ日帰りで帰るなんて。いいわよ、一人で泊(と)まるから。二人分、ご馳走(ちそう)食べてやる!」
<つぶやき>仕事と恋の両立は難しいのかもしれませんね。どっちも大切なんですから。
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T:0004「ラブレター」
山田(やまだ)君へ。突然(とつぜん)こんな手紙(てがみ)を書いちゃって、ごめんなさい。
私が廊下(ろうか)で転(ころ)んでしまって、持っていたプリントをばらまいちゃったとき、そばにいた山田君は一緒(いっしょ)に集めてくれたよね。あのとき、私、ちゃんとお礼(れい)を言えなくて…。山田君は、そんなこともう忘れているかもしれないけど。私は、ずっと後悔(こうかい)してて…。なんで、ちゃんとありがとうって言わなかったんだろうって。ちゃんと言ってれば…。
私、山田君と同じクラスになったときから、山田君のことがずっと気になってて…。でも、声をかけることができなかったんだよね。この手紙を書くのだって、ずっと迷(まよ)ってたんだ。友だちに相談(そうだん)したらね、ちゃんと告白(こくはく)した方がいいって言われたの。それで、私、決めたの。
私、山田君のことが好きです。山田君は、他に好きな人がいるかもしれないけど、それでもいいの。私の片思(かたおも)いでもいい。こんな気持ちになったのは初めてで、自分でもどうしたらいいのか分からないんだ。今もドキドキしてる。でも、なんだか心の中がほわっとしてて、あったかいの。今まで悩(なや)んでいたことが、どっかへ行っちゃった。
あのときは助けてくれて、ほんとにありがとう。もし、私のこと好きじゃなかったら…、好きになれなかったら、この手紙は捨(す)ててください。
<つぶやき>初恋は青春の思い出よね。心のどこかに隠れてて、時々現れては消えていく。
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T:0005「最後のラブレター」
かすみさんがこの手紙を見つけたとき、もう僕はこの世界から消えてしまっていると思います。でも、悲しまないで下さい。僕とあなたが過ごした三十年のあいだ、楽しいことがたくさんあったから。僕は、あなたと一緒(いっしょ)にいられて、とても幸せでした。
僕がこんなとこを言うと、かすみさんは怒(おこ)るかもしれませんね。だって、僕は良い夫ではなかったから。仕事にばかり夢中になって、あなたのとこを一人ぼっちにしてしまった。子供たちのことも、みんなかすみさんに任(まか)せてしまっていたし…。
でも、あなたのおかげで、子供たちも無事(ぶじ)に育(そだ)ってくれました。とても感謝(かんしゃ)しています。こんなこと、面(めん)と向かっては言えなかった。ちゃんと言っておけばよかったね。
あなたはいつも家族のことを考えていてくれたよね。僕が入院したときも、毎日のように来てくれた。僕がそんなに来なくていいよって言っても、あなたは<僕と一緒にいられる時間が増えたのよ、こんな幸せなことはない>って笑ってくれた。僕は、あなたの笑顔がいちばん好きだったんだよ。あなたの笑顔はみんなを幸せにしてくれる。
僕がいなくなっても、笑顔を忘れないで下さい。これからは、あなたのやりたいことを好きなだけしていいんだよ。僕から、かすみさんへのご褒美(ほうび)です。ありがとう。
<つぶやき>人生の節目(ふしめ)にあたり、心のこもった感謝のラブレターを書いてみませんか?
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T:0006「タイミング」
祐太(ゆうた)は会社の同期(どうき)の女性に思いを寄(よ)せていた。別に一目惚(ひとめぼ)れってわけじゃない。職場(しょくば)でたわいのない話をしたり、仕事のあとの飲み会とかで仲良くなって――。自分でも意識(いしき)しないうちに…、なんか良いよな、やっぱり気になる、好きになっちゃったのかも。てな感じで、<どうしようか>と思い始めたのは一ヵ月前だった。それからというもの、普通(ふつう)に話してるつもりでも、なんだかぎこちなくなっている自分がいた。
彼女のプライベートのことは詳(くわ)しく知らないし、もしかすると彼氏がいるかもしれない。自分のことをどう思っているのかな? 祐太はあれこれと思い悩(なや)んでしまった。
そんな祐太に突然(とつぜん)チャンスがめぐってきた。街を歩いていた祐太の目の前に、彼女が現れたのだ。彼女もびっくりした顔をして、
「この近くに友だちが住んでて、それで。田中(たなか)君は?」
「僕は、あの…。この辺(へん)に、住んでるんだよね。それで…」
「そうなんだ。あっ、そうだ。これから時間あります? 友達の家でパーティがあるの。一緒(いっしょ)に行きませんか?」
祐太は行きたかった。でも、今日は田舎(いなか)から母親が出て来るので、駅まで向かえに行くことになっていたのだ。<なんで!>祐太は心の中で叫(さけ)んだ。彼女ともっと親(した)しくなれるかもしれないのに。祐太は彼女と別れてから、思いっ切りため息をついた。
<つぶやき>こういうことって、あるんですかね? そのうち、良い風が吹いてきますよ。
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T:0007「飛び立つ男」
崖(がけ)の上に一人の男が立っていた。ただ立っていた。風が吹き始めると両手を真横(まよこ)に広げて目をつむり、身体で風を受けて背筋(せすじ)を伸(の)ばす。まるで飛び立とうとでもするように。
そこに一人の女がやって来た。女は、男のしていることを不思議(ふしぎ)そうに眺(なが)めていたが、
「何をしてるの?」と声をかけた。「あなた、昨日もここにいたわね」
「僕は、待ってるんですよ」
男は空を見上げたまま、女を見ようともしなかった。
「誰(だれ)を待っているの?」
「風を待ってるんです。僕の風を」
「あなたの風?」
女には、男の言っていることが理解できなかった。「風は誰のものでもないわ。それに、どうやって風を見分けるの?」
「身体で感じるんです。自分の風を感じたら、飛び立つことができる」
「飛び立つ?」女は目を丸くして、「人は飛ぶことなんてできないわ」
「誰が決めたんですか?」男は女の顔を覗(のぞ)き込み、「思い込んでいるだけですよ」
「そんなことない」女はむきになって、「人の身体は飛ぶようにはできてないの」
「辛抱(しんぼう)して自分の風を待ち続ければ、飛び立つことができますよ。やってみませんか?」
「私には、そんな無駄(むだ)なことをする時間はないの。あなたもちゃんと働いた方がいいわ」
<つぶやき>男のロマンを理解することができたら、世界はもっと広がるのでしょうか?
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T:0008「ロスト・ワールド」
ここは地球最後の秘境(ひきょう)。深い密林(みつりん)や湿地(しっち)に守られた、前人未踏(ぜんじんみとう)の地である。以前撮(と)られた衛星(えいせい)写真で、密林の中に断崖(だんがい)に囲(かこ)まれた小高い丘(おか)があり、その中央に小さな山があることが確認(かくにん)された。前回の予備調査(よびちょうさ)で新種(しんしゅ)の生物が多数発見されているので、今回の調査には全世界の注目(ちゅうもく)が集まっていた。
探検隊は断崖を登り切り、いよいよ未知の世界に踏(ふ)み込んだ。そこは倒木(とうぼく)や立木(こだち)にいたるまで苔(こけ)でおおわれていて、今まで歩いてきたジャングルとはまったく違っていた。
「隊長(たいちょう)! あれは何ですか?」
しばらく歩いたところで隊員(たいいん)の一人が叫(さけ)んだ。何かが倒木のあいだから頭(あたま)を出していたのだ。隊長はすぐに駆(か)け寄り、驚きの声をあげた。
「何でここにあるんだ!」隊長が手にしたのはペットボトルだった。
「こっちにも何かあります!」別の隊員が叫んだ。そこにあったのはスナック菓子(かし)の袋(ふくろ)。
次々と見つかる人の痕跡(こんせき)に、隊長をはじめ隊員たちは呆然(ぼうぜん)と立ちつくした。何とか目的の小山(こやま)にたどり着いたとき、みんなは言葉をなくした。驚きのあまりしゃがみ込む者や、憤(いきどお)りのあまり涙(なみだ)する隊員さえいた。そこにあったのは、ゴミの山。緑色のごみ袋が積(つ)み上げられて、山のようになっていたのだ。その時、どこからともなく飛行機の音が響(ひび)き始めた。みんなが見上げると、小型の輸送機(ゆそうき)が旋回(せんかい)していて、緑のごみ袋を落とし始めた。
<つぶやき>ゴミはちゃんと持ち帰りましょう。小さなことからでも地球を救えるのです。
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T:0009「タイムカプセル」
久(ひさ)し振(ぶ)りに故郷(こきょう)に帰って来た。二年ぶりぐらいかなぁ。実は家を建て替(か)えることになって、<片付けを手伝いに帰って来い>って連絡(れんらく)があったの。私は高校を卒業(そつぎょう)してから東京の大学に入り、そのまま就職(しゅうしょく)してしまった。だから、私の部屋は高校生のときのままになっている。
部屋の片付けをしていると、いろんな発見があった。あの頃(ころ)の思い出がこの部屋にはいっぱい詰(つ)まっている。そして、私は見つけてしまった。彼と二人で撮(と)った記念写真。彼も東京の大学に入ったので、二人の付き合いは続いていた。でも、大学を卒業する前に、些細(ささい)なことがきっかけで別れてしまった。いま考えると、別れた原因って何だったのかな。いろんなことが積(つ)もり積もって、二人の気持ちが離(はな)れてしまったのね、きっと。
写真の中の二人は、今でも恋人のままで時間が止まっていた。まるでタイムカプセルみたいに…。あっ、思い出した。この写真は二人でタイムカプセルを埋(う)めたときのだ。その頃の記憶(きおく)が頭の中を駆(か)けめぐった。高校卒業の記念にって、学校の近くの公園(こうえん)にこっそり埋めたタイムカプセル。たしか、十年後に二人で掘(ほ)り起こそうって約束(やくそく)した。
私は写真の日付を見て驚いた。十年後って明日じゃない。何だかドキドキしてしまった。明日、行ってみようかな。そしたら、彼に会えるかもしれない…。私ってバカね。そんなことあるわけないのに。何を期待(きたい)してるのよ。でも…、行ってみてもいいよね。
<つぶやき>あの頃の楽しかったこと、忘れたくないよね。そんな思い出を作りましょう。
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T:0010「呼びつける」
佐々木(ささき)は、半年かけて新しい得意先(とくいさき)と契約(けいやく)を結(むす)ぶまでにこぎつけた。今日は契約書を交わす大事(だいじ)な日。佐々木の上司(じょうし)も加わり、得意先の社長と最終的な契約の確認(かくにん)をしていた。
その時、静かな会議室にメールの着信音が鳴(な)り響(ひび)いた。佐々木は慌(あわ)てて、「すいません」と言ってメールを確認し、「今日はダメだって言ったのになぁ」とつぶやいた。
「今度は何だって?」上司が心配(しんぱい)そうにささやいた。
佐々木は携帯を上司にこっそりと見せた。そこにあった文面は、
<早く来て。来なかったら怒(おこ)っちゃうから!>
佐々木の恋人からのメールだった。こういうことはたびたびあったので、上司もなれたもので、「もう少し、待ってもらえないのか? 今はちょっとな…」
「何か問題(もんだい)でもあるのかね?」相手(あいて)の社長はただならぬ様子(ようす)に声をかけた。
「いや、ちょっと個人的(こじんてき)なことでして」
上司は言葉をにごした。が、またメールの着信音が鳴り響いた。今度は、
<何してるの! 来なさい!! どうなっても知らないわよ!>
「まずいな」メールを見た上司はそうつぶやくと、「ここはいいから、君は行きなさい」
「いったいどうしたんだね?」社長は相手の会社の大事(おおごと)だと思い声を荒(あら)げた。
上司は仕方なく届(とど)いたメールを見せて、佐々木の恋人のことを説明した。社長はそれを聞くと、「これはいかん。わしにも憶(おぼ)えがあるんだ。すぐ行きたまえ。行かなきゃダメだ!」
<つぶやき>いつの時代になっても、女性はたくましいのです。見くびらないように…。
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T:0011「ほんの小さな夢」
さゆりはラブホテルの一室(いっしつ)で朝を迎(むか)えた。横で寝(ね)ているのは、名前も知らない行きずりの男。彼女は自分の身体を売って、お金を手に入れていた。別に、お小遣(こづか)いが欲(ほ)しくてしているわけではなく、女一人で生きていくにはこの方法(ほうほう)しか思いつかなかったのだ。でも、彼女には夢があった。お金を貯(た)めて雑貨(ざっか)のお店を持つこと。そのための勉強(べんきょう)もしていた。
さゆりは家庭(かてい)のぬくもりを知らなかった。両親からは邪魔者扱(じゃまものあつか)いされ、いつも一人ぼっちだった。自分の家なのに、そこには彼女の居場所(いばしょ)はなかったのだ。だから、自分のお店を持つことは、自分の居場所を作ることなのかもしれない。
「どうして、こんな商売をしてるんだい」
男は着替(きが)え終わるとさゆりに声をかけた。
「私、学校もちゃんと行ってないし」さゆりは髪(かみ)をとかしながら、「でもね、勉強は嫌(きら)いじゃないのよ。いまも勉強してる。私には夢があるんだ」
さゆりは無邪気(むじゃき)に微笑(ほほえ)んだ。
「夢ね」男はしらけた顔で、「夢があったって、幸せにはなれないさ。俺(おれ)は、自分の夢はすべてかなえたけど、そこには幸せなんかなかった」
「そんなことないよ。夢があれば生きていけるわ。もし夢がかなったら、また別の夢を…」
「夢がかなったら、後は失(うしな)うだけだよ。仕事も、家庭もな。後は何も残らない」
「それは違うよ。そんな悲しいこと言わないで…」さゆりは男を優(やさ)しく抱(だ)きしめた。
<つぶやき>どんな人にも夢はあると…。夢は元気の源(みなもと)。人生を喜びで満(み)たしてくれる。
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T:0012「約束」
昼(ひる)近くになって純子(じゅんこ)はベッドから這(は)い出した。今日は久(ひさ)し振(ぶ)りのお休み。もう一ヵ月も休みがなかったのだ。だから、今日は一日をまったりと過ごすことに決めていた。純子は思いっ切り背伸(せの)びをするとニコニコしながら、「今日は、なにしようかなぁ」と呟(つぶや)いた。
これが純子の平穏(へいおん)な一日の始まり…、のはずだった。一本の電話がかかってくるまでは。
<おめえ、何やってんだ。約束(やくそく)忘れたんけ?>それは男の声だった。
「えっ、どなたですか?」純子には聞き覚(おぼ)えのない声だった。
<バカこくでねえ。オラだ! おめえの物忘(ものわす)れは、大人(おとな)になってもちっとも治(なお)んねえな。そんなんだからさ、いつまでたっても恋人が出来ねえんだ>
「さとし? 何で…、何で番号知ってんの!」それは幼(おさな)なじみの男だった。
<約束通り迎(むか)えに来たさぁ。田舎(いなか)にけえって、結婚(けっこん)すべ>
「いきなり何よ。あんたとなんか結婚しないわよ。するわけないでしょ!」
<なに言ってんだ。三年たっても恋人できなかったら、オラと結婚するって言ったべ>
「そんなこと言ってねえ」でも純子は、冗談半分(じょうだんはんぶん)にそんなことを言ったような気がした。
<すぐ着くからな。もう、淋(さび)しい思いさせねえから。待ってろや>
純子はこの後、さとしを説得(せっとく)して追(お)い出すのに長い時間を費(つい)やした。結局(けっきょく)、まったりとした休日は夢に終わった。
<つぶやき>冗談半分に変な約束してませんか? 気をつけないととんでもないことに…。
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T:0013「復活の日」
古びた酒場(さかば)のカウンターで、一人の男がバーボンを飲んでいた。だいぶ酔(よ)いが回っているようで、うつろな目をして物思(ものおも)いにふけっていた。そこに、この店には不釣(ふつ)り合いな、二十歳(はたち)ぐらいの若い女が近寄ってきて、隣(となり)の席に座り男の顔を覗(のぞ)き込んだ。
「ねえ」女は男に声をかけ、「私にダンス教えてよ。お願い」
男は女の顔をちらりと見ただけで、何も言わずに残っていたバーボンを喉(のど)に流しこんだ。
「おじさん、聞いてんの? 何とか言いなよ」女はイラついて男の腕(うで)をつかんだ。
男はその手を振りはらうと、「何度来ても同じだ。俺(おれ)は、ダンスはやめたんだ」
「そんなこと言わないで。私も、おじさんみたいに一流(いちりゅう)のダンサーになりたいの」
女の目は真剣(しんけん)だった。男の心は揺(ゆ)れていた。彼女を見ていると、昔の自分とそっくりなのだ。捨(す)てたはずの夢(ゆめ)がちらつき、心の片隅(かたすみ)で熱い気持ちがくすぶり始めていた。
「やめとけ。俺みたいになるだけだ。踊れなくなったら、もう死んだも同然(どうぜん)だ」
「だったら、私が生き返らせてあげる。おじさんがなくした夢、私が取り戻(もど)してあげるわ」
「お前な……」男は何か言いかけたが、しばらく考え込んで、「俺の授業料(じゅぎょうりょう)は高いぞ」
「えっ…、教えてくれるの? ありがとう! でも、授業料っていくらなの?」
男は飲んでいたグラスを差し出し、「こいつ、一杯(いっぱい)だ」
<つぶやき>いくつになっても、熱い情熱を忘れないでいたいですよね。青春、万歳!!
