001「バー・マイロード」

 静かなジャズが流れるバーの店内。初老のマスターとアルバイトの孫娘が働いていた。ほとんどが常連の客ばかりで、落ち着ける雰囲気のある、隠れ家のような店である。
 今日は暇なようで、孫娘の真奈がカウンターの隅の席に座って、分厚い本を読んでいた。マスターは最後の客にウーロン茶を出すと、
「そろそろ、店仕舞いにしようか」と孫娘に声をかけた。
「はーい。じゃあ、表の看板、片付けてくるねぇ」真奈はそう言うと外へ出ていった。
「ちょっと見ないうちに、ずいぶんきれいになったね」ぽつりと客がつぶやいた。
「そうですかね。まだまだ子供ですよ」マスターはそう言って微笑んだ。
「僕が最後に会ったときは、まだ高校生じゃなかったかな」
「今は大学で、小難しい勉強をしているみたいですよ」
「そうか…。もうそんなに…」客は昔のことを思い出そうとしているのか、店内をぐるりと見回して、「もう三年か…。でも、この店はちっとも変わりませんね」
「そうですね。私とおなじで、変えようがありませんから」マスターは笑いながらそう言うと、一枚の写真を客の前に差し出した。
 写真を見て客の顔色が一瞬変わった。客はそっとその写真を手に取り、「幸恵…」とつぶやいて、「この写真は、あの時の…」
「はい。最後に奥さんとお見えになったとき、記念にと、お撮りしたものです。ずっと、お渡しすることができなくて」
「いつ来るか分からないのに、残しておいてくれてたんですか?」
「ええ、記念ですから」マスターはそう言うと、「また、お二人でおいで下さい」
 客は顔をくもらせて、「幸恵は、もういないんですよ」写真のなかで微笑んでいる妻をいとおしそうに見つめながら、「病気だったんです。この日は、入院する前の日で…」
「そうだったんですか。それは、失礼しました」
「入院して、一ヶ月もたたないうちに逝ってしまいました。また、この店に来ようって、約束してたんですがね」客は、悲しそうに笑みをうかべた。
 真奈が表の片付けを終えて戻ってくると、「おじいちゃん、今夜はきれいな月が出てるよ」そう言って、屈託のない笑顔をふりまいた。マスターは困り顔で、
「お客さんの前では、マスターと呼びなさい」と注意をして、カクテルを作り始めた。
真奈は「はーい。ごめんなさーい」と言って、客に笑顔を向けて、また本を読み始めた。
 客はしばらく写真を見つめていたが、残っていたウーロン茶を飲みほすと、「そろそろ、帰ろうか」とつぶやいて、立ち上がった。マスターは「もう少しだけ」と言って客を呼び止めて、カウンターにグラスを二つ並べて、作っていたカクテルを注ぎ入れた。
「僕は、アルコールは…」客がそう言うと、
「これは、店からのサービスです。奥さんのお気に入りでしたから…。ゆっくりしていって下さい。まだ、時間はありますから」
 心地よいジャズが流れる店内で、二人ですごした思い出が、心にあふれだしていた。
<つぶやき>心にしみる思い出をいっぱい残して、逝きたいものです。
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2021年05月12日