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T:0014「恋の始まり」
「おはよう。田中(たなか)君…、早いのね」ななみは恥(は)ずかしさのあまり声がうわずっていた。
「あ、吉田(よしだ)さん。あの、どうも…」田中の方も何だか落ち着かない様子(ようす)だ。
この二人、お互(たが)いに好きなのだ。でも、それが言い出せないでいた。他の友達がいるときは何でもないのだが、いざ二人っきりになると意識(いしき)しすぎてしまい何も話せなくなる。二人してもじもじしていると、それぞれの携帯(けいたい)が鳴(な)り出した。
「あ、さゆり。何してるの、遅いよ。えっ…、今日、来られない? 何でよ…」
「何だよ、研二(けんじ)。早く来いよ。えっ、嘘(うそ)だろ。どうすんだよ。えっ…」
今日は友達四人で水族館(すいぞくかん)に行くことになっていた。それが、ドタキャンされたみたいだ。実(じつ)は、友達が気をきかせて、二人っきりになれるように計画(けいかく)したのだ。二人はどうしていいのか分からず、うつむいてしまった。でも、真(ま)っ赤な顔をしたななみの方から、
「あの…、さゆり、来られないって。何か…、急に用事(ようじ)が出来たみたいなの」
「そう…。沢田(さわだ)も、今日、ダメだってさ。どうしようか…、これから」
「えっと…、行かない? 水族館。二人で…。せっかく、来たんだから…」
「そうだね。うん…、そうしようか。それがいいよ」
二人はぎこちなく歩き出した。二人の恋の時計(とけい)が、ゆっくりと動きはじめた。
<つぶやき>恋の始まりは、突然(とつぜん)やって来るんですよね。今思えば、その頃(ころ)がいちばん…。
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T:0015「ふくらむ疑惑」
「ねえ、あなた」君江(きみえ)は背広(せびろ)のポケットに入っていた一枚のメモを見せて、「これはなに?」と微笑(ほほえ)んだ。
隆(たかし)は遅(おそ)い夕食を食べながら、ちらっとメモを見て、「えっ、何それ?」
「あれ、とぼけるんだ。読んであげましょうか?」
君江は夫(おっと)に疑(うたが)いの目をむけた。
隆はきょとんとして、ふくれている妻(つま)を見た。君江はおもむろにメモを読み始める。
「今日は楽しかったわ。まさか、二人であんなことが出来るなんて、思ってもみなかったんですもの。また誘(さそ)って下さいね。待ってるわ。かおり」
メモを読み終えた君江は、「さあ、ちゃんと説明(せつめい)して。かおりって誰(だれ)なの?」
「かおり? 知らないよ。知るわけないだろ」
「とぼけないでよ! かおりって人と、何をしたの!」
「何もしてないよ。ほんとだって」隆には身に覚えがないようだ。
「今日のことよ。忘れたなんて言わせないから。会社の人じゃないの? それとも…」
「あっ、思い出したよ。あの、このあいだ移動(いどう)で来た娘(こ)で…。それで、席(せき)が隣(となり)になって、いろいろ教えてあげたりとか…。ちょっと変わった娘(こ)で、天然(てんねん)っていうか…」
「それで、仲良(なかよ)くなったんだ。で、あんなことやこんなことして、楽しんだんだ…」
二人の話し合いは、深夜(しんや)まで続いた。この結末(けつまつ)は、ご想像(そうぞう)におまかせします。
<つぶやき>些細(ささい)なことが、とんでもないことになるときも、あるのです。気をつけて。
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T:0016「探しものは…」
もう陽も落ちて薄暗くなった教室で、二人の生徒(せいと)が何かを探していた。
「どうしてないのよ」やよいはべそをかきながら、「困(こま)ったなぁ。どうしよう…」
「他のとこに持ってったんじゃないのか?」祐介(ゆうすけ)は呆(あき)れて、「お前、そそっかしいからな」
「他のとこって…。あっ、音楽室(おんがくしつ)かも。帰る前にそこによったのよ」
二人は暗い廊下(ろうか)を音楽室に向かった。昼間と違って何だか別の場所のようだ。薄気味悪(うすきみわる)い感じなので、やよいは祐介の腕(うで)をつかんだ。階段を上がって行くと、ピアノの音が聞こえてきた。二人は顔を見合わせて、息を呑(の)んだ。三階について音楽室の方を見たとき、何かがすーっと動いたような気がした。やよいは思わず祐介にしがみついて言った。「何かいたよぉ」
「バカ、気のせいだよ」祐介は怖(こわ)いのを我慢(がまん)して、「ほら、行くぞ」
ピアノの音はいつの間にか消えていた。音楽室の扉(とびら)をそっと開けて、二人は中に入った。中には誰もいなかったが、ピアノのふたが開けられたままになっていた。やよいは教壇(きょうだん)の上に探していたものを見つけて駆(か)け寄(よ)り、「あった。あったよ、祐介」やよいは大事(だいじ)そうにそれを祐介に手渡(てわた)して、「はい、プレゼント。今日は私たちが初めて…」
「それ、神田(かんだ)さんのなの。ダメじゃない、忘れていっちゃあ。大切(たいせつ)なものなんでしょ」
突然(とつぜん)先生に声をかけられたので、二人はどぎまぎしてしまった。
<つぶやき>大切なものは無くさないようにしないといけません。気をつけて下さいね。
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T:0017「初恋前夜」
ありさは校門(こうもん)のところで里子(さとこ)を待っていた。この二人は気が合うようで、学校ではいちばんの仲良(なかよ)しだった。でも、今日は何だか、ありさの様子(ようす)がちょっといつもと違うみたいだ。里子が来ると、ありさは言いにくそうに、
「あのね…。里(さと)ちゃんに頼(たの)みがあるんだけど…」
「なに? 何でも言ってよ。でも、勉強(べんきょう)のことは無理(むり)だからね」
「佐藤(さとう)君のことなんだけど…」ありさは頬(ほお)を赤らめて、「付き合ってる子とか、いるのかな?」
「佐藤? 良夫(よしお)のこと」里子は笑いながら、「いない、いない。いるわけないよ。だって、部活(ぶかつ)のないときは、いつも私の家に来て暇(ひま)つぶししてるのよ」
「そおなんだ。里ちゃんは、佐藤君のこと、どう思ってるの? 好きとか…」
「えっ? 私は…」里子は今まで良夫のことをそんなふうに考えたことはなかった。
「あいつとは幼稚園(ようちえん)のときからの幼(おさな)なじみで、好きとかそういうのは…」
「じゃあ、いいよね。私が好きになっても」ありさは思わず言ってしまった。
里子は驚(おどろ)いた。良夫のことをそんなふうに思っていたなんて。ありさは恥(は)ずかしそうに、
「ねえ、佐藤君に、私と付き合ってほしいって、伝(つた)えてくれない?」
里子は胸(むね)が騒(さわ)いだ。何だか分からないけど、大切(たいせつ)なものを無(な)くしてしまうような、淋(さび)しい気持ちになった。だから、里子はこんなふうに答えてしまった。
「それは、無理よ。私からは…、言えないわ。ごめんね。ほんと、ごめん」
<つぶやき>この二人はこれからどうなるのでしょう? 親友のままでいてほしいけど…。
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T:0018「遠距離ストーカー」
「あっ、まただ」淳子(じゅんこ)は着信(ちゃくしん)したばかりのメールを見て呟(つぶや)いた。
「どうしたの?」一緒(いっしょ)にお茶をしていた菜月(なつき)が、ケーキを頬張(ほおばり)りながら聞いてきた。
「私のストーカー」淳子は平気(へいき)な顔でそう言うと、「毎日ね、メールしてくるのよ」
「ストーカーって…。なにそれ?」菜月は心配(しんぱい)して、「大丈夫(だいじょうぶ)なの?」
「私の故郷(ふるさと)にいる元彼(もとかれ)なの。もう、しつこくて」
「元彼? それだったら、着信拒否(きょひ)とかすればいいじゃない。そうすれば…」
「えっ、そんなことしたら、もう届(とど)かなくなるじゃない」
「なに言ってるの。迷惑(めいわく)してるんでしょ?」
「だって、今まで来てたのが来なくなったら、なんか淋(さび)しいじゃん」
「あんた、ときどき分かんないこと言うよね。そもそも、何で元彼と別れたの?」
「えっとね、こっちでやりたい仕事(しごと)があったし、都会(とかい)に来たかったの」
「それで、その元彼は許(ゆる)してくれなかったんだ」
「ううん。黙(だま)って来ちゃった」
淳子は婚約指輪(こんやくゆびわ)を見せて、「結婚の約束(やくそく)までしたんだけどね」
「えっ! あんたね、指輪を返して、ちゃんと別れてから出てきなさいよ」
「私、彼のとこ嫌(きら)いじゃないし。向こうに戻ったら、結婚するかもしれないじゃん」
<つぶやき>こんな自由奔放(じゆうほんぽう)な彼女と付き合うのは、とっても大変じゃないかと思います。
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T:0019「大切な宝物」
「ねえ、これはなに?」
妻(つま)は、薄暗い藏(くら)の中から私を呼(よ)んだ。外で発掘品(はっくつひん)を整理(せいり)していた私は、懐中電灯(かいちゅうでんとう)を手に穴蔵(あなぐら)へ向かった。
実は、崩(くず)れかけている古い藏を取り壊(こわ)すことにしたのだ。何代(なんだい)も前の先祖(せんぞ)が建てたもので、長年の風雨(ふうう)で痛(いた)みがひどくなり、この間の台風(たいふう)でとうとう壁(かべ)が崩れてしまったのだ。
この藏にはいろんな思い出がある。子供の頃、悪(わる)さをして父親に閉じ込められたり、祖父(そふ)と一緒(いっしょ)に探検(たんけん)したこともあった。今思うと、祖父はかなりの変わり者だった。ほとんど家にはいなかったのだ。いつも旅をしていて、突然(とつぜん)帰ってくる。どんな仕事をしているのか聞いてみたことがあったが、祖父は「わしは、探検家(たんけんか)さ」と笑っていたのを覚(おぼ)えている。
「ねえ、これすごいよ」妻は私にほこりにまみれた小さな箱(はこ)を見せた。
「これは…」私には見覚(みおぼ)えがあった。祖母(そぼ)が大切(たいせつ)にしていた箱だ。でも、中に何が入っていたのか、私には記憶(きおく)がなかった。たぶん、祖母が亡(な)くなってから、父が藏にしまったのだろう。妻はそっと箱を開けてみた。私は懐中電灯で中を照(て)らす。
「うわっ!」妻は驚きの声をあげた。「すごくきれい。ねえ、見て!」
中に入っていたのは、たくさんの絵はがきだった。昔の風景(ふうけい)や人物(じんぶつ)、花などが印刷(いんさつ)されていた。文面(ぶんめん)を見ると、祖父が祖母に宛(あ)てた手紙で、愛情(あいじょう)込めた言葉がつづられていた。
<つぶやき>大切な人に、あなたは何を残しますか? どんなものでも、それは宝物(たからもの)です。
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T:0020「自殺志願者」
一人の男が公園(こうえん)のベンチに座(すわ)り、悲嘆(ひたん)に暮(く)れていた。そこへ幼(おさな)い少女が近寄って来た。
「ねえ、おじちゃん。どうしたの?」
少女はあどけない笑顔で男の顔を覗(のぞ)き込んだ。男は少女の方を見るが、目をそらして額(ひたい)に手をあてて大きなため息をついた。
「一人にしてくれないか」男はかすれた声でつぶやくと、「おじちゃんは、これから遠(とお)いところへ行かなきゃいけないんだ」
「遠いところ?」少女は男の手を取り、「ねえ、あたしも連れてって」
少女の小さくて温(あたた)かい手とつぶらな瞳(ひとみ)は、男の寒々(さむざむ)とした心にぬくもりを与えた。
「あたしも行きたい。だってね、遠いところにはママがいるんだよ。ママに会いたいの」
「そんなこと言っちゃいけない」男は少女を抱(だ)きしめて、「死んじゃいけないよ!」
――次の瞬間(しゅんかん)、「はい、終了(しゅうりょう)です」と声が聞こえてきて、ベンチや少女は跡形(あとかた)もなく消え失(う)せ、白(しろ)一色の部屋に変わった。そして、音もなく自動扉(じどうとびら)が開いた。
「今度はいけると思ったのになぁ」男は部屋から出ると受付(うけつけ)の女性に、「またダメですか?」
「そうですね。もう少し頑張(がんば)っていただかないと、自殺許可証(じさつきょかしょう)は発行(はっこう)できませんね」
「あの、また予約(よやく)をお願いします。今度こそ、頑張りますから」
「では、次は一週間後です。それまで、しっかり生きていて下さいね」
<つぶやき>生きることも大変ですが、死ぬことも大変かもしれません。生き抜いて…。
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T:0021「漬ける女」
とある喫茶店(きっさてん)で、紗英(さえ)は悲しそうな顔をして、涙(なみだ)をこらえていた。そんな紗英を見て、親友の麻美(あさみ)はあきれた顔をしてささやいた。
「もう、こんなところで泣(な)かないでよ」
「だって、あの人ったら、私を捨(す)てたのよ。お前みたいな重い女とは、もう付き合えないって」紗英の目から、ひとすじ涙がこぼれた。
「もう…」麻美はハンカチを手渡して、「だからやめなって言ったじゃない」
「私、あの人のために、いろいろしてあげたのよ。それなのに、それなのに…」
「紗英はね、尽(つ)くしすぎるのよ。もっとさ、私みたいに気楽(きらく)に…」
「あの人ね、私といると、漬(つけ)け物石(いし)を抱(だ)いてるみたいだって言ったのよ」
「漬け物石? 今どき、そんなの使わないでしょ。けっこう、古風(こふう)な人だったのね」
「私もね、つい言っちゃったの。あなたみたいなフニャフニャで、野沢菜(のざわな)みたいな人…」
「へーえ、言っちゃったんだ。紗英、それでいいんだよ。あんな男なんて忘れなよ」
「私が、野沢菜って言ったから、嫌(きら)われたのよ。きっとそうよ。それで、出てけって…」
「もう。別れた男のことで、イジイジしないの。スッパリと忘(わす)れなきゃ。いいわ、私がもっといい男、見繕(みつくろ)ってあげる。そうね、歯(は)ごたえのありそうな、カブみたいな人とか…」
紗英はすごい形相(ぎょうそう)で睨(にら)みつける。麻美は殺気(さっき)を感じて、「もう、冗談(じょうだん)だってば…」
<つぶやき>こんな一途(いちず)な人もいるんですよ。今度は素敵(すてき)な人と出会えるといいですね。
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T:0022「アフター5のシンデレラ」
ちょっと昔(むかし)のお話しです。財閥(ざいばつ)の一流企業に、なぜか中途採用(ちゅうとさいよう)で一人の女の子が入社しました。彼女は黒眼鏡(くろめがね)をかけて髪(かみ)はぼさぼさ、化粧(けしょう)もしてないようなみすぼらしい娘でした。それに、仕事ものろまで、失敗(しっぱい)ばかりしていて、いつも怒鳴(どな)られていました。
そんな風(ふう)なので先輩(せんぱい)の女子社員からは雑用(ざつよう)にこき使(つか)われ、男子社員からも見向きもされず、声をかけられることもありませんでした。そんな彼女ですが、愚痴(ぐち)をこぼすこともなく、こまねずみのように働いていました。
ある日、前が見えないほど書類(しょるい)を抱(かか)えて歩いていた彼女は、一人の男子社員とぶつかって転(ころ)んでしまいます。彼女はおどおどして「すいません」と頭を下げますが、男子社員はニコニコ笑って、「大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」と優(やさ)しく手を取ってくれました。
その男は真面目(まじめ)だけが取り柄(え)で、いつも楽しそうに仕事をしていました。男は彼女を見た途端(とたん)、好きになってしまいます。一生懸命(いっしょうけんめい)に働いている彼女を、何かと手伝(てつだ)うようになったのです。男はどんな陰口(かげぐち)を言われても、まったく気にしませんでした。
いつしか二人は付き合うようになりました。そして、彼女は男を家に招(まね)くことにしたのです。彼女に連れられて、男はそわそわしながら家に向かいます。そして、
「ここなんですよ」と彼女が指さした先には、立派(りっぱ)な豪邸(ごうてい)が建っていました。
実は彼女は、財閥のお嬢さんだったのです。男は、足がすくんでしまいました。
<つぶやき>この二人は、これからどうなるのでしょうか? 幸せになってほしいなぁ。
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T:0023「いちご症候群」
ここは心療内科(しんりょうないか)の診察室(しんさつしつ)。今日もちょっと変わった患者(かんじゃ)がやって来た。
「どうされました?」美人(びじん)の先生は優しく微笑(ほほえ)んた。
「あの…」患者はそわそわして周(まわ)りを気にしながら小さな声で言った。
「実は、見えてしまうんです」
「えっ?」先生は患者を落ち着かせようと、「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。何が見えるんですか?」
患者は震(ふる)える手を押さえながら、「僕、食べ物に見えてしまうんです。いろんなものが…。あれ、先生のくちびる…」患者は先生の口元(くちもと)をじっと見つめた。
「吉田(よしだ)さん、大丈夫ですか? 私のくちびるが、何かに見えるんですか?」
「ああああ…」患者は何とか理性(りせい)を保(たも)とうと踏(ふ)みとどまって、
「イチゴ…。みずみずしいイチゴに見えます。ああああああ…、食べたい!」
「吉田さん。落ち着きましょう。深呼吸(しんこきゅう)して下さい、ほら」先生は深呼吸をして見せた。
だが、これは逆効果(ぎゃくこうか)だった。患者はつばを飲み込み、目を血走(ちばし)らせ、くちびるを奪(うば)おうと先生に抱(だ)きついた。驚いた先生は悲鳴(ひめい)をあげて、患者を思いっ切りひっぱたいて、
「何すんのよ。この変態(へんたい)おやじ!」と叫(さけ)んでから、先生ははっと我(われ)に返った。
「あらっ、私ったら…」先生は慌(あわ)てて患者に駆(か)け寄り、「すいません、大丈夫ですか?」
患者は先生の顔を覗(のぞ)き込み、「あれ、治(なお)ってる。先生、もうイチゴに見えません!」
<つぶやき>とても不思議な病気ですよね。でも、あなたの一撃(いちげき)で治るかもしれません。
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T:0024「運命の出会い」
窓(まど)から気持ちのいい朝日(あさひ)が射(さ)し込み、良太(りょうた)は目を覚ました。だが、昨夜(ゆうべ)、飲みすぎた良太は最悪(さいあく)の状態(じょうたい)だった。頭はガンガンするし、何となく気分もよくないのだ。どうせ今日は休みだし、このまま寝ていようと良太は決め込んだ。
寝返(ねがえ)りを打って、ふっと目を開けたとき、良太は驚(おどろ)いて飛び起きた。そこに、女の子が寝ていたのだ。それも、かなり可愛(かわい)い…。良太は目をぱちくりさせて、何でこうなったのか必死(ひっし)に思い出そうとした。でも、昨夜、友達と店を出てからの記憶(きおく)がないのだ。どうやって家に帰って来たのかも…。
良太があたふたしていると女の子が目を覚まし、「おはようございます」と言って可愛い笑顔で起き上がり、良太の顔を見つめた。良太はあまりの美しさに、身体(からだ)が震(ふる)えた。
「あの…、おはようございます」良太は思わず挨拶(あいさつ)を返したが、「えっと、どなたですか?」
「忘れちゃったんですか? 昨夜、会ったじゃないですか」
「あの、どこで会ったんですかね? よく覚えてなくて…。すいません!」
「別にいいんですよ、そんなこと。これから、よろしくお願いします。今日から、あなたにつくことにしました。だって、私と気が合いそうだから」
「えっ、これからって? つくってなに?」良太には何のことかまったく分からなかった。
「たまにいるんですよ。私たちのことが見えてしまう人って。ふふふふ……」
<つぶやき>記憶(きおく)をなくすほど飲まないようにして下さい。何が起こるか分かりませんよ。
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T:0025「エリカちゃん」
由佳(ゆか)は、お手伝(てつだ)いロボ<エリカちゃん>を手に入れて上機嫌(じょうきげん)だった。これで家事(かじ)から解放(かいほう)され、自分だけの時間を楽しむことができる。エリカちゃんは最新式(さいしんしき)だけあって人間とそっくりで、ロボットとは思えないほどだ。由佳と同じ二十代の女性をモデルに作られていた。
由佳は分厚(ぶあつ)いマニュアルを見て、「こんなに読めないわ。まっ、いいか」と言ってロボットの起動(きどう)スイッチを入れた。動き出したエリカちゃんに、由佳は掃除(そうじ)、洗濯(せんたく)、炊事(すいじ)と次々に家事を言いつけた。由佳は大満足(だいまんぞく)だった。いつどこへ出かけても、時間を気にしなくてもいい。すべてエリカちゃんがやってくれるから――。
今日も遅(おそ)くまで友達と遊んで帰ってみると、エリカちゃんは夫(おっと)とソファーでくつろいでいた。肩(かた)を抱(だ)いたりして、夫もまんざらでもない様子(ようす)。それを見た由佳は、
「エリカ、何してるの? ちゃんと仕事をしなさい!」
「あなたこそ、いつまで遊んでるのよ」エリカは命令口調(めいれいくちょう)になり、「早く部屋を片づけなさい。洗濯物(せんたくもの)だってたまってるのよ。さっさとやりなさい!」
「えっ…」由佳は怖(こわ)くなりトイレに逃げ込み、携帯(けいたい)でメーカーに電話をかけた。メーカーの担当者(たんとうしゃ)は、「ありがとうって言いました? 人間と同じで、感謝(かんしゃ)の言葉(ことば)をかけないと暴走(ぼうそう)するんです。マニュアルの注意書(ちゅういが)きにも書いてあるんですがね。よく、読んでみて下さい。対処法(たいしょほう)としましては、しばらくエリカの言う通りにしてれば、もとに戻(もど)ると思います」
<つぶやき>近日、お助けロボ<タクヤくん>発売決定! 予約(よやく)はお早めにお願いします。
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T:0026「プレゼント」
今日は彼の誕生日(たんじょうび)。彼といっても、私の片思(かたおも)いなんだけど…。彼は、私のことをたくさんいる友達の一人としか思っていない。今度の誕生パーティだって、特別(とくべつ)に招待(しょうたい)されたわけじゃない。なのに私ったら、彼へのプレゼントを真剣(しんけん)に探して、何を着ていくかで悩(なや)んでいる。ほんと、バカみたいだよね。私にもう少し勇気(ゆうき)があったら、彼に告白(こくはく)して…。
誕生パーティはレストランを貸(か)し切って盛大(せいだい)に始まった。彼の周(まわ)りには奇麗(きれい)な女の子がいっぱいいて、私は足がすくんでしまった。大きなバースデーケーキの横には、たくさんのプレゼントが積(つ)み上げられていて。私のプレゼントより、大きくて豪華(ごうか)なものばかり。
私はパーティとか華(はな)やかな場所はほんとは苦手(にがて)なんだ。だから、隅(すみ)の方で小さくなっていた。彼へのプレゼントを握(にぎ)りしめて…。私がぼんやり座っていると、
「やあ、来てくれたんだ」彼がすぐ横に座って話しかけてきた。私はドキドキして、
「あの…、おめでとう…」彼の顔をまともに見ることができなかった。でも、少しだけ勇気を出して、「これ、あなたにと思って…」プレゼントを渡すことができた。
「君からプレゼントをもらえるなんて…。ありがとう」
彼は嬉(うれ)しそうに受け取ってくれた。そして、「ねえ、誰か、付き合ってる人とか…、いるのかな?」私が首(くび)を振ると、「だったら、僕と付き合って下さい。ああッ…、やっと言えた」
彼はほっとした顔をして、私に微笑(ほほえ)んだ。
<つぶやき>気持ちはちゃんと伝えないと、なにも始まりませんから。はじめの一歩です。
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T:0027「我ら探検隊」
UMA(ユーマ)探検隊(たんけんたい)は深い森の中に分け入った。今回の目的はツチノコ捜索(そうさく)である。先日、この森の中でツチノコの目撃情報(もくげきじょうほう)があったのだ。はたして、彼らはツチノコを発見できるのか?
「野元(のもと)隊長。目撃されたのは、この辺りだと思われます」
「いよいよ、我々の活動(かつどう)が報(むく)われる時が来た。身を引き締(し)めて、捜索にあたってくれ」
隊長の檄(げき)が飛び、隊員たちは散開(さんかい)し、辺りをくまなく探し回った。だが、いっこうに見つかる気配(けはい)はなかった。時間だけが、虚(むな)しく過ぎていく。
「隊長、もう無理(むり)ですよ。あきらめましょうよぉ」
「何を言ってるんだね。明子(あきこ)隊員、最後まであきらめちゃだめだ」
「隊長、あれを見て下さい!」松村(まつむら)隊員が、森の先を指さした。そこには街(まち)の明かりが…。
「はーい! もうやめましょう」明子は覚(さ)めた口調(くちょう)で、「みなさーん、撤収(てっしゅう)しますよーぉ。集めたゴミは、車のところまで運んで、分別(ふんべつ)して下さーい。お願いしまーす」
「明子君、次はもっとやり甲斐(がい)のある所へ行きたいね。ヒマラヤで雪男(ゆきおとこ)の捜索とか…」
「社長、わが社にそんな余裕(よゆう)はありません。ボランティア活動もいいですけど、社員を探検ごっこに付き合わせるのは、もう止めて下さい」
「いいじゃないか。楽しまなきゃ。それに、このビデオでCMを作れば、一石二鳥(いっせきにちょう)だよ」
<つぶやき>この会社の行く末(すえ)は大丈夫(だいじょうぶ)なの? でも、遊び心は大切です。忘れないでね。
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T:0028「ウルトラQQ」
とある温泉旅館(おんせんりょかん)で事件(じけん)は起こった。ここに宿泊(しゅくはく)していた女性客が、部屋から忽然(こつぜん)と姿(すがた)を消したのだ。部屋には荷物(にもつ)が残され、飲みかけのお茶と、食べかけの茶菓子(ちゃがし)がそのままになっていた。すぐに警察(けいさつ)が呼ばれたが、なにぶん田舎(いなか)なので駐在所(ちゅうざいしょ)の老巡査(ろうじゅんさ)がやって来た。
「そんで、だれも旅館から出てくの見とらんのかね?」
老巡査は従業員(じゅうぎょういん)一人一人に訊(き)いてみたが、だれも見たものはいなかった。
「旅館の中、くまなく探してもおらんかったんだね。そんで、どんな人だったん?」
「それが…」担当(たんとう)の仲居(なかい)が答えた。「顔はよく分からんのだわ。帽子(ぼうし)かぶってサングラスかけて、マスクしとったの。でもね、背格好(せかっこう)は女の人だったよ」
「顔が分からんかったら、捜(さが)しようないわなぁ」老巡査は頭をかいて、「荷物、見せてもらえるかな? なんか、手掛(てが)かりがあるかもしれんし」
残されていたのは小さな鞄(かばん)が一つだけだった。どう見ても男物(おとこもの)の鞄だ。女性の持ち物とは思えない。老巡査は鞄を開けてみた。中に入っていたのは、女性がかぶっていた帽子に、サングラスとマスク。それに、女性が着ていた服。これは、仲居が間違(まちが)いないと確認(かくにん)した。
「とすると、その女性は裸(はだか)で出て行ったのか!」老巡査は目を丸くした。
結局、この事件はだれかの悪戯(いたずら)として処理(しょり)された。真相(しんそう)はいまだに闇(やみ)の中である。
<つぶやき>その人はきっと透明人間(とうめいにんげん)だったんじゃないのかな。あなたはどう思います?
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T:0029「ママの楽しみ」
「ごちそうさま」
愛子(あいこ)は箸(はし)を置いて、ため息をついた。その様子(ようす)を見て母親は、
「どうしちゃったの? いつもなら呆(あき)れるぐらい食べるくせに」
「別に…。なんか、食欲(しょくよく)ないの」
母親は娘の額(ひたい)に手をあてて、
「熱(ねつ)はなさそうねぇ。あっ! もしかして、好きな人でも…」
「そ、そんなんじゃないよ。な、なに言ってるの」愛子はあきらかに慌(あわ)てていた。
「そうなんだ。よかったわ。あんたもやっと恋(こい)に目覚(めざ)めたのね」
「やっとって何よ。私だって、それくらい…」
「で、誰(だれ)なの? 高校の同級生? もう、告白(こくはく)したの。それとも、されちゃった?」
「勝手(かって)に決めつけないでよ。そんなんじゃないってば…」
「ママにも憶(おぼ)えがあるわ。あれは、小学六年の夏だったなぁ」
「まだ、子供じゃない。そんなの恋じゃないわよ」
「なに言ってるの。恋に齢(とし)は関係ないのよ。今度、家に連れてきなさい。いいわね」
「えっ? そんなの、無理(むり)だよ。パパがなんて言うか…」
「そうね、パパにはショックが大きいかもね。でも、パパがどんな顔するか楽しみだわ」
「ママ、何を期待(きたい)してるの? やめてよ、もう」
<つぶやき>父親の心をもてあそばないようにして下さい。繊細(せんさい)な生き物なのですから。
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T:0030「君を好きになった理由(わけ)」
どうして君(きみ)を好きになったんだろう?
出会いは最悪(さいあく)だった。君は僕(ぼく)を殴(なぐ)り飛ばしたんだから。君の友達をもて遊んだ男と間違(まちが)えて…。僕ってそんなにひどい男に見えたのかな? その後、君は僕に謝(あやま)るどころか、ひと晩(ばん)じゅうつき合わせたよね。いま思うと、それが君にとって精一杯(せいいっぱい)の謝罪(しゃざい)だったのかな?
初めて会ったときから、君は自己中(じこちゅう)でわがままだったよね。僕が携帯(けいたい)番号を教えたら、毎日のようにかけてきて…。あれは何だったのかな? 君はひとりでしゃべって、僕の返事(へんじ)も聞かずにすぐに切ってしまう。結局(けっきょく)、僕が君に合わせるしかないじゃないか。
僕が約束(やくそく)の時間に遅(おく)れたとき、君はほっぺたを丸くして僕を睨(にら)みつけたよね。僕はそれを見て笑っちゃった。だって、とっても可愛(かわい)かったから。その時からかな、君のことを好きになったのは。でも、僕から君に近づくと、君は距離(きょり)をとってしまう。どうしてかな?
君から突然(とつぜん)別れようって言われたとき、僕は目の前が真っ暗になった。理由(わけ)を訊(き)いても、君は泣いてばかりで。はじめて君の涙(なみだ)を見た。この時、僕は決めたんだ。君を守るって。君を抱(だ)きとめることができるのは、僕しかいないんだから。僕がそう言ったら、君は黙(だま)ってうなずいたよね。今、君は僕の横で寝息(ねいき)をたてている。あの涙は何だったのか、今でも分からない。でも、いいんだ。君の幸(しあわ)せそうな寝顔(ねがお)を、こうして見ていられるんだから。
<つぶやき>相手(あいて)のすべてを知ることはできません。でも、愛があればそれで充分(じゅうぶん)です。
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T:0031「週末婚の憂鬱」
康雄(やすお)と香織(かおり)は三十代半(なか)ばで結婚(けっこん)し、いつの間にか結婚四年目に突入(とつにゅう)していた。二人は平日は別々に生活(せいかつ)して、週末(しゅうまつ)だけ一緒(いっしょ)に暮(く)らす週末婚(しゅうまつこん)という生活をしていた。仕事の忙(いそが)しい二人にとって、それが一番いい選択(せんたく)だと思ったからだ。でも、四年もたってみると…。
「ねえ、ここには仕事を持ち込まない約束(やくそく)でしょ」香織はイライラしていた。
「仕方(しかた)ないだろ。急(いそ)ぎの仕事で、月曜までに仕上(しあ)げないといけないんだから」
「あなた、先週も仕事だって言って来なかったじゃない!」
「あの時は…、いろいろあって大変(たいへん)だったんだよ」康雄は目を合わそうとしなかった。
「何よ、いろいろって。夜遅(おそ)くても、帰ってこられるでしょ。私、待ってたんだから!」
「ちゃんと、電話しただろ。君だって、そういうこと、あったじゃないか。……。なあ、どうしたんだよ。そんなに怒(おこ)ることじゃないだろ」
「別に、怒ってなんかいないわよ。ただ、私は…」
「仕事、うまくいってないのか? だったら、もう辞(や)めちゃえよ。君がいなくたって…」
「何で、どうして私が辞めなきゃいけないのよ。そんなこと言わないで!」
「ごめん。言い過(す)ぎたよ」康雄は香織を優(やさ)しく抱(だ)きしめた。その時、携帯(けいたい)が鳴り出した。
康雄は着信(ちゃくしん)を確認(かくにん)すると、急に顔色(かおいろ)を変えて部屋を出て行った。そして、声をひそめて電話の相手に答えた。「週末はダメだって……。いや、そうじゃなくて…」
<つぶやき>どんなに忙しくても、二人の時間を大切に。会話があれば心は結(むす)ばれてます。
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T:0032「戦場の架け橋」
とある有名(ゆうめい)ホテルで創業(そうぎょう)三十周年のパーティが開かれていた。各界(かっかい)の名士(めいし)が招待(しょうたい)され、その子女(しじょ)の方々も奇麗(きれい)に着飾(きかざ)り花を添(そ)えた。このパーティ、ホテルの御曹司(おんぞうし)の結婚相手を見つける目的(もくてき)もあった。だから、お嬢(じょう)さまたちの力の入れようといったら、すごいものだった。御曹司が現れたとたん、水面下(すいめんか)で壮絶(そうぜつ)なバトルが繰(く)り広げられた。わざとぶつかってドレスを汚(よご)したり、御曹司に近づこうとする女性の足を引っかけて転(ころ)ばせたり、まるで戦場(せんじょう)である。
その戦場の中で一人だけ、御曹司には目もくれず黙々(もくもく)と食事を楽しんでいる女性がいた。彼女は、隅(すみ)の方で淋(さび)しげに座っている娘(むすめ)に気がついて声をかけた。
「ねえ、これ美味(おい)しいよ」とご馳走(ちそう)を盛(も)った皿(さら)を差し出した。娘はそれを受け取り、
「あ、ありがとうございます」娘は悲しさを隠(かく)すように微笑(ほほえ)んだ。
「あら、大変(たいへん)。ドレスが汚れちゃってるわ。あなた、もう諦(あきら)めちゃうの?」
「私は、そんなんじゃないんです。ただの友だちで…。大学で知り合っただけで…」
「そう。あいつが呼(よ)んだんだ。ふーん、何か分かる気がするな。いいわ、私が呼んであげる」彼女はそう言うと、大声で御曹司を呼びつけて、「ダメでしょ。彼女をひとりにさせて」
「姉(ねえ)さん、大声出さないでよ。仕方(しかた)ないだろ、動けなかったんだから」
「さあ、これでいいわ。後は二人で楽しみなさい。じゃあねぇ」
<つぶやき>こんな小粋(こいき)なお姉さんがいてくれると、ちょっと楽しいかもしれませんね。
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T:0033「公園友達」
明日香(あすか)は公園(こうえん)のベンチに座(すわ)り、ぼうっとしていた。そこへ犬(いぬ)を連れた男がやって来て、
「こんにちは」と声をかけた。でも彼女が気づかないので男は横に座り、「どうしたの?」
「あっ…、いやだ。山田(やまだ)さん、いつからいたんですか?」
この二人は公園友達だった。この公園で何度か挨拶(あいさつ)を交(か)わすうち、仲良(なかよ)くなってしまったのだ。お互(たが)いどんな仕事(しごと)をしているか知らないし、どこに住んでいるのかも聞くことはなかった。ただこの公園で会うだけの関係(かんけい)。でも、明日香にとってはとても居心地(いごこち)のいい付き合いだった。山田には、なぜか心のもやもやを何でも話せてしまうのだ。
「あのね」明日香は笑いながら切り出した。「彼と、別れたの。もう、最悪(さいあく)。彼ったら、他の女を私の部屋に入れたのよ。これまで何度も浮気(うわき)して。私、知らないふりしてたけど、もう限界(げんかい)。彼に、出てけって言っちゃった」
「そうですか。それは大変(たいへん)でしたね」山田は悲(かな)しげな顔をして、「大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
「うん、平気(へいき)よ。私、こういうことにはなれてるの。だって、悲しくても涙(なみだ)なんか出ないし…。あーあ、何で私には変な男ばっかり寄(よ)ってくるんだろう」
「僕(ぼく)も変な男かもしれませんね。こうして、あなたの悩(なや)みごとを聞いてるんだから」
「あっ、山田さんは違いますから…」と明日香は笑ったが、なぜか涙があふれてきた。
<つぶやき>辛(つら)い時、何でも話せる人がいるといいですね。見つけるのは大変ですけど…。
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T:0034「幻の美容師」
「ねえ、本当(ほんとう)にここなの?」ブランド品で着飾(きかざ)った娘(むすめ)がささやいた。
「はい、お嬢様(じょうさま)」と付(つ)き人の娘が答えて、「ここで間違(まちが)いないはずです」
そこは薄汚(うすよご)れたビルの一階にある美容室(びようしつ)だった。上流階級(じょうりゅうかいきゅう)の女性の間で、幻(まぼろし)の美容師(びようし)がいると噂(うわさ)されていたのだ。二人が中に入ってみると、外観(がいかん)とはまったく違っていた。店の中は奇麗(きれい)に整(ととの)えられ、髪(かみ)の毛一本も落ちてはいなかった。店主(てんしゅ)は二人を無愛想(ぶあいそう)に迎(むか)えた。
「あの…」付き人はいかめしい顔の店主に声をかけ、「こちらに幻の美容師がいると…」
「さあね…。どうするんだ。やるのか、やらないのか」男は客を見ようともしなかった。
「もちろん、お願いするわ」お嬢様は鏡(かがみ)の前に座(すわ)ると、「この雑誌(ざっし)に載(の)っている髪型(かみがた)にしてちょうだい」
お嬢様の目配(めくば)せで、付き人が雑誌を開き男の前に差し出した。
男はそれをちらっと見て、「やめときな。あんたには、今のままがお似合(にあ)いだ」
「それ、どういう意味(いみ)!」お嬢様は立ちあがり男を睨(にら)みつけた。だが男は気にもとめず、付き人の顔をじっと見つめて、「あんた、いい顔してるな。もっと奇麗になりたくないか?」
付き人の娘は、男の迫力(はくりょく)におされてうなずいた。すると男は有無(うむ)も言わせず娘を座らせ仕事(しごと)にとりかかった。男の手さばきは軽(かろ)やかで、無駄(むだ)がなかった。あっという間に仕事を終わらせた。驚(おどろ)いたことに、鏡に映(うつ)った娘の顔は、まるで天使(てんし)が舞(ま)い降(お)りたようだった。
<つぶやき>誰かの真似をするのはやめにして、あるがままの自分を見つめてみませんか?
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T:0035「水曜の女」
智美(ともみ)と遥(はるか)は十年来の友(とも)だった。でも、同じ人を好きになってしまい、一ヵ月前から絶交状態(ぜっこうじょうたい)にあった。
智美が行き付けだった飲み屋をのぞくと、遥が酔(よ)いつぶれていた。この店には仕事帰り、よく二人で来ていたのだ。絶交してからは、智美は足が遠(とお)のいていた。
「やあ、久し振りじゃない」店主はいつもの笑顔でそう言うと、「遥ちゃん、どうしたんだろうねぇ。こんなになるまで飲んだことないのに」
「もう、しょうがないな」智美は隣(とな)りに座り遥を揺(ゆ)り起こし、「ねえ、遥。起きなさいよ」
「うーん」と遥はゆっくり顔をあげると、智美の顔を覗(のぞ)き込み、「あっ、智美!」
「あんた、飲みすぎだよ。いい加減(かげん)にしなよ」
「智(とも)にそんなこと言われたくないよ。何でここにいるのよ」
「遥と同じ理由(りゆう)。私も、酔いつぶれようと思ってね」
「智も振られたんだ。はははは…。おかしくって…。たまんないわ。ふふふ…」
「そうね。まさかね、他の女がいたなんて。私たち、何やってたんだろう」
「まったくだよ。仕事(しごと)が忙(いそが)しいとか言って、水曜日にしか会ってくれなかったんだよ」
「水曜の女か…。私は、木曜だったなぁ。ねえ、また友達になってくれる?」
「なに言ってるの。私たちの腐(くさ)れ縁(えん)はいつまでも続くの。二人でいい男、見つけるわよ」
<つぶやき>空元気(からげんき)でもいいんですよ。前を向いて突き進みましょう。きっと明日は…。
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T:0036「テレパス」
さやかには不思議(ふしぎ)な能力(のうりょく)があった。心の声が聞こえるのだ。周(まわ)りの人の考えていることが、洪水(こうずい)のように頭の中に流れ込んでくる。子供の頃はたまらなく嫌(いや)だったが、今はそれをくい止める術(すべ)を身につけ、相手(あいて)のことを知りたいときだけ力を使っていた。さやかは力のことは誰にも話したことはない。だから、このことは誰も知らないはずだった。それなのに…。
とある喫茶店(きっさてん)で紅茶(こうちゃ)を飲んでいたとき、どこからか声が聞こえた。さやかは声をあげそうになった。力を使っていないのに、さやかの心の中に飛び込んで来たのだ。
<おばあちゃん。こっちだよ。ここにいるよ>
さやかは店内を見まわした。誰だろう? 私より力の強い人がいるなんて。さやかは力を開放(かいほう)した。他の客たちの声が次々に飛び込んで来る。さやかは一人の青年(せいねん)に目をとめた。彼からは何も聞こえてこないのだ。さやかはその青年に意識(いしき)を集中(しゅうちゅう)させた。すると、
<やっと、見つけてくれたね。僕は、あなたの孫(まご)です。未来(みらい)から来たんだよ>
<未来? 何をバカなことを言ってるの。そんなこと、あるわけないわ>
<ほら、右側に座っている人を見て。おばあちゃんは、その人と恋(こい)をして…>
さやかは右側の客を見て、<あんな人、私の好みじゃないわ。いい加減(かげん)なこと…>
さやかが振り返ると、さっきまでいたはずの青年の姿(すがた)はどこにもなかった。
<つぶやき>世の中には、まだまだ不思議なことや、理解できないことがあるのかもね。
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T:0037「星くずのペンダント」
彼と喧嘩(けんか)をした。きっかけは些細(ささい)なことだったのに、まさかこんなことになるなんて。もう、三日も連絡(れんらく)がない。
時間がたつにつれて、仲直(なかなお)りのきっかけがつかめなくなっていた。このまま、さよならするのかな。そんなのイヤだ。
私は思いきってメールを送ろうとスマホを手にした。その時、着信音が鳴ってメールが届いた。見てみると、
<この間は、ごめん。ドアの取っ手を見て>
彼からのメールだ。私は急いで玄関(げんかん)を開けてみた。取っ手のところに小さな紙袋(かみぶくろ)がかけてあった。中にはケースに入ったペンダントが。これって、あの時の…。
「それさ、ずっと見てただろ」彼は私の前に突然(とつぜん)現れて、「なんか、欲(ほ)しそうにしてたから」
「でも、これってけっこう高かったのよ。どうして…」
「何かないとさ、来づらいっていうか…。ほら、俺(おれ)さ、貯金(ちょきん)とかしてるし」
「それって、まさか…。ダメだよ。カナダ旅行(りょこう)のための貯金でしょ。あんなにがんばってバイトしてたじゃない。もらえないよ」
「いいんだよ。また、貯金すればいいんだから。カナダが無くなるわけでもないし。ほら、楽しみが延(の)びたってことで…。それに、俺だけじゃなくて、君と二人で行きたいから」
「もう、ほんと計画性(けいかくせい)がないんだから。そんなんじゃ、いつ行けるか分かんないでしょ」
<つぶやき>ほんとにそうですよね。でも、彼と仲直りできてよかったじゃないですか。
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T:0038「別れの杯」
女は部屋を出て行こうとしていた。男は女を呼(よ)び止めて、
「もう行くのかい?」
「ええ。いつまでもここにはいられないわ」女は淋(さび)しげに微笑(ほほえ)んだ。
「いいじゃないか。もう少しいてくれても」
「切りがないじゃない。いつまでも、こんなことしてちゃだめよ」
「あと一杯(いっぱい)だけ。なあ、いいだろう」男は女に杯(さかずき)を差し出した。
女は男に寄り添(そ)うように座ると、何も言わず杯を受け取った。そして、酒(さけ)を注(そそ)ぐ男の顔を静かに見つめた。女の目からひとしずく涙(なみだ)がこぼれ、口元(くちもと)に持ってきた杯にきらきらとこぼれ落ちた。女はわずかに口をつけ、杯を男に返す。女の目には強い決意(けつい)が現れていた。
「また、会えるかい?」男は女の手を強くにぎり、「必(かなら)ず会いに行くから。いいだろ?」
「もうよしましょう。辛(つら)くなるだけよ。きっと、いい人に出会えるわ。だから…」
「僕は、君でなくちゃ…」男は女の悲しそうな顔を見て、手をゆるめた。「そうだな…、もうよすよ。でも、君のことは忘(わす)れないから。僕の心の中で君は…」
――そこで男は目を覚ました。ふと、彼女の姿を探して部屋を見まわす。誰(だれ)もいない現実(げんじつ)が突(つ)き刺(さ)さり、男はため息をついた。飲みかけの杯に目がとまり、男はぐいと飲み干(ほ)した。燗冷(かんざ)ましが喉(のど)を通り、身体の芯(しん)までしみ込んだ。
<つぶやき>男は恋に溺(おぼ)れ、必死(ひっし)にもがいて…。それでも、男は恋を追(お)い求めるのです。
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T:0039「犯罪者撲滅キャンペーン」
ベッドに寝(ね)かされている男が目を覚(さ)ました。男のそばには白衣(はくい)の女医(じょい)が立っている。
「ここは…」男は辺りを見回して、「どうして、ここに…」
「ここは、総合病院(そうごうびょういん)です。山崎(やまざき)さんは、仕事先で倒(たお)れて、ここに運ばれたんですよ」
「えっ、何をしてたんだ。私は…。ああっ、思い出せない。私は、山崎なんですか?」
「山崎さんは、倒れたときに頭を強く打ったので、記憶(きおく)に障害(しょうがい)が起(お)きたんだと思います」
「記憶に障害が…」男は包帯(ほうたい)の巻(ま)かれた頭に手をやった。
「大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。記憶はちゃんと戻(もど)りますから。それより、奥さんがみえてますよ」
女医は病室の扉(とびら)を開けて、外で待っていた妻(つま)を招(まね)き入れた。
「あなた」妻は男のそばに駆(か)け寄って、「よかった…。もう、心配(しんぱい)したんだから」
女医は病室を出て隣(となり)の部屋に入った。そこで病室の様子(ようす)を見ていた男がつぶやいた。
「迫真(はくしん)の演技(えんぎ)だな。いったい何処(どこ)から連れてきたのかね?」
「あれは人間ではありません。プログラム通りに反応(はんのう)しているだけです」
「そうなのか。でも、受刑者(じゅけいしゃ)の記憶を消して更生(こうせい)させるとは、驚(おどろ)いたよ。この計画(けいかく)がうまく行けば、刑務所(けいむしょ)の経費(けいひ)を減(へ)らすことができるな。だが、記憶が戻ることは無いのかね」
「脳(のう)に埋(う)め込んだ装置(そうち)の保障期間(ほしょうきかん)は五十年です。彼が生きている間は問題(もんだい)ないでしょう」
<つぶやき>未来の世界では、こんなことになってるかもしれませんよ。怖(こわ)いですね…。
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T:0040「昔みたいに」
一人娘(ひとりむすめ)を送り出した夫婦(ふうふ)が、テーブルをはさみお茶(ちゃ)をすすっていた。
「綾佳(あやか)、きれいだったなぁ。今日は天気(てんき)もよかったし、いい一日だった」
「そうですね。あの娘(こ)がこんなに早く結婚(けっこん)するなんて、思ってもみませんでしたよ」
「そうだな。でも、遅(おそ)いよりはいいさ。この家も淋(さび)しくなるなぁ」
「なに言ってるんですか。近いんですから、ちょくちょく帰って来ますよ」
「そうかなぁ」夫(おっと)は嬉(うれ)しそうにしたが、
「でも、そうたびたび帰って来るのは、まずいだろ」
「ふふ…」妻(つま)は思い出し笑いをして、「覚(おぼ)えてます? なんて私にプロポーズしたのか」
「えっ、何だよ急に」夫は目をそらし、お茶をすすった。
「ほら、披露宴(ひろうえん)のときにそんな話が出たじゃないですか。それで、思い出したんですよ」
「そんな話はいいじゃないか。それより、どうしてるかな綾佳は…」
「あなた、私にこう言ったんですよ。俺はお前と――」
「もういいよ、そんな昔の話しは。俺(おれ)はもう忘れたよ」
「ああ、ずるい。都合(つごう)の悪いことはすぐ忘れるんだから」
「でもな、一つだけ覚えてるぞ。新婚旅行のとき、お前と始めて泊(と)まった旅館(りょかん)で…」
「まだ覚えてたんですか? いやだわ。そうだ、また二人で旅行に行きましょうよ。ねっ」
<つぶやき>たまには夫婦で昔の話しをしてみませんか? ちょっと気恥(きは)ずかしいかも。
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T:0041「無器用な探偵さん」
「君(きみ)はここにいて、逃(に)げ道をふさぐんだ」
探偵(たんてい)は助手(じょしゅ)のハルカに指示(しじ)をすると、緊張(きんちょう)した面持(おもも)ちで大きく息(いき)をした。ハルカは不安(ふあん)げな顔をして探偵に声をかけた。
「一人で大丈夫(だいじょうぶ)ですか? 私も行ったほうが…」
「いや、大丈夫だよ。これくらい僕(ぼく)一人で出来(でき)るさ。心配(しんぱい)ない」
二人はここ数日の間、宗太郎(そうたろう)を追(お)いかけていた。だが、宗太郎は二人をあざ笑うように逃げ回っていた。それが今日、やっとねぐらを突(つ)き止めることができたのだ。
探偵は懐中電灯(かいちゅうでんとう)を手に、暗い廃屋(はいおく)の中に入って行った。ハルカは懐中電灯の明かりを目で追った。明かりが見えなくなってしばらくたったとき、奥(おく)の方から何かが倒(たお)れる大きな物音(ものおと)がして、探偵の悲鳴(ひめい)が聞こえた。ハルカは思わず声をあげた。
「探偵さん! 大丈夫なの」
「そっちへ行ったぞ。捕(つか)まえるんだ!」暗闇(くらやみ)から探偵のうわずった声が響(ひび)いた。
ハルカは身構(みがま)えて、暗闇に目をこらした。ここで逃がしてしまったら、今までの苦労(くろう)がすべて無駄(むだ)になってしまう。近くで何かが倒れる音がした。ハルカの顔に緊張が走った。黒い影(かげ)がハルカに向かって来た。ハルカは黒い影に飛びつき、暴(あば)れる相手(あいて)を押(お)さえ込んだ。
探偵が足を引きずり出て来ると、ハルカの腕(うで)の中で、「ニャー」と宗太郎がひと声鳴(な)いた。
<つぶやき>無器用(ぶきよう)でもいいんです。ひとすじの道を究(きわ)めていきましょう。そしたら…。
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T:0042「美味しいもの倶楽部」
「ここのケーキ、美味(おい)しいねぇ」
陽子(ようこ)はケーキをひとくち食べて幸(しあわ)せな気分(きぶん)になった。
政夫(まさお)は陽子の笑顔を見るのが好きだった。だから、美味しいお店を見つけると、それを口実(こうじつ)に陽子を連れ出していた。彼女とは学生のときからの付き合いで、初めて会ったときから恋(こい)に落ちてしまった。陽子の方は、そんなことまったく気づいてはいなかったが…。
陽子はケーキを食べ終わると、「ねえ、何か話があるって言ってたけど。なに?」
「それがね。あの…」政夫は今日こそ、告白(こくはく)しようと決心(けっしん)していたが…。
「私もね、田中(たなか)君に言わなきゃいけないことがあるんだ」陽子は改(あらた)まって切り出した。
「私ね、来月(らいげつ)からパリに行くの。向こうで、本格的(ほんかくてき)にパティシエの修業(しゅぎょう)をしようと思って。今のお店の店長ね、若いころパリで修業してて。知り合いのパティシエを紹介(しょうかい)してもらったの。その人のお店で働(はたら)けることになっちゃったんだ」
「えっ、そうなの…」政夫は、頭の中がまっ白になった。
「最低(さいてい)でも四、五年は頑張(がんば)ろうと思って。だから、美味しいもの倶楽部(くらぶ)はお休みさせて下さい。また日本に戻ってきたら復帰(ふっき)するから、お願い」陽子は手を合わせた。
「そうか…。陽子の夢だったもんな…。よかったじゃないか、頑張ってこいよ!」
「うん、ありがとうね。あっ、私が戻ってくるまでに、ちゃんと部員増(ふ)やしといてよね」
<つぶやき>彼女の夢を叶(かな)えるため、男はじっと我慢(がまん)するのです。つらいっす、ほんとに。
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T:0043「音信不通」
人通りの多い繁華街(はんかがい)を歩いていた淳史(あつし)は、一人の女に目をとめて凍(こお)りついた。彼の手は震(ふる)え、呼吸(こきゅう)は荒(あら)くなり、たまらずその場から逃(に)げだした。繁華街の通りを離(はな)れ、人気(ひとけ)のない脇道(わきみち)に足を踏(ふ)み入れた淳史は、
「まさか、そんな…」荒い息(いき)でつぶやいた。
彼は後ろを振り返ると、息を呑(の)んだ。そこには、さっきの女が立っていたのだ。その女はかすかに微笑(ほほえ)んで、淳史の方へ近づきながら、「やっと、見つけたわ」
「一恵(かずえ)…一恵…」淳史は口の中でそう繰(く)り返すと、また駆(か)け出した。どこをどう走ったのか、いつの間にか墓場(はかば)の中に入り込んでいた。淳史は驚(おどろ)き、へたり込んでしまった。
淳史はふと、目の前の墓石(はかいし)に目をやった。そこには<磯崎(いそざき)>と刻(きざ)まれていた。
「ねえ、返して」突然(とつぜん)、女の声が耳に飛び込んで来た。淳史は驚き振り返った。そこにはあの女が、淳史を見下ろしていた。女は、「早く返してよ!」と叫(さけ)んだ。
「ごめん、ごめんなさい」淳史は震える声で、「あれは、もう…」
「まさか、捨(す)てたとか…」女は淳史の胸倉(むなぐら)をつかみ、「言うんじゃないでしょうね」
「いや、捨てたわけじゃ…ないけど…」淳史は苦(くる)し紛(まぎ)れにへらへらと笑った。
「あの女か…」女は淳史に顔を近づけて、「やっぱり、あの女に渡(わた)したのね!」
女は淳史の腕(うで)を抱(かか)え込み、彼を引きずるようにいずこともなく去(さ)って行った。
<つぶやき>彼が何をしでかして、この後どうなったのか…。ご想像(そうぞう)におまかせします。
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T:0044「リセット」
ベッドの上で若い女性が死を迎(むか)えようとしていた。彼女の手を優しく握(にぎ)りしめている若い男。男は彼女のそばから離れようとせず、励(はげ)まし続けていた。
「あなた…」女は苦しい息(いき)をついて、「私は…、あなたに出会えて、幸せでした」
「僕もだよ。きっと元気になるから…」
男は胸(むね)が詰(つ)まり、それ以上なにも言えなくなった。
「ありがとう」女は最後(さいご)にそう言い残(のこ)すと、目を閉(と)じ動かなくなった。男は彼女にすがりつき、泣(な)き明(あ)かした。
朝になると、どこからか声が聞こえてきた。「リセットしますか?」
男はそれに答えて、「そうだな、今度はもう少し寿命(じゅみょう)を延(の)ばしてくれないか?」
「その要望(ようぼう)にはお答えできません。病気などの発病(はつびょう)は、無作為(むさくい)に決められています」
「分かったよ。なら、容姿(ようし)と年齢(ねんれい)は今のままでリセットしてくれ」
女の腕(うで)につながれていたケーブルが自動的にはずされて、彼女は目を覚ました。
「あなた、おはよう。今日は、早いのね」女は起き上がり、「朝食は何がいい?」
「そうだな。今日は、和食(わしょく)がいいなぁ」男はそう言うと、女にキスをした。
食事ができる間に男は新聞(しんぶん)を読み、いつもと変わらぬ一日が始まった。部屋の丸窓(まるまど)から外を見ると、真っ暗な世界が広がり、眼下(がんか)には茶色く濁(にご)った地球が浮(う)かんでいた。
「僕も手伝うよ」男は席(せき)を立って腕まくりをした。その腕にはプラグが付いていた。
<つぶやき>人の人生は一度きりしかありません。悔(く)いのないように過ごしたいものです。
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T:0045「コピーロボット」
美子(よしこ)は<どうしても>と、おばさんに頼(たの)まれて、お見合(みあ)いをすることになった。写真(しゃしん)で見た限(かぎ)りでは、ごく平凡(へいぼん)な中小企業(ちゅうしょうきぎょう)のサラリーマンだ。美子は気が進まなかった。そこで、最近(さいきん)手に入れたコピーロボットを身代(みが)わりにすることにした。見合いの席(せき)で失敗(しっぱい)させて、嫌(きら)われるようにしむけるのだ。
「ねえ、どうだった?」見合いから帰って来たロボットに美子は訊(き)いた。
「それが、おかしいの。何だか気に入られちゃったみたいで」
「どうしてよ。ちゃんと私の言った通りにしたんでしょ」
「もちろんよ。お茶をこぼしてみたり、口を開(あ)けて食事(しょくじ)をしたり。それと、言葉(ことば)づかいもたどたどしくしたのよ。絶対(ぜったい)に普通(ふつう)の人だったら好きにはならないわ」
「ああ、どうしよう。このまま話が進んじゃったら…。そんなの困(こま)るわ」
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。二人っきりになったとき話したんだけど、とっても真面目(まじめ)そうな良い人だったわよ。何でもできる人よりも、少し抜(ぬ)けてる人の方がいいって言ってたわ」
「なにそれ。それじゃ私が、まるでバカ娘(むすめ)ってことじゃない。冗談(じょうだん)じゃないわよ!」
「そんなに怒(おこ)らないで。あなたが気に入らなかったら、私が付き合ってもいいのよ」
「これは、私の見合いよ。いいわ。私から会いに行って、ガツンと言ってやるわよ」
<つぶやき>出会いは一期一会(いちごいちえ)です。ひょんなことから恋が生まれるのかもしれません。
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T:0046「笑顔が一番」
光恵(みつえ)は彼と暮(く)らし始めて二年目を迎(むか)えた。彼女は彼のことを愛している。彼のためなら何でもしたいし、どんな苦労(くろう)もいとわなかった。結婚はしていなかったが、二人の愛は永遠(えいえん)に続くと、彼女は信(しん)じていた。でも彼の方は…。彼の心はいつの間にか離(はな)れていたようだ。
光恵がそのことに気づいたのは、仕事から帰って来たときだった。テーブルの上にメモが置かれていた。広告(こうこく)の裏(うら)に書かれた、走り書きのメモ。
<俺(おれ)は出て行く。好きな女ができたんだ。バイバイ>
光恵は我(わ)が目を疑(うたが)った。出て行くなんて…。お金なんか持ってないのに。光恵はハッとして、タンスの引き出しを開けてみた。そこに入れておいたはずの通帳(つうちょう)と印鑑(いんかん)、父の形見(かたみ)の金(きん)の懐中時計(かいちゅうとけい)が消えていた。時計が入っていた箱(はこ)には、一緒(いっしょ)に入れておいた父の写真(しゃしん)だけが残されていた。光恵は力が抜(ぬ)けてしまい、写真を手にしてしゃがみ込んでしまった。
涙(なみだ)が頬(ほお)をつたっていく。彼女はそれをぬぐいもせずに、ひとしきり泣いた。その後、手にした写真に目をやり、「お父さん…」とつぶやいた。写真の中の父親は笑っていた。
次の朝。タンスの上には父の写真が置かれていた。光恵は父の写真に手を合わせた。光恵の耳(みみ)には父の口癖(くちぐせ)が聞こえていた。
<笑顔(えがお)が一番だぞ。笑顔でいれば幸せになれるんだ>
光恵は吹(ふ)っ切るように笑顔を作り、仕事へと出かけていった。
<つぶやき>簡単(かんたん)なことじゃないですよね。でも、笑顔を忘れないで。きっといつか…。
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T:0047「しゃっくり」
「ねえ、大丈夫(だいじょうぶ)?」遥(はるか)はニコニコしながら、「つばを飲み込むと、止まるかも」
「お前、楽しんでないか? ヒック…。たかが、しゃっくりじゃないか、こんなヒック」
「そうだ、これなんかどう? これを呑(の)み込めば…」
「こんなの呑み込んだら、喉(のど)に詰(つ)まヒック、ヒック…。何で大福(だいふく)なんか持ってヒック…」
「お店の前、通ったら、食べたくなっちゃって。そうだ、いいこと思いついちゃった」
遥は押し入れの中に頭を突っ込んで、何かを探し始めた。
「もういいよ、そのうちヒック、止まるから。ヒック、お前、何しに来たんヒック…」
圭介(けいすけ)は水でも飲もうかと立ちあがった。その時、すぐ後ろで<パン! パン!>と大きな音がして、圭介は飛び上がった。振り返ると遥が大きなクラッカーを手に立っていた。
「あのな…、驚(おど)かすなよ。どこからそんなの…」
「ほら、圭介のびっくり誕生会(たんじょうかい)に使おうと買っておいたのよ。でも、圭介ったら自分の誕生日忘れてて、結局(けっきょく)できなかったじゃない」
「ああ、そんなこともあったな。あれ、止まった……。やった、やっとおさまった」
「よかったね。これで話せるわ。ねえ、私ね…。赤ちゃん、できちゃったの!」
「えっ、ほんとかよ! ヒック…、ヒック…。まただヒック…。驚かすなよヒック…」
<つぶやき>おめでたなんですか。こんなこと聞かされちゃったら、そりゃ驚きますよね。
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T:0048「時をかけるねこ」
ある大学(だいがく)の研究室(けんきゅうしつ)にねこが出入りするようになった。学生たちも研究の合間(あいま)に世話(せわ)をしてとても可愛(かわい)がったので、いつの間にかそこに棲(す)み着(つ)きマスコットになってしまった。
――ある学生が古い雑誌(ざっし)を見つけてきた。そこには発明王(はつめいおう)エジソンの写真(しゃしん)が掲載(けいさい)されていて、彼の横にはねこが座っていた。学生はそのねこを指(ゆび)さして、
「これを見て。うちのねことそっくりじゃない。この毛(け)の模様(もよう)とか…」
「そうかなぁ。白黒写真だし、似(に)てるだけじゃないのか?」
「だって、この首輪(くびわ)についてる丸(まる)い鈴(すず)のような飾(かざ)り。これは絶対(ぜったい)同じものよ」
そこに別の学生が来て、「おい、今日の新聞(しんぶん)見たか? ここにうちのねこが載(の)ってるよ」
学生たちは集まってきて新聞を取り囲(かこ)んだ。それはエジプトで見つかった遺跡(いせき)の写真で、奇麗(きれい)な壁画(へきが)にねこが描(えが)かれていた。学生たちにどよめきが走った。
「ほら、見てよ。これも首輪に同じ飾りがついてるわ」
「どういうことだよ、これは…。同じねこなんてあり得(え)ないだろ。もしそうだったら…」
「そんな、長生(ながい)きのねこなんているわけないだろ」
「まさか、時空(じくう)を移動(いどう)してるとか…。時(とき)をかけるねこだったりして」
学生たちは、窓際(まどぎわ)で気持ちよさそうにひなたぼっこをしているねこに目をやった。
<つぶやき>私も、こんなことが出来たらいいのになぁ…。ああ、羨(うらや)ましいかぎりです。
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T:0049「人生の誤算」
新婚初夜(しんこんしょや)の二人が、ベッドの中でこんな会話(かいわ)をしていた。
「君(きみ)は、僕(ぼく)の持ってる金(かね)が欲(ほ)しいんだろ?」
「そうよ。お金がなかったら、あなたなんか相手(あいて)にしなかったわ」
「ふん。君みたいに正直(しょうじき)な女は初めてだよ。本心(ほんしん)をあっさり言ってしまうんだから」
「だから、私を選(えら)んだんでしょ。いいのよ、他に好きな女ができたら、愛人(あいじん)にしても」
「それは助(たす)かるね。君も、好きなだけ遊(あそ)んでもいいんだよ」
「私は、男には興味(きょうみ)ないの。お金さえあれば満足(まんぞく)よ」
――それから一年が過(す)ぎて、この二人の生活は大きく変わってしまった。
「もう愛人とは別れるって言ったじゃない。何でまだ付き合ってるのよ」
「なに勝手(かって)なこと言ってるんだ。愛人を作れって言ったのは君じゃないか」
「あの時と、事情(じじょう)が変わったの。お腹(なか)の中には、あなたの子供(こども)がいるのよ」
「もう、僕たち別れよう。慰謝料(いしゃりょう)や養育費(よういくひ)はちゃんと払(はら)ってやるよ」
「いやよ。私は離婚(りこん)はしないから。この子のためにも、私たちやり直(なお)しましょ」
「なに言ってるんだ。君は僕のことなんか何とも思ってないじゃないか」
「あなたはこの子の父親なのよ。愛人なんかに財産(ざいさん)を盗(と)られるなんて、まっぴらよ!」
<つぶやき>お金のために人生を踏(ふ)み外さないで下さい。思いやりの気持ちが大切(たいせつ)です。
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T:0050「恋人週間」
「あの、佐藤太一(さとうたいち)さんですよね」
女性は一礼(いちれい)すると、「私、結婚促進公団(けっこんそくしんこうだん)から派遣(はけん)された百瀬(ももせ)ひとみです。今日から一週間、あなたの恋人(こいびと)になりました。よろしくお願いします」
「はい……?」太一はきょとんとして、「えっ、何なんですか?」
「あの、連絡(れんらく)が来てると思うんですが…」
ひとみは顔(かお)を赤らめて、「申し訳ありません。私、またへまをしちゃって…。ごめんなさい。あの…、改(あらた)めてご説明(せつめい)します。政府(せいふ)が試験的(しけんてき)に恋人週間を始めて、それは、えっと…、人口増加(じんこうぞうか)の対策(たいさく)で…。つまり…、政府がやる合コンみたいなものです。登録(とうろく)されている男女を出会わせて…」
「登録って、僕(ぼく)は登録なんかしてませんよ」
「あの、登録は本人(ほんにん)じゃなくても、家族(かぞく)ならできるんです。だから…」
「あっ。もしかして、お袋(ふくろ)が…。まったく、勝手(かって)なことするんだから」
「断(ことわ)らないで下さい。一週間でいいんです。もし断られたら、登録を消されちゃって…」
「でも、あなたみたいな奇麗(きれい)な人だったら、恋人なんてすぐに…」
「見た目で判断(はんだん)しないで下さい! 恋人ができないから、こうして…」
「あの…」太一はひとみの涙(なみだ)を見て、「分かりました。一週間…、よろしくお願いします」
「ありがとうございます。私、がんばりますから」
<つぶやき>これがきっかけで、結婚できるのでしょうか。後は、この二人しだいです。
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T:0051「おとり捜査」
「あの、何で今回も私なんですか?」京子(きょうこ)は不満(ふまん)そうな顔でつぶやいた。
「お前、男装(だんそう)も似合(にあ)うじゃないか。これは新しい発見(はっけん)だなぁ」
「なに感心(かんしん)してるんですか。先輩(せんぱい)がやって下さいよ。その方が…」
「なに言ってるんだ。今回の捜査(そうさ)はな、今までとは違(ちが)うんだ。ふふふふ、心配(しんぱい)すんな。俺(おれ)がちゃんと張(は)り付いてやるから、大丈夫(だいじょうぶ)だ」
「それがいちばん心配なんですけど。前回だって、全然(ぜんぜん)助(たす)けてくれなかったじゃないですか。私、危(あぶ)なかったんですから…」
「たかがケツ触(さわ)られただけじゃねえか。そんなのはな、危険(きけん)のうちに入らねえよ。いいか、今回の相手(あいて)は、小心者(しょうしんもの)のこそ泥(どろ)だ。そいつがどういうわけか、宝石泥棒(ほうせきどろぼう)のブツを盗(ぬす)みやがった。時価(じか)数十億(おく)という代物(しろもの)だ」
「宝石を盗んだんですか?」京子の目が輝(かがや)いた。
「そうだよ。きっと、どこかに隠(かく)しているはずなんだ。それを聞き出すんだ」
「でも、どうやって?」
「そんなこと、自分で考えろよ。そいつは男好きだから、近づくのはわけないさ」
「男好きって…。私は、女です! それじゃ…、また、危険じゃないですかぁ」
<つぶやき>こんな相棒(あいぼう)と一緒(いっしょ)だととても大変かもしれません。がんばれ、京子ちゃん!
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T:0052「スキャンダル」
大企業(だいきぎょう)の給湯室(きゅうとうしつ)で女子社員たちが噂話(うわさばなし)で盛(も)り上がっていた。
「ねえ、部長(ぶちょう)が秘書課(ひしょか)の相沢芳恵(あいざわよしえ)と不倫(ふりん)してるんだって」
「ウソ…、それって確(たし)かな情報(じょうほう)なの?」
「間違(まちが)いないわよ。総務部(そうむぶ)の飯島(いいじま)さんの話だから」
「それは間違いないわ。飯島さんの情報網(じょうほうもう)は確かだもん」
みんなの話を黙(だま)って聞いていた明美(あけみ)はため息をついた。それに気づいた女子社員の一人が、
「ねえ、どうしたの明美。さっきから、元気ないじゃない」
「別に…。仕事に戻(もど)りましょう。こんなとこでサボってると、また部長に怒(おこ)られるわよ」
「そうね。でも、部長って以外(いがい)よね。あんな顔でどうして女ができるんだろう」
「ほんとよね。これは、この会社の七不思議(ななふしぎ)のひとつだわ」
明美は部屋に戻るとやりかけていた書類(しょるい)をまとめ、メモを付けて部長のデスクへ持っていった。部長は書類を受け取ると、明美の顔を見てにこりと笑って、
「ご苦労(くろう)さん。えっと…、例(れい)の件(けん)だけど、都合(つごう)はどうかね?」
「それが…」明美は微笑(ほほえ)み返すと、「メモに書いておきましたので」と一礼(いちれい)して、さっさと自分のデスクへ戻ってしまった。部長は怪訝(けげん)な顔をしてメモを見た。
<相沢さんと楽しんだんですか? もし、私と別れるつもりなら覚悟(かくご)しなさい。奥さんに言いつけるわよ。どうなっても知らないから!>
<つぶやき>これは恐怖です。でも、会社の七不思議って、他にはどんなのがあるのかな?
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T:0053「わがままな天使」
「ねえ、エンジェルのケーキが食べたい。買ってきて」
「今から? 無理(むり)だよ。だって、もう店は閉まってるし」
「どうしても食べたいの。私の言うこと何でもきくって言ったじゃない」
「そりゃ言ったけど…」
「買ってきてくれたら、私、手術(しゅじゅつ)してもいいんだけどなぁ」
「分かったよ。じゃあ、俺(おれ)が作ってやる。たしかケーキの本あったし…」
くるみは武志(たけし)が本を探し始めると、悪戯(いたずら)っぽい目をして、胸(むね)を押(お)さえて苦(くる)しみだした。それを見た武志は駆(か)け寄ってきて、「くるみ! しっかりしろ。いま、救急車(きゅうきゅうしゃ)よんで…」
くるみは電話をしに行こうとする武志の腕(うで)をつかんで、「その前に、ケーキ買ってきて」
「くるみ…」武志はくるみの肩(かた)をつかんで、「ばか! 心配(しんぱい)させるなよ」
くるみは武志の真剣(しんけん)な顔(かお)に驚(おどろ)いた。でも素直(すなお)に謝(あやま)れなくて、つい憎(にく)まれ口をたたいて、
「そんな顔しないでよ。どうせ、すぐ死ぬんだから」
「そんなこと言うなよ。先生だって、手術をすれば助(たす)かる可能性(かのうせい)だって…」
「ほんの少しだけね。今まで生きてこれたのは奇跡(きせき)なの。奇跡なんて、そう続(つづ)かないわ」
「くるみ、あきらめるなよ」
「もう、いい。私のことなんか、ほっといてよ」くるみはそう言うと、自分の部屋に駆け込んだ。武志はやるせない思いを押し殺(ころ)して、「今、ケーキ作ってやるから、待ってろよ」
<つぶやき>どうしようもない苦しみと悲しみを、どう乗り越えたらいいのでしょうか。
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T:0054「妖怪樹」
森(もり)に囲(かこ)まれた小さな庵(いおり)。ここには風変(ふうが)わりな占(うらな)い師(し)が住んでいた。仕事(しごと)に行き詰(づ)まった男が、この場所(ばしょ)に引きつけられるようにやって来た。
「ほんとうに、こんなことで仕事がうまくいくんですか?」
「これはヤルキの種(たね)です。これを身体(からだ)に付(つ)ければ勢力(せいりょく)がみなぎり、仕事で成功(せいこう)すること間違(まちが)いなし。ただし、使用期間(しようきかん)は半年間です。半年後には、必(かなら)ずはずしに来て下さい」
占い師は男の腕(うで)に種を押(お)しつけた。すると、種はホクロのように腕に張(は)り付き取れなくなった。男はこの日を境(さかい)に、精力的(せいりょくてき)に仕事をこなすようになった。成果(せいか)はみるみる上がり、平社員(ひらしゃいん)から部長へと異例(いれい)の昇進(しょうしん)をとげてしまった。
半年たったある日、男のもとに一通(いっつう)のはがきが舞(ま)い込んだ。それはあの占い師からの警告(けいこく)の手紙(てがみ)で、種をはずしに来るようにと書かれていた。男は気にもとめずに、ゴミ箱に投(な)げ捨(す)てた。男は金(かね)も地位(ちい)も手に入れて、有頂天(うちょうてん)になっていたのだ。
数日後、男は身体に異変(いへん)を感じた。頭(あたま)の上に小さなこぶが突(つ)き出て、それが日に日に大きくなっているようなのだ。男は慌(あわ)てて、あの占い師の庵を訪(おとず)れた。
「警告したはずですよ」占い師はそう言うと、「まあ、多少不便(たしょうふべん)なことはあるかもしれませんが、寿命(じゅみょう)も数百年は延(の)びましたし、この森にはお仲間(なかま)も大勢(おおぜい)いますから安心して下さい」
男は頭がむずがゆくなってきたので手をやると、そこには小さな芽(め)が出始めていた。
<つぶやき>あまり欲張(よくば)りすぎるのはやめましょう。ほどほどが、ちょうどいいかも…。
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T:0055「後ろ姿に恋した男」
小間物屋(こまものや)の若旦那(わかだんな)が寝込(ねこ)んでしまった。医者(いしゃ)を呼んで診(み)てもらっても、どこも悪いところはないと言われるばかり。――そこで若旦那によくよく話を聞いてみると、恋(こい)わずらいだと判明(はんめい)した。神社(じんじゃ)の祭礼(さいれい)で見かけた娘(むすめ)のことが忘(わす)れられず、苦(くる)しくて食事も喉(のど)を通らない始末(しまつ)。そこで、八方(はっぽう)手を尽(つ)くしてその娘を捜(さが)そうとしたのだが、顔(かお)が分からない。若旦那は後ろ姿(すがた)しか見ていなかったのだ。考えあぐねた主人(しゅじん)は、町内の火消(ひけ)しの棟梁(とうりよう)に相談(そうだん)した。
棟梁は、それならばと、町内の娘を集めて、後ろ姿のお見合いをさせることになった。それを聞きつけた町内の娘たちは、我(われ)も我もと集まってきて、店の中はてんてこ舞(ま)いになってしまった。でも、あらかた見合いが終わっても、目当(めあ)ての娘は見つからなかった。
そこへ小間使(こまづか)いの娘がお茶(ちゃ)を持って入って来た。若旦那はその娘の後ろ姿を見たとたん、
「あーっ、これだ!」
その声に驚(おどろ)いたのは小間使いの娘。奉公(ほうこう)にあがったばかりだったので、何かそそうをしたのかと小さくなってしまった。主人は娘を呼び寄せて、
「おさと、お前、神社の祭礼に行ったのかい?」
「はい、お嬢(じょう)さんのお供(とも)で…。すいません、あたし、お嬢さんのお着物(きもの)を着て…」
「いいんだよ。おさと、これから毎朝、後ろ姿をこいつに見せてやってくれないか」
<つぶやき>この若旦那は、うぶなんです。でも、こんなこと言われても困りますよね。
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T:0056「逃亡者」
耕助(こうすけ)は夜中の二時に玄関(げんかん)のチャイムの音で目を覚(さ)ました。「誰(だれ)だよ、こんな時間に…」
「俺(おれ)だよ、一平(いっぺい)」外から声がして、「開けてくれよ」一平とは大学からの親友(しんゆう)だった。
耕助が扉(とびら)を開けると、「頼(たの)む。かくまってくれ」一平は急いで扉を閉めて鍵(かぎ)をかけた。
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
「それが…、ばれたんだ。あいつに見つかっちゃて…」
「えっ? 何の話しだよ」
「愛子(あいこ)だよ。愛子にへそくりが見つかって、それで逃(に)げてきたんだ」
「おい、マジかよ。何でそんなバカなことしたんだよ」
「俺だって、遊(あそ)ぶ金くらい…。それに、買いたい物もあったんだ」
「それ、まずいよ。悪いが、出てってくれないか」
「おい、親友を見捨(みす)てるのか? 頼むよ、お前のとこしか…」
「だからだよ。愛子さん、絶対(ぜったい)ここに来るから。俺まで、巻(ま)き込むなよ」
その時、電話が鳴(な)り出した。二人は背筋(せすじ)に冷(つめ)たいものが走り、ぶるっと震(ふる)えた。
「きっと、愛子だ。いないって言ってくれ。俺は、来てないって…」
「そんなこと言って、後でばれたら…」
今度は、玄関のチャイムが何度も押されて、扉がドンドンと叩(たた)かれた。そして、
「こんばんは。遅(おそ)くにすいません。うちの人、来てませんか?」
<つぶやき>隠(かく)しごと、してませんか? もしかすると、もうばれてるかもしれませんよ。
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T:0057「山の神様」
私は三年ぶりに娘(むすめ)を連れて実家(じっか)へ帰郷(ききょう)した。――私の故郷(ふるさと)は山の中にある小さな村(むら)で、今でも昔ながらの生活(せいかつ)が残っていた。私はまだ幼(おさな)い娘に、この自然(しぜん)の中での生活を味(あじ)あわせてあげたかったのだ。私の子供(こども)の頃(ころ)のように…。
「ねえ、大きな木の下に、変な子がいたよ」娘は畑(はたけ)から帰ってくると、私に報告(ほうこく)した。
「山の神様(かみさま)が挨拶(あいさつ)に来たんだね」八十路(やそじ)を越(こ)えた祖母(そぼ)が、笑いながら娘の頭(あたま)をなでた。
山の神様。そういえば、私も子供の頃に…。近所(きんじょ)の子たちと遊(あそ)んでいると、知らない子がいて…。それに気がつくと、いつの間にか消(き)えてしまう。そんなことが何度かあったような…。そんな、子供の頃の不思議(ふしぎ)な思い出が残っていた。
「明日もね、また、行ってもいい?」娘は嬉(うれ)しそうに、「遊ぼって、約束(やくそく)したの」
「そう。じゃあ、ママと一緒(いっしょ)に行こうか」
「うん。一緒に行こうね」娘はそう言うと、家の中に駆(か)け込んでいった。
「昔は、子供も大勢(おおぜい)いて賑(にぎ)やかだったけど…」祖母は農具(のうぐ)を洗(あら)いながら、「神様も遊び相手(あいて)がいないから、淋(さび)しいんだろうね」とぽつりとつぶやいた。
たしかに、この村も過疎化(かそか)で人が減(へ)っていた。ふっと、私の中に淋しさがこみ上げてきた。よし、明日は娘と一緒に、山の神様と思う存分(ぞんぶん)遊んであげよう。私はそう決めた。でも、私に姿(すがた)を見せてくれるかな。子供の頃のように――。
<つぶやき>子供の頃の純真(じゅんしん)な心を思い出してみましょう。世界が変わるかもしれません。
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T:0058「新生日本誕生」
涼子(りょうこ)は若(わか)くして新人賞(しんじんしょう)を受賞(じゅしょう)した女流作家(じょりゅうさっか)――。ここ一ヵ月間、部屋にこもって仕事(しごと)をしていた。何とかきつい締切(しめきり)をこなした彼女は、気分転換(きぶんてんかん)もかねて買い物に出かけた。
近くのコンビニに入った涼子は、違和感(いわかん)を感じた。店員(てんいん)や客の話している言葉(ことば)が理解(りかい)できないのだ。まるで、外国(がいこく)に突然(とつぜん)迷(まよ)い込んでしまったような…。涼子はパンやスナックなどをカゴに入れレジまで持って行った。レジに表示(ひょうじ)された金額を見て、涼子はお金を店員に差し出した。すると店員は大声をあげて、非常(ひじょう)ベルを鳴(な)らした。突然のことに驚(おどろ)いた涼子はおろおろするばかり。すぐに警官(けいかん)がやって来て、涼子は警察署(けいさつしょ)に連行(れんこう)された。
――取調室(とりしらべしつ)で刑事(けいじ)の訊問(じんもん)が始まった。「この金はどうした!」
刑事は涼子の財布(さいふ)らかお金を出して、「円(えん)を使ったら罪(つみ)になることぐらい知ってるだろ。円をどこで手に入れたんだ!」
涼子には、刑事がしゃべっている言葉が理解(りかい)できなかった。
「私が、何をしたっていうの? 私は、お金を払おうと…」
刑事たちは涼子の言葉を聞き顔(かお)を見合わせた。そして、何かひそひそと相談(そうだん)を始めた。
「あんた」年長(ねんちょう)の刑事が日本語(にほんご)で話し始めた。「知らないのか? 日本が変わったのを…」
「変わったって…。どういうこと?」
「新しい政府(せいふ)が誕生(たんじょう)したんだ。それで、日本語の使用(しよう)を禁止(きんし)して、円も廃止(はいし)されたんだ」
<つぶやき>一ヵ月も閉じこもっていたので、浦島太郎(うらしまたろう)状態(じょうたい)になってしまったんですね。
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T:0059「時空倶楽部」
紗英(さえ)は大学の求人情報(きゅうじんじょうほう)の掲示板(けいじばん)を見ていて、<時空倶楽部(じくうくらぶ)>という会社名の求人に目がとまった。詳細(しょうさい)を見てみると、歴史(れきし)の資料(しりょう)を整理(せいり)する仕事(しごと)と書いてあった。
歴史好きの紗英は<時空倶楽部>から送られてきた地図(ちず)を見ながら、とあるビルの前までやって来た。そのビルは薄汚(うすよご)れていて、時代(じだい)を感じさせる建物(たてもの)だった。
「8Xって、八階ってことなのかな」紗英はエレベーターを待ちながらつぶやいた。
エレベーターに乗ると、八階のボタンの横に<8X>のボタンがあった。紗英は、「何でこんなボタンが…」と思いつつも、そのボタンを押(お)してみた。
エレベーターが開くと、目の前に<時空倶楽部>のプレートがついた扉(とびら)があった。扉を叩(たた)いて中に入ってみると、受付(うけつけ)の女性が待っていて、
「山本(やまもと)紗英さんですね。お待ちしておりました。早速(さっそく)ですが、お仕事をお願いします」
「あの、私は面接(めんせつ)に来ただけで、まだ…」
「あなたは採用(さいよう)されました。あなたの仕事は、時空(じくう)を飛(と)び越(こ)えて歴史を壊(こわ)そうとする悪人(あくにん)から、この世界を守ることです。必要(ひつよう)なアイテムはこのポーチの中に入っています」
「ちょっと待って下さい。それは、どういうことですか?」
「たった今、歴史上の重要(じゅうよう)な人物(じんぶつ)が暗殺(あんさつ)されました。あなたは時間をさかのぼって、暗殺を阻止(そし)して下さい。詳細はこのカプセルに入っています。さあ、呑(の)み込んで」
<つぶやき>こんな命がけの仕事は考え物ですね。でも、やり甲斐(がい)はあるかもしれません。
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T:0060「マイホーム」
山田(やまだ)さんは念願(ねんがん)の一戸建(いっこだ)てを購入(こうにゅう)した。とても便利(べんり)な場所なのに、信じられないくらい安かったのだ。家族(かぞく)は欠陥住宅(けっかんじゅうたく)じゃないのかと心配(しんぱい)したが、物件(ぶっけん)を見てみると、少し古いがとてもしっかりした造(つく)りになっていた。
引っ越しの後片付(あとかたづ)けもすんで、家族が寝静(ねしず)まった深夜(しんや)のこと。二階に寝ていた山田さん夫婦(ふうふ)は、ガサガサという物音(ものおと)で目が覚(さ)めた。その音は階下(かいか)から聞こえてきていた。階段(かいだん)のところまで来てみると、娘(むすめ)が下を覗(のぞ)き込んでいた。
「ねえ、パパ」娘はひそひそと、「下の電気(でんき)、ついてるみたい。泥棒(どろぼう)かな?」
山田さんを先頭(せんとう)に、みんなで下へ降(お)りてみた。すると、台所(だいどころ)の明かりがついていて、流しに洗(あら)い残(のこ)してあった食器(しょっき)が奇麗(きれい)に片付いていた。リビングに行ってみると、掃除機(そうじき)がさっきまで使われていたかのように、コンセントにコードが差(さ)し込まれたままになっていた。
「誰(だれ)が出したの? 片付けておいたのに」奥(おく)さんが不思議(ふしぎ)そうにつぶやいた。
一通(ひととお)り家の中を見てみたが、盗(と)られたものもなく、誰かが侵入(しんにゅう)した形跡(けいせき)もなかった。一安心(ひとあんしん)した三人は、リビングに集まった。すると、突然(とつぜん)電気が消えて真(ま)っ暗(くら)になり、娘が悲鳴(ひめい)をあげた。「なにか足にさわった」娘はそう言って母親に抱(だ)きついた。明かりか戻(もど)ると、三人は目を疑(うたが)った。テーブルが奇麗(きれい)に飾(かざ)られて、メッセージがおかれていたのだ。
<ようこそ。大歓迎(だいかんげい)です。これから仲良(なかよ)く暮(く)らしましょうね>
<つぶやき>謎(なぞ)の同居人(どうきょにん)、それともこの家の精霊(せいれい)なのかな。こんな物件はいかがですか?
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T:0061「選ばない女」
僕(ぼく)の彼女は容姿端麗(ようしたんれい)で、申(もう)し分(ぶん)のない女性だった。ただ、ひとつだけ欠点(けってん)をあげると…。
「どれにしよう。迷(まよ)っちゃうわ。ねえ、どれが良いと思う」
「何でもいいじゃない。早く、頼(たの)もうよ」
「ねえ、あなたはどれにしたの?」「僕は、やっぱりこれかな」
「ええ、それなの。でも、それって美味(おい)しいのかな」
「前に食べたことあるけど、美味しかったよ」
「そうなんだ。私…、どうしようかな。ねえ、あなたが決めてよ」
「ええ…、そうだな。これがいいんじゃないかな。ヘルシーそうだし」
「そお? でも私は、どっちかって言うと、こっちかな」
「じゃあ、そっちにすればいいじゃない。注文(ちゅうもん)しようよ」
「ちょっと待ってよ。もう少し考(かんが)えさせて」
「そんなに考え込まなくても…。先に頼んじゃうよ」
「分かったわよ。じゃあ、あなたが決めた、ヘルシーそうなのでいいわ」
今日も楽しく食事(しょくじ)をしてたはずなのに、店を出たところで彼女はぽつりとつぶやいた。
「他のにすればよかった。あんまり美味しくなかったわ。あなたが選(えら)んだのよ。次は絶対(ぜったい)に、美味しいお店に連(つ)れてってよね」
彼女の好(この)みが今ひとつ把握(はあく)できなくて…。僕はどうすればいいのでしょうか?
<つぶやき>私にそんなこと言われても…。彼女に決めさせるのが一番だと思いますけど。
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T:0062「若返りクリーム」
「また新しい化粧品(けしょうひん)買ったのか?」夫(おっと)は鏡(かがみ)の前でお肌(はだ)の手入(てい)れをしている妻(つま)に言った。
「商店街(しょうてんがい)にね、小さな化粧品のお店が開店(かいてん)したの。安かったのよ」
「いくら安いからって、こんなに買わなくても…」
「だって、まとめて買った方がお得(とく)だったのよ」
深夜(しんや)、妻の叫(さけ)び声で夫は目を覚(さ)ました。妻はおびえた顔で、
「義父(おとう)さん! いつ来たんですか? ここは、私たちの寝室(しんしつ)ですよ」
「なに言ってるんだよ。俺(おれ)だよ」夫は妻を見て驚(おどろ)いた。若(わか)い頃(ころ)の妻がそこにいたのだ。
「出てって下さい!」妻は夫を寝室から追(お)い出してしまった。夫は扉(とびら)を叩(たた)きながら、
「おい。いくら親父(おやじ)に似(に)てきたからって、なに考えてんだよ」
何を言っても、妻は開(あ)けようとはしなかった。あきらめた夫は、ふと、妻が使っていたクリームの瓶(びん)に目をとめた。そこには、<これを塗(ぬ)るとあなたも若返(わかがえ)る>と書いてあった。
「まさか…」夫はさっきの妻の顔を思い出して、「これで若返ったのか?」
夫はクリームを顔に塗ってみたが、なんの変化(へんか)もなかった。「くそっ。もっと塗ってやれ」
夫はメタボなお腹(なか)と薄(うす)くなってきた頭(あたま)にも塗りたくり、すべての瓶を空(から)にしてしまった。
朝になって、妻はそっと寝室から出てきた。床には夫のパジャマが脱(ぬ)ぎ捨(す)てられていて、その中で赤ちゃんがすやすやと寝息(ねいき)をたてていた。
<つぶやき>使用上の注意はよく読んで、ちゃんと正しく使いましょうね。さもないと…。
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T:0063「早とちり」
みそらはサークルの先輩(せんぱい)の佐々木(ささき)君が好きだった。彼女の片思(かたおも)いなのだが――。今夜はそのサークル仲間(なかま)が忘年会(ぼうねんかい)ということで居酒屋(いざかや)に集まり、いつものように大騒(おおさわ)ぎになっていた。でも、みそらは佐々木君がまだ来ていないので、少ししょげて一人で飲んでいた。
みそらはいつの間に眠(ねむ)ってしまったのか、気がついたときには誰(だれ)もいなくなっていた。
「あれ、どうして…」みそらがきょろきょろしていると、佐々木君がやって来てみそらの前に座(すわ)り、「みそらちゃん、僕(ぼく)は君のことが…」佐々木君の熱(あつ)い眼差(まなざ)し…。みそらは直感(ちょっかん)で、告白(こくはく)されると感じた。そして、彼の顔が近づいてきて――。
「ちょっと。しっかりしなさいよ」声をかけたのは、みそらの親友(しんゆう)の沙織(さおり)だった。
「あれ、みんな帰ったんじゃ…」みそらは夢(ゆめ)だと気づき、恥(は)ずかしくなって顔を赤らめた。
「ウソ。もしかして、酔(よ)っぱらってるの」沙織はみそらの顔を覗(のぞ)き込み、「信じられない」
そこへサークル仲間が駆(か)け込んできて、「おい、佐々木が事故(じこ)にあったって…」
忘年会はすぐにお開きになり、みんなで病院に駆けつけた。みそらは、いても立ってもいられなかった。病院に入ってみると、佐々木君は待合室(まちあいしつ)に座っていた。
「佐々木先輩!」まっ先に駆け寄ったのはみそらだった。腕(うで)に包帯(ほうたい)を巻いた佐々木君は驚(おどろ)いた顔をして、「みんな、どうしたんだ。忘年会、終わったのか?」
佐々木君は自転車(じてんしゃ)とぶつかっただけだった。みそらは引っ込みがつかなくなっていた。
<つぶやき>誰かさんの早とちりでこんなことに…。でもね、これで距離(きょり)が縮(ちぢ)まるかもよ。
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T:0064「祖父の財宝」
探偵(たんてい)は知人(ちじん)の紹介(しょうかい)で依頼(いらい)を受け、とある豪邸(ごうてい)を訪(おとず)れた。
「探してもらいたいのは祖父(そふ)が残した財宝(ざいほう)です」依頼人は一枚の絵(え)を見せ、「この絵の下に別の絵がありました。それが、どうも地図(ちず)のようなのです」
「しかし、どうしてそれが財宝の地図だと…」
「これは祖父が描(か)いた絵です。祖父は生前(せいぜん)、命(いのち)よりも大切(たいせつ)な宝(たから)があると言っていました」
X線で撮影(さつえい)された絵を見ると、三角の記号(きごう)や線が描(えが)かれていて、地図のようにも見えた。
「この三つ並(なら)んだ三角は山ですかね。それでこの線は川か道。それでこの記号は…」
探偵は考え込んでしまった。場所(ばしょ)が特定(とくてい)できるような文字(もじ)が書かれていないのだ。本当にこれが宝の地図なのか、それすら判断(はんだん)できなかった。探偵は窓(まど)の外(そと)に目をやった。そこには立派(りっぱ)な日本庭園(ていえん)が造(つく)られていた。大きな岩(いわ)が三つ並んでいて、砂利(じゃり)が敷(し)かれ――。
「これだ!」探偵はそう叫(さけ)ぶと、庭(にわ)と絵を見比(みくら)べた。三つの三角と三つの岩。そして…。
「あれはなんですか?」探偵は庭園の一角(いっかく)を指(ゆび)さした。
「空井戸(からいど)です。祖父が掘(ほ)らせたんですが、結局(けっきょく)、水は出なかったと聞いていますが…」
探偵は井戸の上にのせてある岩の蓋(ふた)をどけさせた。中を覗(のぞ)くと掘られた跡(あと)はなく、頑丈(がんじょう)な箱(はこ)が入れられていた。箱を開けてみると、子供が描(か)いた絵が納(おさ)められていた。
「これは…」依頼人はその絵を見て、「私が、小学生の時に描いた絵です!」
<つぶやき>どんなものにもかえられないもの。それが、その人にとってのお宝なんです。
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T:0065「大掃除」
年末(ねんまつ)の休日。私は部屋の大掃除(おおそうじ)にとりかかった。ずぼらな私にとっては、一大決心(いちだいけっしん)だった。今年は仕事(しごと)もうまくいかず、付き合っていた彼にはふられて…。さんざんな年だったから、来年こそはと気分(きぶん)を新(あら)たにしたかったのだ。
押(お)し入れに入っているものを全部引っぱり出しみて驚(おどろ)いた。こんなにいろんなものが詰(つ)め込んであったんだ。もう忘(わす)れてしまった思い出もびっくり箱のように飛び出してきた。
ほこりをかぶったせんべいの箱。そこには子供の頃(ころ)のへたな字で、<だいじなもの>と書かれていた。蓋(ふた)を開けてみると、懐(なつ)かしいものがいっぱい入っていた。ひとつずつ手にとって…。あの頃の楽しかった思い出や、いろんなことが泉(いずみ)のようにわいてきた。
きらきら輝(かがや)くスーパーボール。ここに入ってたんだ。これをくれた男の子。名前…、なんだったかな…。同級生(どうきゅうせい)の子だったけど、あんまり遊(あそ)んだ記憶(きおく)がない。でも、これをもらったときのことは憶(おぼ)えている。<これを持ってると、良いことがあるんだぞ>そう言って、突然(とつぜん)渡されて…。あっ、たしかその子、転校(てんこう)したんだ。今、どうしてるのかな?
私はスーパーボールを陽(ひ)にかざしてみた。ちょっと汚(よご)れてしまっているけど、今でもきらきら輝いている。私は、なんだか嬉(うれ)しくなった。これを持ってると、きっと良いことがありそうな、そんな気がした。私って、ほんと単純(たんじゅん)なんだから…。
<つぶやき>大掃除は大発見のチャンス。でも、早くやっつけないと年を越しちゃうよ。
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T:0066「パワースーツ」
とある研究所(けんきゅうじょ)。ここで世(よ)にも恐(おそ)ろしい実験(じっけん)が行われようとしていた。
「立花(たちばな)君。とうとう完成(かんせい)したぞ」等々力(とどろき)博士は助手(じょしゅ)にスーツを手渡(てわた)した。
「先生…」助手は尻込(しりご)みしながら、「これは、まさか…」
「わしが開発(かいはつ)したパワースーツだ。これを着ると超能力(ちょうのうりょく)が使えるようになるんだ」
博士が手渡したのは、どう見ても普通(ふつう)の背広(せびろ)にしか見えなかった。
「いいから、着たまえ。これからテストを始めるぞ」
「先生、僕が実験台(じっけんだい)になるんですか?」
「当たり前じゃないか。君は私の片腕(かたうで)なんだぞ」
「でも…。電気(でんき)がビリビリっとか、気分(きぶん)が悪くなったりとか、そんなことに…」
「立花君、何を言ってるんだね。そのための実験じゃないか。安全性(あんぜんせい)を確認(かくにん)するんだ」
「そうなんですけど…。この前のときだって、もう少しで命(いのち)を落とすところ――」
「君は大げさだな。ちょっとした配線(はいせん)のミスじゃないか。たいしたことじゃない」
助手は気が進(すす)まなかったが、仕方(しかた)なく背広を着ることにした。博士(はかせ)はリモコンのスイッチを入れて、「どうだね? 何か、こう、変化(へんか)は感じられないか?」
突然(とつぜん)、洋服掛(ようふくか)けに掛けてあったパワースーツが火花(ひばな)を散(ち)らして燃(も)えあがった。それを見た博士は驚いた様子もまったくなく、一人でうなずくと呟(つぶや)いた。
「なるほど…。これはちょっとした配線のミスだ。立花君、次は完璧(かんぺき)なものにするぞ」
<つぶやき>実験は、成功しそうにありませんよね。立花君には、転職(てんしょく)を勧(すす)めたいです。
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T:0067「デザインする女たち」
居酒屋(いざかや)で職場(しょくば)の同僚(どうりょう)たちが、飲みながら日頃(ひごろ)のうさを晴(は)らしていた。
「鈴木(すずき)は最近(さいきん)、小洒落(こじゃれ)てきたよなぁ。そんな格好(かっこう)しなかったのに」
「そうだそうだ。それも、みんなあの奇麗(きれい)な奥(おく)さんが選(えら)んだのか?」
「まあ、そうですけど」鈴木は照(て)れながら、「えっ、そんなに似合(にあ)ってますかね?」
「なわけねえだろぉ」「似合ってねえよ」「そうだそうだ」
同僚たちはいっせいにケチを付けたが、内心(ないしん)では羨(うらや)ましいと思っていたに違(ちが)いない。なにしろ、美人(びじん)でよく気がついて、それに優(やさ)しいときていてはケチの付けようがない。
「俺(おれ)なんか、小遣(こづか)い減(へ)らされてさ。昼飯(ひるめし)を選ぶにも、大変(たいへん)なんだよ」
「鈴木はいいよな。いつも、愛妻弁当(あいさいべんとう)で」
「でもな、それも今のうちだけだぞ。一年もしてみろ、弁当のおかずはゆうべの残り物になって…。そんでもって、いずれは俺みたいに、手抜(てぬ)きの…」
「いや、うちのやつはそんなことは…」
「甘(あま)いぞ、鈴木! いずれはな、飼(か)い慣(な)らされていく運命(うんめい)なんだよ。俺たちは」
「そうだぞ。その第一歩が、服(ふく)なんだ。そんで、妻(つま)の好(この)みにデザインされていくんだ」
飲み会は深夜(しんや)まで続くはずもなく、終わりを告(つ)げた。短い時間でも、家族のために戦っている男たちにとって、これはささやかな楽しみなのだ。奪(うば)わないで欲(ほ)しいと叫(さけ)びたい。
<つぶやき>お父さんは、家族のために大変なんです。優しい言葉をかけてあげましょう。
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T:0068「我が道を行け」
「ねえ、早苗(さなえ)は進路(しんろ)決めたの?」
「進路か~ぁ。何かね、ぴんとこないんだよねぇ」
「なに言ってるの。来年は三年だよ」
「綾(あや)は決めたの?」
「私は大学行って、考古学(こうこがく)を勉強(べんきょう)するんだ。将来(しょうらい)は、すっごいお宝(たから)を掘(ほ)り当てるわよ」
「なんか、綾らしいよね。私なんか、やりたいことなんて…」
「早苗は女優(じょゆう)になるんでしょ。演劇(えんげき)、がんばってるじゃない」
「そんなの、無理(むり)だよ。私には、才能(さいのう)なんてないんだから…」
「最初(さいしょ)からあきらめてどうするのよ。やってみなきゃ分かんないじゃない」
「分かるわよ。私なんて美人(びじん)でもないし、勉強だって苦手(にがて)だし…」
「そんなこと言ってたら何も出来ないわよ。私だって、先のことなんか分かんないけど…。後悔(こうかい)だけはしたくないの。だから、今やれることをやるだけよ」
「綾は、そういうところはしっかりしてるよね。羨(うらや)ましいわ」
「そういうところは、って何よ。まあ、いいわ。ゆっくり考えればいいんじゃない。ほんと、早苗はマイペースなんだから…。でも、そういうところ、私は嫌(きら)いじゃないよ」
「なんか、全然(ぜんぜん)ほめてないよね。もう、意地悪(いじわる)なんだから」
<つぶやき>先のことなんか誰にも分かんないよね。でも、可能性(かのうせい)は無限(むげん)にあるんじゃ…。
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T:0069「夢の約束」
綾乃(あやの)は変な夢(ゆめ)をみて目が覚(さ)めた。見知(みし)らぬ男性とキスをする夢。キスと言っても事故(じこ)のようなもので、男性とぶつかって倒(たお)れた拍子(ひょうし)に唇(くちびる)が触(ふ)れただけのこと。でも、その時のどきどき感が目が覚めても残っていた。綾乃はたまに予知夢(よちむ)をみることがあったので、その日は落ち着かない一日になってしまった。人とぶつからないように細心(さいしん)の注意(ちゅうい)を払(はら)い、職場(しょくば)から真っ直(す)ぐに家に帰った。家に着いたときには、ほとほと疲(つか)れ果(は)ててしまった。
次の朝、綾乃はまた夢をみて目が覚めた。昨日と同じ男性が出てきて、なぜかとても仲良(なかよ)くなっていた。どこかの喫茶店(きっさてん)でお茶(ちゃ)をしながら、次のデートの約束(やくそく)をしていたのだ。綾乃はこれは夢なんだと、何度も自分に言いきかせた。
――今日も何ごともなく過ぎていった。人とぶつかることもなかったし、「きっと、あれはただの夢だったのよ」と、ほっと胸(むね)をなで下ろした。
職場からの帰り道。駅(えき)に着いたとき、ふっと夢でした約束のことを思い出した。
<駅の壁画前(へきがまえ)。午後六時>。綾乃は足を止めた。駅の壁画前に立っていたのだ。駅にある大時計(おおどけい)を見ると、ちょうど午後六時。「まさか…」綾乃は心の中でつぶやいて、辺りを見まわしてみた。でも、夢に出てきた男性は見当たらなかった。ほっとして歩き出したとき、後ろから肩(かた)を叩(たた)かれた。綾乃が驚(おどろ)いて振(ふ)り返ると、そこにはあの男性が…。
<つぶやき>夢と現実(げんじつ)の境界(きょうかい)が曖昧(あいまい)になったとき、不思議(ふしぎ)なことが起こるかもしれません。
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T:0070「失家族」
西暦(せいれき)三千八年。千年近く前の火山噴火(かざんふんか)で埋(う)もれてしまった町が発見(はっけん)された。何年もかけて発掘調査(はっくつちょうさ)が行われ、数々(かずかず)の遺物(いぶつ)が掘(ほ)り出された。そして、今も発掘作業(さぎょう)は続いている。
「教授(きょうじゅ)、これを見て下さい」研究員(けんきゅういん)が小さな箱(はこ)を持って駆(か)け込んできた。
「これは」教授は驚(おどろ)きの声をあげた。「よく無傷(むきず)で残(のこ)っていたな。これは奇跡(きせき)だ」
発掘された箱は頑丈(がんじょう)な金庫(きんこ)に納(おさ)められていたので、当時(とうじ)の姿(すがた)をそのままとどめていた。
「驚かないで下さい。この中にとんでもないものが入っていたんです」
研究員がそっと箱を開けると、中から数枚の写真(しゃしん)が出てきた。
「おお、千年前の人の姿が写(うつ)っているなんて…。これは、すばらしい発見だよ!」
「でも、教授。この人たちはどういう関係(かんけい)なんでしょう。男と女、それに子供(こども)が三人」
「うーん。これはおそらく、昔(むかし)の文献(ぶんけん)に書かれていた、家族(かぞく)という単位(たんい)じゃないのかな」
「家族? それは、どういう基準(きじゅん)で構成(こうせい)されているんでしょうか?」
「この頃(ころ)は、男と女は夫婦(ふうふ)という不安定(ふあんてい)な結(むす)びつきで暮(く)らしていたんだ。我々(われわれ)の時代(じだい)では無くなってしまった習慣(しゅうかん)だよ。おそらく、この男女から生まれたのがこの子供たちだろう」
「なるほど、今では考えられない暮らしをしていたんですね。だって、我々には親(おや)と呼(よ)ぶような人はいないし、まして子供を普通(ふつう)の人が育(そだ)てるなんて。あり得(え)ませんよ」
「でもね、私はいつも自問(じもん)するんだ。機械(きかい)で人口(じんこう)がコントロールされている我々よりも、この時代の人間の方が、エキサイティングな暮らしをしていたんじゃないかとね」
<つぶやき>核家族(かくかぞく)なんて言うけど、いつまでも家族というのは無くしたくないですね。
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T:0071「瓢箪から駒?」
「遅(おそ)かったじゃない。何やってたのよ」芳恵(よしえ)は玄関(げんかん)を見回(みまわ)している健太郎(けんたろう)にささやいた。
「お前の家、すごいなぁ。お嬢様(じょうさま)だとは聞いてたけど、こんな豪邸(ごうてい)に住んでたのかよ」
「そんなこといいから、早くあがって」
「いや。俺(おれ)は、これを返(かえ)しに来ただけだから。でも、何でネクタイ着用(ちゃくよう)なんだよ。仕事(しごと)じゃないんだから、こんな格好(かっこう)――」
「あのね、これから何があっても、私にあわせて。余計(よけい)なことはしゃべらないでよ」
芳恵は健太郎に質問(しつもん)させる時間(じかん)を与(あた)えなかった。有無(うむ)を言わせず、健太郎を家の中に引っぱっりあげた。奥(おく)の部屋(へや)に通されると、そこには芳恵の父親がいかめしい顔で座(すわ)っていた。
「お父様。こちらが、岡部(おかべ)健太郎さんです」
健太郎はいつもと違(ちが)う芳恵の振(ふ)る舞(まい)いに驚(おどろ)いた。ただ唖然(あぜん)とするばかり。
「こいつか」父親は健太郎の顔を睨(にら)みつけた。「こんな男のどこがいいんだ」
「お父様。健太郎さんは、とてもいい人です。私と結婚(けっこん)の約束(やくそく)をしてくれました」
健太郎は目をみはって、芳恵の顔を見た。芳恵は目で合図(あいず)を送(おく)る。
「許(ゆる)さん。お前は、わしが決(き)めた相手(あいて)と結婚するんだ。今度(こんど)の見合(みあ)いはな、大切(たいせつ)な…」
「お父さん」突然(とつぜん)、健太郎が口を開(ひら)いた。「僕(ぼく)はまだまだ半人前(はんにんまえ)ですが、芳恵さんのことを誰(だれ)よりも愛しています。必(かなら)ず幸せにしてみせます。結婚を許して下さい!」
<つぶやき>突然のこととはいえ、この先どうなるのでしょう。本当に結婚するのかな?
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T:0072「幸せの基準」
加代子(かよこ)は行き詰(づ)まっていた。人生(じんせい)の選択(せんたく)にことごとく失敗(しっぱい)して、生きる気力(きりょく)さえなくしていた。人づてによく当(あ)たる占(うらな)い師(し)のことを知って、彼女は訪(たず)ねてみた。
その占い師は八十路(やそじ)を越(こ)えた老人(ろうじん)だった。温和(おんわ)な顔立(かおだ)ちの老人は、嫌(いや)な顔をするでもなく彼女を招(まね)き入れて、「私は、占い師じゃないんですよ。ただ、話をするだけです」
「そんな…」加代子は落胆(らくたん)の顔をして、「よく当たるって聞いてきたんですよ」
「こんな年寄(としよ)りですが、よろしければ、お話しをうかがいますが」老人は優(やさ)しく微笑(ほほえ)んだ。
この老人からは不思議(ふしぎ)なオーラが出ていた。加代子は身(み)も心も軽(かる)くなるような、何か暖(あたた)かなものに包(つつ)まれているような気がして、心に溜(た)まっていたものを吐(は)き出した。
老人は彼女の話を聞き終わると、「大変(たいへん)でしたね。よく、がんばりました。でも、あなたの選択は本当(ほんとう)に間違(まちが)っていたんでしょうか。あなたはまだお若(わか)い。そんなことを考えるのは、ずっと先でもいいんじゃないんですか。ご主人のことだってそうです。二人三脚(ににんさんきゃく)ですよ。お互(たが)いに助(たす)け合い、補(おぎな)い合って愛情(あいじょう)を育(そだ)てていくんです」
「でも、あの人は私のことなんか…。どうでもいいんです」
「あなたはどうですか? もう、愛せなくなってしまったのですか?」
「私は…。分からない。どうしたいのか分からないんです」
「今の気持(きも)ちをご主人(しゅじん)に話してみたらどうですか。何か変わるかもしれませんよ」
<つぶやき>人生は人それぞれ。失敗もありますよ。でも、人は学(まな)ぶことができるはず。
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T:0073「二人だけのサイン」
十年ぶりの高校(こうこう)の同窓会(どうそうかい)。そんなに集(あつ)まらないと思っていたのに…。僕(ぼく)はぐるりと辺(あた)りを見まわした。そのとき人だかりの中から、
「おい、田崎(たざき)!」嬉(うれ)しそうに男が駆(か)け寄(よ)ってきて、
「久(ひさ)し振(ぶ)りだなぁ。元気(げんき)だったか!」
「兼田(かねだ)か?」それは親友(しんゆう)だった男。卒業(そつぎょう)してからは会う機会(きかい)もなくなっていた。彼とはなぜか気があって、遊(あそ)び仲間(なかま)のうちで何でも話せる気の良い奴(やつ)だった。
「おまえ知ってるか?」兼田は僕の耳もとでつぶやいた。「マドンナ、結婚(けっこん)したみたいだぞ」
マドンナ。クラスの中で飛(と)び抜(ぬ)けて可愛(かわい)い娘(こ)で、僕たちは密(ひそ)かにそう呼(よ)んでいた。
「あの頃(ころ)、おまえ好きだったもんな」兼田はニヤニヤして、「結局(けっきょく)、告白(こくはく)できなくて…」
「よせよ、もう昔(むかし)の話しだろ」僕は心がざわついた。
実(じつ)は、マドンナと短い間だったけど付き合っていた。別に告白をしたわけではないのだが。ちょっとしたきっかけで話をし始めて、二人にしか分からないサインを交(か)わしたり。会うときも誰にも知られないように気を配(くば)り、わくわくする時間を共有(きょうゆう)していた。
卒業の時、僕はマドンナと約束(やくそく)をした。今度(こんど)会ったとき、お互(たが)いにまだ好きでいたら、サインを交わそうねって。それから僕らは別々(べつべつ)の道(みち)へ進み、二人の絆(きずな)は途切(とぎ)れたまま。
僕は会場(かいじょう)で、いつしかマドンナを捜(さが)していた。彼女は女子たちの輪(わ)の中にいた。彼女と目があったとき、僕はドキッとした。彼女は二人だけのサインを送(おく)っていたのだ。
<つぶやき>青春(せいしゅん)の淡(あわ)い恋(こい)。懐(なつ)かしくもあり、どこか危険(きけん)な香(かお)りもはらんでいそうです。
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T:0074「大切な場所」
「何でそうなるのよ」祐実(ゆみ)は怒(おこ)っていた。「勝手(かって)に決(き)めないでよ!」
「だって、祐実には仕事(しごと)があるだろ。ついて来いなんて言えないよ」
「そうよ。やっと今の仕事、面白(おもしろ)くなってきたのよ。これから…」
「だから、別(わか)れよう。その方がいいんだ。僕ひとりで田舎(いなか)に帰るから」
「もう、そうやっていつもひとりで決めちゃって。そういうところ、直(なお)しなさいよ」
「仕方(しかた)ないだろ。家の仕事、手伝(てつだ)わないといけなくなったんだから」
「だったら、何でついて来いって言わないのよ」
「そんなこと言ったって…。来てくれるのかよ」
「何で私が、田舎になんか…。私、虫(むし)とか大嫌(だいきら)いなんだから、行くわけないでしょ」
「もういいよ。別れた方がいいんだ」
「何で…、そんなに簡単(かんたん)にあきらめるのよ。やっぱり私のこと好きじゃなかったんだ」
「好きだよ。好きだから…。祐実には幸(しあわ)せになってほしいんだ!」
「じゃあ、ちゃんと言いなさいよ。私…、あなたと一緒(いっしょ)じゃないと幸せじゃないの。あなたのそばが、いちばん居心地(いごこち)がいいの。何があっても離(はな)れないから…」
「祐実…! 僕と…、僕について来い!」
「いいわよ。そのかわり、虫とか出たときは、すぐに助けに来てよ。約束(やくそく)だからね」
<つぶやき>何よりも大切(たいせつ)なもの。あなたにはありますか? 私は、御馳走(ごちそう)があれば…。
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T:0075「もうひとりの自分1」
さおりは初めて行った町で、古風(こふう)なアンティークの店を見つけた。何かに引きよせられるように店内(てんない)に入ってみると、きれいに装飾(そうしょく)された小さな手鏡(てかがみ)が目に止まった。
「わぁ、すてき…」さおりは思わずつぶやいた。
それを見ていた店主(てんしゅ)の老婦人(ろうふじん)は優(やさ)しく微笑(ほほえ)み、「どうぞ。手にとってよく見て」
さおりは手鏡を手に取ると、恐(おそ)る恐る値段(ねだん)を聞いてみた。年代物(ねんだいもの)の鏡のようで、高貴(こうき)な人が使っていたに違(ちが)いないと思ったからだ。さおりは今まで物欲(ぶつよく)というものを感じたことはなかった。でも、これだけはどうしても手に入れたいという衝動(しょうどう)を抑(おさ)えきれなかった。
「今月の給料日(きゅうりょうび)までは節約生活(せつやくせいかつ)ね」さおりは家に帰るとつぶやいた。でも、後悔(こうかい)はなかった。大切(たいせつ)に持って帰ってきた手鏡を箱(はこ)から出し、自分の顔を鏡に映(うつ)してみる。不思議(ふしぎ)と他の鏡よりも自分の顔がきれいに見えた。何だか嬉(うれ)しくなって笑(え)みがこぼれた。
そのとき、突然(とつぜん)、鏡から閃光(せんこう)が走った。さおりはまぶしくて目を塞(ふさ)いだ。一瞬(いっしゅん)のことで、何がどうしたのか…。目を開けてみると、目の前に女が座(すわ)っていた。さおりは飛(と)び上がった。あまりのことに言葉(ことば)も出ない。それに、その女は双子(ふたご)のように自分とそっくりなのだ。
その女は立ちあがり背伸(せの)びをすると、嬉しそうにつぶやいた。「やっぱり、外(そと)はいいわ」
「あなた、だれ?」さおりは何とか言葉を絞(しぼ)りだした。女はさおりの手を取ると、
「わたしは、あなたよ。あなたは、わたし」そう言って女は微笑んだ。
さおりは混乱(こんらん)していた。何が起(お)きているのか分からず、不安(ふあん)な気持(きも)ちで一杯(いっぱい)になった。
<つぶやき>さおりはどうなちゃうの? この話の続きは…。次の機会(きかい)に。乞(こ)うご期待(きたい)?
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T:0076「もうひとりの自分2」
さおりはあの日からずっと、もうひとりの自分に付(つ)きまとわれていた。見られているだけでも落ち着かないのに、休む間(ま)もなくしゃべりかけてくるのだ。でも、さおりはその対処法(たいしょほう)を見つけた。自分の姿(すがた)が鏡(かがみ)やガラスに映(うつ)っているとき、彼女をそこに閉(と)じ込(こ)めることができるのだ。おしゃべりも止(や)めさせることができた。
彼女の姿は他の人には見えないようだ。だから、人前(ひとまえ)では彼女を無視(むし)することにした。だって、一人でぶつぶつしゃべっていたら、変(へん)な人に思われてしまうから。会社にいるときは要注意(ようちゅうい)。もちろん、机(つくえ)の上には鏡を置いて、邪魔(じゃま)されないようにしていた。
ある日、もうひとりの自分がある提案(ていあん)をした。
「ねえ。あなた、営業(えいぎょう)の神谷(かみや)さんのこと好きなんでしょ」
「何よ、急に」さおりは動揺(どうよう)をかくせなかった。「そんなことないわよ」
「分かってるわよ。だって、私はあなたなんだもん」
「あなたには関係(かんけい)ないでしょ」さおりはそう言うと手鏡(てかがみ)を手に取った。
「もう帰ってよ。あなたのいた場所(ばしょ)に。私の前から消(き)えてちょうだい」
「いやよ」そう言うと、もうひとりの自分は楽(たの)しそうに微笑(ほほえ)んだ。「わたしが、神谷さんと付き合えるようにしてあげる。簡単(かんたん)なことよ。ちょっと足を踏(ふ)み出せばいいんだから」
<つぶやき>この話、まだ続くのでしょうか? さおりの運命(うんめい)は、どうなっちゃうの…。
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T:0077「もうひとりの自分3」
神谷(かみや)という男は社内(しゃない)きってのイケメンで、女子社員だれもが少しでも近づこうとしのぎを削(けず)っていた。さおりもあこがれていたが、自分とはつり合わないと最初(さいしょ)からあきらめていた。遠くから眺(なが)めているだけで、さおりはそれで充分満足(じゅうぶんまんぞく)していたのだ。
でも、今日はいつものさおりとは違(ちが)っていた。出社(しゅっしゃ)するなり女子社員たちを押(お)しのけて、
「ねえ、今夜八時。国際(こくさい)ホテルの摩天楼(まてんろう)に来て。待(ま)ってるから」
神谷をはじめ、周りにいた女子社員たちはあっけにとられた。さおりがこんなことを言うなんて、誰(だれ)も想像(そうぞう)すらしていなかった。でも、いちばん驚(おどろ)いていたのはさおりだった。自分の意思(いし)とは関係(かんけい)なく、勝手(かって)に足が動き、勝手に言葉(ことば)が口からあふれ出てしまったのだ。
さおりは顔(かお)を真っ赤にしてトイレに駆(か)け込んで叫(さけ)んだ。「なにしてるのよ!」
「彼、きっと来るわよ」もうひとりの自分が姿(すがた)を現し嬉(うれ)しそうに言った。「楽しみだわぁ」
「もう…、余計(よけい)なことしないでよ。どうするのよ。わたし…」
「心配(しんぱい)ないって。わたしが助(たす)けてあげるから。まずは、その服(ふく)ね。もっとドレスアップしなくちゃ。仕事(しごと)が終わったら速攻(そっこう)で買いに行くわよ」
服選(えら)びは大変(たいへん)だった。鏡(かがみ)を隠(かく)さないともうひとりの自分が出てこられないから。服を選んでいるあいだ、さおりは楽しくなってきている自分に驚いた。最初(さいしょ)は嫌々(いやいや)だったのに…。
<つぶやき>もうひとりの自分に振(ふ)りまわされてるさおり。まだ、お話は続いちゃいます。
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T:0078「もうひとりの自分4」
さおりは落ち着かない様子(ようす)で摩天楼(まてんろう)に入って行った。今までこんな華(はな)やかなドレスは着たことがなかったのだ。神谷(かみや)はもう先に来ていて、手を挙(あ)げてさおりを呼(よ)んだ。
二人だけの食事はとても楽しいものだった。神谷は女性の扱(あつか)いがうまくて、話題(わだい)も豊富(ほうふ)で飽(あ)きさせることがなかった。きっと、何人もの女性と付き合ってきたのだろう。
食事の後、さおりはバーでほろ酔(よ)い気分(きぶん)で神谷のおしゃべりを聞いていた。その時、
「あら、裕二(ゆうじ)さん」と妖艶(ようえん)な女性が話しかけてきた。「今日はどうしたの?」
「ああ、麗華(れいか)さん…」神谷はちょっと気まずい感じになった。
麗華はさおりをちらっと見たが、「ねえ、向こうで一緒(いっしょ)に飲みましょ。お話ししたいこともあるし。ねえ、いいでしょう?」麗華は甘(あま)えるように神谷にしなだれかかった。
「ごめん」神谷はさおりに、「得意先(とくいさき)のお嬢(じょう)さんなんだ。今日はこれで」
神谷はさおりの返事(へんじ)も聞かずに立ち上がり、麗華に腕(うで)を取られて行ってしまった。
「あらら…」もうひとりの自分が口をはさんだ。「残念(ざんねん)だったわね」
「何よ」さおりは周(まわ)りを気にして小声で言った。「いいわよ、どうせ…」
「もし悪女(あくじょ)になる度胸(どきょう)があるんだったら、奪(うば)い返してあげてもいいのよ」
「わたしは、そんな…」さおりは目をそらし、うつむいてしまった。
「そうね。悪女ってタイプじゃないわよね。じゃ、あきらめなさい。どうせ、そんなに好きじゃなかったんだし。別の男にしようよ。そうだ、ちょうどいいのがいるじゃない」
<つぶやき>今度は何をしようとしているのでしょうか。気が気じゃないさおりであった。
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T:0079「もうひとりの自分5」
次の日のこと。もうひとりの自分の行動(こうどう)は素早(すばや)かった。出社(しゅっしゃ)するなり、後輩(こうはい)の男性社員にメモをはさんだ書類(しょるい)を手渡(てわた)して、「よろしくね」と言って微笑(ほほえ)んだ。もちろん、これはさおりを意(い)のままに操(あやつ)ったもうひとりの自分の仕業(しわざ)なのだが――。
「ねえ、どういうつもりよ」さおりはトイレに駆(か)け込み訴(うった)えた。「昨夜(ゆうべ)も言ったじゃない。吉田(よしだ)君はダメだって。幾(いく)つ歳(とし)が離(はな)れてると思ってるの? 五つよ、五つ!」
「それが何よ。大(たい)した問題(もんだい)じゃないわ。あの子ね、入社(にゅうしゃ)したときからあなたのこと気にしてたのよ。あなたは気づかなかったかもしれないけど」
「あのね。それは、わたしが隣(となり)の席(せき)にいて、いろいろ仕事(しごと)を教えてあげてたからで…」
「もう、いつまでぐちぐち言ってるの。さあ、行くわよ。待たせちゃ悪(わる)いでしょ」
もうひとりの自分は操り人形(にんぎょう)のようにさおりの身体(からだ)を動かした。さおりにはどうすることもできなかった。手鏡(てかがみ)を取り出そうにも、手すら自由(じゆう)にできないのだ。
会議室(かいぎしつ)の前でさおりは吉田と鉢合(はちあ)わせした。吉田は身(み)をこわばらせた。
「あの…」彼はしどろもどろになりながら、「今日は良い天気(てんき)ですね。ははは…」
「そうね。ふふ…」さおりもどうすればいいか分からず相槌(あいづち)を打(う)った。それを見かねたもうひとりの自分は、吉田の腕(うで)をつかむと会議室に押(お)し込んでドアを閉めた。
<つぶやき>こらこら、ちょっとやり過ぎじゃないですか? この話の結末(けつまつ)はどうなるの?
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T:0080「もうひとりの自分6」
会議室(かいぎしつ)に飛(と)び込んだ二人は、一瞬(いっしゅん)凍(こお)りついた。ちょうど企画会議(きかくかいぎ)の真(ま)っ最中(さいちゅう)だったのだ。部屋の中にいた全員(ぜんいん)の視線(しせん)が二人に向けられた。
「あれ…」さおりはひきつった笑顔(えがお)を作り、うわずった声で誤魔化(ごまか)した。「すいません。部屋を間違(まちが)えたみたいです」さおりは吉田(よしだ)の手をつかむと、慌(あわ)てて会議室から飛び出した。
「あの、先輩(せんぱい)」吉田は息(いき)も荒(あら)く動転(どうてん)しているさおりにささやいた。「大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」
その声でやっとさおりは我(われ)にかえった。ふと、吉田の手を握(にぎ)ったままなのに気づいて、慌てて放し頬(ほお)を赤らめた。「ごめんなさい。わたし…。忘れて、今日のことは、ね…」
さおりはそう言うと、吉田の前から逃(に)げ出した。「何やってるんだろう、わたし…」
「あの、いいですよ」吉田は離れていくさおりの背中(せなか)に声をかけた。「今日、空(あ)いてます」
「えっ?」さおりはきょとんとした顔で振(ふ)り返った。
「僕、いい店、捜(さが)しておきます」吉田はさわやかな笑顔を見せた。
「ダメダメダメ」さおりは吉田に駆(か)け寄り、「なに言ってるの、わたしなんかと…」
「いいえ、先輩にはいつもお世話(せわ)になってますから。今日は、僕がおごります」
「そんな…。じゃあ、他の子も誘(さそ)って…」
「そんな。僕は二人だけで…。僕とじゃ、ダメですか?」
もうひとりの自分は二人のやりとりをじっと見つめていた。そして、満足(まんぞく)げににっこり微笑(ほほえ)むと、煙(けむり)のように消えていった。
<つぶやき>もうひとりの自分って何だったんでしょうね。幸せを運ぶ天使(てんし)だったのかな?
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T:0081「好きの条件」
「ねえぇ、最低(さいてい)の男でしょ。何であんなやつ、好きになったのかなぁ」
あすみは親友(しんゆう)の芳恵(よしえ)のマンションに押(お)しかけて、愚痴(ぐち)をこぼした。
「それって、普通(ふつう)のことだと思うけど」芳恵はまたかと思いながら、「そんなことで別れてたら、あんた絶対(ぜったい)結婚(けっこん)できないよ」
「でもぉ、あんなだらしない人だとは思わなかったの」
「あすみは几帳面(きちょうめん)すぎるのよ。うちの旦那(だんな)なんか、いつものことよ。もう少しさぁ――」
「あたしは、ほんの少しでいいから気を使って欲(ほ)しいだけなの。そんな難(むずか)しいことじゃないわ。使ったタオルは四角く掛(か)けておくとか、脱(ぬ)いだ靴(くつ)はきれいにそろえる。それと、服(ふく)とかそこら辺に脱ぎ捨(す)てない。あと、部屋の中を散(ち)らかさない、食べこぼしは…」
「はいはい、わかったから」芳恵はそう言うとハーブティーをあすみの前に置いて、「これ飲んで、少し落ち着こう」
あすみは言われるままにハーブティーを口にする。芳恵はそれをしばらく眺(なが)めてから、
「そんなに嫌(いや)なら、別れちゃいなさい。それがいいわ。もっと他に良い人がいるかも…」
「えっ、なに言ってるのよ。あたしは別に…、そこまで…」
「経理(けいり)の山田(やまだ)君なんてどう? 面白味(おもしろみ)はないけど、几帳面よ。あすみにぴったりかも」
<つぶやき>嫌なところばかり見ていると、良いところが見えなくなってしまうかも…。
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T:0082「まだ早い」
「あかり、風呂(ふろ)入るぞ」泰造(たいぞう)は愛娘(まなむすめ)と過(す)ごすこの時間を、何よりも楽しみにしていた。
いつものあかりだったら喜(よろこ)んで父親に駆(か)け寄って行くのだが、今日はどうも様子(ようす)が違(ちが)う。泰造から隠(かく)れるように、母親の恵理(えり)の後(うし)ろにくっついた。
「どうした? パパ、先(さき)に入っちゃうぞ」
「いいもん」あかりは半分(はんぶん)顔を覗(のぞ)かせて言った。「あかり、ともくんがいい」
「ともくん?」泰造は首(くび)を傾(かし)げて恵理に訊(き)いた。
「誰(だれ)のことだよ、えっ?」
「ほら、この間、近所(きんじょ)に引っ越してきた吉村(よしむら)さんとこの…」
「聞いてないよ、そんなこと」泰造はムッとして言った。
「そうだった? 何か、すっごく仲良(なかよ)しになっちゃって」理恵は楽しそうにあかりに声をかけた。「ねっ、あかり。ラブラブだよねぇ」
「うん、ラブラブだよねっ」
「冗談(じょうだん)じゃないよ」泰造は顔色(かおいろ)を変えてあかりに駆け寄り、
「お前には、まだ早い。何が、ラブラブだよ。パパは絶対(ぜったい)に…」
「あなた、なに言ってるのよ。あかり、怖(こわ)がってるでしょ」
「お前も、お前だ。何で、そんな男と遊(あそ)ばせるんだ。それでも、母親か」
「もう、いい加減(かげん)にして。あかりはまだ幼稚園(ようちえん)よ。今から、そんなこと言ってどうするの」
<つぶやき>父親にとって、娘は特別(とくべつ)な存在(そんざい)なのかもしれません。でも、ほどほどにね。
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T:0083「髪の長い彼女」
僕(ぼく)は髪(かみ)の長い女性が好きだ。それも、黒髪(くろかみ)のストレート。こう、髪をスーッとかき上げる仕草(しぐさ)はたまらない。なぜ女性の好みがかたよってしまったのか。それは、姉(あね)の影響(えいきょう)が大(だい)なのだ。姉は子供の頃(ころ)から髪を短くしていて、よく男の子と間違(まちが)われていた。性格(せいかく)も男勝(おとこまさ)りで、僕はいつも泣(な)かされてばかり。大人(おとな)になった今でも、頭(あたま)が上がらない。だから、姉とは正反対(せいはんたい)の女性に惹(ひ)かれてしまうのだろう。
今の彼女は、やっぱり髪が長くて、優(やさ)しくて、思いやりがあって…。彼女のそばにいるだけで、心が癒(いや)されてしまう。彼女を見ているだけで、幸(しあわ)せな気分(きぶん)になる。今夜も…。
「今日はありがとうね。これでやっとテレビが見られるわ。あたし、配線(はいせん)のことよく分からなくて。夕飯(ゆうはん)、食べていくでしょ。じゃ、ちょっと着替(きが)えてくるね。待ってて」
彼女はそう言うと隣(となり)の部屋(へや)へ。僕は彼女の部屋に入るのは初めてだった。何だか落ち着かない。彼女が出て来るまで、僕は何もできずにじっと座(すわ)っていた。
扉(とびら)の開く音で僕は振(ふ)り向いた。そこにいた彼女は…。
「どうしたの?」彼女は唖然(あぜん)としている僕を見て、「どう、似合(にあ)うでしょ。これが、あたし」
「えっ…、何で? か、髪が…」
「短いほうが楽(らく)なのよ。仕事(しごと)に行くときはウイッグにしてるけど、こっちの方が気に入ってるの。さて、なに作ろっかなぁ。これでもあたし、料理(りょうり)は得意(とくい)なのよ」
<つぶやき>あなたはどんな基準(きじゅん)で恋人を選(えら)びますか。きっとひとつではないはずです。
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T:0084「魅惑の宴」
「これ、美味(おい)しいね」ステーキをほおばりながら、由香里(ゆかり)は嬉(うれ)しそうに言った。
「そうでしょ」百合恵(ゆりえ)は得意気(とくいげ)に、「この料理(りょうり)で三千円よ。しかも、食べ放題(ほうだい)のバイキング」
「もう、あたし幸(しあわ)せすぎて」由香里の手は止まらなかった。次々(つぎつぎ)と料理を口へ運んでいく。
どこからか、かすかに声が聞こえてきた。でも、二人には聞こえない様子(ようす)。
<もう、やめなって。昨日(きのう)、あんなに後悔(こうかい)したのに。ダイエットするんじゃなかったの>
どうやら、これは由香里の心の声。由香里は聞こえているのか、それとも無視(むし)しているのか。心の声はあまりにもか細(ぼそ)く、彼女の食欲(しょくよく)に打(う)ち勝(か)つことはできなかった。
<いつまで食べるつもりよ。もう元(もと)は充分(じゅうぶん)とったんだから、いい加減(かげん)にしなよ>
由香里は取り分けてきた料理をすべて平(たい)らげてしまった。でも、まだ物足(ものた)りないのか、目の前の百合恵にささやいた。
「ねえ、今度(こんど)はデザートいかない? さっき、美味しそうなの見つけといたの」
「いいわねぇ。あたしの分もお願(ねが)い」
<冗談(じょうだん)じゃないわよ。これ以上食べたら取り返しのつかないことになるわよ>
由香里は立ち上がり、デザートの方へゆっくりと歩き出した。
<ダメよ。ダメだってば。止まりなさい。そっち行っちゃダメ! ブタになるわよ!>
<つぶやき>食べることは楽しみのひとつ。でも、たまには心の声に耳を傾(かたむ)けましょう。
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T:0085「重大事件発生」
「うーん」探偵(たんてい)は首(くび)をひねった。「これは…」
と言ったなり黙(だま)り込(こ)む。そばにいた警部(けいぶ)は心配(しんぱい)そうに、探偵の次の行動(こうどう)を見守(みまも)った。
探偵はいくつもの難事件(なんじけん)を解決(かいけつ)にみちびき、警察(けいさつ)からも一目置(いちもくお)かれていた。その彼をもってしても、今回の事件は先(さき)が見えなかった。何ひとつ、手掛(てが)かりになるものがないのだ。
「どこかに出口(でぐち)があるはずです。この問題(もんだい)を解決(かいけつ)する」
「出口……見つかりそうですか?」
警部は探偵を見つめた。もし、この事件が解決できないと、警部の命運(めいうん)も尽(つ)きてしまう。
「まず謝(あやま)るべきです」
探偵はおもむろに口を開いて、「きっと奥(おく)さんもわかってくれます」
「それができないから、こうして頼(たの)んでるんじゃないですか。あいつは、うちのやつはですね、そんな生易(なまやさ)しいやつじゃないんです」
「鬼(おに)警部と恐(おそ)れられているあなたよりも…、ですか?」
「私なんかね、あいつの前ではネコ同然(どうぜん)ですから」
「しかし、この状態(じょうたい)では…」探偵は足の踏(ふ)み場(ば)もなく散(ちら)らかっている部屋を見回(みまわ)した。
「どうしても思い出せなくて、つい…。でも、この部屋にあることは間違(まちが)いないんです」
「まず落ち着いて、ゆっくり思い出しましょう。結婚指輪(けっこんゆびわ)をどこに置(お)いたのかを…」
<つぶやき>あなたは好きな人からどう思われてますか。優しい気持ちを忘れないでね。
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T:0086「風になりたい」
風になりたい
あなたから遠く離(はな)れても いつもあなたを見守(みまも)っていたいから
あなたが淋(さび)しくて涙(なみだ)するとき 暖(あたた)かな風でそっとあなたの髪(かみ)をなでてあげる
どんなに辛(つら)いことがあっても あなたはひとりじゃないんだから
風になりたい
あなたと会えなくなっても いつもあなたのそばにいたいから
あなたがやるせなくむせぶとき 優(やさ)しい風でそっとあなたをつつんであげる
どんなに苦(くる)しいことがあっても あなたなら乗(の)り越(こ)えられるはず
風になりたい
あなたのことを忘(わす)れないように いつもあなたを感じていたいから
あなたが楽しそうに微笑(ほほえ)むとき 木々(きぎ)をゆらして音楽(おんがく)を奏(かな)でよう
どんな時でもあなたの笑顔(えがお)は きっとまわりを幸(しあわ)せにできるはず
風になりたい
あなたが前に進もうとしていたら 力いっぱい背中(せなか)を押(お)してあげたいから
あなたが夢に心踊(こころおど)らすとき すがすがしい風で送(おく)り出してあげよう
いつでもどこでも未来(みらい)を開くのは ほんの少しの勇気(ゆうき)と信念(しんねん)なのだから
<つぶやき>人間はとっても小さな存在(そんざい)だけど、大きな可能性(かのうせい)を秘(ひ)めていると思います。
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T:0087「遺産相続」
古(ふる)ぼけた洋館(ようかん)。建てられた当時(とうじ)はハイカラな住まいだったが、百年近くたった今となっては見る影(かげ)もなかった。広い庭(にわ)も雑草(ざっそう)や木々(きぎ)が生(お)い茂(しげ)り、うっそうとした森と化(か)していた。
その洋館を前にして一組の一家が呆然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。中学生の娘(むすめ)が誰(だれ)に言うともなくつぶやいた。「あたしたち、ここに住むの…」
「そうね」妻(つま)は戸惑(とまど)いをあらわに言った。
「こんなにひどいとは思わなかったわ」
夫(おっと)は取(と)り繕(つくろ)うように、「すっごい屋敷(やしき)だろ。子供のときさ…」
「あなた、どうしてちゃんと確認(かくにん)しなかったの」
妻は静(しず)かに言った。しかし、その声には身(み)も凍(こお)るような冷(つめ)たさがあった。
「いや…。子供の頃、ここに来たとき、ほんとワクワクするようなところでさ」
「それ、何十年前の話なのよ。もう、私たち戻(もど)れないのよ、前の家には」
「お前だって、大きな屋敷に住めるって、喜(よろこ)んでたじゃないか」
「それは、あなたが大叔父(おおおじ)の遺産(いさん)がもらえるって、大はしゃぎするから…」
「ねえ」娘が話に割(わ)り込んで言った。「中に入ろうよ。どんなだか見てみたいわ」
「ああ、そうだな」夫は鍵(かぎ)を出しながら、「きっと、お前も気に入ると思うよ」
「明日から大変(たいへん)よね。きれいに掃除(そうじ)しないと」娘は楽(たの)しそうに言った。これから始まる新生活に胸(むね)を躍(おど)らせているようだ。「ねえ、友だちができたら、呼んでもいい?」
<つぶやき>どこまでも前向きでいたいよね。それが幸せにつながるのかもしれません。
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T:0088「恋電気」
「恵里香(えりか)にもやっと来たわけね」愛子(あいこ)は半(なか)ばからかうように言った。
「そんなんじゃないわ。ただ、あの人とちょっと手が触(ふ)れたとき…」
恵里香はその時のことを思っただけで、胸(むね)が高鳴(たかな)り頬(ほお)を赤らめた。
「ねえ、どんなシチュエーションで手を握(にぎ)ったのよ」
愛子は恵里香の手をとって言った。でも、恵里香はそんなことまったく耳に入らず、
「ねえ、どうしたらいいと思う? 私、これは運命(うんめい)だと思うの。だって、佐藤(さとう)君の手に触れただけなのに、ビビって、まるで電気(でんき)が走ったみたいに…。私、頭(あたま)の中がまっ白になっちゃった」
恵里香は一般常識(いっぱんじょうしき)がずれているというか、天然(てんねん)なところがあった。愛子は、そこのところは心得(こころえ)ていて、バカなことをしないようにいつも注意(ちゅうい)をはらっていた。今度も、愛子はさとすように言った。「あのさ、それって、きっと静電気(せいでんき)だと思うよ」
「そんなことないわ。だって、ビビって…。ビビってしたんだから、ほんとに」
「恵里香、運命なんてそうそうあるもんじゃないわ。それに、佐藤には好きな娘(こ)いるわよ」
「だって、これは運命よ。ビビってきたんだもん」恵里香は口をとがらせた。
「いい。よく考えなさい」愛子は恵里香の肩(かた)をつかんで言った。「恵里香は、男に免疫(めんえき)がないんだから。好きになる人は、もっと慎重(しんちょう)に選(えら)ばないとダメだよ」
<つぶやき>いつも思うんです。運命の人を見分(みわ)ける方法(ほうほう)があったらいいのになぁって。
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T:0089「代わり者」
「なあ、頼(たの)むよ。俺(おれ)、今日は部活(ぶかつ)に遅(おく)れるわけにいかないんだ」
服部(はっとり)はそう言うと教室(きょうしつ)を飛(と)び出した。その様子(ようす)を見ていた班長(はんちょう)の香里(かおり)が近寄(ちかよ)って来て、
「ねえ、吉井(よしい)君。何で断(ことわ)らないのよ。掃除当番(そうじとうばん)なんだから、服部君にやらせなきゃ」
「いや、あの…、別に僕(ぼく)は…」吉井はうつむいたまま答えた。
そこへ、野球部、陸上部、バレー部などの部長(ぶちょう)たちが走り込んできた。少し遅れて、書道部、茶道(さどう)部、吹奏楽(すいそうがく)部、料理研究部の部長たちも。この学校の全てのクラブの部長たちが勢(せい)ぞろいしたようだ。彼らの目的(もくてき)は吉井君。でも、彼のことを吉井と呼ぶものはひとりもいなかった。鈴木(すずき)、山崎(やまざき)、亀山(かめやま)、佐藤(さとう)、沢田(さわだ)、林(はやし)……などなど。
「吉井君、どうなってるのよ」香里は、教室いっぱいに集まった部長たちを見て言った。
「いや、あの…」吉井は頭(あたま)をかきながら、「代(か)わってくれって頼まれて、それで…」
真(ま)っ先に吉井の腕(うで)をつかんだのは野球部だった。「頼むよ。今度の試合(しあい)に勝(か)ちたいんだ」
ほかの部長たちも吉井に近づこうと押(お)し合いながら、「うちのクラブには君が必要(ひつよう)なんだ」「あなたの才能(さいのう)を生かせるのは私たちのクラブよ」「いや、俺たちのクラブに」
「ちょっと、待ってよ!」香里が大声を張(は)り上げてみんなを制(せい)した。
「吉井君は誰かの代わりなんかじゃないわ! 吉井君は、吉井君なんだから」
「いや、あの…」吉井は香里に申(もう)し訳(わけ)なさそうに言った。「別に、僕は…」
<つぶやき>代役(だいやく)なのに才能を発揮(はっき)してしまう。吉井君とは、いったい何者なのでしょう。
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T:0090「ご先祖様」
それは突然(とつぜん)のことだった。朝食の後片付(あとかたづ)けを終えて振(ふ)り返ったとき、その人はそこにいたのだ。じっと芳恵(よしえ)を見つめて…。その顔は、間違(まちが)いなく不機嫌(ふきげん)だった。
「だれ……ですか?」芳恵はやっとのことで言葉(ことば)を発(はっ)した。
「誰(だれ)って、あんたの先祖(せんぞ)だよ」四十(しじゅう)がらみの、着古(きふる)した和服姿(わふくすがた)の女は言った。
「まったく、なってないよ、あんたの段取(だんど)りの悪(わる)さは。誰に教(おそ)わったんだい?」
「あの…」芳恵は、もう唖然(あぜん)とするばかり。
「ずっと上から見てたけどさ。もう、我慢(がまん)できなくて出て来ちゃったよ」
「で、出て来たって? それは、どういう…」
「いいかい。これからみっちり仕込(しこ)んでやるから。しっかり覚(おぼ)えなよ」
「あの、でも…、あたし、これから仕事(しごと)に…」
「なに言ってんだい。子育(こそだ)てもまともにできないで、何が仕事だ」
「でも、行かないと…」芳恵は声を震(ふる)わせながら、「家のローンだってあるし…」
「旦那(だんな)の稼(かせ)ぎでやっていけないようじゃ、どうしようもないねぇ。わしが、主婦(しゅふ)の神髄(しんずい)をたたき込んでやるか」女は芳恵の腕(うで)をつかんで、「逃(に)げ出そうとしても、無駄(むだ)だからね」
その日から、芳恵のつらく、厳(きび)しい主婦修業(しゅぎょう)が始まったのである。
<つぶやき>便利(べんり)な生活(せいかつ)に慣(な)れてしまうと、ついつい楽をしたくなる。気をつけたいです。
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T:0091「夢の絆創膏」
アマゾンの密林(みつりん)。鈴木(すずき)がここに来ることになった発端(ほったん)は、インターネットに流れていた噂(うわさ)。<アマゾンの奥地(おくち)には、どんな怪我(けが)でも治(なお)してしまう絆創膏(ばんそうこう)がある>
ことの真相(しんそう)は分からないが、もしそれが本当(ほんとう)なら会社に大きな利益(りえき)をもたらすだろう。これだけの大仕事を任(まか)せられるのは、日本のサラリーマン、鈴木良夫(よしお)しかいなかった。
――彼はやっとの思いで、小さな村にたどり着いた。そこで彼が目にしたのは、誰(だれ)もが絆創膏をつけていることだ。彼は村人(むらびと)をつかまえて話を聞こうとした。もちろん、彼は現地(げんち)の言葉(ことば)など分からない。身(み)ぶりや手ぶり、物真似(ものまね)まで使って意思疎通(いしそつう)を図(はか)った。その甲斐(かい)あってか、村人は彼を一軒(いっけん)の小屋(こや)へ案内(あんない)した。
小屋の中に入って、彼は驚(おどろ)いた。そこにいたのは、紛(まぎ)れもない日本人の青年(せいねん)だった。
「こんなところでスーツ姿(すがた)を見られるなんて」青年はひとなつっこく笑(わら)った。
「スーツは日本のサラリーマンの正装(せいそう)ですから」鈴木は胸(むね)をはって言った。「ところで、どうしてあなたはこんなところにいるんですか?」
「僕ですか。僕は絆創膏を売り歩いてるんです。世界中まわりましたけど、ここの人たち、僕の絆創膏を気に入っちゃって。これを貼(は)ってると悪霊(あくりょう)が逃(に)げて行くんだそうです」
「それじゃ、この絆創膏は日本で手に入るんですか?」
「もちろんです。あっ、じゃあ、僕の名刺(めいし)を渡(わた)しときますね」
<つぶやき>日本のサラリーマンはすごいんですね。どこへでも行っちゃうんですから。
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T:0092「恋人売ります」
「何だよ、こんなところに呼(よ)び出して」丸雄(まるお)はカフェの席(せき)につくなり言った。
「遅(おそ)かったじゃないか。何やってたんだよ」親友(しんゆう)の拓也(たくや)はむずむずしながら、「実(じつ)はさ、ネットショッピングですっごいの見つけちゃって。俺(おれ)、買っちゃったんだよ、恋人(こいびと)を」
「恋人?」丸雄は何の話をしているのか分からず、拓也の顔をまじまじと見つめた。
「それがさ、いくらだと思う? 何と、一万円プラス消費税(しょうひぜい)。すっごいだろ」
「何だよそれ」丸雄はあきれて言った。「そんな、恋人が買えるわけないだろ。お前、絶対(ぜったい)だまされてるぞ。まさか、振(ふ)り込んだりしてないだろうな、金(かね)」
「振り込んだよ。決まってるじゃないか。だって、一万プラス消費税だぞ。それで、恋人ができるんだ。俺たち念願(ねんがん)の…。考えてもみろよ、俺たち彼女いない歴(れき)、何年だ?」
「もう、付き合ってらんないよ。俺、帰るな。これから、仕事(しごと)があるんだ」
「ダメだよ。お前がいないでどうするんだよ」
「俺には関係(かんけい)ないだろ」丸雄は席を立とうとするが、拓也は必死(ひっし)に引き止めて、
「来るんだよ、今からここに。その、恋人が…。それでな、お前の写真(しゃしん)を送っといたから、お前がいないと会えないだろ。その、恋人に」
「な、なに考えてんだよ。オ、オレ、どうすればいんだ。急に、そんなこと言われても…」
<つぶやき>男はどうしてこんなに浅(あさ)はかなんでしょう。でも、その恋人は来たのかな?
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T:0093「親友との再会」
「あら、小奈津(こなつ)じゃない。久(ひさ)しぶり」
あたしはその声を聞いて身体(からだ)が震(ふる)えた。恐(おそ)る恐る振(ふ)り返ってみる。やっぱりそこにいたのは、
「菜津子(なつこ)…。どうして、ここに?」あたしの声はうわずっていた。
彼女と出会ったのは小学生の頃(ころ)。菜津子と小奈津。名前が似(に)ているせいで、あたしはいつも彼女の添(そ)え物(もの)になっていた。そりゃ、彼女は転校生(てんこうせい)で頭(あたま)が良くて、美人(びじん)で明るくて誰(だれ)からも好(す)かれて…。非(ひ)の打(う)ち所なんてみじんも無(な)い。あたしなんか……。
菜津子は、どういうわけかあたしを親友(しんゆう)に選(えら)んだ。あたしは、別に嫌(いや)だっていう理由(りゆう)もないし、何となくそれを受(う)け入れた。それが、転落(てんらく)への道(みち)だとも気づかずに。
別に、彼女が悪(わる)いわけじゃない。彼女と付き合ってみれば分かるけど、本当(ほんとう)に純真無垢(じゅんしんむく)で天使(てんし)のような心(こころ)を持っていた。悪いのはまわりの男子(だんし)だ。あたしが彼女と仲良(なかよ)しだからって、彼女はどんな男が好きかとか、彼女と付き合うにはどうすればいいんだ。彼女は今朝(けさ)何を食べた…。もう、いつも話題(わだい)は彼女のことばかり。こんなことが、高校まで続いたの。で、あたしは決めたんだ。大学は絶対(ぜったい)違(ちが)う所へ行こうって。菜津子は東京へ行ったけど、あたしは地元(じもと)の大学に入学した。あたしの大学生活は、そりゃ充実(じゅうじつ)してたわ。
それなのに、何で、職場(しょくば)で彼女と再会(さいかい)? 何で同じ会社(かいしゃ)? しかも、何で本社(ほんしゃ)から転勤(てんきん)してくるのよ。絶対…、絶対にあたしの彼には紹介(しょうかい)しないから。
<つぶやき>誰かと比(くら)べるのは止(や)めよう。あなたはあなたなんだから。胸(むね)をはりましょう。
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T:0094「宅配の人」
「ねえ、いつになったら私たち二人で出かけられるの?」
「もうすぐだよ。今日こそ届(とど)くと思うんだ。待ち望(のぞ)んでいるものが」
「あなたはいつもそう。この間(あいだ)だって、その前だってずっと。私は二人で出かけたいの」
「でも、二人で出かけてしまったら、誰(だれ)が宅配(たくはい)を受け取るんだい? 誰かいなきゃ」
「ねえ、何を待っているの? 教えてよ」
女の我慢(がまん)も限界(げんかい)に来ていた。彼女は、ただ二人で楽しい時間を過ごしたいだけなのに。男は、彼女の気持ちも分からず、「それなんだよ。僕(ぼく)、何を待っているのかな? はっきり思い出せないんだ。でも、とっても大切(たいせつ)なものだと思うんだ。きっと、僕たちにとってね」
「何よそれ。何か分からずに待っているの? ねえ、もういいじゃない。そんなのほっといて、出かけましょうよ。私、行きたいところがあるの」
その時、玄関(げんかん)のチャイムが鳴(な)った。男は、一目散(いちもくさん)に玄関へ。扉(とびら)を開けると、宅配の人が立っていた。手には小さな段(だん)ボール箱(ばこ)。男はそれをうやうやしく受け取る。女にも変な期待(きたい)がふくらみ、「ねえ、どこから来たの?」
「分からない。差出人(さしだしにん)が書(か)いてないんだ。でも、僕らの名前は書いてあるよ」
男は慎重(しんちょう)にテープをはがし、箱(はこ)を開ける。箱の中にはカードが一枚。
《おめでとう。二人には、永遠(えいえん)の幸(しあわ)せが約束(やくそく)されました》
<つぶやき>神様からの御墨付(おすみつ)き? でも、お互(たが)いの気持(きも)ちを尊重(そんちょう)しないといけません。
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T:0095「再仕分け」
「遅(おそ)かったじゃない」ありさは友達の良枝(よしえ)を迎(むか)え入れた。
「だって…」良枝は大きな荷物(にもつ)を運(はこ)び込み、「いろいろ準備(じゅんび)があって」
「準備って…。何を持って来たの?」
「大掃除(おおそうじ)に必要(ひつよう)なものよ。ほら、あなたのところ、何もないでしょ」
「あるわよ、それくらい」
良枝は部屋(へや)の中を見渡(みわた)して、「やっぱり思った通りね。どうしたらこんなに散(ち)らかるわけ」
「これは…。今、片付(かたづ)けてる途中(とちゅう)なの。これから、いろいろと…」
「ちゃんと順番(じゅんばん)を考(かんが)えてやらないから、こんなことになっちゃうのよ」
「大丈夫(だいじょうぶ)よ。もう、だいたい終(お)わってるから」ありさは部屋の中を指(ゆび)さして、「この辺(あた)りにあるのがいらないので、こっちにあるのがとっておくやつ。で、あとは…」
「ねえ、これ捨(す)てちゃうの? お気に入りだって言ってたじゃない」
良枝は段ボール箱に無造作(むぞうさ)に入れられていたカバンを取り出して言った。
「それは、彼からもらったのだからいいの。この間(あいだ)、別れたから…」
「えっ、別れちゃったの? 良(い)い人だったのに。そうか、それで大掃除ね…。でもね、ありさ。このカバン、まだ充分(じゅうぶん)使えるわ。捨てたりしたら、この子が可哀想(かわいそう)よ。これはとっておきましょ。それに、これなんかもまだまだ使えるわよ――」
良枝は、次々と再仕分(さいしわけ)けを始めた。その手際(てぎわ)のよさに、ありさは何も言えなくなった。
<つぶやき>残しておきたいものって、何を基準(きじゅん)に決めていますか。難(むずか)しい問題(もんだい)かもね。
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T:0096「寿命の木」
深い森の中。一人の男が、もう幾日(いくにち)もさまよい歩いていた。男には、どうしても見つけなければならないものがあった。それは、寿命(じゅみょう)の木。その実(み)を食べると、どんな病(やまい)でもたちどころに治(なお)してしまうと言い伝えられていた。持って来た食料(しょくりょう)も尽(つ)き、男は疲労(ひろう)と空腹(くうふく)でもうろうとしていた。薄(うす)れる意識(いしき)の中、どこからか声が聞こえた。
「何しに来たの? ここは人間が来る場所(ばしょ)じゃないわ」
男には、その声がどこから聞こえてくるのか分からなかった。また、声がした。
「早く戻(もど)りなさい。いまなら、まだ間(ま)にあうわ」
「誰(だれ)だ?」男はかすむ目をこすり、「この森に住む精霊(せいれい)なのか? だったら、教(おし)えて下さい。寿命の木はどこにありますか? 俺(おれ)は、その実を持って帰らないといけないんだ」
「その木なら、あなたの前にあるわ」
男の目の前に、たしかにその木はあった。枝(えだ)には、実がひとつ生(な)っている。男は、その実を取ろうと手を伸(の)ばした。また声がした。
「その実を取ると、あなたの寿命が尽きてしまいますよ。それでもいいの?」
「かまいません」男はきっぱりと言った。「だいじな人の命が助かるなら、かまわない」
「なら、持ってお行きなさい。寿命が尽きるまで、その人とともに生きるがいい」
<つぶやき>もし男の決意(けつい)が揺(ゆ)らいだら、精霊は男の命を抜(ぬ)き取ったかもしれませんね。
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T:0097「結婚活動」
「あのですね、山崎(やまさき)様。この、お相手(あいて)の条件(じょうけん)についてなんですが…」アドバイザーは優(やさ)しく微笑(ほほえ)みながら言った。「二、三、ご質問(しつもん)させていただいても…」
「ええ、どうぞ」無表情(むひょうじょう)のまま女性は答(こた)えた。
「この、住(す)む場所は実家(じっか)から一キロ以内(いない)、というのは…」
「私、家族(かぞく)のことが大好(だいす)きなんです。できれば、同居(どうきょ)したいくらいなんです」
「そうですか。でも、たしか弟(おとうと)さんがいらっしゃいましたよね」
「ええ。同居ということになっても、弟にはちゃんと納得(なっとく)させます」
「そうなんですか……。では次の、絶対(ぜったい)に浮気(うわき)はしない…」
「当然(とうぜん)ですわ。そうでしょ。私を妻(つま)にするんですから」
「しかしですね、これは…」アドバイザーは困惑(こんわく)しながら言った。
「男は浮気をするものです。生物学(せいぶつがく)的に考えても、当然のことですわ。まあ、一応(いちおう)、条件として書いたまでです。もしそうなったら、追(お)い出すだけですから」
「ああ、なるほど……。あと、この遺伝子(いでんし)の採取(さいしゅ)に同意(どうい)すること、とありますが…」
「良い子孫(しそん)を残(のこ)す。それが、私たちが生きる一番(いちばん)の目的(もくてき)じゃありませんか。そうでしょ」
「はあ…、そ、そうなんです…か?」
「そのためには、相手の情報(じょうほう)を見きわめる必要(ひつよう)があります。一番良いマッチングを選(えら)ばなければ、良い子孫を得(え)ることはできませんわ。私が出した条件に、何か問題でも?」
<つぶやき>気持ちは二の次…。こんな時代が来るのでしょうか? 何だか淋(さび)しいです。
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T:0098「べっぴん彗星」
夜空に突然(とつぜん)現れた彗星(すいせい)。日を追(お)うごとにはっきり見えてきて、どんどん地球(ちきゅう)に接近(せっきん)しているようだ。そして、江戸(えど)ではいろんな噂(うわさ)が飛びかった。
「おい、聞いたかい。星(ほし)が降(ふ)ってくるんだってよ。みんなで見物(けんぶつ)しようじゃねえか」
「熊(くま)さん、なに呑気(のんき)なこと言ってるんだい。どっかへ逃(に)げないと、おだぶつだよ」
「えっ? でも、あんなにちっちぇえじゃねえか。心配(しんぱい)いらねえよ」
「まだ遠くにあるから小さく見えるんだ。そばに来て見ろ、こんなにでっけえんだよ」
ご隠居(いんきょ)は、手をめいっぱいに広げて見せた。「それに、あの星から出ている尾(お)っぽには、人を狂(くる)わす毒(どく)があるそうだ。ちょっとでも吸(す)い込んだら最後(さいご)――」
そこへ、長屋(ながや)の寅(とら)さんが飛び込んで来て、
「てえへんだ! てえへんだよ、ご隠居さん」
「どうしたい、そんなにあわてて」
「これが、あわてずにいられよか。神(かみ)さんが来るんだってよ。ほら、あの空に浮(う)かんでるやつに乗(の)ってるんだってさ。もう、えれえ騒(さわ)ぎよ」
それを聞いて熊さん、「へえ、それはどんな神さんだい。おいらも会ってみたいもんだ」
ご隠居さんはあきれて言った。「お前さん、何も分かってないねえ」
「だってさ、人を狂わせるんだろ。だったら、べっぴんさんにきまってるじゃねえか」
<つぶやき>何も知らないというのは、いいことかもしれません。知る歓(よろこ)びがあるから。
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T:0099「恋水から」
私は木漏(こも)れ日のなか、公園(こうえん)のベンチでうたた寝(ね)をしていた。ふと気がつくと、近くのベンチに若(わか)い女性が座(すわ)っている。いつからそこにいたのだろう。誰(だれ)かを待(ま)っているのか…、彼女は動こうとはしなかった。
――それからどのくらいたっただろう。そろそろ行こうかと起(お)き上がると、まだそこに彼女はいた。待ち人は、まだ来てないのか? 辺(あた)りを見回してみたが、それらしい人影(ひとかげ)はまったくなかった。私は気になって、しばらく様子(ようす)をうかがうことにした。
そろそろ日も傾(かたむ)きかけた頃(ころ)、彼女は大きなため息(いき)をついた。彼女の表情(ひょうじょう)から、寂(さび)しいのを我慢(がまん)しているのが分かった。そして、彼女の目からすーっと涙(なみだ)がこぼれ出た。
まったく、誰なんだ。こんな可愛(かわい)い子を泣かせる奴(やつ)は。私は、放(ほ)っておけなくなって、彼女に駆(か)け寄(よ)った。そしてベンチへ飛(と)び乗(の)ると、彼女の身体(からだ)にすり寄った。
彼女は突然(とつぜん)のことで驚(おどろ)いた様子だったが、私と目が合うとかすかに笑(え)みを浮(う)かべた。私は、飛びっきりの甘(あま)~い声でささやいた。ゴロニャ~ン。彼女は、間違(まちが)いなく微笑(ほほえ)んで、私の頭を優(やさ)しくなでてくれた。この日から、私は彼女と暮(く)らすことにした。
二人の生活(せいかつ)は、瞬(またた)く間に過ぎていった。どうやら、彼女も新しい恋を見つけたようだ。そろそろ、私の役目(やくめ)も終(お)わりだな。私は、ふわふわのタオルの上でゆっくり目を閉じた。
<つぶやき>そっと寄りそってくれる、そんな誰かがいてくれる。幸せって何でしょう。
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T:0100「家族会議のひとこま」
斉藤家(さいとうけ)の家族会議(かぞくかいぎ)は紛糾(ふんきゅう)を極(きわ)めていた。それぞれの思惑(おもわく)が交錯(こうさく)し、妥協点(だきょうてん)を見出すことができなかった。ことの発端(ほったん)は、智宏(ともひろ)のひと言。「家を建(た)て替(か)えるぞ!」
智宏は家族に何の相談(そうだん)もなく、家の間取図(まとりず)を見せ、
「どうだ。これが新しい我(わ)が家だ」
そういう状況(じょうきょう)で家族が納得(なっとく)するはずもなく、まず妻(つま)が苦言(くげん)を呈(てい)した。
「ねえ、どうしてキッチンの広さが変わらないのよ。これじゃ、建て替える意味(いみ)ないでしょ」
子供たちからも不満(ふまん)が飛び出した。「ねえ、あたし一人の部屋がいい。弟(おとうと)と一緒(いっしょ)なんて」
「僕(ぼく)だって、お姉(ねえ)ちゃんと一緒じゃイヤだよ。落ち着いて勉強(べんきょう)できないもん」
「仕方(しかた)ないだろ」智宏は父親の威厳(いげん)をもって言った。「土地(とち)の広さは同じなんだから」
間取図をじっと見ていた妻が言った。「ねえ、この部屋は何よ。ずいぶん広いわね」
「ああ、これか」智宏はにっこり笑い、「俺(おれ)のコレクションルームさ。これだけあれば…」
「ちょっと、待ってよ」妻はすかさず言った。「これは、ダメでしょ」
娘(むすめ)も加わって、「そうよ。もう、変(へん)なものを持ち込まないで」
「これは、必要(ひつよう)でしょう」智宏は反論(はんろん)した。「そのための、建て替えなんだから」
家族は冷(ひや)ややかな目線(めせん)を向けた。その時、妻の父が乱入(らんにゅう)してきた。
「家を建てるんだって」父は間取図を見て、「どれが、わしの部屋なんだ?」
「お父さん!」妻はあきれて、「いくら新しいものが好きだからって、自分の家があるでしょ」
<つぶやき>家を建てることは、一大事業(いちだいじぎょう)なんです。家族との話し合いは大切(たいせつ)ですよね。
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ブログ版物語End